ふくちゃんの絵日記

バイク等での旅行記や、日常生活で感じたことを、絵(写真)に描けるものは描き(添付)絵日記風にしたいと思います。

私たち行くわよ!

2015年02月28日 | 日記

 「撮ったでしょう! 私たち行くね!」と、でも云うかの様に飛び立って行った。
 昨日に続いて、今日も出かけてみた。
 水鳥撮影が不発に終わったため、成就させたいと思ったのである。
 野鳥についての知識はない。
 しかし、二種類(下の写真)の”鳥”が居た様である。
 飛び立つタイミングも、右の”鳥のグループ”が飛び立った直ぐ後、左の”鳥のグループ”も飛び立って行った。
 水鳥に関心を持ったのは、引潮の時に出来る干潟で、食べ物を探しているような仕草が印象的で、そして身近な処に居た事からである。
 ”大潮”の時を待って、再度チャレンジしたいと思っている。
 
  
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残念でした

2015年02月27日 | 日記
 15時頃、二階の窓から海を観た。
 天気も良く、久し振りに”釣り人”の様子を見に行こうと思った。
 そして、出掛けた。
 家の近くに、水門がある。
 水門の海側では、引潮の時、干潟が出来る。
 其処に、水鳥が居て、以前から気になっていた。
 写真に納めたいと思っていたのである。
 今日は、干潟にはなっていなかったが、水鳥が多く居るではないか・・!
 急遽、カメラ・三脚を取りに戻った。
 そして、撮影準備にかかった。
 望遠レンズで撮影するため、三脚を準備した。
 経年劣化か、ゴム製の”石突部分”が外れて、2m程の下に落ちた。
 目星をつけた箇所を探したが見当たらない。
 「仕方ないか!」と諦め、撮影を開始しようとした。
 しかし、居ないではないか!
 一瞬・津波が来る!!・・のではと思った。
 あれだけ居た水鳥が(全数)居なくなったのである!
 防災放送からの情報も無い。
 ”おい!皆・俺達を撮影するらしいぞ、逃げちゃえ!と去って行ったのだろうか?
 偶然とは云え、その行動(居なくなった)には驚きと共に感心もし、諦めた。
 明日もあると思えるから・・・・
 それにしても、あのペリカンの様な大きな鳥は何だろう?
                     ・
 撮影結果の良否に関わらず、撮影できた映像を基に、日記にしたいと思います。
 自然が、手が届きそうな、身近にあることを知ってもらいたいと、思うのである。
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真空管への想い (27日加筆・修正)

2015年02月26日 | 日記
    
 今日は”真空管”について日記にしたい。
 絵日記の絵(写真)は、私の真空管の(形状)コレクションである。
 大きな形状のものは、電気信号を空中に送出できる周波数まで持ち上げ(周波数を高くする=電波にする)た信号を、相手に届くように”増幅”する「送信菅」である。
 ST管・MT管・GT管の他に板極管もある。
 しかし、残念ながら「メタル管」が私のコレクションにはない。
        ・
 私が、幼少の頃に「NHK」の新諸国物語を聞いていたラジオが”並四ラジオ”であった事など知る由もなかった。
 この当時の受信機(ラジオ)に使われていた真空管が「ST菅」という”茄子の様な形状のモノ(真空管)であった。
 そして、使われては居なかったが”ラッパ”の様なスピーカーが木箱の上に載ったラジオもあった。
 悪戯をしてバラバラに分解して、父のお叱りを受けた。
 今も現存していれば”骨董的価値も高かったものと思う。
 父の自転車競技の賞品であったと、記憶しているが定かではない。
 当時のラジオを聴く為には、少しばかり”コツ”が必要であった。
 放送局を選択(チューニング)し、もう一つのツマミを調整して、心地良く聞こえる様に調整しなくてはならなかった。
 現在の様な、リモコンで””ピッ”と言うわけにはいかなかったのである。
 調整を誤ると”ピィー”という、大きな音(発信音)がした。
 「並四ラジオ」の後「スーパー・ラジオ(スーパー・ヘテロダイン受信機)」となった。
 そして、使われる真空管も、ST管からMT管・トランジスターへと移行されていった。
 因みに「並四」とは? 不思議なネーミングではないか?
 真空管は、三つの電極(陰極・格子・陽極)の三極菅から五極菅(格子を増設し高効率化)へと進展した。
 五極菅を”高級(高額・ランクが上)と言い、三極菅を”並”といって、差別化して居た様である。
 このことから「並(三極)の真空管を使ったラジオ」と呼称した様である。
 しかし、後継機として「高級(五極)な真空管を使ったものでも”並四ラジオ”と(呼称を)継承したようである。
 そして、素子も真空管から、トランジスターとなり、持ち歩く(ポータブル・ラジオ)ように成っていった。
         ・
 トランジスターを使った製品が出始めた頃、私は、研修所で研修を受けた。
 そして、衝撃的な講演(授業)を受けた。
 「近い将来・電話機(当時の一般的な黒電話機)の送受話器程度の大きさで、ワイヤレス化する」と云うものであった。
 トランジスターと言う素子の存在はあったが、私のアタマは、真空管である。
 取り扱う機器は、真空管の集合体であり、大きな電源も必要としていた。
 「(黒電話機の機能を)持運べる様に”送受話器”程の大きさにする」という授業は衝撃的であったことを、今も鮮明に思い出されるのである。
 私の想い(当時の知識)が、今では(胸の)ポケットに収まる形状で、ワイヤレスとなり”何時でも・何処でも・誰とでも”の通信社会と成っている。
 物置を整理していて、若かりし頃に”憧れた真空管”を見付け、四十数年前が想い出され、今ある通信手段に思いを馳せている。
                     ・
 注:写真・左で、右端の細長いモノは、小口径の”ブラウン管”である。電気信号の波形等を観測する測定器に使われていた。
   原理的には、アナログ放送のTV受像機に使われていた、ブラウン管と同じである。
   冒頭の「(形状)コレクション」としたのは、使用不可(性能上)なモノが多く”カタチ”を観て(往時を)楽しむものであるため。
 
 
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老いとファッション

2015年02月24日 | 日記
 先日、トレーニングジムで、ウオーキング中にTV放送番組を観ていた。
 老人の”身嗜み”に関するモノであった。
 ご婦人で、お化粧等を整える人と、無頓着?な人と比べると「お化粧等をされている人(ご老人)の老いていく速度が遅い」との研究(データ)を紹介していた。
 男性も同じ様に、服装に気を使い、整える事を怠らない人は、若さが保てるらしい。
 観られている事を感じ、観られている事に自信(臆すること)が持てる態度・気持ちが大切であるらしい。
 私の、五十年来の友人(同年)は、洗面し・髭剃りをして、着替えを済ませる毎日を過ごしている。
 ある時「誰か、良い人が居て逢いに行くんかぁ!」と、奥さんにも聞こえる様に、云ったことがある。
 「人としての身だしなみだ!」と一蹴された。
 人を思う気持ち(恋愛感情)を持続することも、若さを保つ要因であるとも、解説していた。
 老いを遅延させるための手段なら、周囲を心配させるまで、入れ込んでみるか!と、意気込んでみた。
 ”意気込んでみたものの!”「秋田に帰る汽車賃があれば、一月・活きられる」と言う、歌の文句が思い出される。
 ”ワクワク感(高揚感)も無い”毎日・有給休暇”を、どう活きるか?
 幾つになっても、高揚感を感じるものは、欲しいものである。
 このままだと、友人より先に、老いていく事になるのだろうか?
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我が犬に嚙まれる

2015年02月21日 | 日記

 椅子に座って音楽を聴いていた。
 何時もの様に”犬くん”が膝に載っかかってきた。
 当たり前の様に、私はその行動を許した。
 暫くすると右の太ももに”暖かい感触”を感じた。
 今までに無い行動であった。
 ”オシッコ”した様である。
 そして、強く叱責した。
 不覚にも嚙まれる始末となった。
 犬に嚙まれ、出血した記憶は、過去にもある。
 三十数年程前に、自家用の船を持つ友人の招待で舟釣りに出かけた。
 出港後、暫くして懸命に泳ぐ犬を見つけた。
 友人に「助けよう!」と操船してもらって、手を差し伸べた。
 不覚であった。
 すぐさま、友人の判断(釣りを中止)もあり、病院に行った。
 行き着いたのは地域の総合病院であった。
 病院の院長(女医)が診察した。
 犬に嚙まれた部分の手当てをして、治療は終わった。
 若い男性医師が「血清を投与?しましょう!(医療の常道では?)」と提案した。
 「ワクチンを投与する事と、狂犬病による発症を比較すれば、投与しない方が良い」
 加えて「この三十年程は狂犬病(発症)の事例はこの地域にはない」と説明した。
 しかし、若い男性医師は「結果は(院長の責任で)知りませんよ!」
 院長は、現状の発症(この地域での狂犬病の)から投与(注射)しない判断をしたということであった。
 以後、副作用にも惑わされることなく、今あるは”あの医師”の判断と感謝している。
 正直、我が(飼っていると言う思いの)犬に嚙まれた事がショックであった。
 ”犬・畜生”と言った母の言葉が思い出される。
 ”犬に嚙まれた!”と不安になって(子に)相談した。
 犬くんとの処世も、今に至って、考え直さなければならないと思った。
 なれど、当の”犬くん”は、何事も無かった様に、丸くなって”クウクウ”と穏やかに眠っている

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逃げてしまう! (訂正)

2015年02月20日 | 日記
 二月は”にげる”との別名があることを聞いて、久しい。
 正に、今・二月である。
 そして、残すは一週間余りで三月となる。
 三月も”さる(去る)”と言う。
 何も出来ないままに、時間は過ぎ去っている。
 しかし、「確定申告」の時期となった。
 忙しくなってきたぞ!と思うと共に、日時の過ぎ去る速度は、一段と加速されるのであろう・・・?
        ・
 20日、表題を「いってしまう!」として、内容も書いた。
 21日、朝・目覚め”うぅ!何かへん””確か、二月を行く!と書いたぞ!と気付いた。
 そして、訂正させてさせて頂いた。
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親の心子知らず

2015年02月19日 | 日記
  
 育成を続けている”アボカド”である。
 寒中とは言え、穏やかな陽光日和の日、太陽に当ててやらねば!と思いベランダに出して、四時間ほど”日向ぼっこ”をさせてやった。
 元々、写真:右の様な勢いある葉であった。
 樹勢としても、写真:中の様な状態であったものが、お日様を浴びさせた結果、写真:左となってしまったのである。
 植物=光合成=成長との思いが否定された気分である。
 良かれと思ってした事がいけなかったみたい!
 冬の太陽であっても、日焼けするする事が、御気に召さなかった様である。
        ・
 2014年8月26日に「アボカドも日焼けする?」という日記を書いている。
 この時は、夏の日差しが強くて”葉焼け”したと思っていた。
 太陽の日差しの加減でない事を理解した。
 室内で静かに育成する事にしたい。
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ラジオと私 (19日加筆・修正)

2015年02月18日 | 日記
 「幼き頃の想い出 PotⅡ」を書くに至って”ラジオ”についての思いが込みあがっている。
 思い起こせば、ラジオと言う”道具”を意識したのは何時だろう?
 NHKのラジオ番組であった「新諸国物語」に興味を抱き、聴取する事に熱中した時期もあった。
 ラジオは、聴きたいとの思い(物語(新諸国物語))を届けてくれるモノ(道具=ラジオ)と言う程度の認識であったろうか・・?
 加えて、夏休み中の”ラジオ体操”が(ラジオと言うメディアで)全国一斉に進行していることを知る事になるのには、もう少し時間の経過が必要となる。
 即ち”一斉放送”としてのラジオと言う、機能を知る必要があった。
 余談ながら、夏休み前の最後の授業には「ラジオ体操出席帳(?)」が手渡(配布)された。
 牛乳メーカーの宣伝(?)が裏面に印刷されたモノであった。
 持ち帰ったら、母か姉が、毛糸で首からぶら下げる様に、細工を施していた記憶がある。 
 それは「毎日・出席しろ!頑張れ!!」と言う、暗黙の”威圧”を感じていた。
 そして、毎朝・ラジオ体操に参加した証拠の”印”を貰って帰宅するのである。
 夏休みのある日、親類で祝い事があり、母に連れられ私も、出席した。
 朝、母が「ラジオ体操が始まるよ!」と教えられ、参加した。
 椅子の上にラジオがあり、其処から聴き慣れた声で、ラジオ体操が始まった。
 そして、参加の”証し”をもらって母の元に帰った。
 自宅では、塀を隔てた向こう側が、小学校のグランドで、拡声器(スピーカー)からの、音声であったり、演奏であった。
 音源が”ラジオであるとは気付かなかった。
 また、祖母は、歌を唄う事が好きであった。
 小学校の講堂で、ラジオ放送局(地元・民放局)が催した”のど自慢的”な、公開録音があった。
 スポンサーは、農機具メーカーのヤンマーであったと記憶している。
 自薦・他薦かは、知らないが、祖母は、出場していた。
 後日、放送されたと言う話しは聞いたが、ラジオからの祖母の歌声を聴いた記憶はない。
 ラジオ放送と言うものを意識し始めたことであった。
 当時の大人達が言う、放送局・空間・電波・受信機(ラジオ)の”カラクリ”が知りたいと!
 私が、ラジオと言う”正体”に直接触れる事になるのは、小学生の3~4年生であっただろうか?
 以前に日記にした”船を漕ぐ櫓の操作(日記「小さな願い (2014.12.21)」)”を経験した夏休みである。
 従兄弟の叔父(?)に当たる会社員の人が(従兄弟宅に)下宿していた。
 この人が帰宅すると、会話をもとめ、部屋を訪ねていた。
 そして、滞在中に得た情報(知識)は”ラジオは造れる”と言う事であった。
 ”手品を観る”様な想いであった事が思い出される。
 スパイラルコイル(今の知識で)を巻き、見た事もない電気ハンダコテ(注)で組立てた。
 所謂”鉱石ラジオ”であった。
 この鉱石ラジオは、記念に頂いて帰る事になったが、聴く為には「レシーバー」が必要である。
 従兄弟の叔父が所有する”両耳式マグネチック・レシーバー”は高額だった様で、頂けたのは、ラジオ本体であった。
 両耳に装着する、黒くてメカニックな形状が堪らなく”格好良かった”
 叔母が、私に付き添って帰宅させる際に、駅の近くの電気店で”クリスタル・レシーバー”を買い与えてくれた。
 叔母には申し訳ないが、少しガッカリした。
 この経験が、私と”ラジオ=電波・無線通信”を結びつける結果になったと、思う。
    ・
 注:ハンダ付けと云えば、父の真似事で体験した、コテを炭で熱して、鉛と希塩酸で接合する”コテ”しか知らなかった。
   そして、クリスタル・レシーバーや両耳式マグネチック・レシーバー等の知識は当時(*)は無かった。
   (*:この項、21日加筆)
   当時(小学生の頃)の形状の記憶から、両耳式のレシーバーは「マグチック・レシーバー」
   そして、叔母が買い与えてくれた、乳白色の耳孔に装着するモノは「クリスタル・レシーバー」であったと思っている。
 
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幼き頃の想い出 PrtⅡの2 (18日 加筆)

2015年02月17日 | 日記
 まさかと!と思ったものの、NET社会である。
 「ちゃっくりがきふ」で検索した。
 ヒットするではないか!
 落語の題材であった。 知らなかった。
 落語では「ちゃっくりがきぃふ」である様だ!
 私の記憶違いであるかも知れない。
 私の記憶では”がき”と”ふ”の間に”ぃ”は無かった。
 祖母は、発音していたのかも知れないが、記憶にないのである。
 そして、落語では、行商しても売れない事から、気を引くために、面白・可笑しく、拍子をつけて売り歩いた事に成っている。
 
 ”さて!それならば・・”と思い「ちょろちょろねずみ」でも検索を試みた。
 「ねずみ経」なる”お話し”がある事を知った。
 登場人物や話の内容は同じ様だが、即興で創りあげた”お経”の内容が違っている。
 
 落語は落語、祖母の話しは話しとして、大切に(二つの存在を)記憶に留めたいと思っている。
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幼き頃の想い出 PrtⅡ

2015年02月16日 | 日記
 幼少の頃、祖母の語る”お話し”を聴きたくて”寝間”を同じにしていた事は日記にした。
 思い出される二話目は「チャックリガキフ」と言うフレーズで語られた、祖母の”お話し”である。
 祖母なりに拍子をつけて語る”お話し”が可笑しく・好んで聴いていた様に記憶している。
           ・
 時代は”昔”
 主人公は、物売り(行商)の少年である。
 そして、主人公の家庭環境(*)については、祖母の語る物語(お話し)に設定されていたか記憶にない。
    *:少年が行商しなければならない家庭環境
 要するに、私が記憶しているお話しの舞台は”物売りをする街中”となる。
 「お茶(葉)はいらんかなぁ!」
 「栗はいらんかなぁ!」
 「柿はいらんかなぁ!」
 「麩はいらんかなぁ!」と、大声を出して行商に励んでいた。
 ある日「一つ一つ(商品名を)云うのは面倒だなぁ!
 よっしゃ!これでいこうと思い附いたのが「チャックリガキフ」である。
 「チャックリガキフ!」 
 「チャックリガキフ!」と大声で行商した。
 そうしていると「ボン(坊)何を売っているんや!」と声を掛けられた。
 「判らんかなぁ!」
 そして、一計を講じた。
 「チャックリガキフ! チャは茶で別々・クリは栗で別々・カキは柿で別々・フは麩で別々!」
 結局は、複雑になって、手間がかかる事に気付いた、と言う内容であったと記憶している。
 いま、思うと行商する品目も、どうなんだろう?と考えさせられる。
 「労して功なし」の御話であったのだろうか?
             ・
 当時の娯楽としては「紙芝居」が一般的であった。
 思い出される紙芝居の題材は「黄金バット」であろうか?・・・
 しかし、紙芝居屋さんが来た合図の拍子木の音を聴いても、小遣いが無ければ、観に行く”後ろめたさ”もあったことを思い出される。
 時折、母におねだりして、小遣いをもらって、水飴(ギョウセンと云っていた様に思う)を買った。
 オマケに、赤や青の色粉をつけてもらって、三本の箸(棒)で起用に捏ねていた。
 水飴を販売する”紙芝居屋”のおじさんや、買った水飴を捏ねる私達は、決して衛生的であったとは、云えなかった。
 やがて、小学生の頃になると、NHK・新諸国物語(注)と言う、ラジオ番組があり、熱中した。
 月曜から金曜日の、18時30分~45分に放送されていた。
 父の商売上、来客との会話であったり、作業の騒音(ガス溶接であったり、グラインダーの音など)が家中にはあった。
 特に来客中にラジオの音量を大きくする事は、母に注意されていた。
 ラジオは箪笥の上にあった。
 音量を大きく出来ない事から、私の”耳”を近づけるしかなかった。
 箪笥の引き出しを階段代わりにして、ラジオのスピーカーに耳を近づけて聴いていた。
 それは、高学年になり、箪笥を倒すまで続いた。
 そして、中学生になった頃には、TV放送での「番頭はんと丁稚どん」や「びっくり捕り物帳」に移行していった。
 当然、家にはTV受像機等は無く、電気店の店頭であったり、知り合い(父の門下生だった人)の家でしか、観る事は出来なかった。
 高校生の時代には「力道山」のプロレス中継に熱中する事になる。
               ・
 時代は進み、東京オリンピックで始まったTVのカラー放送(全国中継網)の一員になるとは、幼き当時としては予想だに、しなかった事であった。
 そして、祖母の語る”お話し”が唯一の娯楽であった、幼き当時を、思い出されるのである。
               ・
 注:「新諸国物語」には、白馬の騎士・笛吹き童子・紅孔雀・オテナの塔、などが思い出される。
 
  


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春よ来い!

2015年02月16日 | 日記
 昨日(15日)は、久し振りに屋外の景色と、春を思わせる”カゼ”を肌に感じた。
 幾度と無く、通過し・見慣れた風景ではあっても”表情”が違って見えた。
 そして、3kmに余って土手に咲く「菜の花」に、春の訪れを知った。
 年末から、塞ぎこむ気持ちに負けていた。
 良い刺激になった昨日の、ショートなツーリングであった。
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久し振りのドライブ?

2015年02月15日 | 日記
 昨年末、忘年会のため、高知県須崎市にドライブ(ツーリング)以降、バイクを走らす事は無かった。
 昨日・今日(15日)と、バイクのディラー各店共催のイベントがあった。
 「行かなければ!」と思いつつ、今日を迎えた。
 朝・9時前に目覚めた。
 「(行くの)どうしょうかなぁ!・しんどいなぁ!」
 朝食を頂いた後は、自然と身体が動いた。
 身体は、行く気に成っていた。
 心配事がある”エンジンが起動するか?”と言う事である。
 二ヶ月半ほど、休止している。
 服装を整える前に、エンジンの駆動を試みた。
 案の定”カッチ!”と言うだけで、セルが勢い良く動作しない。
 車のBATTを補助電源として始動させた。
 正午前に自宅を出立し、給油。
 ガソリン代も安くなったと実感した。
 ニケ月半ぶりの”バイクの感触”を味わって、17時頃、無事に帰宅する事が出来た。
 120Km余りのツーリングで、いろんな事を味わう事が出来た。
 ”冬眠(自宅に篭る)”より目覚め、屋外に出なければ、楽しいことは始まらないことを、改めて教えられた。
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美しい(便利な)ものには”トゲ”がある

2015年02月10日 | 日記
 携帯電話である。
 現役を離れ、十数年が過ぎ様としている。
 仕事で使用する連絡手段としての”携帯電話”は、その役目を如何なく発揮していた。
 しかし、昨今では「(今日も一件の)着信はないか!」と、着信履歴を観て思う状況である。
 子供らの忠告で、枕元に置いて就寝する様にはしている。
 しかし、数日に及んで着信が無いと、枕元に置いたまま、忘れてしまって、一日が過ぎる事がある。
 珍しく、固定電話に着信があった。
 「どうして、電話にでないのよ!」お叱りの電話であった。
 「はて?(携帯電話機)何処に置いたか」
 固定電話機から発信して、着信音によって、枕元に置いたままであった事が判明する。
 着信履歴を観ると、確かに”着信”はされている。
 日常的に、利用が疎遠になった昨今では、その存在さえも忘れる事がある。
 そして「(電話に)出ないの!」とお叱りを頂く事となる。
 携帯電話機は携帯してこそ価値がある! 判ってまんがな!
 ”何時でも・何処でも・誰とでも”この要望に応えて発展してきた「携帯電話(機)」ではあるが、発信元の”意”に沿わなければ、トラブル(トゲ)になる。
 便利にはなったが、送る側・受ける側の相互理解が無ければ、成立たないのではないかと改めて考えさせられる。
 発信者は「(着信者は)都合があって、出られないのだ!」と言う寛容な気持ちも必要ではないだろうか?
 月例会メンバーのY氏等は「一週間に一度しか(携帯電話)を観(確認し)ない」と言う。
 従って、返事されるのは、最悪・一週間後となる。
 Y氏の、通信社会(携帯電話利用)の”文化”であり、連絡のやり取りをする”ルール”と成っている。
 そして、メール?のやりとりで”虐め”にまで、発展している事をニュース等で知る。
 (携帯電話機の利用に関する)文化なり・ルールの醸成に、今しばらく”痛み”を経験しなければならないのでしょうか?・・・
 
 
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幼き頃の想いで

2015年02月08日 | 日記
 祖母から聴かされ覚えた”物語”を日記にしたが、同年代に覚えたと思える”唄”がある。
 一かけ・二かけて・三かけて・・・・”から始まる”童歌(?)である。
 唄の最後の部分がどの様であった気掛かりとなった。
 ”・・・・・お墓名前で手をあわせ南無阿弥陀仏とおがみます”が私が覚えている最後の部分で、その後はジャンケンをしていた記憶である。
 ジャンケンをする為の”かぞえ唄”ではなく、口ずさんでいた様にも記憶している。
 NETで検索すると、詳しく調べて人が居られて、地方によって内容が違っている要る事が分った。
 基本は同様であるが、細かいな部分に差異があることが分った。
 ただ「明治10年3月」であったか「明治10年戦役」であったか?今もって思い出せない。
       ・
 記憶している”唄”の内容である。
 一かけ・二かけて・三かけて・四かけて・五かけて
 橋をかけ、橋の欄干 手を腰に、はるか向こうを眺むれば
 十七八の ねえさんが片手に花持ち 線香持ち
 ねえさんねえさん どこ行くの
 私は九州 鹿児島の西郷隆盛 娘です
 (明治十年 三月にOr戦役で)切腹(なさった)なされた父上の、お墓参りに参ります。
 お墓の前で、手を合わせ、南無阿弥陀仏と拝みます。

 ( )の部分がどうの様であったか? 唄わなかった(歌詞としてなかった)様にも思うが、定かではない。
 ”人は回帰する”と言う。
 10歳位まで、戻った事なのか?
 だとしたら、後、少ししかない。如何しよう!?
 幼児期まで戻って、記憶にもない!なんて云う事になったら、さぞ、寂しい事に成るのだろうなぁ!?
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チョロチョロ鼠の孔覗き

2015年02月06日 | 日記
 祖母から聞いた幼き頃の”お話し”の一節である。
 小学校に入学する年代であったと思う。
        ・
 幼き頃の家族は、父母・祖父母・兄弟四人の八人であった。
 母屋と隠居部屋と称し、二棟あった。
 隠居部屋は、三畳と六畳間のある別宅が離れにあった。
 祖父の実家から移築したと聞いて、記憶している。
 祖父母は、この”隠居部屋”で寝起きをしていた。
 祖父は、私が小学校三年生の時に亡くなっている。
 私は、祖母が語るお話が好きで”隠居部屋”で寝る事が多かった。
 寝物語に聞く幾つかの”お話し”のうち、今も思い出される、二つの物語がある。
        ・
 その一つ、物語の主人公は「お婆さん」である。
 お爺さんを喪ったお婆さんは、日頃から庭や野山に咲く花を供えて「お金があれば、お坊さんに供養してもらえるものを!」と申し訳ない気持ちであった。
 ある日、僧侶の格好をした旅の人が、一夜の宿を所望してきた。
 お婆さんは”天の采配”と、一宿の持成しをする。
 食事も終わり、お婆さんは、想いの縁を打ち明けた。
 僧侶の格好した旅人は、お経の一つも唱える事も出来ない。
 引くに引けなくなり、仏前に額ずくが「果てさて、如何したものか?」
 仏前には、線香・供え花・鈴が供えられており、小さな穴が開いていて、鼠が孔から顔を出したり、引っ込んだりしている。
 僧侶の格好をした旅人は、この情景を、節をつけ”神々しくも朗々と”語った。
 「線香たてやら・花立やら・鈴は鈴でソウリン(注)なり、チョロチョロ鼠の孔覗き、また帰られそうらえ!」と・・・
 旅人が帰った後も、お婆さんは、偉いお坊さんから教わった”お経”として、朝な夕なのお勤めに励んだと言う。
 そして、事件が起きた。
 泥棒が「一人住まいの老婆、小銭を溜め込んでいるだろう!」と目星をつけ、お婆さんが寝静まるを待った。
 泥棒が侵入している事も知らず、お婆さんは、就寝前のお勤めで、何時ものとおり”お経なるモノ”を朗朗と唱えた。
 泥棒は「チョロチョロ鼠の孔覗き!」と云われ、「(私が、窺っている事を)知っている」と勘違いして、退散しようとした。
 そして、ダメ押しの「また、帰られそうらえ!」であった。 泥棒の間抜けな顔が思い浮かばれ、滑稽ではないか?
 泥棒が退散した事も・窺っていた事も、お婆さんは知らない。
 でも、被害に逢うこともなく、平穏無事な日常に変わりはなかった。
 
            ・
 祖母は「イワシの頭も信心から!」を教えたかったのではないと思うが「信じる心は救われる」と言う精神論を伝えたかったのでしょうか・・・?
 今となっては、孫や子等に伝承する機会を失った、祖母から、聞き伝えに覚えた”お話し”である。
 他愛も無い話しであっても、幾度と無くせがんで聞いた話である。
 孫や・子等に、話して聞かせる機会が無かった、とは言い訳になるのでしょう。
 せめて、日記にしては!と思ったことであった。

   注:祖母からは、文書でなく”お話し”であったことから、ソウリンが仏教言葉の「相輪」であったかは、記憶にもなく、定かでない。
     そして「りんは、りんで、ソウリンなり」の語りが、文書的に正しいかについても、不明である。,
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