きまぐれストロール

植物、風景などを主として

歴史街道を歩く(藤川宿~本宿まで)

2011年07月31日 07時28分36秒 | Weblog

7月23日(土)晴天、「歴史街道を歩く会」の例会で、名鉄美合駅から名鉄本宿間の東海道を江戸に向って約8km

を元気に歩いてきました。

 暑い時期ですので、「避暑対策と水分補給」及び「木陰での休憩」をとりながら、鉄則、無理をせず散策でした。

 みなさん、いつも最後は笑顔で挨拶を交わし、次の例会での再会を約束して家路につきます。

 お元気で~!!

 

藤川宿の松並木: 慶長9年(1604)2代将軍秀忠は、   吉良道道標:東海道から左へ分岐する道は西尾から
奉行本多太夫光重と永井弥右衛門自元に命じ東海    吉良方面の西三河湾岸に通じ、利用度の高い道で
道の両側に松を植えた。藤川町の西端から約1kmの間   あった。
に90本に及ぶクロマツが並んでいる。
(市指定天然記念物)
 

藤川1里塚:藤川の1里塚は、当時は街道の左右に塚を   十王堂:10人の王を祀る堂でその王とは、冥土にい       

作り、榎が植えられていたが天保年間(1830)頃には    て亡者の罪を裁く10人の判官をいう。秦広王、初江

すでに南側はなくなり、北側も昭和初期には枯れてしま    王、宗帝王、五官王、閻魔王、変成王、平等王、大山

った。                                    王、都市王、五道転輪王の総称である。

  

藤川西棒鼻跡:宿の出入り口を棒鼻と呼び、大名通行   脇本陣跡:大西喜田太夫橋屋の跡で、門は当時のもの

の際は、ここで本陣・問屋等は出迎え「何宿本陣何の   明治以後は藤川村役場、昭和30年岡崎市に合併後は

何某でございます」と口上を述べたという。          公民館として、そして平成2年には資料館として完成。

    

本陣跡石垣:本陣は藤川宿第2資料館として使用されて  銭屋(よろづ屋):江戸期の商家が今も残っている。格

いる。北側の石垣は当時の面影を残している。        子戸で大屋根が前に出て雨水が下の溝へ落ちるよう

                                      になっており、庇の両端に「軒卯建」があり類焼を防ぐ

                                      造りになっている。

 

 問屋場跡:人馬の継立や御用宿の手配、飛脚業務など。 称名寺:浄土宗西山深草派の寺院である。

                                      本尊は阿弥陀如来座像である。

  

藤川宿高札場跡:当時高札は8枚ほどあったようで、大  人形処:伝統的な日本人形を今に伝える「粟生人形処」

きなものは横238cm、縦53cmもあった。現存している  がある。

ものは6枚あり、いずれも岡崎市文化財に指定され

うち3枚は資料館に掲示されている。

  

藤川東棒鼻跡:宿場の出入口。                  山中八幡宮:家康の三河平定の過程で生じた三河

                                      一向一揆で一揆軍に追われた家康がこの山中八幡

                                      宮に逃げ込み窮地を脱したところだそうです。

  

山中八幡宮本殿                           欣浄寺の十王堂:東海道沿いから境内に移し再建さ

                                      れた十王堂内に、地蔵菩薩像が祀られている。木造り

                                      で、鎌倉時代から室町初期の作である。

  

本宿陣屋跡・代官屋敷:元禄11年(1698)旗本、柴田   法蔵寺:701年、僧行基が開山し、松平初代親氏が

出雲守勝門(柴田勝家子孫)が知行所支配のため本宿   1387年に堂宇を建立。法蔵寺と改名したといわれる

村に陣屋を設けた。以後明治まで存続した。陣屋代官    家康が幼い頃手習いを学んだとされる遺品が現存。

職は富田家が世襲し、現存の邸宅は文政10年(1827)

の建物である。

  

賀勝水:法蔵寺境内には日本武尊東征の故事が伝わる  イヌマキ(天然記念物):法蔵寺境内、行基菩薩が当寺

賀勝水と呼ばれる硯水がある。                  を開創した際に植えたといわれ「行基の開山槇」と称さ

                                      れる。胸高囲:2.44m、根囲:4.67m、樹高:12m

  

御草紙掛松:家康公、手植の松といわれ、手習いのおり  名鉄本宿駅壁面に…ふりむけば 額田の里は 夢街道

草紙を掛けたことから「御草紙掛松」として永く人々に親   とあった。

しまれてきた。

 


近郊の古墳を歩く

2011年07月26日 10時10分54秒 | Weblog

 岐阜県・各務原市にはおよそ600基の古墳があると推定され、県内では「古墳の宝庫」として知られてい

 ます。 

 7月8日及び22日の両日、指導者のもと、サークルの仲間達とこの近場にある代表的な古墳と隣接する

 青塚古墳(愛知県犬山市)をみて廻りました。 

 古墳は土を高く盛り上げて築いた特別な墓です。 そこには農業の発展に伴って土地支配の権力者として

 首長が眠っています。 古墳によって示された社会はもうすでに階級社会であり、豪族と呼ばれるのにふさ

 わしい支配身分層の墓であったのです。(各務原市の歴史・資料抜粋) 

 

                   墳系:円、 直径:37m、 高さ:6m

                        

                          金縄塚古墳全景

                          

                      中央部が深く窪んでいる。

   

       墳系:円、 直経:52m、 高さ:7m、 時期:五世紀前半、 県下最大級の古墳

 

  衣装塚古墳の上部にある石碑など            本古墳も本来前方後円墳であったものが後世に前方部

                                     が削平されて後円部が円墳状に残された可能性がある。

                                    その部分が残されているとされる鐘楼部の土台部分。

                                    (空安寺境内)

    

    所在地:鵜沼羽場町、 全長:120m、 後円部直径:72m、 高さ:10m 時期:五世紀前半

             

                      坊の塚古墳後部前景

            

                      坊の塚後部の上部

   

    大牧1号古墳。 所在地:鵜沼大伊木町、 墳系:円、 直径:30m、 高さ:4m、 時期:6世紀後期 

  ☆☆なお、その後の調査等により墳形は西の方へ少し張り出した部分があり、前方後円墳ではなかろうか

  との説が有力になり、前方後円墳としては全長45mと考えられている。(各務原市埋蔵文化財調査セン

    ター)             

                         

       大牧1号古墳:玄室の中央部に納められた凝灰岩製の組み合わせ式家形石

 

    石棺を観察するサークルの人達(一般公開)                     石棺の拡大部分

 

 出土品 :須恵器(市歴史民俗資料館に展示)       出土品鞍金具、雲、珠・辻金具(市歴史民俗資料館に

                                     展示)

                 青塚古墳

 青塚古墳は、犬山市の南部に位置する前方後円墳です。 別名「茶臼山古墳」、「王塚」とも呼ばれています。

 古墳の規模は全長:123m、後円部:78m、高さ:12mで、愛知県では2番目に大きい古墳です。古墳の

 形状は前方部が2段、後円部が3段築かれています。格段には基石が置かれ、これに沿って壷型埴輪が

 約2m間隔で置かれています。 この青塚古墳の特徴は、前方部頂上の「方形壇状遺構」と前方部上と

 後円部を中心に存在する「配石遺構」と呼ばれています。

 築造時期は4世紀前半と考えられています。 主体部については貴重な遺跡の保存という見地から発掘

 調査は行われていません。 良好な保存状態のまま、未来へ受け継がれます。(各務原埋蔵文化財調査

 センター資料抜粋

 

 青塚古墳(右側):前方部の周囲に円筒埴輪や朝顔型埴輪                 青塚古墳(反対側)

 が並べられていることが確認されたほか、鏃形石製品

 (お祭り用ヤジリ)3点出土しています。

 

 

 

 

 

 

                                                           

                                     


秋神温泉~開田高原・自然観察旅行

2011年07月19日 07時03分05秒 | Weblog

7月14日~15日晴天、「自然史有志会」で1泊2日の自然観察旅行に秋神温泉方面に出掛けました。

 秋神温泉の見所

①海抜1,026m、秋神川沿いにある1軒宿。

②料理はあらゆる山菜を使い、素材の味を生かしたヘルシーな料理。

  • 春はおよそ1,000株のミズバショウをはじめ種々の山野草。
  • 夏は涼しく秋神川の清流の音を聞きながらの自然散策。 
  • 秋は森を抜ける風が爽やかで、そして紅葉のなかロマンチックな時がながれ、キノコ料理で舌鼓。
  • 冬は”氷点下の森”で氷の芸術を観賞。 ライトUPは12/24~3/31まで

 ③夕食後は、館内山村資料室にてスライドで秋神温泉の自然を紹介します。(以上手書きの案内書)

私たちは手書き案内書とおり

清流を聞きながら白樺原生林を散策、夕食後はオーナー自身によるスライドで秋神温泉の自然を

紹介していただきました。 温泉に入浴後、癒された気持ちでグッスリと休むことができました。

  概略行程:14日…枝垂栗自生地(下呂市)→道の駅・ひだ朝日村→秋神温泉周辺散策→秋神温泉旅館宿泊

        15日…日和田高原→チャオ御嶽スノーリゾート→開田高原→寝覚の床→チコリ村

 

  

 天然記念物・竹原のシダレクリ自生地:全国でも珍しく   古木からしだれる枝葉

 数ヶ所しかなく、ここは約80本ほど斜面に自生している。

 樹齢は100年を超えるものもある。

 

この時期の果実はまだ小さい。                   オカトラノオ

 

ヒメコウゾ:果実は2cmほどの大きさである。食すると   道の駅 ・ひだ朝日村

非常に甘い。

 

ウツボクサ:シソ科                          ホタルブクロ:キキョウ科

 

サワグルミ:クルミ科                        夫婦栃:栃の木の夫婦は初めて見ました。

 

白樺原生林:秋神の白樺原生林はすでに樹齢60年ほど  シモツケ:バラ科

経過しているものが多く衰退期を迎えている。

 

シモツケソウ:バラ科                        オニシモツケ:バラ科

 

トクサ:トクサ科                            イワウチワ:イワウメ科イワウチワ属

 

モミジカサ:キク科                         クルマバハグマ:キク科&クジャクシダ:ホウライシダ科

 

 ヤブレカサ:キク科ヤブレガサ属                                  ミソガワソウ:シソ科                

 

クジャクチョウ:チョウ目(鱗翅目)タテハチョウ科       タマガワホトトギス:ユリ科ホトトギス属

 

秋神温泉旅館:海抜1,026m、秋神川沿いにある1軒   チャオ御岳スノーリゾートから前方に御嶽山を望む

の宿

 

チャオ御岳スノーリゾートから後方に乗鞍山を望む      九蔵峠展望台から御嶽山を望む 

 

開田高原(1本木亭)前から御嶽山               開田高原(ソバ畑)から御嶽山

 

地蔵峠展望台より御嶽山                     帰途、浦島太郎伝説のある、寝覚の床に立ち寄る。

帰途、中津川のチコリ村に立ち寄る。 チコリ村では「チコリ

とはどのようなものなのか。」ということから、ガイドさんに

よる案内がなされます。


藤川宿(名鉄美合駅)から岡崎宿まで

2011年07月13日 14時22分28秒 | Weblog

7月9日晴天、例会も肌をさすような炎天下の散策となり、会員もいつもより少ない参加人員となりました。

途中、熱中症対策を考えて、休む回数を増やすとともに水分を補給しながらの歩行となりました。

名鉄美合駅から出発しR1を 縫うように東海道を27曲がりまで、そして岡崎宿では完全制覇コース(約80分約

4km)を散策しました。  八丁味噌においては、製造工場の見学(約30分)をさせていただきました。

☆☆東海道さんさくマップ (中部建設協会発行)及び岡崎城下二十七曲がりまちあるきマップ(岡崎市)を

参照させていただきました。

  

大平川神社:大平川水系の守護神として末永くいつまで つくて道の道標:男川小学校西「三差路の右に「東海道 

も清流と水資源を守り続けていくことを祈念して建立。   つくて道」と刻まれた道標。 つくて道とは、現在の新城

                                      市のことのようです。

 

 西大平半陣屋跡:江戸町奉行として数々の業績をあげ  専光寺:大治2年(1127)大平の領主・本田治部少輔

 た大岡越前守忠相が、寛延元年(1748)、1万石の大  吉信が先祖伝来の薬師如来を安置して建立。出家した

 名となってから明治まで、代々大岡家が西大平藩主とし 第2子信順を住職にしたのが興りである。 当初は天台

 て陣屋を置いたところ。                      宗・長福寺であったが、その後12世専光が浄土宗に改宗、

                                      大永元年(1521)寺院名も改称した。本尊は阿弥陀如来。

                                 

 大平1里塚:南側の塚の榎は昭和28年の台風で倒れ  秋葉常夜燈

 現在は若榎が植えられ、北側の塚跡には常夜燈や、馬

 頭観音等を祀った堂がある。

 

 大平八幡宮:この樹林地は「ふるさとの森」に指定されて  欠町・二十七曲がり碑:二十七曲がりの出発点にあたり 

 います。市街地に残された貴重な財産です。          碑を見ると曲がり角の多い当時の街道がわかります。

 ここでしばらく小休憩をしました。

 

 根石寺(旧根石観音堂):当寺本尊聖観世音菩薩像は  備前屋:天明2年伝馬町に菓子屋を創業。現在8代目

 行基菩薩の作といわれる。和銅元年(708)天下に悪   です。 当舗での代表銘菓 「あわ雪」。 

 病が流行し人々の苦しみは一方でなかった。

 時の天皇は行基法師を召され根絶してほしと念願され

 そこで行基は聖観世音菩薩を掘り祈祷されたたところ

 はやり病は治まったとの言い伝えがある。

 

  岡崎伝馬歴史ブロムナード:東海道有数の宿場町で  伝馬町界隈:宿場町岡崎の中心となった伝馬町の町並           

  あった伝馬の歴史を語る20基の石像が並んでいます。 みは東海道五十三次の中で一番の長さでした。 

 

  西本陣前角:岡崎宿の旅籠屋の数は112軒。東海道 岡崎信用金庫資料館:赤レンガと地元産御影石を組み

  53宿中、3番目に多く、伝馬町は旅籠屋町とも呼ば  合わせた特色ある建物は、本格的なルネッサンス様式 

  れていた。 本陣、脇本陣とも3件を有していた。    を取り入れた建築で大正6年に旧岡崎銀行本店として

                                     建造された。 昭和57年からの資料館として開館し

                                     国の有形登録文化財となっている。

  

  唐弓弦:唐弓弦とは、綿を打つ道具のこと。 かっての 白山神社の大むくの木:高さ14M、太さ5.3M 

  三河木綿の産地の面影を伝えています。         樹勢はやや衰えているが板根が良く発達し貴重な巨樹

                                      である。市街地に残っているものとしては珍しい。

 

  八丁味噌白壁:八丁味噌本店の裏道からの白壁    工場内の味噌樽:一樽で約六トンの味噌を仕込み、約

                                      3トンの石を山のようにつみあげて、二夏二冬をじっくり

                                      寝かせる。

                                      

 

 

 


小谷城散策

2011年07月07日 06時22分05秒 | Weblog

6月29日(水)晴、恒例の探歩会で滋賀県長浜市小谷郡上町にある小谷城を散策してきました。

散策コースは登りは曲線的な追手道コース、下りは清水谷コースでしたが、ほとんど直線的な下り坂でしたので

終始足元に気を付けながらの下山でした。

                     小谷城跡が誇る4つの見所

①戦国の山城、攻防戦を語るなら小谷城は攻めにくく守りやすい城。

②必要以上に整備されておらず、、「小石ひとつも文化財」の精神が生きている山城。

③琵琶湖を一望でき、眼下に広がるパノラマは、戦国末期から近世に至る歴史の大絵巻

 を見ているような気持ちになる。

④大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の浅井三姉妹誕生の地。 ドラマの原点」といわれる

 舞台が見られる。

 ☆☆ 案内板、パンフレット(小谷城戦国歴史資料館)など参照。

 

番所跡:金吾丸跡の裏にある。小谷城の主要道である  虎御前山展望所:眼下に信長の本陣のあった虎御前山

登山道と清水谷中ほどからくる虎ヶ谷道の終点に位置  を展望することができる。

し、小谷城主郭の入口にあたる重要な曲輪である。

 

御茶屋敷:番所跡のすぐ上にある曲輪で、主郭の再先  御馬屋跡:三方を高い土塁で囲まれた曲輪である。

端に位置する。比較的広く曲輪の真ん中を前後に分け  本丸跡の前面にあり本丸を守るための曲輪である。

る低い土塁が見られる。「御茶屋」という風雅な名前に  ここから清水谷側の斜面に本丸跡まで帯曲輪が設けら

は似つかない軍事施設である。                 れている。

 

首据石:黒金門跡のてまえにあり、天文二年(1533)  赤尾屋敷跡:浅井氏の重臣赤尾氏の屋敷跡と伝えられ

初代亮政は六角氏の合戦の際、家臣の今井秀信が   いる。天正元年最後の攻撃のため黒金御門から打って

敵方に内通していたことを知り、神照寺に誘殺しここに  出た長政は信長の兵に攻められ鐘ヶ丸に帰ることが

首をさらしたと伝えられる。                    できず、やむなく赤尾美作守の屋敷に入り自刃した。

 

桜馬場跡:御馬屋跡の上方、大広間跡の前にある曲輪 琵琶湖:桜馬場跡から眺望。中央部後方にみえる竹生

で、細長く左右2段からなる。 西側の曲輪は建物の礎 島、右側手前が山本山。

石が確認されている。大河ドラマ「江~姫たちの戦国」

のロケの中心地。

 

大広間跡:別名「千畳敷」と呼ばれ長さ85m、巾35m  本丸跡:江戸時代中期の小谷城跡古絵図に「天守共、

前面に高さ約4mの石垣が積まれている。 また長政と  鐘丸共」と記されており、鐘丸がその機能を表している

お市の婚礼が行われ、お江が生まれたとされる曲輪跡。  と考えられる。 大広間跡側に石垣が築かれている。

 

山王丸跡:山王丸跡は4段からなり、最頂部に山王権  六坊跡:二代城主久政の文書に「當城搦手」と書かれて

現(現小谷神社)が祀られていた。小谷城の詰めの丸  いる。久政は軍務や政務を司っていた六っの寺院が

と考えられている。小谷城絵図には山王丸から清水谷 江北各所に散らばっていて不便なため、ここに集めたと

に向けて、搦め手道が描かれている。            言われている。

 

大嶽城跡:初代亮政が大永3年(1533)頃築城したと  眺望:大嶽城跡付近から伊吹山方面

考えられる。大永5年には六角氏に攻められている。

天正元年(1573)大嶽城は朝倉氏の援軍が守備して

いたが、織田勢の攻撃を受け落城した。

 

大野木屋敷跡:浅井氏の重臣大野木土佐守の屋敷跡  御屋敷跡:浅井亮政、久政、長政やお市の方とその子供

三田村屋敷跡の上方、谷道沿いの西側に位置する。   達が暮らした所と考えられる。 初代亮政が江北の守護

                                     京極氏を招いて饗応した時の記録には清水谷にあった

                                     館の様子が描かれている。

 

遠藤屋敷跡:浅井長政の重臣、遠藤喜右衛門尉直経   小谷城戦国歴史資料館:本館建物(旧湖北町児童館)

(?~1570)屋敷跡と考えられる。 元亀元年(1570)  は、平成19年3月30日に、地域再生法による認定を 

姉川の合戦で浅井方の敗北が濃厚になった時、遠藤   うけ、施設の改修を行い、史跡小谷城跡と一体になった

直経は信長の首を取るべく、敵陣深く乗り込んだ。     歴史資料館として平成19年10月7日に開館した。

しかし信長の本陣近くで竹中重治の弟竹中久作に打ち

取られた。

 

 


谷汲ゆり園の散策

2011年07月03日 06時42分24秒 | Weblog

7月2日(土)晴天、岐阜県揖斐川町谷汲大洞の「谷汲ゆり園」へ友人とともに開園時間に合わせてマイカーを走らせ

ました。 現地に着いたのが早かったせいか、人影はまばら状態でした。

園内の入口方面から奥へと行ったり来たりしながらの一巡りとなりました。 種類によってはすでに咲き終わったもの

今が旬のもの、まだ蕾のものなど色々でした。  そこはオリエンタル系の甘い香りに包まれていました。

関係者によると、園内のユリは50種類30万本が植えられており、毎年栽培した苗を一本一本植え替えているとのことでした。

その労をかけ育てられたユリをカメラに収める頃には、家族連れや・団体と思われる人達で大変な賑わいとなっていました。