7月23日(土)晴天、「歴史街道を歩く会」の例会で、名鉄美合駅から名鉄本宿間の東海道を江戸に向って約8km
を元気に歩いてきました。
暑い時期ですので、「避暑対策と水分補給」及び「木陰での休憩」をとりながら、鉄則、無理をせずの散策でした。
みなさん、いつも最後は笑顔で挨拶を交わし、次の例会での再会を約束して家路につきます。
お元気で~!!
藤川1里塚:藤川の1里塚は、当時は街道の左右に塚を 十王堂:10人の王を祀る堂でその王とは、冥土にい
作り、榎が植えられていたが天保年間(1830)頃には て亡者の罪を裁く10人の判官をいう。秦広王、初江
すでに南側はなくなり、北側も昭和初期には枯れてしま 王、宗帝王、五官王、閻魔王、変成王、平等王、大山
った。 王、都市王、五道転輪王の総称である。
藤川西棒鼻跡:宿の出入り口を棒鼻と呼び、大名通行 脇本陣跡:大西喜田太夫橋屋の跡で、門は当時のもの
の際は、ここで本陣・問屋等は出迎え「何宿本陣何の 明治以後は藤川村役場、昭和30年岡崎市に合併後は
何某でございます」と口上を述べたという。 公民館として、そして平成2年には資料館として完成。
本陣跡石垣:本陣は藤川宿第2資料館として使用されて 銭屋(よろづ屋):江戸期の商家が今も残っている。格
いる。北側の石垣は当時の面影を残している。 子戸で大屋根が前に出て雨水が下の溝へ落ちるよう
になっており、庇の両端に「軒卯建」があり類焼を防ぐ
造りになっている。
問屋場跡:人馬の継立や御用宿の手配、飛脚業務など。 称名寺:浄土宗西山深草派の寺院である。
本尊は阿弥陀如来座像である。
藤川宿高札場跡:当時高札は8枚ほどあったようで、大 人形処:伝統的な日本人形を今に伝える「粟生人形処」
きなものは横238cm、縦53cmもあった。現存している がある。
ものは6枚あり、いずれも岡崎市文化財に指定され
うち3枚は資料館に掲示されている。
藤川東棒鼻跡:宿場の出入口。 山中八幡宮:家康の三河平定の過程で生じた三河
一向一揆で一揆軍に追われた家康がこの山中八幡
宮に逃げ込み窮地を脱したところだそうです。
山中八幡宮本殿 欣浄寺の十王堂:東海道沿いから境内に移し再建さ
れた十王堂内に、地蔵菩薩像が祀られている。木造り
で、鎌倉時代から室町初期の作である。
本宿陣屋跡・代官屋敷:元禄11年(1698)旗本、柴田 法蔵寺:701年、僧行基が開山し、松平初代親氏が
出雲守勝門(柴田勝家子孫)が知行所支配のため本宿 1387年に堂宇を建立。法蔵寺と改名したといわれる
村に陣屋を設けた。以後明治まで存続した。陣屋代官 家康が幼い頃手習いを学んだとされる遺品が現存。
職は富田家が世襲し、現存の邸宅は文政10年(1827)
の建物である。
賀勝水:法蔵寺境内には日本武尊東征の故事が伝わる イヌマキ(天然記念物):法蔵寺境内、行基菩薩が当寺
賀勝水と呼ばれる硯水がある。 を開創した際に植えたといわれ「行基の開山槇」と称さ
れる。胸高囲:2.44m、根囲:4.67m、樹高:12m
御草紙掛松:家康公、手植の松といわれ、手習いのおり 名鉄本宿駅壁面に…ふりむけば 額田の里は 夢街道
草紙を掛けたことから「御草紙掛松」として永く人々に親 とあった。
しまれてきた。