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石川光陽『東京大空襲の全記録』

2008年12月11日 | 写真
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 〈グラフィックレポート〉東京大空襲の全記録
  石川光陽
  岩波書店 刊

 去る8日月曜日、TBSで東京大空襲のドキュメンタリードラマが再放送になって、そこで紹介されているのが、当時警視庁の記録カメラマンだった石川光陽です。

 最初に放送されたときにこの写真集の存在を知り、入手したかったもののすでに絶版で、古書でもとんでもない値段がついていてあきらめていました。
 今回、何気なくサイトを調べたところ、笹塚の古本屋が格安で出していることを発見。
 即刻電話で取り置きしてもらい、昨日めでたく入手。
 定価2000円の写真集が、アマゾンの中古で7000円。それを1800円で買うことができました。(ばんざーい!)
 後で見ると、アマゾンのそれも売れていたのでびっくり。

 戦災の被害状況は報道管制下におかれた当時、写真撮影することは禁止されていて、憲兵に見つかればカメラもろとも没収でした。
 光陽は警視総監から空襲災害の写真撮影を直接依頼され、そのための配慮も特別に受けていました。
 したがって、石川光陽は空襲災害の写真をくまなくカメラに収めた、唯一の日本人だったのです。

 「それから君も知っている通り、空襲災害の状況撮影は一切禁止になっていて、撮影の現場を官憲に見つかるとカメラは没収され、処罰されることになっている。君の撮影は許可されるように警視総監名で撮影者は君の名で憲兵隊本部、陸軍省、管内各警察、消防所長宛に公文書の書類を出すから、遠慮なく撮影してくれ」(まえがき)

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 石川光陽が使用しているカメラは、当時、家が一軒建つといわれたほど高価な「ライカDIII」。会計係に日参して無理矢理買ってもらったとか。
 そのカメラを首から提げた光陽は、警視庁のドラ息子といわれたそうです。
 最近は、「M3」の程度のよいのが標準レンズ付で30万円くらいです。それでも高価ですが、当時のライカはよほどの金持ちでもなかなか手が出なかった。今の物価に換算すると、ン千万という感じでしょうね。
 よくぞまあ警視庁が……。

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 この写真集には昭和17年4月18日に、初めて東京が空襲されたときから、終戦後の占領時代まで収録されています。
 荒川区尾久の爆弾の直撃を受けて一家6人が死亡した現場。

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 この写真は、ドラマにも同じシーンがあらわされていました。
 昭和20年1月27日に銀座が爆撃されたところを、警視庁の屋上から撮影したもの。

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 3月10日の東京大空襲は、木造が主体の日本の建築事情に合わせて開発された焼夷弾が大量に使用されました。
 焼夷弾はクラスター爆弾の一種で、子爆弾の中には高温を発して燃焼するナパームが詰められていました。
 写真は焼夷弾の焔で焼かれた死体が散乱する、台東区浅草花川戸の路上。

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 この写真集は前作『痛恨の昭和』の後、光陽の死後出版されたため、撮影時を特定するのに困難を極めたと、編集を担当した森田峰子さんは書いています。
 死後発見された「帝都空襲誌」という手記や、コンタクトプリントおよびネガに記録された使用フィルムの文字などを手がかりに、時系列をつなげていきました。

 ここに掲載されたコンタクトプリントをみると、映画で使用されるフィルムに特徴的な、ノッチの両端が丸いものを使用しています。
 これはおそらく映画に使う長尺フィルムを切ってマガジンに込めて使用していたものと見られます。本文にも、これまでAGFA、KODAKなどの文字が入っていたものが、「昭和17年に入ると、フィルムに文字が何も入らなくなる」と書かれています。

 この写真集には、石川光陽の手記による記録が同時に掲載されていて、写真とともに実に臨場感のある記録になっています。
 『痛恨の昭和』とともに、復刊されることが望まれる貴重な資料です。

 しかし、貴重なライカを空襲の現場に持ち歩くなんて、さぞかし勇気がいったでしょう。
 壊されなくてよかった。
 ぼくなら壊されてもいいようなカメラをもっていきますが、それではプロじゃありませんね。

 【リンク】『痛恨の昭和』

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