ひまわり博士のウンチク

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南京事件71周年 12・13集会

2008年12月13日 | 昭和史
過去と向き合い、

東アジアの和解と平和を


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 楽しみにしていた野中広務氏の講演に行ってきました。
 後半には笠原十九司さんと能川元一さんの対談があるので、もちろんそちらも目当てです。

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 野中氏は小学校6年生のとき、南京占領のニュースをリアルタイムで聞いているそうです。
 もちろんその時に、南京事件のような大虐殺が起きていることなど国民には知らされていません。

 国交正常化前の1971年にはじめて南京を訪問して、以降あわせて3回訪問しています。
 98年に訪問したときは、「公立南京大虐殺記念館」ができたということで訪問したものの、30万人という被害者数に納得できず、その表示を避けて「献花」をおこなったとか。
 当時の日本の新聞が展示されていたが、新聞社名はあえて表示せず、女性に対する残虐行為もあえてあらわされていなかったことに、日本に対する配慮が感じられたと語りました。
 「しかしそれでも、正しい史料がきちんと表示されていました」

 旧日本軍遺棄化学兵器の被害者訴訟で来日した少女に出会って。
 「政府は訴訟で争うのではなく、誠意を持って対応してほしい」

 自身が議員を退任したことについて。
 「この国をむちゃくちゃにする小泉純一郎と同じ時期にバッジをつけているのは恥ずかしい。家内にやめるぞ、と言った」

 はじめて生で講演を聴いた野中氏の印象は、頑固そうだけどユーモアにとんだ愉快なオヤジさん、という感じでした。

 自身冒頭で、「自民党の元幹事長が、なんでこんなところに顔を出すのかと非難を浴びそうですが」と語ったように、微妙な部分で同意しかねる内容もありましたが、しかし、平和に対する意識はしっかりしたものをもっており、OBとして自民党に影響を与えてほしいところです。
 80歳、まだまだ健在です。

【追記14日】
 この記事には、珍しくも何ともないことなのであえて書きませんでしたが、野中氏が記念館を後援会員とともに訪れた際、会員の一人から「南京で何人もの女子供を上官の命令で殺した」と告白したことが、ネット右翼の間でウソだでっち上げだと波紋を広げているようです。
 あいかわらず、「連合軍のプロパガンダである」とか「東京裁判ででっち上げられた」とか「70年代以降『朝日新聞』が捏造した」とか言っていますが、それらの論理がすでに学問的に破綻していることすら知らないのか、あるいは認めたくないようです。
 敗戦後に捏造されたものでない証拠はいくらでもあります。
 その一部を紹介すると、第11軍司令官として武漢攻略作戦を指揮することになった岡村寧次中将は、「南京事件の轍を履まないための配慮」と題した次のような回想を残しています。

 「十月十一、十二の両日、私は幕僚をともない、北岸の広済に第六師団を訪問した。(中略)もう一つの重大な目的は、近く漢口に進入するに際し、南京で前科のある第六師団をしていかにして正々堂々と漢口に入城せしむるかを師、旅団長と相談するにあった。ところが、稲葉師団長と第一線を承わる牛島旅団長(後の沖縄の軍司令官)は、すでにこのことに関し成案を立てていた。両氏が言うには『わが師団の兵はまだまだ強姦罪などが止まないから、漢口市街に進入せしむるのは、師団中もっとも軍、風紀の正しい都城連隊(宮崎県)の二大隊にかぎり、他の全部は漢口北部を前進せしむる計画で、前衛の連隊を逐次交代し、漢口前面に到達するときには必ず都城連隊を前衛とするようにする』と」

 要約すると、稲葉師団長と牛島旅団長が言うには、日本軍の兵隊たちは強姦罪が止まないから、漢口(現在の武漢)攻略戦で漢口市街への進入は、師団中で最も風紀の正しい都城連隊の二大隊に限るようにせよと言ったということです。

 また、支那派遣軍の総司令官だった松井石根は、A級戦犯として巣鴨プリズンに収監中、南京事件の事実を認めた上で、その責任は師団長にあり、自分には責任がないと弁明するとともに、その内容を獄中日記に遺しています。
 さらに、次のような記述も、松井石根が南京事件を発生当初から知っていたことがかいま見られます。

 「九日、読売新聞に石川達三なる者談話記事あり。南京当時の暴行事件を暴露せるものなり、小説家の由(よし)、困った男なり。わざわざ問題の種を邦人中より蒔くの愚、蔑(さげす)むべきなり」(一九四六年五月一〇日付)

 以上のように、南京事件は発生直後から軍中央で問題化されていたことであって、連合軍のプロパガンダでもなければ、敗戦後の東京裁判や朝日新聞の報道で捏造されたものでもありません。
 野中氏が講演会員から聞いたような話は、当時南京攻略に参加した日本兵の証言としていくらでもあります。それが少数であれば裏付けをとりにくく証拠としては弱かったかもしれませんが、現在までに大冊の本が何冊もできるくらいの証言が、日本側と中国側から集められています。
 証言や証拠類のすべてをウソだでっち上げだと言っていたら、広島・長崎の原爆投下も東京大空襲も消滅させることができるでしょう。

 まるで、おもちゃ屋の前でひっくり返って泣きわめいているだだっ子と同じですね、ネット右翼は。
 しかし、かといって放置しておくことは、彼の「言い分を認めた」ととられてしまいますから、ここにはっきりと誤りを指摘しておくことにします。(追記終)

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 後半は、笠原十九司さん(左)と能川元一さん(右)の対談形式で、南京事件の象徴としての「百人斬り競争」について、史料を示しながら概略が語られました。

 「新聞記者までが『これでチャンコロ(戦時中使われた中国人の蔑称)をぶった斬ってくるといって、取材目的で戦場に出かけるのに帯刀して行った。そういう時代だったんです」

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 「地方の新聞記事には、戦場で地元の人間が手柄を立てると、写真と名前に親のコメントを載せて掲載していました」
 「新聞の見出しがすごい『愛刀に血の御馳走』、『和尚でも人を斬れる』。殺生しないはずの坊主が人を斬るわけです。まるで江戸時代。チャンバラの世界ですね」
 「(歴史改竄派は)日本刀は2、3人しか斬ることはできないといい、それを『百人斬り競争』はなかった証拠のように言っていますが、それは白兵戦でのこと、名刀は40人以上斬っても刃こぼれひとつしないことが実証されています」
 「論争は学問的には決着していますが、政治的な部分で、自民党右派を中心に不戦決議に反対するなど、相変わらず反論がでています」

 笠原さんは、現代の戦争は殺す側と殺される側の距離が開いていることを指摘し、それがゲームのように人を殺すことに対して心理的な抵抗がなくなることの危機感を訴えました。

 「『現代の感覚で過去をさばいてはいけない』という論理がありますが、しかし、当時も理性ある軍人は暴走する麾下の兵士に『スポーツ競争じゃないんだぞ』と戒めたと記録に残っています」

 「小中学生への教育で、もっと自我を知る教育をすすめ、それによって他者を知ることを学ばせなければいけません」

 いつものことながら、理路整然と話を進める笠原教授の講演はじつに説得力があります。

 閉会後、年明けに大学でお会いする約束をして、帰路につきました。

 開会の挨拶が俵義文さんで、閉会の挨拶が石山久男さん、そして会場には大江・岩波沖縄戦裁判の事務局長、寺川さんの顔も。
 メンバーがけっこうダブってます。

 しかしやっぱり会場は年齢層が高い。もう少し若い人に参加してほしいところですが。

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