monologue
夜明けに向けて
 



1991年8月のある早朝、妻は寝ている部屋の戸がスッと開いたので息子の仕業 と思って「まだ早い」と叱ってふたたび寝入った。やがて時間になってみんなが起き出して朝食を摂るとき、息子に、あんなに早くから戸を開けて、というと「ぼくは開けていない」と否定した。おかしいと思いながらとにかく急いで身支度をして昨夜用意しておいたトランクなどを車に積み込み出発しようとした。するといくらキイをまわしてもエンジンがスタートしない。困ったことになった。その日はシンガポールに行くことになっていたのだ。飛行機の時間に遅れるわけにはゆかない。バッテリーがあがっているようだった。タクシーを呼ぼうかなどと相談しているとどういうわけか向かいの家に親戚の方が車でやってきた。わたしたちの車が動かないのに気づいて「駅まで送ってあげましょう。」という。おかげでなんとか電車を乗り継いで空港に着いた。そこから修理工場に電話して、家の駐車場の車のバッテリー交換を頼んだ。
 そして1991年8月21日(水)わたしたち一家はシンガポールのKallang theatre(カラン・シアタ ー)にいた。
わたしと息子は「第一回アジアわたぼうし音楽祭」の日本代表として
わかりあえる日まで」という歌を歌い妻は客席で応援していたのだ。
出発の朝、妻の寝室の戸を開いたのはだれだったのだろう。車が使えないことを報せて早く起こして対策を建てさせようとしたのか。そしてあんなに朝早くからうちの向かいの家に車を差し向けたのはだれなんだろう。
わたしたちは気づかなくとも常にだれかが見守っている。うしろの正面で…。
fumio


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