最近ほとんど読んでいないが、私はSFブーム(知っている人いるかなあ)になる前からSF小説を読んでいたようなSF少年だった。ようするに空想や妄想が好きな性質である。
家づくりにあたってもその性質による影響があらわれているように思う。
普通、「SF好き」から想像すると、ハイテク技術を導入した最先端な家を追求するように思うかもしれない。しかし、結果をみればそうなっていない。
自然素材の多用、手刻みの家になり、およそ未来的とはいえない。
ではSF好き思考のなにが影響しているかというと、生物としての人間の姿を想像したことである。
SF小説には様々な知的生命(宇宙人や未来人)が登場する。
そのひとつの類型は、筋力が乏しそうなほっそりした身体におおきめな頭が乗っているという姿。体毛もなく、性別もわかりにくい。
技術の発達で肉体労働する必要がなくなる一方、頭脳労働の比重が高まり、思考の邪魔になるようなストレスを排除する環境整備を推し進める。そうした状況で何百世代も続いた結果として、そんな姿になった、という想定である。
むろん、人間が想像する宇宙人・未来人の姿はそれだけではない。幅広いパターンがある。
マッチョな宇宙人だっている。それは前述の宇宙人とはまったく違うシチュエーションでの進化の姿である。進化の方向には様々なバリエーションがあるということで、現時点でどうなると断定できるものでもない。
ただ、先日のエントリで紹介したように、現代の子供の基礎体力が低下している事実を知れば、地球人も「ひよわで頭でっかち」に進化するという方向性がなんとなく現実味を帯びているような気がしてくる。
想像力を働かせると、テクノロジーが発達すれば身体的負荷はどこまでも減らすことが可能なことが見えてくる。
温湿度を完全にコントロールし、会社・工場での単純作業ばかりか、調理、掃除、洗濯などの家事まで完全自動化することだってできる。現在はできなくとも、それが可能になる時代は来る。食事の摂取だって、自分の手を動かさなくともできるようになるかもしれない。
そこまでいけば、前述の宇宙人の姿も説得力を持ってくる。
その方向でさらに進化した宇宙人の姿のパターンとしては、もはや脳だけが水槽のようなものに浸かっているなんてものがある。
このような想定はおおざっぱな要素・条件から導き出した仮定・仮説に過ぎず、科学的に論証するにはもっとさまざまな要素・条件を考慮する必要があるのは自分でもわかっているつもり。
それでも人類の歴史を振り返れば、現代の様々なモノの進化スピードは速すぎるように思う。スピードを出しすぎれば事故が起きやすくなる道理で、もう少しゆっくりいけばいいとも思っている。
環境を完璧に制御することがもたらす進化の一形態をちょっぴり想像すると、コントローラブルな家の最高峰を目指すような流れには乗らなくてもいいよなあ、と考えた。「コントロールはほどほどでいいや」と…。
もちろん家が100年持ったとしても、その程度の年数では人間の生物的進化に大きな影響を与えるものではない。私が個人的な思惑で自分の代でそっち方向に舵を切るのをためらったということにすぎない。このような決断は、歴史や進化という大きなくくりでみれば、あってもなくてもいい、けしつぶ以下の影響力しかないだろう。
(ちょっと変わった一個人の選択が、未来へのバタフライ効果をもたらすかもしれないなどという妄想をして安上がりに楽しんでいる面もあるけれど…)
SF的思考はもうひとつある。
「未来世界において、価値があるものは何か」を想像した。
未来には現代より優れたハイテク製品があふれていることだろう。しかしハイテクは陳腐化しやすい。
最先端のテクノロジー製品の、最先端としての寿命はよくて数年だろう。最先端でなくなった時点で陳腐化が始まり、古臭いものとして扱われるようになっていく。それが住宅であってもハイテク面に特長が強く出ている住宅ならばその価値判断の流れに飲み込まれる。
その点、ローテクは最初から最先端を目指していないゆえに陳腐化しにくい。職人の技術は、場合により時代をも超越する。
だからハイテクさを競うような思想での家づくりはしなかった。やがて忘れ去られそうな伝統的技術や思想を、忘れ去られる前に導入しておくほうが面白いと考えた。
手刻みの木組みの家なんて現時点でかなり希少化している。木組みだけ見れば我が家のはすでに陳腐化を免れているともいえる。
また自然素材を多用したのは、化学的工業製品は次々と出てくるゆえに陳腐化スピードが速いと考えたためといえなくもない。ほかには、壁はしっくいの塗り壁にし、日本家屋の伝統的な縁側というパーツも採用した。
未来の風景を現実的に想像したら、逆に未来的でないもの、ローテクな製品や技術が一層価値を増しているのではないだろうか、と思ったわけである。
さて、
賢明な方は意識できているだろうが、今回のエントリはかなり「建ててしまった人バイアス」の存在に注意したほうがいい内容である。うっかりうなずいてしまった人はリテラシー力を磨くように(笑)。
別の想像、例えば未来に、文明が滅びかねないほどの戦争や天変地異が起きたならば、家どころか街自体が壊滅するだろうし、人類のテクノロジーは一気に後退して、もしハイテクなものが残っていたらそれがとても貴重なものになる未来というのもありうる。
周囲のハイテク化が進みすぎて、ローテク品を使うことが相対的に大きなハンディキャップになることもある。
ただ、「こうした空想・妄想すら楽しめるのが家づくりというプロジェクトなのである」ということは伝えておきたい。
お金かけているんだから、いろいろなことで楽しまないと損なのである。これホント(笑)。
家づくりにあたってもその性質による影響があらわれているように思う。
普通、「SF好き」から想像すると、ハイテク技術を導入した最先端な家を追求するように思うかもしれない。しかし、結果をみればそうなっていない。
自然素材の多用、手刻みの家になり、およそ未来的とはいえない。
ではSF好き思考のなにが影響しているかというと、生物としての人間の姿を想像したことである。
SF小説には様々な知的生命(宇宙人や未来人)が登場する。
そのひとつの類型は、筋力が乏しそうなほっそりした身体におおきめな頭が乗っているという姿。体毛もなく、性別もわかりにくい。
技術の発達で肉体労働する必要がなくなる一方、頭脳労働の比重が高まり、思考の邪魔になるようなストレスを排除する環境整備を推し進める。そうした状況で何百世代も続いた結果として、そんな姿になった、という想定である。
むろん、人間が想像する宇宙人・未来人の姿はそれだけではない。幅広いパターンがある。
マッチョな宇宙人だっている。それは前述の宇宙人とはまったく違うシチュエーションでの進化の姿である。進化の方向には様々なバリエーションがあるということで、現時点でどうなると断定できるものでもない。
ただ、先日のエントリで紹介したように、現代の子供の基礎体力が低下している事実を知れば、地球人も「ひよわで頭でっかち」に進化するという方向性がなんとなく現実味を帯びているような気がしてくる。
想像力を働かせると、テクノロジーが発達すれば身体的負荷はどこまでも減らすことが可能なことが見えてくる。
温湿度を完全にコントロールし、会社・工場での単純作業ばかりか、調理、掃除、洗濯などの家事まで完全自動化することだってできる。現在はできなくとも、それが可能になる時代は来る。食事の摂取だって、自分の手を動かさなくともできるようになるかもしれない。
そこまでいけば、前述の宇宙人の姿も説得力を持ってくる。
その方向でさらに進化した宇宙人の姿のパターンとしては、もはや脳だけが水槽のようなものに浸かっているなんてものがある。
このような想定はおおざっぱな要素・条件から導き出した仮定・仮説に過ぎず、科学的に論証するにはもっとさまざまな要素・条件を考慮する必要があるのは自分でもわかっているつもり。
それでも人類の歴史を振り返れば、現代の様々なモノの進化スピードは速すぎるように思う。スピードを出しすぎれば事故が起きやすくなる道理で、もう少しゆっくりいけばいいとも思っている。
環境を完璧に制御することがもたらす進化の一形態をちょっぴり想像すると、コントローラブルな家の最高峰を目指すような流れには乗らなくてもいいよなあ、と考えた。「コントロールはほどほどでいいや」と…。
もちろん家が100年持ったとしても、その程度の年数では人間の生物的進化に大きな影響を与えるものではない。私が個人的な思惑で自分の代でそっち方向に舵を切るのをためらったということにすぎない。このような決断は、歴史や進化という大きなくくりでみれば、あってもなくてもいい、けしつぶ以下の影響力しかないだろう。
(ちょっと変わった一個人の選択が、未来へのバタフライ効果をもたらすかもしれないなどという妄想をして安上がりに楽しんでいる面もあるけれど…)
SF的思考はもうひとつある。
「未来世界において、価値があるものは何か」を想像した。
未来には現代より優れたハイテク製品があふれていることだろう。しかしハイテクは陳腐化しやすい。
最先端のテクノロジー製品の、最先端としての寿命はよくて数年だろう。最先端でなくなった時点で陳腐化が始まり、古臭いものとして扱われるようになっていく。それが住宅であってもハイテク面に特長が強く出ている住宅ならばその価値判断の流れに飲み込まれる。
その点、ローテクは最初から最先端を目指していないゆえに陳腐化しにくい。職人の技術は、場合により時代をも超越する。
だからハイテクさを競うような思想での家づくりはしなかった。やがて忘れ去られそうな伝統的技術や思想を、忘れ去られる前に導入しておくほうが面白いと考えた。
手刻みの木組みの家なんて現時点でかなり希少化している。木組みだけ見れば我が家のはすでに陳腐化を免れているともいえる。
また自然素材を多用したのは、化学的工業製品は次々と出てくるゆえに陳腐化スピードが速いと考えたためといえなくもない。ほかには、壁はしっくいの塗り壁にし、日本家屋の伝統的な縁側というパーツも採用した。
未来の風景を現実的に想像したら、逆に未来的でないもの、ローテクな製品や技術が一層価値を増しているのではないだろうか、と思ったわけである。
さて、
賢明な方は意識できているだろうが、今回のエントリはかなり「建ててしまった人バイアス」の存在に注意したほうがいい内容である。うっかりうなずいてしまった人はリテラシー力を磨くように(笑)。
別の想像、例えば未来に、文明が滅びかねないほどの戦争や天変地異が起きたならば、家どころか街自体が壊滅するだろうし、人類のテクノロジーは一気に後退して、もしハイテクなものが残っていたらそれがとても貴重なものになる未来というのもありうる。
周囲のハイテク化が進みすぎて、ローテク品を使うことが相対的に大きなハンディキャップになることもある。
ただ、「こうした空想・妄想すら楽しめるのが家づくりというプロジェクトなのである」ということは伝えておきたい。
お金かけているんだから、いろいろなことで楽しまないと損なのである。これホント(笑)。