世間はクリスマスイブでロマンチックな時が流れているかもしれないが、本日の我が家のイベントはガテン系仕事の正月用の餅つきだ。
以前は住宅の駐車スペースでやっていたが、家の建て替えに伴い、去年から山小屋でやるようになった。
ここのところの寒波襲来で心配したが、幸いにして晴天で無風。
思わず「餅つき日和」なんていうフレーズが頭に浮かんだ。
我が家の臼(うす)はなんと100年選手である。父の祖父の代から使っていたヴィンテージ物なのだ。
自分のウチのことながら、よくもまあ長いこと使い続けてきたものである。
農家でもない我が家(祖父の代は半工半農だったが)が、なぜ餅をつき続けてきたかといえば、ひとえに食いしん坊一家であるからにほかならない。市販している機械でついた餅よりも手でついた餅のほうがうまい、これは我が家の定説となっている。
雑煮にしても磯辺焼きにしてもその差は歴然であると思う。
以前、餅つき道具は家族をつなぐ道具だ、などという見解をお披露目したが、我が家の場合、家族がつながっている部分は胃袋であるように思えたりもする。
我が家の餅つきは道楽というか、手の込んだ料理の一工程というか、そんなところなのである。
筋肉痛をもたらす料理、というのも考えてみれば面白くはないだろうか。
モーツァルトで胎教するよりも、ツキ餅のホントの旨さを子供のうちに覚えさせておく方が「欲望」レベルで家族の絆が強そうです。
しかし、100年臼ともなれば、怨念の一つや二つは混じってるかも?ですね(笑)
ストレス発散には最高な気もします。
「餅は餅屋」ということわざはウソだ、と言いたかったり。
私が子供の頃住んでた家には、臼と杵がありました。
使ったことはなかったけど。
七輪も見たことある。
ああ、懐かしいなぁ.....。
(っと、ほのぼのしたとこで、年賀状作りに戻ります!)
ここんとこ忙しくて、今になって追い込みです。
明日も仕事だし(泣)。
私も京都で毎年暮れの28日に石臼で餅つきをする家庭に育ちました。京都の町家のそれも長屋みたいな狭い玄関先で今は亡き父が杵をふりあげてました。
みんなで餅を丸めながら、つきたての餅をほおばり、鏡餅も自分で作って…とそうして家族のつながりが出来上がってきたんだろうな、と思います。今でもこれが一番懐かしい年末年始の思い出でもあります。
今はアメリカでこちらの家族となって思うこと。
ここはここでクリスマスは日本のお正月と同じようにそれぞれ育ってきた家族に寄って違うんです。(宗教云々以前に家のしきたりみたいなもん)世界各国、そういった習慣は世間にはびこる流行のコマ?シャルが作るんではなくて、家族が、家が育てていくもんなんですね。
石臼とはまたすばらしいですね。重さからいって到底一人では運べませんから、その面でも家族をつなげる効果があるかもしれませんね(笑)。
私には、今の日本の家庭が「しきたり」のようなものをあまりにも簡単に切り捨てているように思えてなりません。
単に「時代に合わない」というような理由は短絡的ではないでしょうか。どのように時代に合わなくなっているのかをはっきりさせずに、どのような副次的効果をもたらしているかも考えずに、手間がかかるという理由だけで決めてしまっている。長く継続しているからこそ価値のあることっていうものだってあるはずですよね。
わたしのウチもかつては「餅は28日につく」と決まっておりました。それはそれなりに合理的理由もあるのですが、私の仕事が30日まである関係で28日にはできなくなってしまった。時代に合わせて微調整していくということはやむをえないですけどね。