monologue
夜明けに向けて
 

sam  


このところ、わたしの高校時代のヒーロー的ソウルシンガー、サム・クックに関すブログ記事にアクセスが多いので興味がある方のため以下にコピーしておく。今にして思えばアメリカの抱える深い闇の部分「人種差別」が大きく関わる事件だったようだ。
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A Change is Gonna Come

サム・クック射殺事件 / 2009年11月05日

 アメリカンアイドルシーズン8の決勝第二ラウンドでアメリカンアイドルの番組プロデューサーのサイモン・フラーがアダム・ランバートに与えた課題曲はサム・クックの A Change is Gonna Come であった。決勝が終わり優勝を逃したアダムはこれまで知らなかったこの曲を課題曲 として歌えたことに感謝していた。

 この歌唱によってわたしの記憶はふと高校時代にタイムスリップした。あの頃、米国のトップ40に入ってくるサム・クックの曲ワンダフル・ワールド、シェイク、ユー・センド・ミー やアニマルズがカバーしたブリング・イット・オン・ホーム・トゥ・ミー などがお気に入りで大好きな黒人シンガーだった。

 サム・クックは、音楽出版社やSARレコードを設立して黒人アーティストも著作権を管理するということを始めた先進的なアーティストだった。人種平等社会の到来を願って公民権運動の象徴歌風に吹かれて や A Change is Gonna Come を歌ったのである。


ところが、そのサム・クックが1964年12月11日、ロサンゼルスのハシエンダモーテル( Hacienda Motel)で管理人バーサ・フランクリン(Bertha Franklin)に射殺された、というニュースが流れた。まだ33歳。どうして撃たれたのかよくわからなかったけれどそのニュースは衝撃的だった。アダムの歌唱はわたしにとってのアイドル、サム・クック射殺の報を聞いた頃に時を巻き戻してくれた。そして高校時代にはとても気付かなかったある疑念が胸にわいてきたのである。
高校時代にはどんなことがあったかさえよくわからなかったが現在はネット上の情報を検索すればかなりわかるようになった。サム・クックの死亡について実際になにが起こったのか調べてみる。

 1964年12月11日、カリフォルニア州ロサンジェルス市 南フィゲロア通り(South Figueroa Street)9137番地のハシエンダモーテル( Hacienda Motel)で管理人バーサ・フランクリン(Bertha Franklin)は警官にサム・クックがかの女を脅かしたので防衛のために射殺したと告げた。警官はフランクリンの管理人室でスポーツジャケットと靴だけを身に付けシャツもズボンも下着もなく性器を出したままのかれの死体を見つけた。そして結局、射殺は正当防衛と裁定された。


 モーテルのオーナー、エヴェリン・カー(Evelyn Carr)はフランクリンが受話器を置き酔っぱらいと話しをつけるためにドアへ行ったのを聞いた。発射音を聞いたあとカーは電話を切り午前3時15分頃、警察に"I think she shot him,"と電話した。
 
 その7分前に警察はモーテルの1区画先の電話ボックスからエリサ・ボイヤー(Elisa Boyer)から誘拐されたという通報を受けていた。かの女は下着姿で逃げて服を着るために吹き抜け階段で止まった、と言った。パトカーがサイレンを鳴らして現場に駆けつけ、そしてサム・クックの死体を発見した。かれのフェラーリはまだオフィスの外に置かれ運転席側のドアは開きエンジンは回っていた。警官が到着して数分後エリサ・ボイヤーが自分が死んだ有名人の被害者であるとして歩いてやってきた。

 警官はフェラーリの中にスコッチのボトルを見つけた。クックの所持品は、腕時計、108ドルの紙幣のクリップとバラ小銭。クレジットカードと運転免許を入れてある薄い札入れは見つからなかった。マルトニズ(Martoni's )レストランの証人はかれは多分千ドルのカタマリを持っていたと言った。しかし警官はカタマリではなくキチンとクリップにされた紙幣しか見つけなかった。かれらはボイヤーの財布を調べたが20ドル紙幣一枚だけしかなかった。

 バーバラ・クック(Barbara Cooke)は米国中にニュースで報じられる夫の死亡状況を羞じた。それでも三日に渡る最上の別れを開催した。プラスチックの蓋から見える、バーサ・フランクリンにホウキの柄で打たれた顔のアザを多くの来場者は指摘した。
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 以上のようなことが起こったという。あれから45年も経過して初めてわたしは高校時代のアイドル、ソウル歌手、サム・クックの死についての情報を得ることができた。さぞ無念だっただろう。

サム・クック射殺事件2

サム・クック射殺事件 / 2009年11月08日

 こうしてこの事件は新時代の寵児、新進人気ソウル歌手、サム・クックが女性をモーテルに連れ込み強姦に失敗して裸で追いかけてモーテルの管理人に正当防衛で射殺されたという一大スキャンダルとして報道されたのである。

 強姦未遂の被害者、エリサ・ボイヤーは審問で「バーでサム・クックに会って家に連れていってくれると期待して一緒に出た。ところがそのかわりにかれはモーテルにドライブしてあの部屋に引きずり込んだの」と話した。クックの家族が雇った弁護士がエリサ・ボイヤーがなにをして暮らしているのか、尋問しようとすると検事は「われわれはこの女性の職業に関心がない」とうち切った。陪審員たちは15分であの射撃が生命財産を守るのに正当と裁定した。ボイヤーの職業について新聞はボイヤーが欧亜系歌手(Eurasian vocalist)であることを示唆した。しかし事件からひと月後の1月11日にボイヤーは電話で40ドルでセックスの約束して覆面警官にハリウッドのモーテルにおいて売春罪で逮捕された。しかし、売春容疑はおとり捜査だったので裁判所は結局とりあげなかった。ボイヤーは部屋から脱出するのに急いだので思わずクックの服をとっていったと申し立てた。

 サム・クックの事件の夜の足取りを地図上で辿ってみるとまずハリウッドフリーウエイの下のカウエンガ・ブルヴァード( Cahuenga Boulevard) 1960番地のイタリアレストラン、マルトニズ(MArtoni's)で食事して1000ドルほどの紙幣のカタマリの中から支払いを済ませて愛車フェラーリでフランクリンアヴェニューを東に走りヒルハーストアヴェニューで右折してキングスウエル通りまで走ってヒルハーストアヴェニュー( Hillhurst Ave,)1751番地にあるPJ's ナイトクラブでエリサ・ボイヤーに出会った。ここからボイヤーの証言のようにモーテルにドライブしたのならまず東に走りフィゲロア通り( Figueroa Street)で右折して南下して9137番地のハシエンダモーテル( Hacienda Motel)まで走ったことになる。ハシエンダモーテルは取り壊されてもう検証のしようがないがみすぼらしい一晩3ドルの安モーテルだったという。その駐車場にフェラーリは似合わなかっただろう。ハリウッドからはかなりの距離があるのだ。途中にはまともなモーテルがたくさんあったはずである。だれもがなにか不自然なことが多すぎると感じる事件であったようだ。その裏になにが隠されていたのだろうか。

サム・クック射殺事件3

サム・クック射殺事件 / 2009年11月09日

サム・クックはアンクル・トム型のアフリカ系アメリカ人ではなく黒人の権利を主張する急進的なマルコムXやモハメッド・アリとの親交も有名で新時代の旗手だった。音楽出版社やレコード会社を立ち上げこれまで白人の会社にいいようにされてきた著作権や原盤権を管理し始めた。かれは人種平等社会を目指す黒人の代表として活躍してヒーロー視されていた。既得権益を守るために歴史の潮流を押しとどめようとする勢力は、かれのあとに続こうとする活動家への見せしめの意味も含めてヒーローを地に落とす方法としてセックスス・キャンダルを選んだ。普通に殺害するのではなく社会的名声をも抹殺しようとしたのだ。

 検事は審問において事件関係者の姓名、年齢、職業を訊くぐらいは当然と思われるのになぜエリサ・ボイヤーの職業を訊くのを邪魔したのだろう。初めから売春婦であることを知っていたのだろうか。そして新聞はなぜ欧亜系歌手(Eurasian vocalist)であるとしたのだろうか。歌手ならサムは女たらしのようで娼婦であれば強姦と騒ぐのはおかしい。サム・クックに着せた汚名ををなるべく汚くしたかったようにさえみえる。それでもサムの死から丁度ひと月後にみんなで隠したボイヤーの職業、売春婦がばれたのはサムの無言の怒りを感じる。

 イタリアレストラン、マルトニズ(MArtoni's)でターゲットであるサムが食事しているとき仕掛け人達はPJ's ナイトクラブに連絡していたのだろうか。PJ's ナイトクラブはマフィアが経営していると噂されるクラブだった。そこでエリサ・ボイヤーと事件の遂行者達は待っていた。

 第三者の関与が明らかなのはフェラーリの中にスコッチのボトルがあったことである。午前2時過ぎに派手な高級車に乗ってロサンジェルス市内を走っていると必ずパトカーに停められて運転免許証とピンクスリップ(法的車両所有者証明書)の提示を求められる。その時、車内にアルコール類があれば飲酒運転とされる。アルコール類を運ぶ時はトランクに入れて運ばなければいけない。戸外での飲酒は禁止でどうしても酒を飲みたい時はマーケットの買い物袋に入れたまま飲んでごまかす。シカゴ出身だがロサンジェルスで仕事をし慣れているサムがスコッチのボトルを車内に置いたままにしておくとは考えられない。極力飲酒運転の疑いがかからないようにアルコール類は買ってもトランクに入れておくのだ。だれかがなんらかの偽装工作のためにスコッチのボトルを置いた可能性が高い。ナイトクラブから出てきて飲み足りないので車の中で飲んだというのはあちらの生活ではあまりにも不自然なのである。レストランで目撃された千ドルほどの紙幣のカタマリと運転免許証とクレジットカードを入れた札入れが見つからなかったことも金に目がくらんだ実行部隊の仕業だろう。有名歌手が1文なしではおかしいので108ドル程度をクリップにして残したようだ。よってたかって遂行者達がさまざまな工作をして事件の真相は闇に封じられたのだ。それでもいつか事件の封印も解かれる日が来ることだろう。わたしの出した結論はこの事件は何者かによる暗殺あるいは謀殺である。

 この1964年12月11日のサム・クックの不可解な死後、急進派マルコムXは1年後の1965年2月21日、そして穏健派マーティン・ルーサー・キング・ジュニア (Martin Luther King, Jr.)牧師は1968年4月4日に暗殺されている。しかしながら歴史の流れは止めようもなくサム・クックが 「A Change is Gonna Come 」と予言したように2009年1月20日正午、バラク・フセイン・オバマ・ジュニア( Barack Hussein Obama, Jr.)は、建国以来初めてのアフリカ系アメリカ人(アフリカ系と白人との混血)の大統領となったのである。ついに変革(チェンジ)は達成されたのである。サムの早過ぎる死は無駄ではなかった。

 サム、高校時代わけがわからなかった不名誉な死に方さえもきみを怖れた者達のあがきだったことがわかった。きみはやっぱり時代を開くヒーローだった。ありがとう。こじ開けてくれて…。合掌。

サム・クック射殺事件補遺

サム・クック射殺事件 / 2010年01月07日

「BS世界のドキュメンタリー」の「ソウル・ディープ」シリーズの第2回はサム・クック を特集していた。番組は当時、カシアス・クレイと呼ばれていたボクサーが世界ヘビー級チャンピオン、ソニー・リストンを倒した時、盟友サム・クックをリングに呼んでともに喜びを分かち合うシーンから始まった。かれはのちにモハメッド・アリと改名して人種差別撤廃やベトナム戦争反対のために闘うことになる。サム・クックもこの頃から人種差別主義者達に標的と見なされるようになったと思われる。

サム・クックを射殺したハシエンダモーテル( Hacienda Motel)管理人バーサ・フランクリン(Bertha Franklin)に対する審問場面があった。ハシエンダモーテルの所在地はロサンジェルスのサウスセントラルと呼ばれる治安の悪い地区で信号待ちの間に窓ガラスを割られて強盗に遭うという噂があって高級車は近付くのを避ける地区である。普通そんなところに有名歌手サムクックが目立つ愛車フェラーリで行くとは考えられない。審問に臨んだバーサ・フランクリンは意外なことに黒人女性だった。白人女性が黒人の酔っぱらい青年に怯えて射殺したというわけではなかったのである。かの女は表情を隠すためか、濃いサングラスをかけて審問に臨んでいた。その模様を以下に記しておく。
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審問者
"How far was Mr.Cooke away from you when you started shooting?"
「あなたが撃ち始めた時、クック氏はどれほど離れていましたか」
フランクリン
"Not too far, the close range."「あまり離れていません。近距離よ」

審問者
"How many times did you fire with the pistol? "
「何度ピストルで撃ちましたか」

フランクリン
"Tree times."「三度」

審問者
"Did you know Mr. Cooke struck?"
「クック氏に当たったとあなたはわかりましたか」

フランクリン
"Yes, so, he said, Lady you shot me."
「はい、それでかれは、奥さん、あなたはぼくを撃った、と言いましたから」
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 こんな会話のあとバーサ・フランクリンは正当防衛が認められたのであった。それはわたしの目には、人権運動のリ-ダーとして台頭しつつある、サム・クックを他の場所で殺害した実行犯達が初めから正当防衛にする約束でバーサ・フランクリンを脅し金をつかませて行った狂言のような審問に見えた。この証言をしたバーサ・フランクリンが差別を受けてきた黒人女性のひとりであったことは残念だった。サム・クックに限らず黒人初の米国大統領オバマ大統領誕生までには多くの尊い犠牲の血が流れ闇に隠されたのだろう。
fumio

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