ふくちゃんの絵日記

バイク等での旅行記や、日常生活で感じたことを、絵(写真)に描けるものは描き(添付)絵日記風にしたいと思います。

今と違う昔の知識

2015年08月10日 | 日記
 今日は・8月10日 月曜日、定刻となってスポーツ・ジムに行く。
 お決まりの”この紋所が目に入らぬか・・・”で締め括られるTV番組を観ながら3Km程のウオーキングをする。
 ある人が「一定速度で30分歩いても何の役にもたたない!」と云った。
 そして「数分(2~3分)毎に速度を変えてやると”歩く”と言う運動は効果的になる」というので、実践している。
 何が良くて・何がいけない(効果がない)のか分らない。
 新たな情報が入手できるまでは、この情報(変速歩き)が”良い(効果がある)有酸素運動方法”として続けようと思っている。
 一通りのトレーニングのメニューをこなし、入浴である。
 温浴に続いて、サウナで汗を流し、水風呂に都合1分程(*)入る。
 この時、運動後の筋肉は冷やすべきか如何に?と、新旧の情報差を思い出すのである。
 「筋肉を使う激しい運動をした後は、冷却で筋肉を鎮めてやることが効果的」と言う、今風な考え方がある。
 しかし、60年程前の中学生の頃には「(競技が終了した後であっても)筋肉を冷やしてはいけない」と教えられたと記憶している。
 約60年と言う歳月の経過で”学術的”にも解明された事なのでしょうが、指導(教育)されたことに、疑義を持たなかった”幼き頃”を思い出すのである。
 「過ちては改むるに憚ること勿れ」と言う言葉がある。
 運動後の身体は”冷やす”事が正しいと信じて、実践している。
   (*):30秒ほど、足を冷やし、肩まで15秒・首の上まで15秒間、水風呂に入浴している。
     首まで浸かる入浴時間は、首筋の動脈を、永く冷やしてはいけないと”聴いた話し”からである。 
     正しい、冷水の入浴方法であるのか?に、ついては、知らない(無学・無知である)

今日のこの日

2015年08月09日 | 日記
 8月9日・人類最初となる原子爆弾が、広島に続き長崎に投下された日である。
 行政防災無線放送でのサイレンともに、11時2分・長崎方向に向かい一分間の黙祷を奉げさせて頂いた。
 原爆被害の度合いについて、長崎市は山に囲まれ、被害が少なかったと言う論評に違和感を感じてならない。
 原爆投下と言う現実さえなければ、七万人に及ぶ犠牲者と、多くの原爆症で苦しむ人達を、生むことはなかったのである。
 広島と異なった”原子爆弾”とのことで、アメリカは、市民生活を犠牲とした”実験場”にした事に、異論を挟む余地はないであろう。
 非人道的な(二つの悪魔を試す様な)行為であった!と、今もって、認識出来ない当事国の人達に怒りを覚える。
 そして、長崎市長の”平和宣言”に、現在・審議中の法案の慎重審議を求める内容があったと聞く。
 各国の代表が参列する記念式典における、首長の発言としては”重たい!”と思う。
 国会審議で、担当大臣の答弁を、総理大臣が修正する場面は、トレーニング・ジムで観る、国会中継で観ている。
 如何にでも解釈できる法案では無いだろうか?と、疑問を持つのは、私だけであろうか??
 立法府として、国民が真から望む、法案であって欲しいと願うものである。
 そして、今日は「ザンギリ頭に・・・」で云う、幕藩体制から明治政府に変わって「断髪例(散髪脱刀令)」が発布され、身分制度が解消された日であると思う。
 民主主義(多数意見)と言え”数の論理”でなく、主権在民・国民の意見を聞くなか、謙虚に、立法・行政の仕事をしてもらいたいものである。
 未だに、必要な法案なのか、審議日数とは裏腹に、理解出来ないのである。
 国民が、付託でなく負託していることを、忘れないで欲しいと思った”日”でもあった。

何年ぶりだろう

2015年08月08日 | 日記
    
 ”隣組制度”を最小単位とし”組”とか”区”に分割し、市政の広報活動等を分担する”組織”が構成されている。
 隣組は”向う三軒両隣”の六軒(六家族)が、助け合って生活をする、日本古来の制度(?)であった。
 所謂・新興住宅地に住まう我々にとって”死語”となった言葉ではないだろうか・・・?
 私が住まう環境から云うと”隣組”の概念でなく10軒が一つの”組”を構成している。
 そして、約100軒(約10組)を受け持ちとした広報区がある。
 公報区には、市の広報活動を担う、一名の”公報委員”が市から委嘱される。
 組織的に、上位に位置するのが”区長”で、私が住まう地域では、1000軒余り(約10人の公報委員)を、一人の区長によって組織されている。
 今日は”その区”が運営する「ふれあいまつり」が開催された。
 10年程前に、公報委員の委嘱を受け、「ふれあいまつり」の運営委員の一員として参加した過去はある。
 しかし、最近ではすっかり疎遠になってしまっていた。
 今年も、その時期となり、開催を知らせる案内を”回覧板”によって知った。
 そして「たこ焼・ビール・カキ氷など」の予約申込書が添付されていた。
 久し振りに行ってやれ!と想い、たこ焼とビールを予約注文していた。
 17時30分からの開始で、少し前に到着した。
 今日の絵日記の絵(写真)は「開会を宣言する様子」そして、予約注文してしていた「ビールとたこ焼」である。
 人もまばらで、遠雷も聞こえることから、予約券を早々に使って、帰宅した。
 私が、一人・ビールを飲んでいると、「どうした!寂しいか?」と、カマキリの子供が慰めにきた。
  
 上の写真は、暫く相席を願った”カマキリの子供”である。
 その時は”カマキリの異変”に気付かなったが、写真を見て、お尻が無い事を知った。大丈夫か?!
 帰宅するにあたって、そうとも知らず、草むらに返してやりました。

 余談ながら・・・
 「隣組」組織は、古くは江戸時代から、そして、戦時体制下では重要視された”相互扶助”制度(?)であったと、私は理解している。
 阪神大震災や東日本大震災を経験し、この「隣組」制度が見直されていると言う。
 隣人との付き合い方が疎遠となった現代にあって、二度の震災の教訓から、犠牲者を出さない取り組みとして「隣組制度」を活用する動きである様だ。
 ”負の遺産”として捉えるのではなく、隣人愛を育み、相互援助で犠牲者を出さない手段として使われるなら、日本古来の文化として、活かされるではないだかろうか・・・?
 

8月6日のこと 追記

2015年08月06日 | 日記
 先の日記「8月6日」で”恐ろしい”と表現したことについて、記憶の定かな時に記しておきたいと”追記”を思い立った。
 私の幼少期の周囲には”軍”を体験した人達が居た。
 父と仲が良かった”カッチャン”。
 そして、両親の善き理解者であった(と父母から聞かされいた)”たなかのおっちゃん”
 たなかのおっちゃんは、生家の前にあって、私達・家族が8人(祖父母・両親・私達4人兄弟)であった時代、我家の風呂を利用する様な親密な関係であった。
 そして”おっちゃん”は(陸軍で)乗馬を許される階級であった。 
 ”カッチャン”は、父と同年輩で、気があっていたのでしょう、父と晩酌をする姿を子供心に刻まれている。
 この様な環境で、終戦直前の惨状(広島・長崎・満州)について聞かされていた。
 ”原子爆弾”に関することは、新型爆弾・ピカドン・キノコ雲・ケロイド・衣服がくい込んだ皮膚・水飴の様な皮膚・石も溶かす・水を求めて川の水に行列・川に浮かぶ人体・死体の並ぶ惨状・・・等々であろうか・・
 子供心に恐怖心と言うか恐ろしさを覚えたのである。
 やがて、映画「原爆の子」を観るに至った。
 そして、高校生になった時、父の営む同業種の親睦旅行で、広島を訪れる機会を得た。
 平和資料館で、現実的なそして、衝撃的な光景を観るに至っては、親達から聞かされていた幼少期の継ぎ接ぎな話しが繋がった思いであった。
 その中で、今も鮮明に思い出せるのは、ある銀行の入り口の石に刻まれた”人影”である。
 兵器は人間を殺戮する。
 原子爆弾は人間そのものを消滅させてしまう。  影だけを残して・・
 幼少期に受けた”恐ろしい(兵器)”は、今も代わってはいない。 
 

8月6日

2015年08月06日 | 日記
 今日・8月6日は、広島に人類史上・最初の、原子爆弾が投下された日であり、70年となる。
 私は、二歳になったばかりで、記憶はない。
 しかし、親達や周囲の人達から、悲惨さを聞かされた。
 そして、小学生となり、映画「原爆の子」を観るに至っては、夢にまで”恐ろしさ”が私を支配するのである。
 ”恐ろしさ”それは、物語の構成であるとか、社会性の善悪とか云った理屈ではなく、ただただ”恐ろしいモノ=原爆”との幼き印象であった。
 戦後教育を受け、原爆投下は必要悪!であったとの、教えもあった。
 しかし、広島市の中心地・相生橋を原爆投下の目標にしていたと言う事実を聞かされるに至っては、市民を犠牲にする、何ものでもなかった。
 原爆投下国は「戦争を早く終わらす為(前記の「必要悪」)」との偽善を止めて、広島・長崎に向き合って欲しいと思う。
 そして、戦争を始めた国も、その非を反省し、平和憲法の(法的安定性)下、平和を享受する努力を怠っては成らない。
 今日・8月6日を迎え、8時15分から、原爆犠牲者への黙祷を奉げさせて頂いた。

 追記:旅行記のためにと、2012年から始めたブログ(日記)であるが、昔の日記を読み返してみた。
    2013年・2014年と過去に二度、8月6日について、日記にしている。
    そして、思う事、それは”(日の経過の)早いこと!”である。
    8月6日そして、9日は、此れからも際限なく繰り返されるだろう。
    しかし、1945年の様な、8月6日(9日)は、未来永劫あっては成らない。
 

墓参も済ませ

2015年08月05日 | 日記
 今日(5日)、所用があり帰省する。
 所用までの間に、墓参と兄弟に中元の挨拶を済ませる。
 そして、本日の主たるテーマ(所用)も(相手の)ご厚情により処理する事が出来ました。
 私の思わない不注意から”蟠り”となって悶々とする日々であった。
 しかし、打って変わって、爽快な気分で、帰宅を果たせる事が出来ました。
 往復470Kmのバイク走行でした。
 今日は、暑いながらも、シッカリと長袖シャツで”日焼け”対策をしました。
 しかし、暑かったです。

難しい話し

2015年08月04日 | 日記
 政治に知恵も知識も見識もない、私である。
 その事が前提である。
 そして、現在の、政治体制を云々という気持ちも無い。
 しかし、最近”日本って!法治国家?”と、思うのである。
 浅学な私でも、不思議に思う事が起こっている様に思うのである。
 政治の中枢にある”国民の代表たる議員”の発する言葉の’軽さ”である。
 発した言葉が、以外にして、思いもしなかった国民の批判を浴びる。
 その人の正義感であって良いと思う。
 ”法”の支配する下の範囲で!
 彼は、何を血迷ったのだろうか?
 ”法は私”と云った歴史上の人物も居た様であるが、そこまで逆上(のぼ)せ上がったのだろうか?
 批判が高ずれば、前言を取り消し、無かった事にする体制は如何なモノか? 政治家の特権なのだろうか?
 情緒不安定な(発言を取消さなければ収まらない)人達の集団(首相補佐官)に”我が日本を”任せて良いのだろうか?と、私は不安を覚える。
 「君は不適切!解任する」と言う勇気が無い”責任者”の態度も釈然としない。
 数の論理で押し切る勇気はあるのに・・・
 政治家社会(発言を取り消して許される社会)と、庶民社会(云った事は終生責任を負わなければ成らない社会)とは別なのであろうか?
 きっと!あの人は「法(憲法)は。私が成す(操作する)」との思いなのでしょう。 
 選挙民でないのが口惜しい。 私の持てる唯一の”権力”を、その人に行使できないことである。

サンパツに関する想い出

2015年08月04日 | 日記
 幼少期の”サンパツ”と言えば、風呂敷の様な布を首に巻き、言い換えれば”ポンチョ”の様なものかな!?
  注:ポンチョ=山登り用のビニル製の雨合羽。
 電動バリカン等は無く、手動のバリカンであった。
 時々「痛ぁ!」と言葉には発しなかったが、痛い目にあった。
 手を動かす速度に対し、進む速度が早ければ、頭髪を挟んで、毛抜きで抜くような状態となる。
 加えて、手入れが行き届いておればであるが、切れ味も悪くなるにつけ”切る(カットする)”のではなく”抜く”に等しくなる。
 隣が”サンパツ屋”さんで”イッチョライ(*1)”を着せられて、お出掛けする等では、お隣で”サンパツ”することもあった。
 サンパツ台の手摺の部分に補助椅子を設えられ、其処に座る。
 靴を脱いで、大人が座る座面に足を置くのである。
 少し、大きく(背丈が成長)なって、補助椅子を使わなくなった時は「大人になったぜ!」と大人ぶっていた事が思い出される。
 そして、ある時、兄達とメジロを捕まえに行った。
 兄は、囮のメジロが入った籠と、鳥もちを巻きつけた細竹を持っている。
 メジロを求めて山道を、兄の前を私が歩いていた。
 兄の持つ、鳥もちが私の頭髪に触れた。
 細竹の鳥もちを修復し、何羽かのメジロを捕獲し帰宅した。
 帰宅しての作業は、頭髪の”鳥もち”を除去する事である。
 冷やしたり・温めたりしても除去出来ない。
 私にとっては、苦痛を伴う何事でも無かった。
 父が来て、ハサミで鳥もち部分をカットした。 虎刈り状態である。
 「隣に(サンパツしに)行け!」と言う。
 隣のおじさん「如何したの? バリカンの調子が悪いのか?」と聞いてきた。
 そして、親切にも「調子を観てあげるから、持って来なさい」と云われたものの、子供の私とって、その事が如何程のものか(*2)は理解出来なかった。
 虎刈り状態を解消して帰宅したが、サンパツ屋さんでも「痛ぁ!」と思う事・有りでした。

 (*1):”一張羅”が訛ったもの(方言?)なのか、普段には着ない特別な服を着る時に、使っていた様に記憶している。
 (*2):対価を求められる?、若しくは親切から・・・?
    父との付合い方の親密度から出た提案であったと、理解するには、もう少し時間を要したことであった。

何時からだろう?

2015年08月03日 | 日記
 今日”サンパツ”に行った。
 現役を退き、最近では、生え際から耳の上辺りまでバリカンでカットしてもらっている。
 頭を垂れて”サンパツ”作業が遣り易い様に”自ら”協力している昨今である。
 電気バリカンの”ウーン!”と言うか”ブーン!”と言うか、音を発しながら”うなじ”に及んだ。
 しかし、”あれ!なんとも無い”と気付いた。
 私は、高校卒業まで(正確に言うと三年生の二学期まで)は、所謂・丸坊主であった。
 月に一度程、お隣の”サンパツ屋”で・・・そして、高校生になってからは、校内の理髪店を利用していた。
 サンパツ屋では、ただ単に、バリカンで頭髪をカットして、ヒゲゾリをするだけの事であった。
 電気バリカンが、うなじに近づくと、無意識のうちに、首を竦める行為をする。
 ”こそばい!”との想いからである。
 今日、その(学生時代)様な”こそばい”と言う感覚が無いのである。
 成人となり・社会の一員となって、理髪は”ハサミ”によることとなった。
 ”うなじに電気バリカン(の音)”と言う組み合わせからは疎遠とは成っていた。
 50数年を経過しているとは云えども、感触や感覚が消滅してしまうのだろうか?
 そんなものよ!と思う事(加齢による諦め)。 それは良くない。
 人との付き合いとか、生活上の問題(政治や経済)に、無感覚・無関心にはなりたくはない。
 自分に起きている”体調の変化”は変化として、日々の在り様を継続(継承)していきたいと思った、今日のサンパツ屋さんであった。

 追記:「こそばい」は「くすぐったい」の方言で有る様だ。
    そして、それは広範に使われている様である。
    ”ワキ”を触れられれば”くすぐったい”が一般的であると思う。
    考えて下さい。 
    散髪するにあたって、電気バリカンの電源が入る。 私の意志ではなく・・・
    ブーン!と言う音は聞こえる。
    頭部を押さえられ、後ろ首筋から(散髪は)始まる。
    それは、私の意志とか意向には無関係に!である。
    一度目が終わって、三度目位で”ほっと!”する。
    うなじ部分から遠のき、首をすくめる行為(”こそばい”と言う感覚)から開放されるのである。
    サンパツしようと思うのも、サンパツ台に座るのも、私の意志である。
    そして、うなじ部分を、電気バリカンが通過する事も、理解している(筈である)。
    しかし、初めての経験の様に身体は反応するのである。
    喉元過ぎれば・・では無いが、うなじ部分を(三度程)経過した後は、何も無かった様に振舞うのである。
    何故なら! ”こそばい”と、感じることは私の弱点であり、恥ずかしいこと”と思っていたから・・・
    それにしても”サンパツ”から”理容・若しくは理髪”と言う様になったのは何時頃?
    理髪店とか理容などの”ハイカラな”言葉は、想い出の中には、なかった。
    ”サンパツ(を)しに、サンパツ屋に行く!”であった。
 
 

お願い!

2015年08月02日 | 日記
 コメントを頂くということは、勇気なり・奮起をよぶ”チカラ”に成ります。
 コメントを頂くに当たって、お名前・タイトルの両者が無ければ「コメント」として反映出来ないようです。
 無記入である「Unknown(不明な)」として処理されているようです。
 折角・頂くコメントです「お名前」の欄に”ニックネーム”なり"イニシャル”のご記入を頂ければと、思います。。
 お許し願えれば「あぁ!〇〇さんからや!」と判読出きれば殊更に、嬉しく思います。
 何卒、宜しくお願い致します。

次なる備え

2015年08月01日 | 日記
 ”バイクで全国周遊”も目処が立った。
 此れまでに行って、気掛かりな処、再び訪れたいと思う処は、鹿児島・松江・金沢であろうか・・・?
 金沢は、現役時代の仕事を含め、何度か訪れているが、気掛かりな処である。
 鹿児島・松江は、周辺をバイクで走るのではなく、城郭などにも訪れたいと思っている。
 そして、北海道に、もう一度、行ければ”バイク乗りを卒業しても良い”とさえ思う。
 秋になれば(暑さが和らぐと)、広島を訪れ”初志貫徹”を先ずは果たし、次なる目標を決めたいと思っている。
 余裕が出来てきた!かな??
 
 蛇足ながら
 此れはあくまでも制約を伴う”単独行動”での想いです。
 複数で行動する”馬刺しを食べに行こう!だったり、やまなみ(阿蘇)HWに行こう!等々は、御一緒させて頂きたいと思います。
 そうだ!思い出した。琵琶湖を一周する計画は、今だ未消化でした。