monologue
夜明けに向けて
 



四二、 常に 自らを凡夫とわきまえよ
    神の御力に頼んで 道を行けよ
    如何なる奇跡の類をも人の業だと
    思うこと無かれ


「凡」とはナミでつまらないたいしたことがないということだろうか。
凡人とか凡夫はつまらない人なのか。
仏教でいう凡夫であれば悟ることのできない煩悩の中にある者、
「凡人」はおおよそ人であり、すべて人。
「凡」の字に示されるているのはチョン。チョンを内包している。
これは始まりであり終わりであり始まることがなく終わることもない点であり円である究極にして永遠の存在。梵=ブラフマンなのである。
常に自らをチョンの入った存在であるとわきまえよ、という。
どんな奇跡のように思えることも自らの内にあるチョン(究極の存在)の業なのだ。
自らとはチョンの目。

「人」の字は左のチョンから始まる。左の一本では倒れるので右足で支える。
 この左が火垂りで精神、魂魄の魂の方。
 右が水気で肉体、魄の方を表す十字をずらした字。
 十字の結び目ヘソは人では書き始めのチョンで表され、
 ちょうど人が両足で立つヘソの位置に来るように作られた文字である。
 要するに人はチョンの乗り物なのだ。凡も人も結局、チョンを内包した文字であった。
 この詩句の意味するところは 人とは、神の乗り物としての無限の可能性を持つ存在で如何なる奇跡の類も実現可能なのだ。自立して道を行かねば…。
fumio


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