きまぐれストロール

植物、風景などを主として

東海道・原宿~吉原宿

2014年03月26日 07時37分58秒 | Weblog

3月18日曇りのち小雨、「歴史街道を歩く会」の3月の例会で東海道・原宿~吉原宿を歩いてきました。

慶長6年(1601)東海道の宿場として指定されたときの吉原宿は、この今井・鈴川地区にあり、現在では

「元吉原宿」と呼んでいます。しかし今井・鈴川地区の吉原宿は漂砂や高波の被害に遭ったため寛永16年

(1639)に、現在の八代町辺りに所替(宿の移動)をしました。これを、「中吉原宿」と呼んでいます。

その後、延宝8年(1680)潤8月6日、台風による高潮の被害に遭い、再び所替をしました。これが、「新吉原宿」

現在の吉原商店街の位置にあたります。 このように吉原宿は2度の所替を経験し、それに応じて東海道筋も

海沿い道から内陸へと北に折れる道に替わりました。そのため、江戸から京都へと向かうと常に右に見える場所が

突然左に見える場所ができました。浮世絵にも描かれた「名勝・左富士」はこうして生まれています。

天保年間の吉原宿は、653軒の家があり、そのうち本陣が2軒、脇本陣が3軒、旅籠屋が60軒でした。

                 「富士市の東海道とウォーキングコース」の資料から抜粋

東海道の中でも2度にわたって所替した宿場は、ほかに類をみない、大変な出来事であったと思われます。

原宿・間宿柏原宿についても、所替がないにしても、同様な災害に遭遇していたことが容易に偲ばれます。

  

                        吉原宿と東海道のうつりかわり

     「富士市の東海道とウォーキングコース」マップをお借りしました。 ありがとうございました。

  

           原宿内を散策後→バスにて浮島ヶ原自然公園内へ移動し、昼食

        マップを縮小したので、 お寺マークの右から1番目が松隠寺、右から4番目が徳源寺。

                    左辺上部が浮島ヶ原自然公園です。 

       マップは「原・浮島ふるさとマップ」をお借りしました。  ありがとうございました。

 

         臨済宗白隠派・大本山松蔭寺                     松蔭寺本堂

  

          白隠禅師産湯井戸                           白隠禅師の墓

  

                         白隠禅師の墓の説明板

 

 

       原宿本陣跡                                安泰山徳源寺

                                              臨済宗妙心寺派

                   

                            浮島ケ原自然公園

   浮島沼は湿地草原と富士山を眺望できる風光明媚な場所でしたが、昭和41年(1966)田子の浦港の

   開港整備に伴う排水工事の改善から湿地の乾田化が進み、湿地草原は失われてしまいました。現在、

   湿原に生息している植物を保護し、生態系や風景を保全しようと整備が進められてtます。アシ原や湿原

   の貴重な植物がみられます。

    

                六王寺神社、望嶽の碑及び増田平四郎の像など

     「富士市の東海道とウォーキングコース」マップをお借りしました。 ありがとうございました。      

         

                

                         植田三十郎と植田新田開拓

  植田三十郎は1660年頃、この地に堤防を築き開拓を図るも泥の浮動のため失敗に終わったが

  その後、宝暦年間今井村の六郎佐衛門の手で開拓が進められた。この地の開拓の恩人の性をとり

  植田新田と名付けた。

   

                

                            六王子神社

  

                         六王子神社説明板

 

      間宿柏原・本陣跡                            望嶽の碑・標識                      

 

           立園寺本堂                  立園寺境内に望嶽碑及びゲラテック号・慰霊の碑

  

         広沼橋からの眺め                        広沼橋のたもとに一里塚跡

                     

                          広沼橋たもとに増田平四郎の像     

   

                    増田平四郎とスイホシの説明板

              

                        高橋勇吉と天文堀

   

                               説明板

                

                                妙法寺

  武運の神様毘沙門天が祀られ、富士山への修験者の霊場であり、さらに武田氏や紀州徳川家の信仰を

  受けていました。境内にはインド窟院に習った洞窟七福神や中国様式の建物があり独特の雰囲気をもって

  います。旧暦正月7~9日の大祭で開催されるだるま市は高崎、深大寺とならんで日本三大だるま市の

  一つです。

 

           妙法寺・お身拭い 毘沙門天                毘沙門天説明板

  

               おおよそ東海道(茶線)沿いに歩きました。

      「富士市の東海道とウォーキングコース」をお借りしました。  有難うございました。

 

 

            左富士神社                            (中)吉原宿跡

 

           名勝左富士の松                         富士市吉原宿

   富士山を見るのを楽しみにしていたが残念!

                 

                               平家越の碑 

     治承4年(1180)、源平の富士川の合戦の際、近くの沼にいた水鳥が飛び立ち、その羽音に

     驚いて平家軍はそのまま敗走したといわれています。

   

              東木戸(右端)の位置と西木戸の位置は左端からの延長線上にあります。

           「富士市の東海道とウォーキングコース」をお借りしました。  有難うございました。 

                

                               東木戸跡

            

         街中に白モクレン                         白モクレンのアップ

                          

                               西木戸跡

                      小潤井川にかかる四軒橋である。

               この付近に標識があり、「吉原宿西木戸跡」と書かれていた。


名古屋農業センターの梅まつり

2014年03月17日 15時57分05秒 | Weblog

3月16日晴天、「名古屋農業センターの梅まつり」に友人家族と連れ立って行って

まいりました。 これで、「名古屋農業センターの梅まつり」は数回になりますが、何度

来ても、綺麗な花を見せていただいております。 品種は12種類700本のしだれ梅と聞いています。

その他、野点、盆栽展、大道芸人による見世物、及び近隣からの野菜・果物、食品などの販売などで

大勢の人々で賑わっていました。

        

                                      メイン通り・梅の花の競演

 

           背景に竹林                            竹林の向うに

 

       少し高台になった所から                     高台の曲がり角付近

 

         別の場所・梅林通路へ                            紅梅

  

       紅梅をやや下方から                               白梅

                                  

                                桃色の梅

         

                            サンシュユと紅梅

                                     

                             指導館内での盆栽展 

  

 


佐布里池・梅まつり

2014年03月10日 08時23分43秒 | Weblog

3月6日晴れ、愛知県下一の梅林のある知多市にある佐布里池へ観梅に行って参りました。

佐布里池周辺には、25種類、約4,600本の梅木が植栽されています。 見ごろは2月下旬

~3月中旬までです。 うす紅色の佐布里梅、白色で一重の白加賀、青みがかった白色の青軸

など楽しむことができます。 また、「佐布里梅」は明治の初めに鰐部亀蔵氏が桃の木に梅の木

を接木して作りだしたといわれており、実は果肉が厚く、核が小さいので梅干に適しています。

(知多市観光協会からの抜粋)。 風の強い日でしたが、大勢の観梅客でにぎわっていました。

    

                          佐布里池周辺の梅林

    

                             佐布里池と梅林

 

   水の生活館と佐布里池に架かる橋との道路間      水の生活館と佐布里池に架かる橋との道路間   

  に咲いていた梅林(1)                       に咲いていた梅林(2)

 

 水の生活館と佐布里池に架かる橋との道路間         佐布里池の周辺に咲いていた古木

 に咲いていた梅林(3)

 

 水の生活館と佐布里池に架かる橋との道路間      しだれ梅は少ない中の1つを少しアップにしたもの

 に咲いていた梅林の片側(4)                 です。

    

              佐布里池の少し突き出た場所からのメインの梅林(1)

    

                     さらに近寄り横からの画像(2)

    

                         ここも同じところの画像(3)

 

 

              白梅                              池の周りで憩う人々

 

            愛知用水神社                          なの花と紅梅

                 

                             「托」の石碑。

                     その下に、愛知県知事 神田真秋書と刻まれて

                     いました。


東海道・「蒲原~間宿岩淵~間宿本市場」を歩く

2014年03月04日 07時25分23秒 | Weblog

 2月22日(土)晴、「歴史街道を歩く」会の2月の例会で、東海道・「蒲原宿~間宿・岩淵及び本市場」間を

歩いてまいりました。(下図のA点「JR蒲原駅」からB点「富士市フィランセ」まで)

蒲原宿をあるいて、江戸時代当時のままの道幅や、鉤の手及び枡形のつくりも見られました。 そして

海鼠壁といった民家などがところどころ現存しており、江戸時代の街道の特徴が非常に良く残されていました。

歴史が薫る、古き良き建物を巡って楽しんでまいりました。 なお、富士川橋より眺める富士山はとっても

綺麗だと聞いていましたが、当日は雲がかかって何も見えませんでした。

 

概略工程図 :中央道小牧東IC→東名・清水東→JR蒲原駅から徒歩→蒲原宿西木戸→蒲原一里塚

バス移動(約3.3km)→富士川まちづくりセンター→富士川渡船場跡→雁(カリガネ)堤

→バス移動「(約2km)→金正禅寺→本市場一里塚→富士市フィランセ→新東名・新富士IC→中央道小牧東IC

         

          JR蒲原駅(スタート地点)                        蒲原宿・西木戸

                  

                             西木戸・茄子屋の辻 

    

              

                                  

                           美しい格子戸の家(増田家)

    

                            現地の説明板

 

      志田邸・東海道町民生活歴史館                    旧五十嵐歯科医院

志田家は屋号は「やまろく」と称し、江戸時代、米、塩   大正時代に町家を洋風に改築した建物です。外観は

を商い、後に醤油の醸造を行っていました。         洋風、内側は和風で擬洋風建築とよばれています。

現在の建物は安政の大地震(1854)後に立て直され  歯科医の五十嵐準氏は、大正3年(1914)に開業

たものです。 志田邸の南には東海道町民生活歴史館  名医と言われ、明治の元宮内大臣、田中光顕伯爵

があり、東海道宿場内でほぼ当時のまま現存する江戸  も患者の1人でした。

時代の醸造場を公開しています。

 

         旧五十嵐歯科医院の裏庭                     御殿道跡

   

                            現地の説明板

 

           高札場跡                          手造りガラスと総欅の家(磯部家)

                                    明治42年(1909)の建物です。柱や梁から1枚板の

                                    戸袋に至るまですべてが寺院建築に多く用いられた木目

                                    が見事な欅材です。 二階の窓ガラスは大正時代に手造

                                    りされた波打つような面が美しいガラスです。

 

            本陣跡・佐藤家                         旅籠和泉屋・お休み処

江戸中期まで蒲原には東本陣の多芸家と西本陣の   天保年間(1830~44)に立てられ、安政の2度目の

平岡家の本陣がありました。東本陣は宝暦年間に    大地震(1855)のときも倒壊を免れた旅籠です。現在

絶えてしまい、西本陣は江戸末期まで務め、明治11  はお休み処と鈴木家の2軒にわかれています。

(1878)年に京都へ移ってjきました。 建物は大正

時代のものです。

                  

                            蒲原宿・夜之雪

                            広重の『蒲原宿夜之雪』

  夜に雪が降り積もる情景は、しんとした静けさが伝わり、広重の唯一夜の風景の作品になっています。

昭和35年国際文通週間の記念切手に「夜の雪」が採用されたことを記念して碑が立てられています。

               

                         塗り家造り(佐藤家)

    

                           現地の説明板

 

                 

                       渡辺家土蔵(三階文書蔵)

               渡辺家に現在も残るこの土蔵は四隅の柱が上に行くに

               少しずつ狭まる「四方ころび」という耐震性の優れた技法

               で建築、天保十年(1839)に完成。 

               書類・公文書・芸術作品を災害から守り後世に 残すため

               に造られました。 渡辺家は江戸時代初期から蒲原宿の

               要職を努めてきました。江戸後期には韮山代官江川太郎

               左衛門から蒲原宿の問屋職を命ぜられます。

               その後、十八代渡辺利左衛門金璙は富士・富士宮を含む

               17ヶ村の郡中総代の取締役を務めあげました。 この間

               の録を 中心にした資料が、今もこの文書蔵に残されて

               います。

                

                         東木戸及び常夜燈

                       東木戸・常夜燈の由緒

 

       北条新三郎の墓・矢印の方向へ                       蒲原一里塚

山城であった蒲原城は室町時代に今川氏一族、戦国

時代には北条氏に治められていました。北条新三郎

は早雲の孫にあたり、駿河侵攻を目指す武田信玄、

勝頼らに対峙する中心武将として蒲原城主となりまし

たが、永禄12年(1569)に弟ともに武田軍の猛攻に

あい戦死しています。

   

                           現地の説明板(蒲原の一里塚)

  

           岩淵の一里塚                           光福山・新豊院

 江戸から数えて37里目にあたる1里塚です。西側の   鎌倉時代、正治元年(1199)真言宗のお寺として開創

塚の榎は初代、樹齢400年といわれ、東の榎は2代目   される。 室町時代、天文3年(1534)曹洞宗に改宗

です。                                  され、現在にいたる。

  

         光福山・新豊院の本堂                  間宿岩淵・「小休本陣跡・常盤邸」 

                                     間宿岩淵には、富士川を渡る準備をするため休憩する

                                     施設として小休本陣・脇本陣がありました。常盤邸は安政

                                     元年(1854)の地震後に再建された。

  

       常盤家のイヌマキ(天然記念物)                    富士川橋 

    樹高10m、根回り7m、胸高周囲4.7m

  

 

         富士川渡船場跡                            水神社

富士川を渡るときは船が使われ3ヶ所に船着場があり   治水、渡し舟の安全を祈願している神社です。

川の状況により使い分けていました。富士川の渡船は   境内には渡船場跡の碑や、富士道の道標、雁堤築造

慶長7年(1602)から大正13年まで続きました。      記念の碑など多く現存しています。

                   

                             雁堤(かりがねつつみ)

     

                           雁堤(かりがねつつみ)の由来

                  

                                護所神社

   

                           護所神社の由来

 

      不二山金正寺 宗派 曹洞宗                      間宿・本市場一里塚

 創建は宝暦13年(1763)です。              左側、樹木の横に石柱に「旧東海道一里塚」と刻まれて

                                     いる。

                      

                                鶴芝の碑 

                    

                                現地の説明板

                                              

                               富士市フィランセ

                          貸切バスにて新東名にて帰路へ