きまぐれストロール

植物、風景などを主として

歴史街道を歩く(坂本宿から深谷宿へ)

2011年05月29日 07時46分26秒 | Weblog

「歴史街道を歩く会」の特別例会として有志17名が、中山道・坂本宿~深谷宿までの2泊3日の旅に出かけました。

 第1日目、各務原・鵜沼を7:00に出発、中央道を貸切マイクロバスでひたすら走り、目的地、碓氷峠見晴らし台に

12:00頃到着。 小休止の後、限られた時間で行けるところまでということで松井田宿の 五料茶屋本陣までと

なる。 五料茶屋本陣では、閉館間際に滑り込みセーフ。 この時点で17:45は過ぎていただろうか。

 

熊野神社:碓氷峠の頂上に位置し県境に立つこの神社  1つ家の碑:この碑は「やまみちはさむくさみしなひとつ

群馬県民は「熊野神社」と呼び、長野県民は「熊野皇     やに、よごとみにしむももよおくしむ」と読む。 弁慶が

大神社」と呼ぶ。                            爪で書いたといわれている。

                                       この碑は後に建て替えられたものです。

 

峠越えの道:この道は安政遠足マラソンコースとして    人馬施行所跡:文政11年(1828)江戸呉服の与兵衛

使われており、5月の第2日曜日に例年開催される。    が安中藩より借り受け人馬の休む場所を建築した所。

 

陣場が原:戦国時代、武田方と上杉方の碓氷峠合戦記  山中茶屋跡:峠の真ん中にある茶屋で寛文2年(1662)

がある。笹沢から子持ち山の間は萱野原でここが古戦場  には13軒の茶屋があり、明治の頃小学校もあった。

といわれている。

 

栗が原: 明治天皇が御巡幸した道路と中山道の分岐   1里塚:座頭ころがしの坂を下ったところに慶長以前

点。群馬県で最初の「見回り方屯所」があったところ。    の東山道があった。 ここから昔は登っていた。 

これが交番のはじまりです。    

 

堀切:天正18年(1590)秀吉の小田原攻めで北陸   碓氷峠の関所跡:昌泰2年(899)碓氷の坂に関所を

信州軍を松井打田城主大導寺駿河守が防戦しようと   設けた場所と思われる。

した場所で道は狭く両側は掘り切られている。

 

道路標識:坂本宿まで2.5km、熊野神社まで6.4km    四軒茶屋跡:刎石山の頂上で、昔ここに4軒茶屋が

の標識。                                  あった。 今でも石垣が残っている。 

 

覗:坂本宿を見下ろせる場所で山梨の老木がある      堂峰番所:堂峰の見晴らしの良い場所の石垣の上に

一茶は「坂本や袂の下の夕ひばり」と詠んだ。         番所を構え、関門は両方谷がせまっている場所を

                                       さらに掘りきって道幅だけとした場所に設置されていた。

   

峠入口案内板:熊野神社に到達するまでの道のりが     旧信越線トンネル:現在は遊歩道「アプトの道」として

案内されている。                            ハイキングコースとなっている。

 

 峠の湯付近からの妙義山                    八幡宮:狛犬は表情がユニーク、鳥居の額の書も必見

 

 つたや:明治末期、若山牧水が一夜宿泊した旅籠     かぎや:坂本宿の面影を残す代表的な建物です。

 

酒屋脇本陣跡:現在地区の公民館として使われている   脇本陣(永井家)

 

 

佐藤本陣跡&坂本小学校発祥地:明治8年佐藤本陣を  碓氷関所跡:醍醐天皇の昌泰2年(899)に群盗を取り

仮校舎にあて坂本小学校を開校。 その後佐藤家は    締まるために、関所が碓氷坂に設けられた。この地に

移住。 現在の家屋はその跡地に明治34年に小竹屋   関所が移ったのは元和年間(1615~1623)といわれ

の分家として建てられたものです。               幕藩体制を中心とした徳川幕府の確立・安定を担った。               

 

五料の茶屋本陣・お西:江戸時代参勤交代などで

中山道を通行する大名や公家などが休息した場所です。

 


池鯉鮒宿~岡崎宿まで(名鉄知立駅~宇頭駅)

2011年05月17日 07時01分58秒 | Weblog

5月14日、好天に恵まれて、東海道池鯉鮒宿から岡崎宿方面(名鉄知立駅~宇頭駅まで)に向かって約10km弱程歩いてきました。

今まで歩いた東海道の宿場の中でも、特に印象に残ったのは、松並木が多く残されていたことでした

街道沿いに松並木が随所に見られ、何百mも続いているところもあり、また永安寺の古木など立派な「雲竜の松」が見ることもできました。

往時池鯉鮒宿は木綿の集散地で、その運搬に馬が使われた関係で馬市が栄えた。 かって松並木に4~5百頭におよぶ馬がつながれ

値段を決めるところを談合松と呼んだ。 明治になって、馬市は慈眼寺に移され、馬が牛に変わったものの賑わっていたが昭和18年を

最後にその歴史を閉じた。

この松並み木は、生活の糧であった人達の深いかかわりが感じられる宿場町でもありました。

 

           池鯉鮒問屋場跡                             慈眼寺(禅宗 曹洞宗)

          

      松並木:昭和34年伊勢湾台風により60~70%の松が倒壊、現在は長さ約450mほどです。

 

              馬市の跡                              来迎寺1里塚

 

                                   

                  明治川神社:三河一帯に灌漑する用水路で矢作川から水を引き

               明治13年に通水、現在は暗渠化されている。 用水完成後神社は創建された。

 

         

    永安寺の雲竜の松(県天然記念物):樹齢約300年、高さ4.5m、幹回り3.7m、枝張り南北24m

    大浜茶屋の庄屋、柴田助太夫は貧しい村人のため助郷役の免除を願い出て刑死したと伝えられいます。

 

                                

            熊野神社:この地で東海道と鎌倉街道が交差しており、この神社は

            「踏分けの森」と呼ばれていました。         

 


桃の里・園原

2011年05月11日 09時08分02秒 | Weblog

5月7日大連休の後半、園原・「花桃の里」へ出かけてみました。

例年ですと、インターネットでは見ごろの時期は4月下旬から5月の10日までとありましたので

もう時期的にはやや遅いのかと思いながらも、半分は期待をしていました。 ところがなんと!! 今がまさに満開の時期でした。

平成3年から植え始め、月川温泉郷全域4kmに約3,500本、赤、白、ピンクに咲きわける花桃のあでやかさは見事でした。

人出も多く、みなさんそれぞれ花を愛でる人達、また地元の特産品などの販売もみられ大盛況でした。

今日現在、川沿いの上流では7~8分咲きの状態でこれからも十二分に楽しめるとのことでした。

☆☆「花桃」を満喫したあと、すぐ近くにある「駒つなぎの桜」にも立ち寄りましたが

こちらはすでに、満開の時期は過ぎていましたが、まだまだ満開の時期を彷彿とさせる

美しさと荘厳さ目の当たりにすることができました。

     

                               橋の上流から

 

 

 

 

 

 

 

      

                              駒つなぎの桜


ぶらり賤ヶ岳方面へ

2011年05月07日 08時15分39秒 | Weblog

「自分勝手でしたが、長らくお休みをいただいていました。」

☆☆連休の後半、5月4日久しぶり家族とともにぶらり賤ヶ岳方面へ参りました

1583年(天正11年)4月信長の重臣柴田勝家と羽柴秀吉がこの地で信長の後継者争いをし、秀吉軍が勝利をおさめ

天下取りをした戦いだといわれています。 またこの合戦において秀吉軍の近習加藤清正ら7人が槍をとって真っ先に進み

柴田軍を突き崩したといわれることから、賤ヶ岳の7本槍として知られています。

「つわものどもが夢のあと」 … でしたが、今は観光客の憩いの場所として静かに時は流れていました。

    

                             賤ヶ岳付近の地図

 

        賤ヶ岳合戦図(頂上)                           琵琶湖(頂上展望台)

 

      賤ヶ岳南麓(頂上からの大音地区)                  伊香具神社参道(八重桜)

                   

                               余呉湖の桜     

     

                              余呉湖(逆光)