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家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

クリスマスリースの材料を集める

2007年11月24日 | 我が家のスペシャルな事情
 

今日は妻と一緒にクリスマスリースの材料集めに出かけた。
大きなマツボックリと、花のような形状をした実(名前はよく知らない)を拾ってきた。
これらがたくさん拾える穴場が近所の山にあるのだ。
来週あたり、子供達とリースづくりとなりそうだ。

鍋の日に思う

2007年11月07日 | 我が家のスペシャルな事情
11月7日は「鍋の日」。立冬にあたる日、ということで設定されたという。

我が家の今シーズンの「初なべ」は先週末。
寄せ鍋とキムチ鍋のダブル鍋。食い意地の張った我が家らしい鍋シーズンの始まりだった。

鍋はいい。
おいしくて温まるのはもちろんだが、コミュニケーションを生じさせる食べ物だというのがいい。
家族団らんにもってこいだ。それで心身ともに温まる。
これは温まるための「ソフト」(手段)であろう。
高性能なハード(家)だけでは、この温かさはもたらされない。快適環境を作り出すうえでの「ソフト」の重要性を意識せざるを得ない。
昔は、対「寒さ」においてハードが低性能でも、こうしたソフトの活用で補えていたのだろう。

今はハードが高性能になったが、その分「鍋」への渇望感は小さくなっていそうだ。
いまさらハードの性能を落とすようなことをする必要はないが、ソフトによって得られる温かさの重要性を忘れないようにしたいものだ。


関連エントリ
家族と道具の関係



進化の行き着く果て――SF的?家づくり

2007年10月26日 | 我が家のスペシャルな事情
最近ほとんど読んでいないが、私はSFブーム(知っている人いるかなあ)になる前からSF小説を読んでいたようなSF少年だった。ようするに空想や妄想が好きな性質である。

家づくりにあたってもその性質による影響があらわれているように思う。

普通、「SF好き」から想像すると、ハイテク技術を導入した最先端な家を追求するように思うかもしれない。しかし、結果をみればそうなっていない。
自然素材の多用手刻みの家になり、およそ未来的とはいえない。

ではSF好き思考のなにが影響しているかというと、生物としての人間の姿を想像したことである。

SF小説には様々な知的生命(宇宙人や未来人)が登場する。
そのひとつの類型は、筋力が乏しそうなほっそりした身体におおきめな頭が乗っているという姿。体毛もなく、性別もわかりにくい。
技術の発達で肉体労働する必要がなくなる一方、頭脳労働の比重が高まり、思考の邪魔になるようなストレスを排除する環境整備を推し進める。そうした状況で何百世代も続いた結果として、そんな姿になった、という想定である。
むろん、人間が想像する宇宙人・未来人の姿はそれだけではない。幅広いパターンがある。
マッチョな宇宙人だっている。それは前述の宇宙人とはまったく違うシチュエーションでの進化の姿である。進化の方向には様々なバリエーションがあるということで、現時点でどうなると断定できるものでもない。
ただ、先日のエントリで紹介したように、現代の子供の基礎体力が低下している事実を知れば、地球人も「ひよわで頭でっかち」に進化するという方向性がなんとなく現実味を帯びているような気がしてくる。

想像力を働かせると、テクノロジーが発達すれば身体的負荷はどこまでも減らすことが可能なことが見えてくる。
温湿度を完全にコントロールし、会社・工場での単純作業ばかりか、調理、掃除、洗濯などの家事まで完全自動化することだってできる。現在はできなくとも、それが可能になる時代は来る。食事の摂取だって、自分の手を動かさなくともできるようになるかもしれない。
そこまでいけば、前述の宇宙人の姿も説得力を持ってくる。
その方向でさらに進化した宇宙人の姿のパターンとしては、もはや脳だけが水槽のようなものに浸かっているなんてものがある。

このような想定はおおざっぱな要素・条件から導き出した仮定・仮説に過ぎず、科学的に論証するにはもっとさまざまな要素・条件を考慮する必要があるのは自分でもわかっているつもり。
それでも人類の歴史を振り返れば、現代の様々なモノの進化スピードは速すぎるように思う。スピードを出しすぎれば事故が起きやすくなる道理で、もう少しゆっくりいけばいいとも思っている。
環境を完璧に制御することがもたらす進化の一形態をちょっぴり想像すると、コントローラブルな家の最高峰を目指すような流れには乗らなくてもいいよなあ、と考えた。「コントロールはほどほどでいいや」と…。
もちろん家が100年持ったとしても、その程度の年数では人間の生物的進化に大きな影響を与えるものではない。私が個人的な思惑で自分の代でそっち方向に舵を切るのをためらったということにすぎない。このような決断は、歴史や進化という大きなくくりでみれば、あってもなくてもいい、けしつぶ以下の影響力しかないだろう。
(ちょっと変わった一個人の選択が、未来へのバタフライ効果をもたらすかもしれないなどという妄想をして安上がりに楽しんでいる面もあるけれど…)

SF的思考はもうひとつある。
「未来世界において、価値があるものは何か」を想像した。
未来には現代より優れたハイテク製品があふれていることだろう。しかしハイテクは陳腐化しやすい
最先端のテクノロジー製品の、最先端としての寿命はよくて数年だろう。最先端でなくなった時点で陳腐化が始まり、古臭いものとして扱われるようになっていく。それが住宅であってもハイテク面に特長が強く出ている住宅ならばその価値判断の流れに飲み込まれる。
その点、ローテクは最初から最先端を目指していないゆえに陳腐化しにくい。職人の技術は、場合により時代をも超越する。
だからハイテクさを競うような思想での家づくりはしなかった。やがて忘れ去られそうな伝統的技術や思想を、忘れ去られる前に導入しておくほうが面白いと考えた。
手刻みの木組みの家なんて現時点でかなり希少化している。木組みだけ見れば我が家のはすでに陳腐化を免れているともいえる。
また自然素材を多用したのは、化学的工業製品は次々と出てくるゆえに陳腐化スピードが速いと考えたためといえなくもない。ほかには、壁はしっくいの塗り壁にし、日本家屋の伝統的な縁側というパーツも採用した。
未来の風景を現実的に想像したら、逆に未来的でないもの、ローテクな製品や技術が一層価値を増しているのではないだろうか、と思ったわけである。

さて、
賢明な方は意識できているだろうが、今回のエントリはかなり「建ててしまった人バイアス」の存在に注意したほうがいい内容である。うっかりうなずいてしまった人はリテラシー力を磨くように(笑)。
別の想像、例えば未来に、文明が滅びかねないほどの戦争や天変地異が起きたならば、家どころか街自体が壊滅するだろうし、人類のテクノロジーは一気に後退して、もしハイテクなものが残っていたらそれがとても貴重なものになる未来というのもありうる。
周囲のハイテク化が進みすぎて、ローテク品を使うことが相対的に大きなハンディキャップになることもある。

ただ、「こうした空想・妄想すら楽しめるのが家づくりというプロジェクトなのである」ということは伝えておきたい。
お金かけているんだから、いろいろなことで楽しまないと損なのである。これホント(笑)。



ローテクな「家電の名品」

2007年08月24日 | 我が家のスペシャルな事情
こんなニュース↓が話題となった。
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扇風機の火災で2人死亡 三洋電機、70年に製造
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200708230326.html
三洋電機は二十三日、同社製の一九七〇年製造の扇風機から出火して火災が起き、東京都足立区の夫婦二人が死亡したと発表した。
 三洋は長期に使用した扇風機について、部品の劣化により発煙・発火の恐れがあるとして、三十年以上前に製造した扇風機の使用中止を呼び掛けている。
 同社は今回の事故原因について「経年劣化であり、品質不良ではない」として、最近相次ぐ携帯電話用電池などの欠陥事故とは違うと説明しているが、安全性について利用者への周知の在り方などが問われそうだ。
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これを欠陥というには酷というものだろう。
メーカーを責め立てるべきではない。

それはそれとして・・・
我が家の扇風機は三菱電機製で、40年以上は使っている。
今は山小屋に置いてあるため、稼働時間は短いが立派に現役である。
扇風機はこれまで数台使ってきたが、一番古いコイツの風きり音が一番優秀で、心なしか風もやさしく感じられる。このため我が家では「家電の名品」扱いしている。
いかに名品といえども、使用の限界は訪れる。こういう事件を教訓にすれば、使用をやめるべき時期かもしれない。
ただよくよく考えると山小屋では、この扇風機を、夏に使わない薪ストーブの上に置いている。ようするに、部屋の中でも防火仕様になっている場所にあるのだ。
気をつけながら自己責任でもう少し使わせてもらうとしよう。


今回の事件での教訓はもう一つある。
単純な構造のローテク製品は長持ちする、ということだ。
電化製品でなければもっとすごい。薪ストーブなどは乱暴に扱わなければ人間の寿命より長く使えそうに思う。
道楽で餅をつく我が家は、臼を100年使っている
こういう道具は古代から形がほとんど変わっていない。「構造」というのもおこがましい超ローテク品といえる。

ハイテク製品は総じてデリケートだ。
住宅もだんだんハイテク化してきているが、そういう場合はデリケートな機能や部分をメンテナンスしやすくしたり、リフォームしやすくしたり、取り替えやすくしたりしておいたほうがいいかもしれない。
その点、我が家はさほどハイテクでもないので、あんまり気にしていなかったりするのであるが…。

やせ我慢して楽しむ?

2007年08月14日 | 我が家のスペシャルな事情
暑い、暑すぎる。
ここ数日は、さすがに我が家でもエアコンの稼動率は上がっている。
夏の暑さを楽しむ」レベルを超えても、貧乏性の意地で少しでも稼働率を下げるための(?)川柳をひねってみた。


省エネと 言えば通せる やせ我慢

やせ我慢 しているはずが メタボ腹

大汗で 水分補給に 缶ビール

高額の 酒税を納める 猛暑かな



おそまつ。

お前の目は・・・――慣用句・ことわざと古屋

2007年04月23日 | 我が家のスペシャルな事情
 
写真は古屋の広縁の廊下板に開いた節穴である。

この節穴を真上から覗き込むと素通しの縁の下が見える。
同様の穴はもう一箇所あり、我が古屋がいかに気密性と縁遠いかということがわかる。

この節穴、ふさごうと思えばふさげるのだが、ふさぐ気になれない。
古屋の弱点であるだろうが、「味」でもあるのだ。無垢の材の証ともいえる。
そもそも基本的に低気密なのでこの程度は気にしていてもはじまらない。

ポジティブシンキングをさらにしてみよう。

いまどきの家だとこうした節穴にはめったなことでお目にかかれまい。
「『お前の目は節穴か』っていうときの『節穴』はこれだよ」って子供達に現物を見せて教えることができる。役に立たない「節穴」も逆説的に役に立つことがあるのである。

考えてみると、古屋は「縁の下」も昔のままの形だ。これで「縁の下の力持ち」もリアルに教えられる。

<他に教えられそうなこと>
「庇を貸して母屋をとられる」
「壁に耳あり障子に目あり」
「畳の上の水練」


ここまでくれば、あとは子供の国語の成績が上がるのを待つだけである。

飾り棚でセッション

2007年02月25日 | 我が家のスペシャルな事情
 
いつの間にか、玄関の飾り棚にひな人形が飾ってあった。
母が飾ったらしい。
床の間のひな人形は娘が生まれてから手に入れたものだが、このひな人形は私の生まれる前からあり、私の祖母もつかっていたはずである。
なかなかものを捨てられない血筋はこういうものを見て実感する。
もっといろいろな人形があったのだけれど、さすがに古くなりすぎて数年前に一部を残して処分した。
ここに写っているものをみればよくわかるが、お内裏様とおひなさま、五人囃子はいいが、三人官女がひとり欠けている。
まあそんなこともあって、こんな風に並べたようである。
ちょっとセッションしているようで面白い。

床の間とひな人形

2007年02月18日 | 我が家のスペシャルな事情
 
今年は二十四節気の「雨水」を前にひな人形を飾った。昨年は雨水が週末でよかったのだが、今年は明日の月曜日なのでまあいたしかたない。
こちらはしがない勤め人であるので平日に飾るのは難しいのである。
都合よく(?)雨が降ったのでちょうど良いと考えることにした。

こうした伝統行事になると古屋の出番となる。なかでも床の間がにわかに存在感を増す。
床の間は純粋な「ハレ」の空間ともいえる。効率性を重視する現代の家ではこうした空間を確保するのは難しい。
現代は昔とくらべるとはるかに豊かなはずなのだが、一方で昔にあった、違う豊かさをどこかに置いてきてしまっている感がある。床の間はそんなもののひとつになっているのかもしれない。


鰯の頭も信心から

2007年02月03日 | 我が家のスペシャルな事情
 
きょうは節分。
我が家の玄関先には写真のようなオブジェが掲げられた。
これは魔よけである。ひいらぎのトゲと、鰯のにおいを鬼が嫌うのである。
「鰯の頭も信心から」ということわざはここからきているというありがたいものなのである。
信心深くもない我が家だが、こうした風習は妙に律儀にやっている。
これも季節感をかもしだす風景と思っている。
夜は当然豆まきだ。

国産材信仰+ ――あわや「総体ひのき造り」

2007年01月17日 | 我が家のスペシャルな事情
私は地産地消という考え方は好きだったので、できるだけ国産材、それも地元のものがいい、という志向はあった。雑誌の「チルチンびと」とかの影響も受けていたとも思う。
しかし、私以上に国産材にこだわっていたのが父。
山小屋づくりを経て地元の製材屋さんと知り合いになったことをきっかけに、父の国産材信仰は深まっていたのだ。

設計事務所から実施設計の最初の図面が出てきたとき、土台、大引、柱、内装材はヒノキ、スギ中心だったものの、根太、筋交い、垂木は米ツガ、梁は米マツ、そしてデッキ材は先日紹介したようにカナダ杉という案であった(ちなみに床材は「ナラ」)。
これを見た父がまず、「柱はスギではなくヒノキがいい」といいだし、「米ツガってなんだそりゃ?」「梁の米マツっていうのはヒノキにならないのか」「デッキ材もヒノキにしていいんじゃないか(※)」と語り始めた。
そのくらい父はヒノキへの信頼感が大きかった。
ただそれは実体験に即していたものの信仰に近く、他の材も広く研究した結果とはいえない意見だった。筋金入りのドメスティック人間の父には外国の材は得体の知れないものにしか映っていないようだった。

我が家の設計者は手刻みの仕口や継手を指定するくらいなので、建築家業界の中でも木材にかなりこだわる部類に属している。私もそれが気に入り、基本的な選択に間違いはないはずと信頼していた。あとは予算と好みの問題となる。

米ツガという材は私もあまりいい材には思わなかったのでヒノキへの転換に抵抗はなかった。
しかし、梁の米マツ、デッキ材のカナダ杉までヒノキ化するとなるとさすがに閉口した。
梁はねばりのある木がいい。国産材だったら地松だろう。ただし値段が高い(関連エントリ)。私は建築家の設計した別の家の設計図書を見たときに米マツの説明を受けていたし、地松は無理っぽいのでそれでいいや、と思っていた。デッキ材のカナダ杉は耐候性という面でヒノキと比べてもなんら劣るものではなく、値段も安いのでそこまで国産にこだわることはなかろうと割り切ることができた。
結局お金を出すのは私達夫婦なので、まだなにかものを言いたげな父を横目に、米マツ、カナダ杉を採用することで押し切った。

以前、「家ほめ」というエントリで、「牛ほめ」という古典落語に「総体ひのき造り」という家のほめ言葉があることを紹介したが、実は我が家は一歩違っていたらそれになっていたかもしれなかったのだ。


※父の作った山小屋のテラスは当然のごとくヒノキ。もっとも自家伐採したものなのでコストは安かったが。

正月を迎える

2007年01月01日 | 我が家のスペシャルな事情

「あけましておめでとうございます」

我が家は正月を古屋で迎える。
酔狂にも、昔の人と同じような手間をかける。

大き目の長火鉢に鉄瓶を置いて湯を沸かす。
しんしんとやさしく湯気をあげるさまは炭火ならではの情緒。

雪見障子から庭をながめながら、お屠蘇を飲んで手作りのおせち料理をつまむ。
自分たちでついたもちを使った雑煮を食べ終わるころに、年賀状が届く。
それをネタに家族であれこれ意見を交わす。

「ハレ」の場として古屋のよさをしみじみと感じる瞬間である。

我が家の高度成長期以前の「日本人ぶり」には自信がある。
セルフタイムスリップとでも呼べるかもしれない。



キンモクセイ咲く

2006年10月15日 | 我が家のスペシャルな事情


週末、早朝ウオーキングをしていたら、そこかしこでキンモクセイが咲いているのに気づいた。
我が家のキンモクセイは居室から見えにくい位置にあり、わたしがずぼらであることもあり、去年は花に気づかないうちに落ちてしまった。そんなこともあり、今年はちゃんと確認しなければと思っていた。

早起きして歩いたおかげで機会を逃さずにすんだ。(ノアノアさんのブログのおかげもあるかも)
しっかりと咲いているのを見て満足した。