中山道(熊谷宿~日本橋)までの「完歩の旅」、2日目は「上尾宿~板橋宿」までを駆け足で
散策いたしました。 できる限り史跡を見ておきたいというあまり、終始、重要なポイントを見過ごしては
いないかと心配しながらの旅でした。 とにもかくも歩いたところを順次掲載させて戴きました。
遍照院:日乗山秀善寺遍照院、真言宗智山派の古刹 孝女お玉の墓:お玉は美しく気立てよく宿場でも評判
室町時代の創建で本尊は不動明王。孝女お玉の墓 の遊女でした。19歳の時、参勤交代のお役目で上
がある。 尾宿を訪れた前田家の小姓に見染められ、めでたく
江戸行きとなった。ところが悪病を患い上尾に戻さ
れてしまう。 病身のお玉は生家を支えるため懸命
に働いたが25歳の若さでこの世を去った。 楼の
主人は孝行なお玉の死を悼んで墓を建てました。
氷川鍬神社:上尾宿の鎮守。学舎・聚正義塾の跡地 上尾郷二賢堂跡:天明8年(1788)学僧の雲室上人
及び境内に上尾郷二賢堂跡がある。 が上尾宿に開いた郷学ともいえる「聚正義塾」の学舎
の名前です。
雲室が当時親交のあった林大学頭信敬らと相談して
中国の南宋の大儒朱文公(朱子)と、我が国の学問の
神様とも言われる菅原道真の2人の賢人を祀る意味
から「二賢堂」と名付けたものである。
加茂神社:社前に宝暦3年(1753)、弘化2年(1845) 氷川神社:社伝によると紀元前4世紀頃の創建で
と刻まれたもの、文政10年(1827)御遷宮と刻まれ 農耕神と崇敬された。 8世紀ころに武蔵一の宮と
た石灯篭があり相当古い。 英泉(江戸後期の浮世絵 制定される。大国主命、素戔鳴尊、稲田姫を祀る。
師)に上尾宿の名所として紹介されている。 埼玉、東京、神奈川の南関東に200余もある氷川
神社の総社。
氷川神社朱塗り欄干 氷川神社鳥居:参道はケヤキ並木になっている。
塩地蔵:毎年8月24日には地蔵祭りが行われます。 浦和宿本陣跡:本陣は代々星野権兵衛家が勤めて
塩地蔵にはお線香と塩を供えてお参りします。祭壇 いました。敷地内には高札場、問屋場などありまし
には12幅の地獄極楽の絵がかけられ、夜には念仏 た。 また、明治天皇行在所阯碑がある。
や町内の子供たちのお囃子が奉納されます。
中山道ユニモール:中山道拡幅工事による歩道設置 玉蔵院:真言宗 豊山派、 賢珠山玉蔵院
に伴い「風格と落ち着きのある町」づくりを目標に歩道 平安時代初期の弘法大師による創建。 江戸時代
のモール化事業を完成しました。 は関東10壇林(僧の学問所)の一つ。
玉蔵院地蔵堂:安永9年(1780)の建立。二間仏堂 別所沼公園(一時休憩)
ではあるが本格的な造営を受けた仏堂建築でしかも
建築年代が明らかで保存価値が極めて高い。
調神社:天照大御神、豊宇気姫命、素盞鳴尊の三柱 調神社の庭:調神社と月待信仰の関係を知る上で
を祭神とする延喜式内の古社で、その創建は奈良以 うさぎの彫刻は重要です。 ちなみに狛犬はなくうさぎ
前とも考えられる。 この神社には鳥居、門はない。 の石造です。
三学院:真言宗智山派、金亀山極楽寺三学院という。 三学院地蔵堂:江戸時代初期の寛文~元禄年間
創立年代は不詳、本尊は十一面観音菩薩像は平安 (1661~1704)にかけて造立された石造物です。
時代の作。境内には仁王門、六地蔵石仏などある。 左から目疾地蔵、六地蔵、子育地蔵です。
江戸時代前は三学坊と称して山伏が居住していた。
三学院・鐘楼及び三重の塔 三学院本堂:改装中のため天幕が張られていた。
三学院:阿弥陀堂 三学院:佛舎利殿金亀舎利塔:三蔵法師の遺骨と
ゆかりのある塔。
蕨宿:慶長11年(1606)蕨城主渋川公の将佐渡守 蕨宿本陣跡:歴史民俗資料館隣が本陣跡
岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿の本陣・問屋・
名主の3役を兼ねたと伝えられる。その後その役は
子孫に受け継がれ明治維新まで続いた。
蕨宿民俗資料館 蕨宿脇本陣:歴史民俗資料館の隣の薬局が脇本陣
和楽備神社:御祭神 八幡大神を主神とし合社の神々 和楽備神社拝殿
を祀る。室町時代蕨城主渋川公が八幡大神をお祭り
したのが創立のはじめとつたえられている。
1911年に近郷18社が合祀されて現在の神社名に
なる。
蕨城址跡:南北朝時代に渋川氏が居を構え大永4年 荒川:江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋と次
(1524)北条氏綱により攻撃され破壊された。江戸 の蕨宿の間にあり交通の要所でした。
時代になると家康が城跡に御殿を置きました。
現在ではわずかに堀跡が残っているのみです。
戸田渡船場跡:江戸防御の意から橋が架けられず 水神社:正面の水神宮の碑には寛政8年(1796)の
ここを越えるには船による渡しに頼るしかありません 銘があります。古くは荒川の端にあったもので、新堤
でした。 これが中山道、戸田の渡しです。 防ができてから移され川岸に住む人々の氏神様の
ようになっています。
志村一里塚:幕末以降、十分な管理が行き届かなく 縁切榎:この木はいつのころか縁切榎と呼ばれるよう
なり、さらに明治9年(1876)に廃毀を命じた法が下 になりました。文久元年(1861)和宮下向のさいに
されるにおよび多くの1里塚が消滅した。昭和8年か は榎を避けるためのう回路がつくられています。
ら行われた工事の際に周囲の石積がなされ現在に 男女の悪縁、断酒を願う時にこの榎の樹皮を削り取
いたっています。 り、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ
霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めた。
板橋宿:板橋宿は日本橋方面から平尾宿・中宿・上宿 板橋:この橋を板橋と称し板橋という地名はこの板橋
にわかれており、石神井川にかかる板橋から現在の に由来するといわれています。
環状7号線辺りまでが上宿でした。
板橋本陣跡:古くは飯田新佐衛門家ら数家で勤めて 文殊院:真言宗豊山派、幡楊山大聖寺文殊院と号す。
いた。 宝永元年(1704)当家は飯田本家より別家し 本尊は文殊菩薩。 本陣飯田家の菩提樹として多くの
ていますがその際、世襲名「新佐衛門」と本陣・問屋役 信仰を集めていた延命地蔵菩薩の境内を広げて建立
を引き継いでいます。 された。開山は寛永2年(1625)に入寂の権大僧都
慶恵と伝える。
遍照寺:江戸時代は大日山と号し、区内唯一の天台 東光寺:御本尊阿弥陀如来、宗派 浄土宗。
宗寺院であったが明治4年廃寺となる。 現在は成田
山新勝寺末寺となっている。