きまぐれストロール

植物、風景などを主として

北海道旅行(函館から札幌まで)

2011年10月22日 06時38分17秒 | Weblog

10月15日~17日まで、楽しみにしていました友人夫妻との2泊3日の「道南・レンタカー」旅行に出掛けま

した。

概略行程

1日目曇りのち雨、中部国際空港~函館空港へ、レンタカー手続き後、函館朝市から港周辺散策後、五稜郭~

大沼公園へと立ち寄りました。大沼公園では雨とモヤのため観光を諦め、宿泊場所「登別温泉宿泊地」まで直行

2日目雨のち晴れ、登別地獄谷巡りから、ここでも紅葉谷観光は中止し、洞爺湖~豊平峡へ、定山渓温泉で

宿泊。

最終日晴、定山渓温泉から札幌市内へ、市内見物後、千歳空港~中部国際空港へと、天候不順と旅慣れてない

こともあり、当初計画した行程表どうりには、なか々難しく、あっという間の旅でした。

       

 函館朝市の市場建屋内は非常に大きく大勢の人達で      

 大変に賑わっていました。

カニ専門店

   

カトリック元町教会、安政6年(1859)フランスの宣教師  ナナカマドの並木 、これほど大きいナナカマドは珍しい

が仮聖堂を立てたのに始まるもので、明治10年同宣教会

マラン氏により、最初の聖堂が建立された。以後3回の

大火により類焼した後、大正13年(1924)現在の聖堂が

完成した。

 

西波止場美術館と後方の函館山                赤レンガ郡の一角  

五稜郭入口付近の桜並木  

     

五稜郭跡、幕末の箱館開港に伴い設置された箱館奉行

所の防御施設で、箱館奉行所配下の蘭学者武田斐三郎

成章により、中世ヨーロッパで発達した城砦都市を参考

に設計された西洋式土塁である。稜堡と呼ばれる5つの

角が星型の五角形状に土塁が巡っていることから「五稜

郭」と言われている。                                                                                                                                                                   

                                                                                                   

五稜郭入口                             五稜郭入口                              

 

箱館奉行所、公務を執る役所部分と奥向きと呼ばれる  赤松の松林  

奉行の役宅部分にに分れている。 儀式、裁判を行う

部屋、奉行とその部下の仕事部屋などがある。

  

高所から箱館奉行所を望む                   ここから2日目です。 登別地獄谷、激しい雨とモヤが

                                     かかりました。

  

 間欠泉までの通路                        囲われた木製垣根から、間欠泉から吹きあげる水蒸気  

                                      温泉の温度は約80度あります。

    

オロフレ峠付近の紅葉                      オロフレ道路史碑、この道路は支笏洞爺国立公園の  

                                    洞爺と地獄谷で知られる登別温泉とを結ぶ北海道有数

                                    の観光ルートとして利用する観光客も毎年100万人の

                                    多くに達している。

 

オロフレ峠の紅葉、白い幹肌はダケカンバ          オロフレ峠の紅葉 

オロフレ峠の紅葉

                                       

昭和新山、中腹から噴煙が吹きあがる            昭和新山前から有珠山を眺める

 

洞爺湖の遊覧船                          豊平峡全景

 

豊平峡ダム                             豊平峡ダム上部からの紅葉

 

豊平峡周辺の紅葉                         最終日。                                                             

                                     定山渓温泉、宿泊ホテルから紅葉 

 

札幌市内、北海道大学校のフェンスにそって         北海道大学内を通っている道路

北海道大学本館を包んでいるツタ 

ポプラ並木、平成16年の台風18号により半数近くのポプラが倒壊しました。

倒木の立て直し、若木の植樹が行われ、1時立ち入り禁止であった並木道も

ウッドチップが敷かれ、現在80mは散策可能です。

 

札幌駅からすすきのまでの地下街「札幌駅前地下歩行  JR札幌&JRタワー    

空間」距離=1,900mを逆コースですすきのから札幌    

駅まで歩いて見ました。

 


焼岳

2011年10月07日 07時25分18秒 | Weblog

10月3日晴天、友人とさしたる登山経験もない、ただの興味本位の私とが、日帰り焼岳登山に挑戦しました。

焼岳は日本アルプスの中で唯一の活火山である。頂上から墳煙を上げている山は他にない。そして小さな山

ではあるが梓川の風景を一変させた。 その爆発で大正池を作り上げた。

概略行程

☆☆岐阜県各務原市を出発(AM3:30分)、41号線をひた走り、高山経由安房峠へ旧道158号線沿いにある

「新中の湯コース」の登山口(7:30分)へ到着。

☆☆登山口(07:40分)⇒中の湯合流点(9:10分)⇒焼岳すそ野辺り(9:40分)⇒焼岳鞍部(11:30分)

⇒山頂(11:50分頃)

山頂下山(12:30分)⇒殆んど休憩なしで登山口到着(15:30分頃)。 その後、「平湯の森」で足湯に浸かり

休憩後、一途に帰宅、PM8:00頃になっていただろうか。  この登山では、体力の限界を知る上で、有意義な

体験をいたしました。

 

安房峠付近の朝モヤ                       「新中の湯」登山口、駐車していた車は10台程度

 

生い茂る樹林の間をぬって段差の激しい道のりをすすむ。  倒木が幾重にも重なった、こんな所もありました。

 

新中の湯分岐点近くから朝もやのかかった焼岳      焼岳北峰と紅葉の始まったナナカマド

 

北峰の鞍部にかすかに見える噴煙がたなびく       南峰と北峰との谷間

 

目前に見える山頂ですが、それからでもかなりの距離   クマ笹の向こうに南峰・北峰の間から噴煙がたなびく。

時間がかかりました。

円弧を描いてる向こうにたなびく噴煙、手前ナナカマド

 

振り返るとこの傾斜面                       2,300m地点の表示、あともうひと踏ん張り

 

南峰の山頂                             焼岳の鞍部を行く登山者

噴煙を噴き上げている部分の岩肌が灰色に

風に吹き流されている噴煙

 

噴煙を目前に佇む                         噴煙の手前を歩く、硫黄の匂いがきつい

 

鞍部から湖の眺め                         この岩を裏側へまわる、足元に御注意

 

回り込んだ地点から上高地方面の眺め           穂高方面の眺め、あいにく山頂に雲がかかって

 

回り込んで最後の山頂へ

焼岳北峰山頂万歳、 標高2,393m。 頂上の気温は低く、風も強い。

 

山頂から上高地方面                                        山頂から笠ヶ岳方面の山々

 山頂から噴煙部分を目の当たりに見ることができる。

 

山頂から四方を眺めると奇妙な形状の岩          

山頂から写真撮影する登山者(カメラマン魂)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 


東海道亀山宿⇔庄野宿&石薬師宿

2011年10月04日 07時07分25秒 | Weblog

9月24日晴天、「歴史街道を歩く会」の9月の例会で亀山宿⇔庄野宿&石薬師宿を歩いてきました。 

亀山宿 ⇔庄野宿の街道では、是非見て置きたいところとして、女人堤防碑 が印象に残りました。                           

☆☆庄野宿は東海道の宿場の中でも遅く、寛永元年(1624)に設置される。この宿は「草分け36戸

宿立70戸」で宿立てしたといわれ、規模はかなり小さかった。宿泊客は少なく休憩だけの旅人が多

かったようです。

今でも鈴鹿川左岸を走る国道1号線とJR関西線に挟まれてひっそりとした感じがあり、家並みも古い建物が

かなり残されており、昔の面影を偲ばせてくれました。

☆☆石薬師宿は元和2年(1616)に置かれた東海道44番目の宿駅で、同宿内の高富山石薬師寺に

ちなんで宿場の名としたといわれています。

私にとっては、いずれの宿駅も12ぶんに関心を抱かせる宿場町でした。

                  

極楽山地福寺:鈴鹿市西部に位置する小田原町の極楽山地福寺はその所在地を小田原町道心がいどうと呼び

その昔道心が多く修業せし所といわれている。当時は七堂伽藍の備わったお寺と言われ、現在も中堂、そして

道心達の風呂のあった場所として風呂の谷などその名残の地名が残されている。永禄11年(1568)織田信長

の戦禍に遭い消失。観音堂は常念仏堂として各誉上人の発願により延寶5年(1677)に建立され、中央に歴代

亀山藩主の帰依された阿弥陀如来をまつり、その両翼には後に江戸の鈴木市郎衛門が往来の人々の安全と

家族の菩提を弔うために元禄12年(1699)に西国33ヶ所の観音菩薩像33体を寄進され、東海道の道すがら

多くの人々の立ち寄り御利益をいただいた。(案内板による。)

 

安楽川:鈴鹿川の支流です。                 中富田一里塚:中富田村は亀山領の東端にあり隣の

                                    神戸領との境に接する村である。 この塚は享和3年

                                    (1803)に造られたものである。「東海道亀山宿分間

                                    絵図」には中富田村・川俣神社の東隣に街道挟んで

                                    「一里塚」が描かれている。

 

「従是東神戸領」&女人堤防碑:この辺りは、度々川が         庄野宿石標

氾濫して被害が大きく、文政12年頃、神戸藩に何度も       京側の入口にある庄野宿石標   

修築を申し出たが許されず、女性たちが禁を犯し打ち   

首を覚悟で堤防を補強しました。一旦は処刑場に送ら   

れましたが赦免の早馬で救われたといいます。       

 

川俣神社のスダジイ(天然記念物):ブナ科の常緑樹 庄野宿脇本陣跡:本陣隣の楠与兵衛家が脇本陣を

で高さ11m、幹回り約5mです。                 務めていた。

 

庄野宿高札場跡:幕府の法令や禁令を板に墨書きした 庄野宿本陣跡:本陣は沢田家が勤め、現在の庄野

ものをかける設備で、本陣と脇本陣の間にもうけられた。 集会所にあった。

天和2年(1682)から慶応4年(1868)に至る人馬賃

や禁制を示した高札が保管されている。

 

庄野宿問屋場跡:御伝馬所ともいい、東海道を往復す 庄野宿資料館:館内には庄野宿の本陣、脇本陣文書

る旅人の人馬や荷物の運び継ぎをする場。本陣の北に  宿駅関係資料をはじめ、地域に残る民具、農具など

あって問屋2人、年寄り2人、帳付け4人、人馬差し8人  展示しています。

で森・小林家 が勤めた。

 

庄野宿:庄野宿は東海道54次にあたり幕府の      石薬師の一里塚:「家忠日記」には慶長9年(1604)

直轄領であった。宿立は遅く寛永元年(1624)と     に秀忠が東海道、東山道、北陸道の3道に1里塚を築

いわれている。この宿は「草分け36戸、宿立70戸」   かせ一里を36丁に改めた。 

と言われた。安藤広重の描く「庄野の白雨」は彼の     なお、北町の地蔵堂から数えて「信綱かるた道」には

作品の中でも傑作中の傑作といわれ、世界的にも     36句ほど、歌が詠まれています。   

高い評価を得ている。

 

石薬師寺:高富山石薬師寺と言い真言宗の寺院です。        石薬師宿標識

木立に囲まれた本堂は江戸初期の桃山様式で、神戸   国道115号線の中央分離帯に設置されていた。

城主一柳直盛の再建によるといわれています。 

 

佐佐木信綱と卯の花の里:石薬師宿は天領であった。 佐佐木信綱資料館&すぐ隣が生家:歌人で国学者

この地に宿駅が設置されたのは元和2年(1616)と遅 の信綱(1872~1963)は、弘綱を父としこの地で生

く、それまでは高富村と呼ばれている。            まれた。記念館には第1回文化勲章をはじめ多くの遺

現在、石薬師では信綱先生作詞の「夏は来ぬ」に因ん  品、著書など2000点が収蔵。また隣接地には生家が

で地区をあげて卯の里つくりに取り組んでいる。      ある。

初夏になるとどの家の庭先にも花が咲き清楚な趣を

添えている。             

 

佐佐木信綱、産湯の井戸:生家の裏庭にある。       石薬師文庫:昭和7年信綱が旧石薬師村に寄贈。

                                    土蔵を文庫とし本建物を閲覧所として建設され貴重な

                                    書籍が贈られた。現在は地域の図書館として運営され

                                    ている。

  

小澤木本陣跡:石薬師宿は元和2年(1616)に設立  大木神社:石薬寺の鎮守の森である。この杜にはサカ  

され宿名は当時有名であった石薬師寺からとりました。 キ、モチノキなど100種類の樹木や草木が混生し約  

小澤家が本陣を勤めた。また国学者萱生国章(1717  1ヘクタールに及ぶ神域は雄大で荘厳な趣を残して  

~75)もこの家の出である             いる。。

北町の地蔵堂:延命地蔵である。江戸時代東海道の

宿場として、石薬師宿の入口に旅人の安全を祈願して

建てられた。