monologue
夜明けに向けて
 



「ゴーマン杯マラソン大会」という大会がある。それは女子マラソンの草分け的存在、ゴーマン・諏訪美智子さんの名前を冠した福島県の市民マラソン大会である。
かの女は1935年満州生、日本で終戦を迎える。24歳で渡米、「健康のために」とアメリカ人の夫に薦められて33才でランニングを始め、初マラソンの1973年12月3日「ウエスタン・へミスフィアーマラソン(WesternHemisphere Marathon)大会で2時間46分36秒の女子マラソン世界最高記録で優勝した。以来1974年4月には伝統のボストンマラソンに挑戦し2時間47分11秒のコースレコードで優勝。41才になった1976 年のボストンマラソンでは2位に終わったが同年「ニューヨークシティマラソン大会」にチャレンジして自己ベスト2時間39分11秒で優勝。そして42才で1977年のボストンマラソンに再度出場して2時間48分:33秒で2度目の優勝を果たし、同じ1977年の「ニューヨークシティマラソン大会」に2時間43分10秒 で再度優勝して1977年の両大会を制して、伝説のランナーとなったのだ。日本人女性は計り知れない能力を秘めている。

 わたしたち一家が初めてゴーマンさんを見たのは毎日の散歩中だった。ロサンジェルス市内のオリンピック通りとウェスターン通りの角のマーケット「Ralphs」の裏を走る小柄な女性がいた。その時は「あの人がゴーマンさんか」と思いながら見送った。そして数年後、息子が日本語を習うために土曜ごとに日本語学校、羅府第二学園に通うことになった。するとなんとゴーマンさんがそのクラスの先生をしていたのだ。ある年の学芸会で、ゴーマン先生が脚本を書いて日本語劇「一寸法師」を上演した。息子は「一寸法師」役を演じ、父兄も力を合わせた。わたしは音楽を担当し、妻は背景の絵を描いた。その劇が評判になって、オレンジ郡のフェスティバルで公演したりした。この「ゴーマン杯マラソン大会」という大会名をみるとふっとそんな記憶が甦る。
fumio




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