屋根神さま「西区新道1丁目に設置されていました。」
屋根神さまがあちらこちらにみられました。
タイトルは「美濃路とお菓子問屋街探訪」とありましたが「西区の寺町」である、地下鉄
浅間町~名鉄東枇杷島駅まで約7km程を歩きました。
その中でも感じたことは、美濃路については樽屋町の大木戸跡、八坂神社の名が名古屋に
残っているなど、めづらしい。黒體龍王大神社など川幅を拡張するため再移動するための
工事中とのことでした。お菓子問屋街などは、すでに存在場所すら(浅間町付近)わから
ないほどでした。時の流れを感じさせられる思いでした。
西願寺:名古屋村野口小市場(三の丸辺り)にあり。慶長築城の際、浅間町に移り
元禄13年「1700年」今の地に建立。
菊水観音:江戸時代に創建。昔この辺りに綺麗な水の湧く泉があり、「菊(水)の井」
と呼ばれていたことが菊井町の町名の由来といわれています。
法蔵寺:歴史の古いお寺ですがこの地に移ったったのは清須越直後の寛永3年
(1626年)です。お菓子で有名な新道の近くにあり、新道六ヶ寺の一角を占めて
います。江戸時代には樽屋町の大木戸を軸に西のまもりでもありました。
富士浅間神社:創建は応永5年(1396)、富士山本宮浅間神社のご祭神、木花
開耶姫命の御分霊を勧請したと伝えられ、慶弔15年((1610)名古屋城築城
の際、現在地に遷座。
宝周寺:寺伝によると知多郡大井町の真言宗阿弥陀寺として創建。寛文6年(1666)
に現在地に移り、延宝4年「1676)に宝周寺と改名。
林貞寺;本尊は馬頭観音で大和・伊勢を支配した北畠顕家の守本尊が伝えられて
いる。
海福寺:尾張藩の藩祖の徳川義直が鷹狩りの際に良くこの地に休憩したといわれ
以降尾張徳川家から金銭や寺領などを賜る等のかんけいを深め、寛延元年(1784年)
に火災がにあった際も藩の寄進で再建されたといいます。
樽屋町の大木戸跡
大木戸跡説明板
養照寺:床が低くできており、いま流に考えて造られている。
白山神社:文明9年(1977)に尾張守護の斯波氏が加賀国の白山権現を勧請
して建立。永禄3年(1560)、織田信長が桶狭間の合戦の際に、戦勝祈願として
太刀一口を奉納している。
志水家屋敷門:明治初年に名古屋三の丸内にあった尾張藩重臣(家老)志水甲斐
守家屋敷の玄関車寄を移築し、大矢家の表門として改造されたものである。
観音寺:本尊の聖観音像は尾張2代藩主の徳川光友が寄贈したものと伝わる。
八坂神社:有名な京都「祇園祭」は、「八坂神社」の大祭である。
ここでは毎年5月第三(土・日)の例大祭には「提灯まつり」が実施されている。
尾州殿茶屋跡:枇杷島村と押切村の境の石橋のあたりに、諸候の通行に際し、尾張藩
との関係深い要人を接待する茶屋を設けたといわれる
八幡社:俗に鷹八幡と言われます。藩祖義直以来、歴代藩主の崇敬も厚かったと
いいます。この神楽殿の欄間に彫刻されている鳩が素晴らしい。
消音寺:治承3年(1179年)、時の太政大臣藤原師長は、平清盛によって尾張国
井戸田(瑞穂区)に流され、 その地で村長の娘を寵愛。後に許され都に帰るとき、
形見に守り本尊の薬師如来と白菊の琵琶を残しました。しかし娘は別れを悲しみ琵琶
池に身を投じた為、この池を枇杷島と命名。娘の法号消音院から寺名がつけられました。
黒體竜王大神社:西枇杷島町下小田井中島というばしょにあったそうです。慶応
年間琵琶の洲と呼ばれていた頃、立穀豊穣の祈願をすると夢で龍神が現れ、「国土
鎮護豊穣を守る」と言葉をのこしました。