10月26日、中山道「完歩の旅」、特別例会の最終日です。 いつものようにできる限り、見られるところは見
て置きたいとの精神で頑張りました。 振り返ると、会として中山道をはじめて歩いたのが、H18年4月23日
近郊の「馬篭~妻籠」からでした。 それから数えると実に5年と6ヶ月かかったことになります。 長かっただけ
に、その強い思いが、日本橋に辿りついた時には、その達成感から、おもわず全会員から「万歳三唱」の合唱
となって、行き交う人達のなかに響き渡りました。
猿田彦大神庚申塚:この庚申塚はお猿さんが祀られ 高岩寺:巣鴨にある曹洞宗の寺院。 山号は萬頂山
ているといわれるが、これは巣鴨近辺の有志が、明治 本尊は地蔵菩薩。一般にはとげぬき地蔵の名称で
初期に、千葉県銚子市にある猿田神社から猿田彦大 知られている。
神を分祀したという。
真性寺の地蔵尊:江戸六地蔵のひとつ。巣鴨にある 染井吉野碑:江戸末期から明治初期に、江戸の染井
真言宗豊山派の寺院。山号は医王山、院号は東光 村に集落を作っていた造園師や植木職人達によって
院。 本尊は薬師如来。 育成され「吉野桜」として売りに出していた。
藤野奇命(博物学者)の調査によりヤマサクラとは異
なる桜であることがわかり、1900年「日本園芸雑誌」
において染井吉野」と命名された。
徳川慶喜巣鴨屋敷跡:徳川幕府15代将軍【(天保8年 追分1里塚:ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との
(1837)~大正2年(1913)】がこの巣鴨の地に住ん 分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。
だのは明治30年11月~34年12月までの4年間で またその角に宝暦年間創業の高崎屋(酒屋)が
した。 その後小日向第六天町に移った。その理由は ある。
巣鴨邸のすぐそばを鉄道が通ることが決まりその騒音
を嫌ってのことされている。
東大校舎の通り 赤門:加賀前田藩上屋敷跡地に東京大学を設立。
赤門は将軍家斉の姫が前田家に嫁いだ時に建て
られた門。
樋口一葉ゆかりの桜木の宿:東大赤門前反対側の奥 本郷の薬師如来:かつてこの地は真光寺の境内であ
まった所に、法真寺がある。法真寺に接して樋口家が った。伝えによれば、寛文10年(1670)ここに薬師
あり、明治9年(1876)4月、明治14年までの5年間 堂が建立された。当時町内に奇病がはやり、病に倒
(一葉4歳~9歳)を過ごしたところである。一家にとっ おれる者数知れず出たためこの薬師様に祈願して
てもっとも豊かで安定した時代であった。 病気が治まったといわれている。
かねやす:「本郷もかねやすまでは江戸の内」と川柳 神田明神随神門:昭和50年昭和天皇ご即位50年
に歌われている。 の記念事業として新たに再建。総檜・入母屋造。
2階建て・屋根は銅版瓦棒葺。
神田神社境内;正面御社殿、昭和9年に竣功。当時と 江戸国学発祥地:荷田春満(1669~1736)により
しては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の 江戸において始められた学問である。春満は伏見稲
社殿。ちなみに現社殿の前は天明2年(1782)に 荷大社神職の出。その春満に最初に入門したのが
江戸幕府によって造営。木造で権現造・総朱漆塗。 神田明神神主家の柴崎好高であり、邸宅を講義の場
江戸時代後期の神社建築を代表する社殿であった として提供するなど国学の普及・発展につとめた。
といわれている。
湯島聖堂仰高門:一般見学者の入口になる門 孔子像:2500年ほど前、中国の魯の国(今の山東
省曲阜市)昌平郷に生まれた人、その教え(儒教)は
東洋の人々に大きな影響を与えた。儒学に傾倒した
徳川5代将軍は綱吉は1690年(元禄3年)この地に
湯島聖堂を創建。
大成殿:孔子を祀る。 ニコライ堂:大成殿からニコイ道が目前に見えた。
昭和10年大林組により、寛政時代の旧制を模し 日本で最大の正教会の大聖堂であり、全日本の府主
鉄筋コンクリート造りで再建。 教が管轄する首座宗教座教会である。
神田川:東京都を流れる一級河川。荒川水系の支流 三越:現在の建物は、昭和10年(1935)に寛政。
フォークグループかぐや姫の楽曲神田川になっている ルネッサンス式建築の威容をほこり、当時は「国会
ことでも有名である。 議事堂」「丸ビル」に次ぐ大建築物でした。
日本橋掲示板
日本橋魚河岸跡:日本橋から江戸橋にかけての日本 日本橋から江戸橋方面へ
橋川沿いには幕府や江戸市中で消費される鮮魚や
塩干魚を荷揚げする魚河岸がありました。ここで開か
れた魚市は江戸時代初期に佃島の漁師達が将軍や
諸大名が調達した御膳御肴の残りを売り出したことに
始まりました。
日本国道路元標:日本橋が初めて架けられたのは 道路元標(東京市道路元標):中央の日本国道路元
徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603)と伝え 標の後方柱に東京市道路元標と記されている。
られています。幕府は東海道をはじめとする五街道の
起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と
交差する点として江戸経済の中心となっていました。
(11.10.26) 雷門:現在の門は慶応元年(1865)12月の田原町の
東京スカイツリー :墨田川公園から撮影したスカイ 大火で炎上した門に変わり、昭和35年(1960)、95
ツリーです。 年ぶりに松下幸之助氏のご寄進により復興再建され
浅草寺の総門として威容を誇っている。
仲見世:土産物ならココ。 菓子類から雑貨及び衣料 浅草寺宝蔵門:現在の門は山門として内部3層のうち
まで売られていて、大変な賑わいです。 2層に防災設備を施した収蔵室を設け宝物収蔵の宝
蔵門として大谷重工業の寄進により復興再建された。
五重の塔:徳川3代将軍家光により本堂・仁王門等と 浅草寺本堂:昭和33年(1958)、全国ご信徒の浄
共に建立された5重の塔は太平洋戦争の戦火により 財により再建された現本堂は鉄筋コンクリート、本瓦
焼失。戦後、信徒各位の浄財を得て、五重塔を再建。 葺きであり、昭和20年(1945)3月戦災で焼失した
旧本堂と同形態である。本尊は聖観世音菩薩である
浅草神社:観音像を拾いあげた桧前浜成命、桧前竹成命、
奉安した土師真中知命、を祭神とする。 今もなお、
「三社さま」として親しまれている。
徳川将軍家光より、寄進された社殿は350年経った
現在も当時の面影をそのまま残しています。
万歳の喜びが伝わってきますよ~
『奥の細道』へのご計画はないのでしょうか?
芭蕉さまの歩みを他力!?で楽しませていただけたら
。。。。と大いに期待しております。
貴重なコメントを戴き大変有難く思います。
中山道は曲がりなりにも「完歩」致しましたが、
東海道の方は、今年度目標が浜松宿あたりです。
まだまだ駆け出したところです。当面は、残念ながら力不足で計画はございません。
今まで歩きました宿場では、数多く『芭蕉句碑』は眼にし、歩く旅を和ませていただいていました。
今後は、出来る限り『芭蕉句碑』にも目を向け期待に
添いたいと考えます。