ふくちゃんの絵日記

バイク等での旅行記や、日常生活で感じたことを、絵(写真)に描けるものは描き(添付)絵日記風にしたいと思います。

☆実現に向けて・・

2014年03月30日 | 旅行記
 懸案であった「琵琶湖周遊ツーリング」を4月12~13日で実施すべく準備中である。
 東・西岸のどちらにしても、通過点であった琵琶湖(周辺)を、目的として”琵琶湖岸を一周”をしてみるのも価値があるのではと思う。
 現在、六名が参加の名乗りを挙げている。
 県道(滋賀県)25・2・331・44号線、国道161号線等を乗り継いで湖岸を周回すると、約200Kmの距離となる。
 琵琶湖周辺の、観光や見学などをする時間を勘案すると、全一日の行程である。
 企画に長けたM氏にホテルの予約もして頂いた。
 そして、ツーリング計画(行程表)の立案も、お願いしている。
 行程表が出来上がってくるのが楽しみである。
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☆Simple is Best ?

2014年03月29日 | 日記
    
 先の日記「頼まれて、こんなモノを造りました(2013.12.20)」を納品?した結果、追加を受けた。
 此の事は、日記「注文を受け、製作中(2013.12.30)」として、紹介している。
 そして、出来上がった”容姿”が、今日の絵日記の絵(写真)四枚である。
 絵(写真)の左から、写真1~写真4とする。
 写真1は、ライトを垂直した状態。
 写真2は、写真1の裏側である。
 写真3は、ライトを45度傾けた状態で、水平にも設定出来る。
 写真4は、電気的接点部分でFRP製カバーを施している。
 今回、難点で苦労した点は、移動時にはライト部を取り外せて、ライトの照射角度を変えられる構造としたことである。
 回転させる中点に「注文を受け、製作中」で日記にした接線(スイッチ機能とプラグ部)のコンセントとなる受部(凹)を配した。
 この”受部”には体裁の為の、カバーが必要で、当初、木片で二度、製作したが強度的に満足出来ず、FRP製とした。
 ”one off”である事の宿命で、工程表が無いため、製作途中の様子を紹介できない。
 作業をするのに「段取り八分」と言われ、先人は「段取りが出来れば終わった様なもの!」と言う。
 one offで且つ、先例がない場合は”cut and try”で造り上げなければならない。
 段取りが組み上がらないのは、工程がcut and tryとなって”次工程”が分らないことに起因している。
 何はともあれ、工程表や段取りが組み上がらなければ”手戻り”が多く発生する。
 例えば、BATT箱を組み上げた。
 その時点では、箱の内側に「爪付きナット」をセットしなければならないと云う考えは無かった。
 木ネジで固定する場合、強度が不足すると判断した。
 木片の強度を付加する手法として、日本古来の木組み手法がある。
 現代風に、木ネジと接着剤で組み上げる方法もある。
 BATT収容箱は、それらの工法で出来るが、蓋を「取手」とし、且つ脱着出来る様にしなければ成らない。
 容易に脱着が出来て、強度を有する方法として「爪付きナット」を採用した。
 爪付きナットの凸部を無くする為に、ドリルの切り歯で簡単に作業を完了させられる。
 しかし、箱を組立てた後での変更だった事から、小刀やカッターで彫らなければならなくなる。
 この作業の”手間”の差は相当な負担となった。
 何はともあれ、この様に、手戻りを繰り返しながら完成させた。
 日記「注文を受けて、製作中(2013.12.30)」に記述したが、受注に当たっての要求事項(仕様)は、三点であった。
 ⓵電源SWは防水製に!
 ⓶BATTは容易に脱着出来る形態に!
 そして、ライトは垂直だけではいけない、という意思表示もあった。
 これ等の要望(仕様)を満足させるため、機構的に複雑なものに成ってしまったのである。
 機械の構造、機構やシステムは”Simple is Best” であるべきと思うが、工作を楽しんだことと、少ない知識から構造が複雑なものと成ってしまったと思う。
 使用者側の評価で”ヤッタ!”と歓びとするか、はたまた”そうか!”と反省するか、である。
 同様な仕様で、製作する機会が再度あるとすれば、少しだけ”単純化”への思考や、工程表から”段取り”は組み上げる”知識・知恵”は持ち合せたと思っている。
 経験を重ねることが出来たから・・・・
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☆息子よ!

2014年03月26日 | 日記
 何時かは経験するであろう手元から離れていくものがあることを・・
 そして、懐かしく思い出される日が、息子もそう遠くはなく訪れるであろうと思った。
 今日、カラオケで「娘よ」を歌う機会があった。
 芦屋 雁之助が唄う「娘よ」は、兄が得意とするもので、何度か聴いているうちに私も”キキカジリ”ながら歌えるようになった。
 そして、今日、久し振りに、思い出して歌ってみた。
 どうしたことでしょう! 順調(自己満足の領域)に歌いだしたが、歌詞が昔話と言うか、歌詞の中の”娘”との、思い出の場面となった途端に、涙腺が刺激されたのか、唄う調子が狂ってしまった。
 笑ってしまうしかない。
 確かに、我が娘は結婚して、今はこの家には居ない。
 子供達が夫々に自立していて、何時でも合える環境からか、寂しさはない。
 決して、強がりでない。
 ”自由気侭”な、今の生活を、私は楽しんでいる。
 子供達にも、家族との生活を大切して、そして生活することを楽しんで欲しいと願っている。
 子供が誕生し、成長する過程で、気を揉んだり・悩んだり等々は、どの”親”も経験した事である。
 涙腺が緩んだと言う歌詞をみると、嫁入り前夜が場面で、娘がとった態度であったり、思い出(20歳を越えて嫁入りを迎えた現在まで)を情緒豊に表現されている。
 息子や娘との思い出、この歌の場合は、娘とではあるが、この歌の歌詞から、私の娘の幼き頃が思い出され、涙腺が刺激されたのでしょう。
 息子も、二十四・五年後には、私と同年代となり、この様な思いをすることでしょう。
 少し、お酒をのんで、そして「娘よ」を唄って、試してほしいと思うのである。
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☆都合で延期となりました

2014年03月24日 | 日記
 先の日記、3月2日付の「時期、到来」で琵琶湖周遊ルーリングを4月5~6日に実施しますと記しましたが、同伴者の都合もあり、延期することとしております。
 御報告が遅延しましたこと、お詫び申し上げます。
 日程が決まりましたら,改めて日記にします。
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☆どうでもいい事に拘って・・!

2014年03月24日 | 日記
 22日、午後2時頃に所用済ませて帰路についた。
 カーラジオから「宇多田ヒカル」の歌声が聞こえてきた。
 そして、何故かしら「あれ!この子のお母さん、誰だったかなぁ!」
 思い出せない。
 「歯痒いなぁ!」と一人車中で叫んだ。
 代表的な歌った”歌”は何だったかなぁ?
 題名が分れば、歌手名も分るだろうと考えた。
 「夢は夜ひらく」と閃いた。
 そして「圭子の夢は夜ひらく」と思い出した。
 此れからが大変な思いをした。
 イライラしてきて、携帯端末で検索してみようか、とまで苛立った。
 しかし、駐車する場所が無いことを理由にして停車させることもなく走行した。
 「もう、考えるの止めよう」ともしたが、どうにも気になって仕方が無い。
 思い出した”名”の頭に、思い付く”氏”名を附けて思い出そうとした。
 その様にしている間に、苗字が”一字”であったことまでは思い出した。
 前川 清と結婚していたこともあった、等とヒントになることも思い浮かべてみた。
 帰宅時刻が17時頃になると判断し、順路にある娘宅に預けた”犬”くんを受け取って帰宅しようと段取りを考えた。
 「あれ!藤 圭子!!」
 どうでも良い様な事を、これ程まで努力?して思い出す必要があっただろうか?
 と、思ってしまう。
 しかし、眠気覚ましには貢献したと思うことにした。
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☆実に110日目のツーリングに・・!

2014年03月24日 | 日記
    
 今日(23日)佐田岬灯台(愛媛県)まで行くと言うツーリングに参加した。
 昨年末にバイクを走らせて以来となる。
 数えてみると、110日目となる。
 佐田岬灯台には、子供達の夏休みの思い出にと、数家族がキャンプの途中に立ち寄って以来となることから30年程が経過していると思う。
 少し早めの昼食を、佐賀関~三崎・国道フェリーの三崎側乗り場近くの食堂で済ませた。
 朝・自宅を出発する頃は、風も冷たく感じていたが、好天気にも恵まれ、着込んだ衣服を脱いで調整するまでになっていた。
 佐田岬灯台へは、バイクを(駐車場が整備されていた)駐車して、約2Km、を徒歩移動となる。
 前回、訪れた記憶して、人家の庭の様なところを通った記憶と、灯台付近に”生簀”と言うかプールの様な設備があったこと、そして、キャンプ場があってキャンパー(二張りのテント)がいたこと位しか記憶にない。
 記憶は正しかったようで生簀の様な設備(写真・左から3番目)は現存していた。
 そして、キャンプ場であっと思われる処にはバンガロー(写真・右)が出来ていた。
 この道のり(約2Km)を越えてまで、キャンプ道具を持参する労力は如何なものかと思っていたが、テントの持参が無ければ思い付き易いと感じたことであった。
 歩道は整備(舗装)されていたが、灯台までの約2Kmは記憶どおり遠く感じられた。
 灯台手前の階段を登りきると、灯台の敷地となって「四国最西端」という標識(写真・左から2番目)がある。
 この標識が30年程前に訪れた時にあったかどうかの記憶はない。
 遠く、九州・佐賀関の”大煙突”と、行き交う船舶の風景を楽しんだ。
 灯台を降りる階段から上方を仰ぐと、何らかの施設が有って、人が居ることが確認できた。
 「椿山展望台」との表記があったので行ってみた。
 此処からは「佐田岬灯台」の全景を見取ることが出来た(写真・左)
 好天気に恵まれ、汗ばむ陽気のなかでのツーリングは心地良いものであった。
 それにも増して、親しい人達との、久し振りの再会の喜びを感じたツーリングであった。
 老婆心ながら、絵日記の絵(写真)をクリックして頂ければ、拡大した”絵”が観られますよ!

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☆寒々しい我家にて・・

2014年03月20日 | 日記
 明日(21日)所用があって留守にする。
 帰りは22日となる。
 それに伴って、犬くんを連れて行けないことから、預けなければならない。
 娘宅で預かってくれることになった。
 娘からの注文で、久し振りに洗って(入浴)やった。
 高めの室温設定にして、室温が上昇した事を確認した上で、洗ってやった。
 何枚もの雑巾で拭いてやり、濡れたところがない事を確認出来たので乾燥をやめた。
 後片付けをして部屋に入ると、震えている。
 風邪?を引かしていけないと抱いてやる。
 暫くは、ガクガク・ガタガタを小刻みに震えていたが、小さな寝息をたて寝てしまった。
 時間となったので娘宅に連れて行った。
 夕食を馳走になって帰宅したが、何時にない我家の”空気”が寂しい!!
 明日の夕刻までの辛抱と、言い聞かせている。
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☆修正申告に出向く・・・!

2014年03月20日 | 日記
 3月19日、税務署に修正申告のため、久し振りに行った。
 17日が「確定申告」の期限とされており、申告者は居ないだろうから、直ぐに申告作業は終わると考えていた。
 しかし、一時間余りの順番待であった。
 遅蒔きながら”介護保険料”の徴収方法に「特別徴収」「普通徴収」があることを知った。
 ”天引き”で徴収されるのが「特別徴収」であるとのこと。
 介護保険料の申告を二重申告した件について、担当者は、気遣ってくれたと思う。
 担当者:納付証明書を見て「通常、特別徴収額と普通徴収額の二段表示されているのですが・・・」
 そして「此れだと分り難いですね」と、続いた。
 此処では解決しない事を理解した。
 私:「市役所に尋ねてみます」
 私が市役所から交付を受けた介護保険料の納付証明書は「特別徴収」されたものであった。
 減額修正を行ったが「納付金の金額を確認した後に、振込んで下さい」と振込み票を渡された。
 そして、電子申告での、修正申告の方法も知る事が出来た。
 次回の作業は一年後である。
 今は、理解した気持ちでいる。
 果たしてその(一年後の)結末は如何なものであろうか?
 今は分らない。
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☆繰り返しであっても、複雑・・・!

2014年03月18日 | 日記
 今年も「確定申告」を終えた。
 そして、昨年の確定申告で「公的保険料」の申告が欠如していた事が判明した。
 昨年と同様に申告したにも係わらず、今年度分の還付金が多いのである。
 昨年の申告資料を点検すると、前記の「公的保険料」を申告漏れであることが分った。
 確定申告をするにあたって、市役所から納入した保険料金等の通知(郵送便)があったので、この通知された金額で作業を行った。
 そして、昨年度との還付金の差異が分った。
 不安(正解はどれか)となって、市役所に、郵送されてきた納付金で、申告して良いか尋ねた。
 市役所の税務を担当する部門が対応したが「納付証明書を発行するので、それを使って!」という。
 加えて、他に納付された「介護保険料」など確定申告に必要な証明書を発行します、と云うことであった。
 それと、公的認証期限の三年を経過していたことから、市役所に出向いた。
 公的承認の再申請と、昨年度分の修正申告をする為のものを含め、納付金証明書の発行申請手続きをした。
 年度別に二種類の証明書が発行された。
 公的保険料の納付済み金額は、郵送されてきた金額とは同額であった。
 発行されたもう一種の「介護保険料」も公的保険料納付金として申告書に投入した。
 出来上がったので送付(eーTax)した。
 「印刷しますか?」で「OK」を進み、印刷された申告結果をみると、源泉徴収された「介護保険料」と投入した金額が同額である。
 「しまった、ダブって申告した」と思った。
 摂り合えず、市役所に聞いてみた。
 「発行された納付証明書は、源泉徴収金の(納付済み)証明か?」
 応対した担当者は、源泉徴収と市役所が発行する証明書の関係を理解していないようで「ダブっているのかは、税務署で分る」と言う。
 どうせ、昨年(24年)度の修正申告に出向くので聞いてみようと思い、それ以上の詮索はやめた。
 介護保険料は長寿介護課、公的保険料は税務課と担当が異なり、職業とする担当者に聞いても疑問が解決しない。
 年に一度、作業する私は、忘れることもあり、税務署が推奨する電子申告をやめて、マンtoマンが良いか!と思ってしまう。
 とは云え、確定申告に行って、長時間待つのは嫌なら、覚えるしかない。
 昨年は、カード・リーダーとNETの関係を解決出来たこと、そして今年は「公的保険料」について、修正申告に出向き、理解出来れば継続できるかも?と期待もする。
 しかし、世の中の仕組みは、複雑・気侭と思ってしまう。
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☆例年どおり、今年も咲きました

2014年03月17日 | 日記
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 昨年も「今年も咲きました(3月15日)」と、日記にした。
 そして、今年も我家の庭の”木瓜”は花を附けた。
 人間は”暦”を発明し、体感だけでなく”季節柄”を暦によって生活の基礎としている。
 植物は時期が来れば花を咲かせ、子孫継承の行為等が終われば花を落とす。
 繰り返される年によっては、寒暖の差などから”時期”に変動があったとしても、有史という世界観からすれば”無”に等しい。
 植物の身に備わったものであったとしても、正確な時計・暦ではなかろうか!?
 私の庭に”視覚的に春の到来を知らせる”木瓜の花が咲いた事によって、昨年と同時期に日記として残すことが出来ました。
 生活する上で造り出した”環境を壊す種”は、造り出したモノ自身が、無くさなければ、動植物たちは不満に思っていることでしょう。
 私たち(動植物)も、この世に生活していますよ!
 貴方(人間)達の都合で造り出した気温の上昇や土壌の変質(酸性雨・放射能汚染)などで棲家を追われることは嫌ですよ!
 私たちの生活を守って・・・!と、言っているのでしょうね。
 この場合の”棲家”は生存できるサイクルであるかも知れない。
 サイクルが遮断された場合、私の”来年も咲く”と言う想いと違って、我家の木瓜は咲かないかも知れない。
 永年的に”例年どおり咲きましたね!”と云い続けられることを、願いたいものである。
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☆まもなく、あの日 Part2

2014年03月14日 | 日記
 今朝(14日)未明、伊予灘を震源とする地震があった。
 私は、寝ていたが、揺れで目が覚めた。
 しばらく揺れは続いたが、再び眠ってしまった。
 電話(固定電話)が、何度か掛かっていた。
 間違い電話、若しくは勧誘の電話だろうと寝ていた。
 間違いや勧誘にしては「シツコイ!」と時計をみると、7時半であった。
 こんな時刻に勧誘の電話はないと思い、電話に出た。
 「お父さん、大丈夫? 皆が心配して電話をかけよるよ」と娘(長男の嫁)からの電話であった。
 その直後に、娘の嫁ぎ先からも、安否確認の電話を頂いた。
 そして、他県に住まう兄弟達に無事である旨の電話をいれた。
 先日、日記にした「まもなく、あの日」で、安否確認が出来る体制を誓ったが、一方通行であったと、反省しなければならない結果を露呈した。
 NETのニュースで「震度5強」の地震であって、私が住む行政区では「震度4」であったことを知った。
 このことによって、心配される強い地震であったことを、改めて認識させられた。
 天変地異に対する私の行動と、私を心配している人達に対する対応が分離していた様で反省する。
 私が「心配ない・大したことはない」と考え行動しなかった事と、周囲の思いは異なっていたのである。
 娘から「携帯電話は携帯しろ!そして電話に出ろ!」とお叱りを頂いた。
 反論のしようもない。
 時系列(忘れないために)
 2014年02時07分 地震発生
    同     エリアメールで緊急地震速報を受信(受信記録)
    02時16分 娘より「大丈夫?」とメール(受信記録)
    02時58分  同 「電話に出てよ!」とメール(受信記録)
 携帯電話の受信(電話)記録に兄弟・子供達などから多数の受信記録があり、オーバーレイ(古い順に消去される)されていて、発生直後から数時間分の記録は無かった。
 また、固定電話の留守電に「〇〇(犬くんの名)お父さん起こして! ワンワン吼えて起こして!」と、犬に呼びかける記録が残されていた。
 藁にでも縋る思いで”安否”の確認しようとした証しでしょう。
 御心配をお掛けしました。
 すみませんでした。
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☆悲しい別れ・・・!

2014年03月13日 | 日記
 昨日、一本の”歯”が抜けた。
 三年(以上)?程前までは、歯医者に通っていた。
 義歯の調子が悪く、何度も造り直したりしてもらったが「インプラントしか治療の方法はない」と、云わば”私は対応出来ません!”と云われた様に感じられて通院を辞めた。
 その頃から”グラグラ”していた歯があった。
 歯科医は「段々と痛みが増してきます」と云っていた。
 近年では、そのとおりの状態まで進展していて、食べ物がその歯に触れると「痛!!」と無言の悲鳴を挙げていた。
 明日は、歯医者に行って抜歯してもらおう!と思いつつ、抜歯する勇気が無くて今日まで耐えていた。
 「抜歯する勇気が無い」とは、一本たりとも失いたくないと言う気持ちでしょうか?
 私の想いとは裏腹に”歯”さんが昨日になって、見切りをつけたのか、アッサリと離脱していった。
 「キミだけでは何も出来ないだろう」と思うのに往ってしまったのである。
 使った記憶の無い「親の心、子知らず」と言う言葉が自然と出て来た。
 年齢を重ねた私の身体では居心地が悪かったのであろうか・・・?
 残りのモノ達よ、どうかその様(居心地の悪さ感)に思わず、我と一緒に生き(残っ)てくれ!と願うばかりである。
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☆こんなの知ってた!?

2014年03月11日 | 日記
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 何と此れも”蜜柑”であるという。
 娘の嫁ぎ先から、一つ一つ固有名詞を持つ”蜜柑”を5~6種、頂いた。
 そのうち、今日の絵日記の絵(写真)にしたものも、蜜柑である(と言う)。
 知らなかった。
 この様なジャンボな蜜柑があることを・・・!
 大きさを表現したい為に、30cmLPレコードのジャケットをバックに配した。
 想像して頂く様に、直径約20cm程ある。
 「四月になってから食せ!、今は香りを楽しめ!」と云うので、お皿に載せて食せる日を待っている。
 さて、お味は!どうでしょうか。
 そして、いろんなの名前を持った”蜜柑”がある事を知りました。
 が、今はまだ、此れが「〇〇」此れは「◇◇」等の名前と実物の理解は出来ておりません。
 教えて頂いて「すみません」と言う気持ちですが、記憶に留められていないのです。
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☆思いもしない事が・・・

2014年03月11日 | 日記
 今日(11日)友人宅を訪ねた。
 丁度、お昼頃であった事から「食事(昼食)に行こう!」とお誘いを受けた。
 定年退職された御夫婦が営まれるレストランで、鯛のお刺身がメインで、天麩羅・煮物、その他の提供を受けた。
 メインの鯛は、昨夜、御主人が釣って来たもので、60cm程の大きさであった様である。
 食事が終わり、コーヒーとケーキが出された。
 何の気なしに振り返ると色紙が張ってあった。
 色紙の提供主は、声楽家の岡本 知高氏で、岡本氏が”師”と仰ぐ奥様に宛てたものであった。
 「一度、聴きたいなぁ!」と、友人に云うと、その裏返しで奥さんに伝わり、快く弾き語りを聞かせてもらった。
 思いもしなかった、マイク等の”電気的装置”を使わない、生声・生(ピアノ)演奏である。
 声量も然ることながら演奏も素晴らしく聞き入った。
 我家のオーディオ装置の究極の到達点としての目標ではあるが、格差は大であると認識せざるを得ない事である。
 でも!モノスゴク”特”をした感じの今日であった。
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☆間もなくあの日・・・

2014年03月10日 | 日記
 今月(3月)11日で「東日本大震災」から三年となる。
 私は、この貴重な体験(視聴覚)で「津波」という途方も無い”化け物”を見て、情け容赦のないその正体(の一部)を知った。
 私の家は、海岸から約百メートルの位置にある。
 あの日(三年前の3月11日)以降、津波の恐ろしさを感じている。
 市役所を訪ね、避難場所や避難路の確認をしてきた。
 市が指定する「避難所」は県立高校である。
 私の家から約500mの位置にある。
 加えて、避難経路には、溜池を水源とする川幅約30mの河川がある。
 この河川も、海水の逆流を阻止する「水門」が設備されている。
 避難所への頼りとする渡河方法としては、旧国道の橋と隣接する私鉄の鉄橋である。
 そして、市が開示した「溜池ハザード・マップ」によると、溜池が崩壊すると我家の周辺では、50cmの水位となると予測されている。
 周辺における過去の(災害による)被害状況では、私がこの地に住み始める、2年程前に、台風によって防潮堤が倒壊し、床上・床下浸水被害(一週間ほど水が引かなかった)があった。
 従って、最悪、避難所への渡河が出来なくなる可能性があると考えるのである。
 最悪とは、地震によって、溜池が崩壊し、津波が押し寄せると言う想定である。
 加えて「放課後や休校時の入門は可能か?」と言う疑問に、市役所の災害対策を担当する責任者(課長)は「いち早く担当者が駆け付け、対応します」と言う回答では、経験(3,11)から不安感が増す結果となっている。
 確かに、高台に避難を要しない”避難”なら、担当者が到着してから行動すれば良いので問題は無い。
 私の”頭”は、我家の立地から、一途に高台への避難を要する津波への対処である。
 私が生活する行政区では「津波への心配は必要ないのかも知れない」と思ってしまう。
 最近、配布された「市・広報」で「災害ボランティア研修会」が3月8日に開催される事を知った。
 そして、参加した。
 午前中、パネリスト(4人)による東日本大震災での支援活動報告であったり、備蓄や災害後の対処策であった。
 この中で「自主防災組織」が行政区の中で、一つだけあることも知った。
 その組織の活動報告もあった。
 午後から地元の大学で教鞭(社会学)をとる”先生”の講演があった。
 この講演で、私が知りたいと思う”知識”の一部が満たされた。
 それは、予想される地震が発生した場合、私の在住する行政区で一箇所だけ「震度7」が予想されており、その箇所以外は「震度6強」であること。
 そして、地震発生から一時間後に、1mの津波が押し寄せること。
 その後、三時間後には、4.3mの津波が押し寄せる。
 と言う予測内容を知った。
 このなかで、講演者は「この数値は、予想であること。3.11の教訓は”経験の無かった”(予測外の)規模」であったと言う事を力説していた。
 地震で家が崩壊しなかったとして、逃げ遅れた場合、干潮時に津波が来るとすると、二階への避難で間に合うのではないかと考える。
 しかし、木造家屋が浮いて流される実像(3.11の)を見るにつけ、やってはいけない事と考えなければならない。
 加えて、満潮であるか・干潮である否かの判断は無理と考える。
 防災行政放送では、干満に触れず「4mの津波が来ます!」としか放送されないだろうから、我が身(命)を守るためには、何はともあれ(干潮時であっても)”逃げる”ことしかない。
 我が自動車は、寝泊りが出来る様に改造してあるので、非常食等を搭載しておいて自動車で逃げれば良いとも考える。
 しかし、阪神・淡路大震災で教えられた道路状況から”無理”であることを理解しなければならないだろう。
 今、考えられる形態として、行政が指定する避難所に非難し、十数Km離れた他行政区の、子供達の生活が正常に機能しているとすれば、自転車で支援を求めに行く事になるであろうと思う。
 なお、増水や橋梁の倒壊で渡河出来ないと判断した場合には、前記の過去における床上浸水被害対策で、建て替えられた市営住宅(四階建アパート化)に一時避難することも考えなければならないと思う。
 その為にも、お互い(私と子供達)の安否を確認し合う手段を確認しておくこと。
 そして、両大災害で活躍したと言われる、「アマチュア無線機」の整備を怠り無く実施しておくことを三度目となる”3.11”を迎えるにあたって誓った事であった。
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