「けはいが感じられる家」というコンセプトを聞くようになって久しい。
その割に、「気配(けはい)」の捕らえ方が各様で、混乱している感がある。
ある人はいう。
「けはいを重視していつでも見えるようにしたら、四六時中、監視されているようで子供も息がつまるのではないか」
これは、「けはい」を曲解している。
けはいを感じるというのは、目に見える位置にいるというのとは違う。目に見えるのは、けはいを感じているのではなくて、実際にそこにいることを認識しているということだ。
「けはいの認識」と「実物の認識」は同一に考えるとミスリードすると思う。
けはいとは、そもそもおぼろげなものである。
「何をしているかまではわからないけど、そこに居ることはわかる」というような状態でも、けはいを感じているといえる。
姿は見えなくても、部屋の光が揺れたり、音が聞こえたりするだけでそれは「けはい」だ。においを感じてもそれは「けはい」である。
つまり、けはいは実物を目にするのではなく、存在を感じるということだ。監視する・されるという構図とはそぐわない。
家づくりで考えることは、けはいの濃淡をどのようにつけるかということだろう。けはいの濃淡を深く考えずに間取りを考えることが、「けはいが感じられる家」に対する誤解を生んでいるような気がする。
例えば、ドアの一部をスリガラスにして光が漏れるようにすれば、その部屋の人の存在を感知できる。逆に、何の開口もないドアで防音性能が高い部屋にしたら、ドアを開け閉めした瞬間の音でしか、人間のけはいは感じられなくなる。濃淡をつけることは可能だ。
ウチの場合でいうと、子供部屋と共有スペースをつなぐ欄間が光と音を通し、感度の高い「けはい感知装置」となりそう。一方、両親達の部屋には廊下側の壁の一部にスリガラスがはめ込まれ、緩やかな気配を外に漏らす。
こうしたことを図面から読み取った時、建築家の仕事はデザインだけではないことがわかる。いや、むしろ、こうした機能が暮らしの上での機能美をかもしだすかもしれない。またしても設計というものの面白さを感じさせられるのだった。
その割に、「気配(けはい)」の捕らえ方が各様で、混乱している感がある。
ある人はいう。
「けはいを重視していつでも見えるようにしたら、四六時中、監視されているようで子供も息がつまるのではないか」
これは、「けはい」を曲解している。
けはいを感じるというのは、目に見える位置にいるというのとは違う。目に見えるのは、けはいを感じているのではなくて、実際にそこにいることを認識しているということだ。
「けはいの認識」と「実物の認識」は同一に考えるとミスリードすると思う。
けはいとは、そもそもおぼろげなものである。
「何をしているかまではわからないけど、そこに居ることはわかる」というような状態でも、けはいを感じているといえる。
姿は見えなくても、部屋の光が揺れたり、音が聞こえたりするだけでそれは「けはい」だ。においを感じてもそれは「けはい」である。
つまり、けはいは実物を目にするのではなく、存在を感じるということだ。監視する・されるという構図とはそぐわない。
家づくりで考えることは、けはいの濃淡をどのようにつけるかということだろう。けはいの濃淡を深く考えずに間取りを考えることが、「けはいが感じられる家」に対する誤解を生んでいるような気がする。
例えば、ドアの一部をスリガラスにして光が漏れるようにすれば、その部屋の人の存在を感知できる。逆に、何の開口もないドアで防音性能が高い部屋にしたら、ドアを開け閉めした瞬間の音でしか、人間のけはいは感じられなくなる。濃淡をつけることは可能だ。
ウチの場合でいうと、子供部屋と共有スペースをつなぐ欄間が光と音を通し、感度の高い「けはい感知装置」となりそう。一方、両親達の部屋には廊下側の壁の一部にスリガラスがはめ込まれ、緩やかな気配を外に漏らす。
こうしたことを図面から読み取った時、建築家の仕事はデザインだけではないことがわかる。いや、むしろ、こうした機能が暮らしの上での機能美をかもしだすかもしれない。またしても設計というものの面白さを感じさせられるのだった。