きまぐれストロール

植物、風景などを主として

中山道(上尾宿~板橋宿)

2011年11月07日 06時53分02秒 | Weblog

中山道(熊谷宿~日本橋)までの「完歩の旅」、2日目は「上尾宿~板橋宿」までを駆け足で

散策いたしました。 できる限り史跡を見ておきたいというあまり、終始、重要なポイントを見過ごしては

いないかと心配しながらの旅でした。  とにもかくも歩いたところを順次掲載させて戴きました。

 

 

遍照院:日乗山秀善寺遍照院、真言宗智山派の古刹  孝女お玉の墓:お玉は美しく気立てよく宿場でも評判

室町時代の創建で本尊は不動明王。孝女お玉の墓   の遊女でした。19歳の時、参勤交代のお役目で上

がある。                               尾宿を訪れた前田家の小姓に見染められ、めでたく

                                     江戸行きとなった。ところが悪病を患い上尾に戻さ

                                    れてしまう。 病身のお玉は生家を支えるため懸命

                                    に働いたが25歳の若さでこの世を去った。 楼の

                                    主人は孝行なお玉の死を悼んで墓を建てました。

 

氷川鍬神社:上尾宿の鎮守。学舎・聚正義塾の跡地  上尾郷二賢堂跡:天明8年(1788)学僧の雲室上人

及び境内に上尾郷二賢堂跡がある。            が上尾宿に開いた郷学ともいえる「聚正義塾」の学舎

                                    の名前です。                                    

                                    雲室が当時親交のあった林大学頭信敬らと相談して

                                    中国の南宋の大儒朱文公(朱子)と、我が国の学問の

                                    神様とも言われる菅原道真の2人の賢人を祀る意味

                                    から「二賢堂」と名付けたものである。

 

加茂神社:社前に宝暦3年(1753)、弘化2年(1845)  氷川神社:社伝によると紀元前4世紀頃の創建で  

と刻まれたもの、文政10年(1827)御遷宮と刻まれ    農耕神と崇敬された。 8世紀ころに武蔵一の宮と

た石灯篭があり相当古い。 英泉(江戸後期の浮世絵   制定される。大国主命、素戔鳴尊、稲田姫を祀る。

師)に上尾宿の名所として紹介されている。         埼玉、東京、神奈川の南関東に200余もある氷川

                                      神社の総社。

 

氷川神社朱塗り欄干                       氷川神社鳥居:参道はケヤキ並木になっている。

 

塩地蔵:毎年8月24日には地蔵祭りが行われます。   浦和宿本陣跡:本陣は代々星野権兵衛家が勤めて

塩地蔵にはお線香と塩を供えてお参りします。祭壇    いました。敷地内には高札場、問屋場などありまし

には12幅の地獄極楽の絵がかけられ、夜には念仏   た。  また、明治天皇行在所阯碑がある。

や町内の子供たちのお囃子が奉納されます。

 

中山道ユニモール:中山道拡幅工事による歩道設置  玉蔵院:真言宗 豊山派、 賢珠山玉蔵院

に伴い「風格と落ち着きのある町」づくりを目標に歩道  平安時代初期の弘法大師による創建。 江戸時代

のモール化事業を完成しました。               は関東10壇林(僧の学問所)の一つ。

 

 

玉蔵院地蔵堂:安永9年(1780)の建立。二間仏堂  別所沼公園(一時休憩)

ではあるが本格的な造営を受けた仏堂建築でしかも

建築年代が明らかで保存価値が極めて高い。

 

 

調神社:天照大御神、豊宇気姫命、素盞鳴尊の三柱  調神社の庭:調神社と月待信仰の関係を知る上で

を祭神とする延喜式内の古社で、その創建は奈良以  うさぎの彫刻は重要です。 ちなみに狛犬はなくうさぎ

前とも考えられる。 この神社には鳥居、門はない。   の石造です。

 

三学院:真言宗智山派、金亀山極楽寺三学院という。  三学院地蔵堂:江戸時代初期の寛文~元禄年間

創立年代は不詳、本尊は十一面観音菩薩像は平安   (1661~1704)にかけて造立された石造物です。

時代の作。境内には仁王門、六地蔵石仏などある。    左から目疾地蔵、六地蔵、子育地蔵です。 

江戸時代前は三学坊と称して山伏が居住していた。

 

三学院・鐘楼及び三重の塔                   三学院本堂:改装中のため天幕が張られていた。

 

三学院:阿弥陀堂                        三学院:佛舎利殿金亀舎利塔:三蔵法師の遺骨と

                                    ゆかりのある塔。

 

蕨宿:慶長11年(1606)蕨城主渋川公の将佐渡守  蕨宿本陣跡:歴史民俗資料館隣が本陣跡

岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿の本陣・問屋・

名主の3役を兼ねたと伝えられる。その後その役は

子孫に受け継がれ明治維新まで続いた。

 

 

蕨宿民俗資料館                         蕨宿脇本陣:歴史民俗資料館の隣の薬局が脇本陣

 

和楽備神社:御祭神 八幡大神を主神とし合社の神々  和楽備神社拝殿

を祀る。室町時代蕨城主渋川公が八幡大神をお祭り

したのが創立のはじめとつたえられている。

1911年に近郷18社が合祀されて現在の神社名に

なる。                             

 

蕨城址跡:南北朝時代に渋川氏が居を構え大永4年  荒川:江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋と次

(1524)北条氏綱により攻撃され破壊された。江戸   の蕨宿の間にあり交通の要所でした。

時代になると家康が城跡に御殿を置きました。      

現在ではわずかに堀跡が残っているのみです。     

                                  

 

戸田渡船場跡:江戸防御の意から橋が架けられず   水神社:正面の水神宮の碑には寛政8年(1796)の

ここを越えるには船による渡しに頼るしかありません  銘があります。古くは荒川の端にあったもので、新堤

でした。 これが中山道、戸田の渡しです。        防ができてから移され川岸に住む人々の氏神様の

                                    ようになっています。

 

志村一里塚:幕末以降、十分な管理が行き届かなく  縁切榎:この木はいつのころか縁切榎と呼ばれるよう

なり、さらに明治9年(1876)に廃毀を命じた法が下  になりました。文久元年(1861)和宮下向のさいに

されるにおよび多くの1里塚が消滅した。昭和8年か  は榎を避けるためのう回路がつくられています。

ら行われた工事の際に周囲の石積がなされ現在に   男女の悪縁、断酒を願う時にこの榎の樹皮を削り取

いたっています。                         り、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ

                                    霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めた。

 

板橋宿:板橋宿は日本橋方面から平尾宿・中宿・上宿 板橋:この橋を板橋と称し板橋という地名はこの板橋

にわかれており、石神井川にかかる板橋から現在の  に由来するといわれています。

環状7号線辺りまでが上宿でした。

                     

板橋本陣跡:古くは飯田新佐衛門家ら数家で勤めて   文殊院:真言宗豊山派、幡楊山大聖寺文殊院と号す。

いた。 宝永元年(1704)当家は飯田本家より別家し 本尊は文殊菩薩。 本陣飯田家の菩提樹として多くの

ていますがその際、世襲名「新佐衛門」と本陣・問屋役 信仰を集めていた延命地蔵菩薩の境内を広げて建立

を引き継いでいます。                      された。開山は寛永2年(1625)に入寂の権大僧都

                                    慶恵と伝える。

 

遍照寺:江戸時代は大日山と号し、区内唯一の天台  東光寺:御本尊阿弥陀如来、宗派 浄土宗。

宗寺院であったが明治4年廃寺となる。 現在は成田

山新勝寺末寺となっている。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 


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