きまぐれストロール

植物、風景などを主として

粉雪舞う世界遺産白川郷

2006年12月31日 08時14分23秒 | Weblog
12/29日早朝、友人と4WD車で白川郷へ出向きました。
途中、国道156号線で作業をしている除雪車を何度も見かけました。
目的地に近づくにつれ路面が凍結状態でした。安全運転でしたので無事目的地に着きました。
到着後暫くの間は粉雪が舞う程度でしたが、1時間ほどで猛吹雪で視界が悪くなり
デジカメどころでなく急いで帰路に着きました。

non_non 様のソースをおかりしました。 ありがとうございました。


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国指定重要文化財和田家
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緑苑防犯パトロール隊結成

2006年12月27日 11時21分59秒 | Weblog

緑苑ソフトボールOB会の有志19人が25日、緑苑防犯パトロール隊を結成しました。
不定期に地域を巡回し不審者に目を光らせることにしました。

出発に先立って各務原署員による空き巣や不審者を寄せ付けないパトロールの仕方などノウハウの指導を受けました。
出発式は緑苑コミュニティーセンターであり、隊員は市防犯協会連合会から提供を受けた緑色の帽子と腕章を身につけ、さっそく地域を隈なく意気揚々と行進しました。(12/26日中日新聞岐阜版記事一部抜粋)

そもそもの発端は「昔は地元の公園を借り、よく練習をさせてもらった。ソフトは引退したが、防犯活動で地域に恩返ししたい」という意気ごみからです。
 
各務原警察署への通報は TEL 各務原 (058)-383-0110(代)

各務原市の戦争遺跡!

2006年12月24日 21時18分57秒 | Weblog
各務原市は戦時中、軍需工場、軍需施設など多く有していました。
現在、当時の戦争遺跡が数多く残っています。
那加地区で4箇所、蘇原地区で5箇所、鵜沼地区で13箇所、稲羽地区で7箇所が確認されています。
(各務原市民族資料館の資料より抜粋。平成17年3月改訂)

サークルのメンバーと現場に赴き確認した一部をブログUPしてみました。
戦争遺跡を風化させるのではなく、今後、二度と戦争が起きないよう願ってやまない気持ちからです。

各務原市の戦争遺跡
矢熊山の地下壕。 所在地 前渡東町 矢熊山

矢熊山南東に掘られた地下壕。
蒲鉾型の間口19m・奥行き29m・高さ7mの壕で、戦闘機三機が修理可能な大きさであったといわれています。
この壕は朝鮮人労務者によって掘られたもので、地下整備工場になる予定でしたが未完成のまま終戦を迎えています。
所在地 鵜沼朝日町5丁目 渡辺秀夫氏宅

昭和19年頃に立てられた御真影奉安所跡で、当時は天皇・皇后両陛下の写真が安置されていました。
この御真影奉安所は、半地下式で、当時は土で饅頭型におおわれていたといいます。
現在はコンクリートの枠と出入り口が残っています。
陸軍航空整備学校御真影奉安所跡
高射砲陣地陣営具庫所在地 航空自衛隊岐阜基地内 鵜沼三ツ池町6丁目

昭和20年当時、各務原飛行場南東隅にあった高射砲第百二十五連隊大十二中隊陣地の陣営具庫。陣営具庫は四方がコンクリート壁の穴倉式で窓は無く屋根の部分を覆った蓋を空けて上から出入りできるようになっていました。
中には陣営具のほか、多くの官給品が収納されていました。
所在地 鵜沼朝日町1丁目

戦時中、三ツ池と前渡を結ぶ県道の上に、各務原中飛行場と東飛行場とをつなぐ誘導路を建設するため、このトンネルが作られました。
このトンネルの上が飛行機の誘導路となっていました。
誘導路トンネル
岐阜陸軍航空整備学校跡記念塔所在地 鵜沼朝日町5丁目 朝日稲荷神社内

昭和42年11月3日岐阜陸軍航空整備学校跡に建立された記念塔。
岐阜陸軍航空学校とは航空機整備員のの大量養成機関で、昭和18年3月に旧飛行第二戦隊跡地に開校しました。。
この記念塔は当時を偲んで岐整会の有志により建立されたものです。
鵜沼朝日町5丁目

飛行第二連隊医務室前にあったコンクリート製の薬品庫で、入り口には鉄の扉がついていました。
現在は農機具庫として使われています。
飛行第二連隊薬品庫跡二棟

「歴史街道」を歩いて(細久手から御嵩宿まで)⑨

2006年12月21日 17時22分39秒 | Weblog
サークルのメンバーとともJR瑞浪駅からタクシーで中山道平岩辻へ向かいました。
平岩辻から出発して御嵩宿に到着する10KM程度の道程でしたが 
下り坂が多く、道幅も広く整備されていましたので比較的楽に歩くことができました。

途中、他にも津屋薬師堂、諸之木峠展望台、一呑の清水、安藤広重浮世絵モデルの地、謡坂の石畳など多くの遺跡がありましたが思いついたまま掲載しました。
帰りは名鉄御嵩駅より帰途に着きました。




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平岩の秋葉坂三尊


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鴻之巣1里塚


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耳神社


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和泉式部廟所
(フルスクリーンですのでクリックしてね。)


通貨としての百円紙幣(有効な銀行券)

2006年12月13日 08時44分27秒 | Weblog

       百円券(76×148mm)
       肖像:板垣退助
       発行開始日:昭和28年12月1日
       支払い停止日:昭和49年8月1日

先日、あるお寿司屋さんで昼食をとり支払いを済ませるためにレジに行ったところ
先客が目の前で千円札のほかに百円紙幣を2枚をだして支払いをしているのを見ました。

私はその時、最近は見かけなくなった紙幣だなあと思い手にしたくなり、店員さんにその旨を話したところ快く承諾していただき、支払い代金のお釣りとしてGETしました。
内心ヤッターという気持ちで一杯でした。

ちなみに現在発行されている銀行券は1万円券、5千円券、二千円券、千円券があり、すでに支払いが停止されているが有効な銀行券は1万円券、5千円券、千円券、5百円券、百円券、50円券、10円券、5円券、1円券などあります。

それで、聖徳太子像の1万円券、5千円券、伊藤博文像の千円券、岩倉具視像の5百円券、板垣退助像の百円券などはタンスの引き出しなどに隠されているかもしれないので、1度確かめてみては如何でしょうか。


みんなの学校 「いま」 「むかし」1-②

2006年12月10日 09時15分17秒 | Weblog
2.勉強の移り変わり

①教科書のうつりかわり

明治5年に学校が出来ると教科書もつくられはじめました。
明治時代の終わりには国が教科書をつくるようになり、その教科書の表紙には「文部省」と書かれていました。
教科書は無料でなかったので、ふつうは「おさがり」をもらって使っていました。



昭和20年8月に戦争は終わりましたが、教科書はまだ出来ていなっかたため、この年は戦時中の教科書がつかわれました。
昭和21年には新しい教科書ができましたが、紙の質は悪く、うすい教科書でした。
今は、教科書会社が国の検査を受けて、教科書を発行しています。
その教科書を無料でもらっています。

②通知表のうつりかわり

明治の中ごろには通知表はすでにあり、初めは「大試験成績」という名前でテストの点数を記入したものでした。
明治30年代になるとテストだけでなく、学習態度や生活の様子も評価されるようになり、名前も通知簿、通信表、通告書、通知票など時代によって変わりました。

評定は「甲、乙、丙、丁」の4段階「秀,優、良,可、不可」「5、4、3、2、1、」などの5段階、時期によっては10段階などありました。
今は「よい、ふつう、もうすこし」の3段階で、名前も「こどものすがた」となっています。

③授業の様子のうつりかわり

授業の様子も先生が教える授業から、子供たちが進んで学ぶ授業に変わっています。

3.勉強道具のうつりかわり

明治時代のはじめ、鉛筆は貴重だったので「石版」「石筆」が使われました。
鉛筆が主役になるのは昭和になってからのことです。



4.楽しみのうつりかわり

昔はテレビもパソコンもありませんでした。 でも昔の子供たちは沢山楽しみがありました。
何よりも友達と遊ぶことが一番のたのしみでした。
放課後は急いで家に帰り、鬼ごっこ・野球・メンコ・ゴムとびなど、友達と日が暮れるまで遊びました。



(各務原市歴史民族資料館のパンフレットより抜粋)

いま、教育問題が大きな社会問題となっているこの時期,タイムリーな「みんなの学校」「いま」「むかし」の企画展を開催された方々に賛辞を送りたい。

みんなの学校 「いま」 &「むかし」1-①

2006年12月09日 08時07分17秒 | Weblog

各務原市川島松倉町にある川島会館で催されていました「みんなの学校」という企画展を見てまいりました。

学校の始まりから現在に至る変遷を四つの区分に分けて簡明に説明されていました。  
1.学校の移り変わり
2.勉強の移り変わり
3.勉強道具の移り変わり
4.楽しみの移り変わり  など物品や写真を添えて説明されていました。 

1.学校の移り変わり
江戸時代の「寺子屋」と呼ばれる学校のようなものがあり、お坊さんが村の子供を集め読み・書き・算盤を教えていました。

①学校が出来たのは明治5年のことです。 明治6年には各務原市内にも7つの学校が出来ました。
洗心舎(今の那加第一小学校)、和親舎(今の蘇原第一小学校)   
、三省義校(今の各務小学校)、新々義校(今の鵜沼第一小学校)、
不小学校(今の稲羽東小学校)、敬恪義校(今の稲羽西小学校)、
博文義校(今の川島小学校)、

その後昭和15年に那加第二尋常高等学校(今の那加第二小学校)
戦後になって昭和24年鵜沼第二小学校が独立(鵜沼三ツ池分教場)
昭和26年那加第三小学校開設

昭和40年代後半から鵜沼地区を中心に団地ができ昭和47年蘇原第二小学校
昭和49年鵜沼第三小学校・昭和51年緑苑小学校。尾崎小学校、52年八木山小学校
53年中央小学校、59年 陵南小学校が次々に誕生しました。

②今のような6・3制の義務教育がスタートしたのが戦後の昭和22年です。
以前は土曜日も授業がありましたが平成4年から週5日制(土曜は休み)がスタートとなりました。
行事も昭和8年白虎隊の演技(鵜沼第一小学校)、昭和32年綱引き(那加第一小学校)
昭和25年児童による学芸会(鵜沼第二小学校)など移り変わってきています。(歴史民族資料館のパンフレットより抜粋)