禅の教えで「破草鞋」
禅の教えでいえば、私たち凡人は皆、破れた草鞋をはいている。破れた草鞋とは、こだわりや中途半端な知識を指す。自分を磨くにはこうしたものは、破れた草鞋同様に役に立たないのだ。だから捨ててしまえと教えてある。しかし、自分を磨き正しい知識がどういうものかがわかったら、捨てた草鞋をもう一度拾う。拾って噛み砕いて、心の糧とする。表からは見えないが、自分の心の中でしっかりと支えるものとする。
相模の君の詠んだ「いづくとも、知らぬ我が身の行く末に、四国の路ぞ、今は恋しき」のお返事になれば幸いと存じ上げ候。
立江川の鮒より
禅の教えでいえば、私たち凡人は皆、破れた草鞋をはいている。破れた草鞋とは、こだわりや中途半端な知識を指す。自分を磨くにはこうしたものは、破れた草鞋同様に役に立たないのだ。だから捨ててしまえと教えてある。しかし、自分を磨き正しい知識がどういうものかがわかったら、捨てた草鞋をもう一度拾う。拾って噛み砕いて、心の糧とする。表からは見えないが、自分の心の中でしっかりと支えるものとする。
相模の君の詠んだ「いづくとも、知らぬ我が身の行く末に、四国の路ぞ、今は恋しき」のお返事になれば幸いと存じ上げ候。
立江川の鮒より
自分の履いていた草鞋が破れているなど露塵ほども思わず、我が身の愚かさと小ささを知る悲しさよ、とまた歌ができそうですが今日はやめときます。
私も今の草鞋をさっぱりと脱ぎ捨てて、新たな土地で、新たな気持ちで、新たな仕事をしてみようかという気持ちになっている、というよりは、その方向に導かれているという気がしています。
月の見えぬ夜に
相模の娘より