6月23日薄曇り、6月の例会で貸切観光バスを利用し「見付宿の見付天神社」から「袋井宿どまん中茶屋」
までと「可睡斎」まで行ってまいりました。
見付宿を通り、袋井宿に入りますと、いたるところに「どまん中」という言葉が目に飛び込んできました。
それもその筈、東海道の江戸から数えて27宿、京から数えても27宿目ですから、まさに「どまん中」です。
そのことを本当に主張しない手はないですね。
その後、曹洞宗屈指の名刹、可睡斎へと足をのばしました。
復路を含めて、丁度12時間の日帰りバス旅行でしたが無事終えました。
見付宿概略図(中部建設協会発行の「東海道さんさくマップ」をお借りしました。)
(ありがとうございました。)
見付天神社 :東海髄一の学問の大神として崇敬 阿多古山一里塚
されている。
元門と元天神道:旧東海道から見付天神社に通じる 富士見町の秋葉灯籠
小道。 江戸時代、この道脇が元門であり又表参道で
した。
三本松御旅所:神輿巡航の際、神輿が休憩する 遠州鈴ヶ森:大盗賊日本左衛門の首がここに
場所です。 晒されたと伝えられている。
行程図(磐田市の三ヶ野村・西島村&袋井市の木原村・川井村)
三ヶ野の道標および車井戸跡 鎌倉道標:この付近には七つ道がありこのほか
江戸、明治、大正、など各時代の道がある。
古戦場大日堂:戦国時代の初め武田軍と徳川軍が 三ヶ野橋
戦火を交えた場所である。この高台には 本田平八郎
物見の松と伝えられる大松が存在していた。
この丘陵に立てば、太田川から袋井宿まで見渡す
ことができ、本田平八郎もさぞやとうなずける戦国ロマンが漂う。
須賀神社の大楠(樹齢:推定500年) 菅谷陣屋・牢屋敷跡
旗本菅谷氏4,500石の領地
許禰(こね)神社 木原畷(なわて)古戦場&徳川家康公腰掛石
古代末期より和歌山県の熊野山とは深い関係が 元亀3年(1572)、武田信玄は木原に陣を張り
あった。 浜松城を守る徳川家康の偵察隊と衝突。世に言う
木原畷の戦いの場である。
木原一里塚
行程図(袋井宿)
澤野医院記念館:江戸時代末期から昭和初期まで 万葉歌碑:この地より防人として九州まで行った人が
建築し、使用してきた建築群です。 詠んだ歌がある。
「時々の花は咲けども何すれそ 母とふ花の咲き出来
ずけむ」 防人 山名群大部真麿
高札場 問屋場跡
袋井宿公園 袋井宿東本陣跡
袋井宿には本陣が、西、中の本陣を含めて3軒
あった。 その中でも東本陣は「壱番御本陣」と
よばれ、中心的な存在でした。
東海道どまん中茶屋:袋井宿の東の入口に初代
広重が描いた「東海道53次袋井出茶屋ノ図」をモチーフ
に建てられた茶屋。
可睡斎案内図
可睡斎は、六百年前(応永八年)如仲天禅師によって開創されて曹洞宗屈指の名刹です。11代住職
仙麟等膳大和尚は、幼い家康を戦乱から救ったことがあり、後に家康が、浜松城主となった折、報恩のために
城に招かれたその席でコックリコックリと居眠りをはじめました。 その姿を見た家康は和尚の安らかな親愛の
心を悟り、和尚に「睡(ねむ)る可(べ)し」と言い「可睡和尚」と愛称され、寺号も東洋軒から可睡斎と改め
後に拾万石の待遇と徳川幕府最初の僧録司という職を与えられました。 可睡斎パンフレットより
地蔵堂(旧東洋軒):可睡斎の始まりである。 可睡斎総門
現在の建て物は昭和60年に観音堂を移築したもの
である。
可睡斎山門 可睡斎本堂
本堂前 僧堂(坐禅堂):修行僧の坐禅および生活の場所
文殊菩薩を祀る。
開山堂内:手前両脇に御尊像が祀られています。 秋葉総本殿三尺坊御真殿:全国で唯一の秋葉三尺坊
向って右側に 大権現様のご真躰を祀る火防霊場です。
福井県大本山永平寺御開山。 道元禅師さま。
左側に
神奈川県大本山総持寺御開山。 瑩膳禅師さま。
庭園:一部滝と池を配した枯山水形式の庭。 東司:日本一の烏蒭沙摩(ウスサマ)明王
(健康を守る仏様)を祀る。 約70年前に建築された
水洗トイレ。
瑞龍閣:安土書院風総桧造りです。 襖絵
襖絵、欄間の絵、大額縁の絵画などすべて日本画家
山口玲熈画伯が40年かけて画かれたものです。
襖絵 大額縁の絵画
欄間の絵:暗闇の中でも眼が光って見える。