家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

1/11の現場記録

2005年01月11日 | 建築現場記録
 仕事を休み、現場へ。
 妻の大型タンスを搬入するためだ。階段の踊り場の棚を設置する前に運び込む手はずにしていた。
 妻は仕事を休めず、義父に協力をあおいで、父、母、私の大人4人で運び込んだ。ご近所の倉庫からなので、業者を使う予定はなかった。移動距離は近かったものの、階段をあげるのには結構苦労した。タンスのサイズが大きく、階段をそろりそろりと動かさないと壁を傷つけてしまう。
 一汗かいてなんとか横にぶつけることもなく運び終わった。
 階段の上り具合は、14段効果のせいか、ゆるやかさを感じた。

 現場の進捗というと、階段の他は、親夫婦のクローゼットの枠が取り付けられたのがわかった。そのほか、1階の内壁のボード張りにとりかかりはじめていたのと、周囲の板金工事にやや進捗が確認できた。

伊豆石

2005年01月09日 | 我が家のスペシャルな仕様
 玄関ポーチと玄関土間には伊豆石を敷く。
 建築家の提案によるもので、恥ずかしながら、私はそれまで伊豆石というものの存在は知らなかった。
 伊豆石とは正確には伊豆若草石というもので、温泉などの風呂に使われることが多い。水に濡れても滑りにくく、濡れると緑色が濃くなるのが特徴だ。
若草石という名前が示すように淡いうす緑色をしている。落ち着いたアプローチになると期待している。

(伊豆石についての詳細は東海採石興業 http://homepage3.nifty.com/wakakusa/ のHPで)

家族と道具の関係

2005年01月07日 | 家について思ったことなど
やたらと道具の多いことでは反省せざるをえない家族の一員としてトラックバック。

lala33さんのBLOG「200万で家をつくろうと思った。」のエントリ「地球家族ー30か国のふつうの暮らし(生活に必要なモノって?)」より。
もしかしたら、モノが増えるということは
逆に家族間の繋がりがどんどん離れていくことじゃないかと
いうこと。(日本だけかもしれないけど)
モノに時間がとられて
(取得する為に働く時間、動作させる時間、メンテナンス時間)
その為に
家族との会話、ふれあいがなくなっていくのでは
その為に
少子高齢化も進んだんじゃないかとうがった考え方までに及びました。



 存在する意味は認めつつ、家族を離す効果をもたらす道具はたしかにある。それは趣味関係に多い。まず、一人でやるゲーム機器。それから外部の人間相手に使うゴルフ道具なんかもそうかも。
パソコンも家族を離しがちだ。
 携帯電話もそれっぽい。外出時は「つなぐ道具」だろうが、対家族で使う機会は少ないし、家の中にいるときはむしろ離す道具と化す。
 テレビはどうか? 最近は「離す道具」化が著しい。一家に1台の時はむしろ「つなぐ道具」だったかもしれない。

 まてまて、つなぐ道具も無視できないように思うので、ちょっと考えてみたい。
 ちゃぶ台、座卓、ダイニングテーブルはつなぐ道具のように思う。ただし、離す道具のパワーにいとも簡単に負けそうだ。
 コタツはつなぐだろう、と考えたが、最近の全館暖房住宅化の中では存在そのものが危うくなってきている。
 有望なのは、焼肉を焼くホットプレート、そして鍋物用の鍋。つなぎそうだと思うのは総員食い意地の張った我が家だけか。

 よーく考えると、そのほか我が家の道具の中で、つなぐものを一つ(一式)見つけた。
 それは、餅つき道具である。臼と杵、餅箱、のし台、蒸篭・・・。
 我が家は農家でもないのに餅を自分達の手でつく。機械でついた餅より断然うまいと思っているからで、手の込んだ料理的行為というか、道楽というか。
 餅をつくには、もち米をふかし、つき手と返し手がついて、ついた餅を整える作業がある。最低2人いればできるが、人数が多いほど効率的に作業できる。それで基本的には総出でやっている。
 これなら、つなぐ道具といえそうだ。
だけど悲しいかな全然、一般的な道具じゃない。

紹介本をまだ読んでない段階で申し訳ないと思いつつ、私なりの、とりあえずのまとめのようなもの。
道具が家族を離すのは、道具が便利になって一人で一つの作業を完結できるようになり、かつパーソナル化しているためであろう。ただ、食関連の道具にはつなぐ道具が残っていそう。また、日本においては家族の共同作業自体がなくなって、家族をつなぐ道具が家の中から姿を消してきている。


「建てずに死ねるか! 建築家住宅」

2005年01月06日 | 家について思ったことなど
建築家と一口に言っても、その信条・形態・仕事ぶりは様々だ。
一方、建築家を探す施主の方も要望が多様である。そのため、ミスマッチが時に悲劇を呼ぶ。
ゆえに依頼先選びは慎重にやらなければならないが、困ったことに建築に関して素人の施主は、自分にあった建築家を選ぶ確たる自信はない。まさに暗中模索といった感がある。
 施主にとってのそんな暗闇に薄明かりをもたらす本がある。
 それが、「建てずに死ねるか! 建築家住宅」(大島健二著 エクスナレッジ社)である。

もっとも、この本を読んだ時は、逆に徒手空拳で建築家探しをするリスクを思い知らされた。
私にとっては恐ろしい建築家、「家」に関する考え方が相当な角度で違っている建築家、スキルが不安な建築家がごろごろいる。暗闇で全然見えない怖さもあるが、うっすら見えるゆえに怖い、ということもあるのである。
前進するのであればリスクは見えた方がいい。リスクを避ける手段を考えることができるからだ。そういう意味で有用な本である。そしてリスクに抗しきれない人は違う手段で家を建てることになるのだろう。

 この本では、「絶対に『建築家』に頼んではいけない人」なる章がある。そこを読んで、幸いにして私はおおまかに「頼んでもいい人」の範疇にあるらしいと判断できた。建築家を探すという自分の行為に変な安心感も得た。

 建築家をいろいろなジャンルに区分けしているのが、この本のいいところ。しかし・・・。
建築家を決めた後、どのあたりにカテゴライズされるのか、改めて見てみたが、なんとなくここかなと思えるジャンルはあるものの、しっくりこない。経歴パターンもかなり違う。
それだけ建築家の分類は難しいのだ。「薄明かり」という認識をそのときにしたのだった。

私はこの本、税金を払って読んだ(図書館で借りた)のだが、蔵書にしてもおかしくはないくらいためになった。未読の施主のために目次の大見出しのみ以下に紹介。
・これが「建築家住宅」だ!
・「建築家」とは何ぞや?
・建築家住宅の謎
・「建築家」にもいろいろいる
・「建築家」はどこにいる?
・建築雑誌の読み方
・絶対に「建築家」に頼んではいけない人
・建築家、その使用上の注意
・建築家住宅に住む覚悟
・「建築家住宅」の未来


「気配(けはい)」の考え方

2005年01月05日 | 我が家のスペシャルな仕様
 「けはいが感じられる家」というコンセプトを聞くようになって久しい。
その割に、「気配(けはい)」の捕らえ方が各様で、混乱している感がある。

ある人はいう。
「けはいを重視していつでも見えるようにしたら、四六時中、監視されているようで子供も息がつまるのではないか」
これは、「けはい」を曲解している。

けはいを感じるというのは、目に見える位置にいるというのとは違う。目に見えるのは、けはいを感じているのではなくて、実際にそこにいることを認識しているということだ。
「けはいの認識」と「実物の認識」は同一に考えるとミスリードすると思う。

けはいとは、そもそもおぼろげなものである。
「何をしているかまではわからないけど、そこに居ることはわかる」というような状態でも、けはいを感じているといえる。
姿は見えなくても、部屋の光が揺れたり、音が聞こえたりするだけでそれは「けはい」だ。においを感じてもそれは「けはい」である。
 つまり、けはいは実物を目にするのではなく、存在を感じるということだ。監視する・されるという構図とはそぐわない。

家づくりで考えることは、けはいの濃淡をどのようにつけるかということだろう。けはいの濃淡を深く考えずに間取りを考えることが、「けはいが感じられる家」に対する誤解を生んでいるような気がする。
例えば、ドアの一部をスリガラスにして光が漏れるようにすれば、その部屋の人の存在を感知できる。逆に、何の開口もないドアで防音性能が高い部屋にしたら、ドアを開け閉めした瞬間の音でしか、人間のけはいは感じられなくなる。濃淡をつけることは可能だ。

ウチの場合でいうと、子供部屋と共有スペースをつなぐ欄間が光と音を通し、感度の高い「けはい感知装置」となりそう。一方、両親達の部屋には廊下側の壁の一部にスリガラスがはめ込まれ、緩やかな気配を外に漏らす。
こうしたことを図面から読み取った時、建築家の仕事はデザインだけではないことがわかる。いや、むしろ、こうした機能が暮らしの上での機能美をかもしだすかもしれない。またしても設計というものの面白さを感じさせられるのだった。


建てたのは誰か

2005年01月04日 | 家について思ったことなど
歴史の問題。
「安土城を建てたのは誰か」

入試にこの設問が出てきたら「織田信長」と答えなければ不正解である。
なぞなぞとか、とんちで、「大工さん」なんて答えもあるが、よく考えればそれも間違いではない。
 建設当時、大工の仲間うちではきっと、「どこそこの棟梁が建てた」なんて会話をしていたに違いないのだ。

 誰が建てたかということは、それぞれが所属するカテゴリでそれぞれの言い方がなされていいと思う。
工務店業界での話だったら、「あの家は□□建設が建てた」と言っていいし、建築家の集まりでは「○○さん(建築家の名前)が建てた」だろうし、施主の親戚・知人筋では「◇◇君(施主の名前)が建てた」になる。

 建築メディアで建築家の名前が目立っているのを見て、「自分の家を他人が建てたように言われるのがイヤ」などと言う人がいるが、それは建築メディアなのだから、あたりまえではなかろうか。より専門性の高いメディアほどそうなりやすい。

もし、どうしても自分が建てたと広く一般に知らしめたいのであれば、自分が有名人になるべきなのだ。織田信長まではいかなくとも、長嶋茂雄くらいになれば、きっと世間一般にも「あれは長嶋が建てた家だよ」って言われるだろう。
まあ、有名人でなくとも、自分の身近な世界においては自分が建てたということをわかってもらえるはず。 
 私は、少なくとも知人、友人、親戚の間では、私が建てたという扱いはしてもらえると思っている。それでいい。

 むしろ、建築家も、工務店も、それぞれの住む世界で「自分が建てた」と胸を張れるような家になってほしい。業界内でそう言えるということは、誇りを持って取り組んだ仕事の証でもあるからだ。

私は希望して「棟札」を屋根裏に入れてもらった。施主、設計者、施工者の名前が書いてある。関わったそれぞれが誇りを持てる家になってほしいという願いもこめたつもりだ。


施主の心構え

2005年01月01日 | 家について思ったことなど
 口幅ったいが、私は「施主のあり方」のようなものを意識している。
 特に注文住宅で、「お客さん」のような姿勢でいると、家づくりの楽しさは半減するし、被害者意識も芽生えやすくなるのではないかと私は思っている。

 家づくりというのはン千万円を投下したプロジェクトだ。そのプロジェクトの最高意思決定者は誰あろう施主である。会社で言えば創業社長かCEO(最高経営責任者)に相当する権限を持つ。赤瀬川原平氏は著書「我輩は施主である」で、施主を「国王」に例えていた。プロジェクトがうまくいかなかった場合、施主にだって責任があるのだ。うまくいったなら、施主の功績でもあるのだ。
 私は、社長が会社を経営するのと同じような心構えで、施主は家づくりに臨むべきだと考える。ダメな社長の会社がダメになるリスクが高いように、いい施主でないといい家にならないリスクが高まると思っているからだ。

 施主のHPなどで、施工途中の細かなミスや行き違いを被害者然として語っている例を見かけることがある。欠陥住宅がこれだけ騒がれている時代なので気持ちはわかるが、そういうのを見ると、もうちょっと別の書き方をした方がいいのではないかと思うことがある。
 なぜなら、施工者は施主が選んだプロジェクトのスタッフなのである。途中でうまくいってないことを世間に吹聴するということは、社長がプロジェクトメンバーの社員を公衆の面前で、さらしものにしているのに近い行為のように見えるのだ。
 記録的な意味合いでHPに出すのなら、「チェックを入れた部分」として紹介し、「次回、修正・対処するよう指摘した」などと、淡々とした説明文で十分ではなかろうか。それをいきなり、「ショック。信頼していたのに・・・」などと書かれたら、悪気のない施工者は相当滅入ると思う。
自分の仕事を公衆の面前で社長にそんなふうに評価されたらどのように思うだろうか? 部下を信頼していないのに加え、おろおろしている印象を与え、二重の意味でよろしくない。プロジェクトが終了していない段階でこれをやったら、さらに事態を悪くする。
 
 家づくりで、施主が施工者のダメさ加減を嘆いていたって事態はいっこうによくはならない。 もし施工者の腕が未熟、という現実があったとして、その原因を探ると、施主が施工費を大幅に値切ったことにあったとしたら、それは人ごとではない。施主側に、資金と人材の配分をミスした事業者としての責任部分もあるはずだ。

 もっとも最近は、ハウスメーカーという巨大な住宅の供給者がシステマチックな家づくりを提供するようになったので、施主サイドは自然にお客さん的視点に馴染まされてしまっている。
だから、いい家にしようと意識すると、事業統括者としてではなく、厳しい消費者のような対応になってしまうのかもしれない。

 幸いにして私は、設計事務所と工務店と、手作り感のある家づくりを進める形式を選択できた。当事者としての施主の立場を満喫しない手はないように思っている。
自分の事業である、と考えているからこそ面白いということはあるはずだ。「国王」赤瀬川氏は家づくりを思い切り楽しんでいた。

 我が家は竣工にだんだんと近づいている。
引き続き、楽しく前向きに家づくりに臨みたい。


謹賀新年

2005年01月01日 | その他
あけましておめでとうございます。

 家づくりとは、相当にひとりよがりな作業でもあると思うこのごろです。
 弊ブログの「あーだこーだ」に耳を傾けていただいた方、ご意見をお寄せしていただいた方に感謝しております。

 家の竣工まであと少し(?)。本年もよろしくおねがいいたします。