ふくちゃんの絵日記

バイク等での旅行記や、日常生活で感じたことを、絵(写真)に描けるものは描き(添付)絵日記風にしたいと思います。

☆四国・瓶ヶ森に紅葉をもとめて

2012年10月28日 | 旅行記
 

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 10月26日、友人と四国・瓶ヶ森に「紅葉がキレイ」との情報を得て、行ってきた。
 情報では、瓶ヶ森林道は10月で閉鎖されること。
 松山側の石鎚スカイライン(面河~土小屋)は、土日は混雑する、と言うことから天気の良い、ウィーク・ディー(金曜日)とし、寒風山側から行く事にしたのである。
 10時に松山自動車道の西条ICで待合わせ、合流する。
 西条市内で、昼食の弁当と夕食用の食材を買い求め、一台の自動車を預けた。
 国道11号線を松山方面に進んで、西条市の西、加茂川沿いの194号線を高知・伊野町方面に向かう。
 愛媛県と高知県の県境の「寒風山トンネル(5432m無料通行出来る日本最長トンネル?)」を抜け、直ぐに左折し、旧寒風山トンネルの入口から「瓶ヶ森林道」に入った。
 正午過ぎ、瓶ヶ森の駐車場に到着し、昼食をとった。
 今日の絵日記の絵(写真)は、紅葉に彩られた「亀ケ森」山頂付近の風景である。

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☆憧れの”セブンマイルブリッジ”をバイクで走行

2012年10月22日 | 旅行記
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 私は、バイクを運転中で”セブンマイルブリッジ”に関する映像は撮れなかった。
 併走車から撮影した映像の提供があったので、フォト・アルバムとして整理した。
 9月24日早朝、薄暗闇のなかセブンマイルブリッジを折り返し、オーランドのバイクショップに、レンタルバイクの返却に向け、ホテルを出発した。
 まだ、太陽が昇らない頃、マイアミを通過した。
 ルート1号をキーウエスト向け南下。
 フロリダ半島の本土から島伝いにキーウエストまで続く「オーバー・シー・ハイウェイ」を走行する。
 日の出は観られなかったが、此処、半島の本土と島を結ぶ橋の付近で、東の空が明るくなってきた。
 思い描いていた、新旧二本の橋が延々と続く風景を観て「本当に来たんゃ!!」と感動した。
 旧橋は自動車等での走行は出来ない様だが、所々で徒歩通行が出来る様であった。
 そして、何箇所かは橋桁を落とした状況となっていた。
 新橋は、船舶の航行が可能な様に、標高をとった形状である。
 旧橋は、船舶の航行の為に、橋梁を処何処で撤去されていた。
 やがて、Uターン可能な場所を見つけ先頭車両がUターンした。
 私も、Uターンし、帰路に付いた。
 今度は、逆方向の風景画が広がっていた。
 絵日記の絵(写真)は、二枚
 写真・左は、旧橋の様子である。
 写真・右は、新旧のセブンマイルブリッジ

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☆アメリカ旅行 最終章 そして帰宅へ

2012年10月04日 | 旅行記
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 9月27日、アメリカ旅行も最後の行程を残すのみとなった。
 今日の絵日記の”絵(写真)”は、いま流行のAKB48の劇場?としました。
 10時少し前に柏のホテルをチェック・アウトした。
 JR柏駅はホテルの近くにあった。 夜と昼の光景はまったく異なっていた。
 完成していた橋上駅に行き、JR線と東武線の改札口や西口の様子を観て回った。
 私が在住していた時に無かった、ビックカメラの開店待ちをする人が居た。
 時間もあることから入店してみた。
 いろんなのものがあった。
 私はタッチペンが欲しいなぁ!と思い物色したが「〇〇用」とかの表記があり、混乱したので買うのをやめた。
 一時間程、当ても無く店内を見て周り、常磐線と山手線を乗り継いで、秋葉原に向かった。
 確かにあったと思う市場や、レコードを買いに行っていた石丸電気も無くなっており、此処・秋葉原も(私にとって)様変わりしていた。
 ニュースにもなるミニスカートの「ご主人様・・」とか言う客引き?も居た。
 AKB48の演芸場?は此処なのか、と確認もした。
 次の開演の入場者と思われる行列が出来ており「最後列」というプラカードを持った人が居た。
 14時頃になって空腹に気付き、何を食べようかと迷ったが、回転寿司の看板が目に付き入店した。
 16時羽田集合と申し合わせていた。
 まだ早い!と、思ったが、する事も無いので、羽田に向かうこととした。
 浜松町からモノレールで羽田空港へ。
 東京モノレールも様変わりしていた。
 快速便が出来ていた。
 そして、羽田空港の拡張で駅が「羽田A」「羽田B」となっている。
 料金は同じであったが、さて!どちらで降りればいいのか?と思案した。
 航空会社によって異なる様なので、私が今日乗る航空会社は「ANA」であることから「羽田B」で下車することとした。
 空港ロビーに着いて、出発便を案内盤で確認して、拡張された空港ビルを散策した。
 屋上の展望デッキで飛行機の離発着を観て、頃合の時刻となったので出発カウンターに行った。
 昨日、成田でお別れした御両親と東京でお住まいというご子息さん御夫婦が居た。
 搭乗手続きは済んでいると言う事であったので、私も手続きを済ませた。
 搭乗案内があり、御子息さん夫婦のお見送り受け搭乗した。
 指定された席は、今回の旅行で搭乗した飛行機6便のうち、3度目となる非常口のある席であった。
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☆柏の思い出さがし

2012年10月04日 | 旅行記
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 今回の絵日記の”絵(写真)”は、成田空港~JR柏駅に向かうバスの中から撮った、自動車の混雑状況である。
 帰って来た。
 終点のJR柏駅に着いたのは、18時過ぎであった。
 日は暮れていた。
 ホテルのチェックインを18時としていたので、連絡を入れる。
 20数年ぶりで様変わりしていて、ホテルが判らない。 
 二度、電話で道順を聴き、やっとチェックインすることが出来た。
 ホテルは新築間もないと言うことで真新しかった。 フロントから客室に通ずる所にガラス戸があり、「オートロック」との事で、鍵(磁気カード)は持って出るようにとの注意があった。
 荷物を部屋に置き、記憶を頼りに”思い出探し”に出かけた。
 私が過去に在住し、通勤で使ったJR柏駅は、東西に改札口があった。
 そして、東武野田線・柏駅と橋上駅化する工事が始まっていた。
 社宅の位置から東口を通常利用していた。
 勤務を終えて帰宅する時刻は、23時頃が多かった。
 金曜日は、西口から出て、国道6号線経由で帰宅することがあった。
 6号線沿いに深夜まで営業している”酒屋さん”があった。
 私は、ワインの小瓶を買って帰り、飲むのを週末の楽しみとしていた。
 また、通常の東口から社宅までの間に田畑が三面ほどあった。
 そして、七人位入ると満席となるようなバラック造りの飲屋さん「ばんちゃん」があった。
 時たま、営業中の時間帯に帰宅出来る時には、立ち寄っていた処である。
 当時のマスターの年齢からして、今は無いだろうと思いつつ、元の社宅に向かって歩いた。
 田植え時期には、蛙が鳴いていた田畑も無く、生活感あふれるスペースの連続となっていた。
 社宅も様変わりしていた。 
 周辺にあったケーヨーホームセンター(現在はD2?)も、コンビニも、中華そば屋さんも、なくなっていた。
 加えて、TVとステレオ台として買った大型家具屋も無くなっていた。
 時代の流れで、私にとっての思い出に残るものは存在しなかった。
 この旅行から帰って最初の食事を”日本的に”と考え、ホテルへの帰り道にあった居酒屋に入った。
 「イカのまる煮」「秋刀魚の刺身」「(小さいサザエのような)貝の煮物」と日本酒を注文した。
 一時間余りの飲食の後、駅近くのイトーヨーカドーに寄って、明日の朝食等の買い物をしホテルに帰った。
 明日は「秋葉原」に行く予定であり、10時のチェックアウト間際まで滞在する予定である。
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☆アメリカ五日目

2012年10月04日 | 旅行記
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 アメリカ五日目(9月25日)、帰る日である。
 オーランドでの宿泊は四日間を予定していたが、NASAやセブンマイル・ブリッジに行ったときの宿泊はキャンセルはしなかったため実質三泊であった。
 このホテルはNETで検索できる、アメリカで一般的と言われるモーターカー・ホテル(モーテル)と思われる100室を超える規模の格安な料金設定であった。
 室内は、ビジネス・ホテルと変わらない、ダブルベッド・洗面台・風呂及びトイレがあり、寝間着とタオル・石鹸類は持って行くように云われていたが、タオル・石鹸類は完備されていた。
 専用プールもあり、宿泊客の何人かは利用していた。
 帰る朝、まだ空は明け染めていなかったが、ホテルを背景に記念写真を撮った。(写真:左)
 そして、ホテルを午前6時過ぎチェックアウトをして、空港に向け出発した。
 ホテル~空港間で道に迷ったが、大きな時間的なロスもなく、7時過ぎにオーランド国際空港に着いた。
 搭乗手続きを行ったが、預ける荷物は「成田受け取り」と云う事で、乗換え空港(ワシントン・ダレス国際空港)で受取らなくて良いとの事であった。
 これ等を見定めた娘達は、レンタルしていた自動車の返却処理に行った。
 返却処理も問題なく出来たようで、短時間のうちに戻ってきた。
 出発ゲートの確認し、娘達と別れた。
 此れからは”親”三人での帰国である。
 往路と同様な手荷物検査受け、搭乗案内を待った。
 午前9時、定刻にワシントン・ダレス国際空港に向け飛び立った。
 航空会社は同じく、ユナイテッド航空で添乗員は女性3人であった。
 機内サービスでは、コーヒーを注文し、「砂糖は?」と言った雰囲気であったので、頷いた。
 砂糖・パウダー・マドラーのセットが届いた。
 11時過ぎ、ワシントン・ダレス国際空港に着陸した。
 一時間余りでの乗り継ぎである。
 出発ゲートを確認(写真:左から二番目)し、出国手続きや手荷物検査を受けた。
 出国手続きは、入国時と比べパスポートを提示する程度で済んだ。
 また、手荷物検査は日本語だったので、ストレスは無かった。
 出発ゲートには連絡用の電車(写真:左から三番目)に乗って移動した。
 停車位置三つ目で降りた。
 コンコース(写真:右)でお土産を買うため散策したが、チョコレートが良いか!と考え購入した。
 販売員の女性が電卓で販売価格(消費税込み)を計算し、提示した。
 提示された電卓の表示は「2.711」とあった。
 「あれ!2ドルって安いんでは?」と思った。
 紙幣2ドルとコインを出そうとすると、財布の中の20ドル紙幣を要求してきた。
 何のことはない、27ドル11セントと言うことであった。
 買った商品が、日常的なものでなく、商品価値が判らなかった恥ずかしい体験であった。
 ワシントン・ダレス空港から成田空港間は、ANA(往路と同じ)である。
 12時20分、定刻に離陸した。
 またしても、閉じ込められた空間で時を過ごさなければならない。
 窓側三席の中央の席である。
 往路の羽田までと同様に、非常口のところで前席での威圧感も無く、自由に足を伸ばすことが出来たし、閉鎖感は少なかった。
 左隣は日本人で「お願いします」「此方こそ!」と会話を交わし着席した。
 暫くして右側(窓際)に、私から見て”外国人”が着席した。
 日本人とは、この時交わした会話だけ、そして右隣の人とは、成田に着いて、シートベルト着用解除のサインが消えた時、チューインガムを差し出されので、頂くと言う意思疎通のみで終わった。
 機内サービスを受けた時、思わず「サンキュー」と言った。
 言った後で、可笑しさが込み上げてきた。
 そして、緊張が解けた気持ちとなっていた。
 ワシントンを25日12時20分に出て、成田着が26日15時25分。
 時間の経過で、頭が混乱する。
 成田空港に到着して、入国審査を受け、オーランド空港で預けた荷物を受取った。
 私は、これから千葉県柏市に向かう。
 同行のご両親は、東京に住まわれるご子息さん宅で宿泊するため、東京駅まで向かわれると言うことで「明日、羽田で再会しましょう!」とお別れした。
 成田から柏のアクセスが悪く、待ち時間はあったが成田~柏直通バスを利用することとした。
 そして、明日の行程を考え、荷物を宅配便で送るため手続きをした。
 送料2000円也。
 高いかどうかは、明日の行動で判るでしょう。
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☆アメリカ四日目

2012年10月02日 | 旅行記
 燃料を補給し、再度、高速道路に入った。
 そして、SAに入って停車した。
 売店の担当者に聞いているようであった。
 この一連の行為については後で説明する。
 燃料タンク「空返し」で契約しているので、返却まで此れでOKと判断していたが、またもや”E”に近づいてきた。
 停車要請の信号を出そうとした時、高速を降りた。
 ガソリンゲージはEの上となり補給なしで走行可能と思った。
 16時過ぎ、無事に返却し、賠償の預託金の支払いもなく処理出来た。
 総走行距離780マイル(バイクのメーターでの走行距離)であったが、ショップのログでは1400マイルとなっていて、ショップの担当者が驚いていた。
 どちらが正しいか、検証はまだしていない。
 此処で先ほどの問題であるが、SAでなく料金所(IC)で降りて(給油はしたものの)再度、高速に入った事の問題は、前の料金所で、前を走る娘から「〇〇」と云って”切符”を振りかざしていた。
 後続の私の”切符”の交付を要求したが、認められなかった様で「”切符”を受取れ!」と言う意思表示であった。
 私は、何時ものとおりで良いと思い受取らずに通過した。
 それを観て、次の料金所で事情を話し問題を解決してもらった様である。
 加えて、我々は高速道路上に仕掛けられたTVカメラの様なものが沢山取付けられたゲートを少なくても三回程、通過していた。
 娘達が「何かおかしい」と気付き、走行中の車両の中でインターネットで調べた様で、日本で云う「ETC」未搭載車は通過してはいけないレーンだったようである。
 そして、そのゲート付近には”〇〇カードだけ(only)”と言う表示があった。
 従って、このカードの説明と必要なら購入すべくSAに入った様であった。
 違反(無申告)なら数百ドルの請求があるらしい。
 返却時に、バイクショップの担当者に、その旨を話すと「判りました。
 (当局?から)請求があった時点で登録してあるキャッシュレスカードから引き落とさせて頂きます」との事で、よくある間違いの様であった。
 自動車の方も同じ処理を返却時に申告して処理することとした。
 請求額は数ドル程度の様であった。
 今日も、波乱万丈の一日であったと思う。
 いよいよ、明日は日本に帰る日である。
 無事に行程が終了したので”祝杯”を挙げよう!と云う事になった。
 しかも、日本的料理で・・・とは言え、右も左も判らない場所である。
 結局、Mさんが教えてくれた”西部劇に出てきそうな佇まいのお店”で、最終の夕食をとることにした。
 ビールの提供はあるだろうと期待したが駄目であった。
 私は、最後の食事に「ビフテキを!」と思い注文したが、揚げた肉料理が出てきた。
 ビーフ〇〇の頭に何か書かれていた。
 娘に聞くと、出された料理の意味であったようで、失敗した。
 近くにあったマーケットでビールとおつまみ、明日の朝食を買ってホテルに帰った。
 荷物をまとめ、帰り支度を整えた。
 明日の問題点、それは、娘夫婦は30日に帰国する。
 従って、出国手続きは、乗換え空港であるワシントン・ダレス空港である。
 オーランド空港を出ると、私たち年配三人組だけとなることから、これまた心配の種である。
 さて、如何なる事になるのでしょうか?
 
 今日の絵日記の絵(写真)は、レンタルバイク店の”Tシャツ”である。
 レンタルしたバイクで”アメリカを走った証し”に成ればと購入した。

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☆アメリカ・三日目、NASAへ アメリカでツーリングに挑戦!

2012年10月01日 | 旅行記

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 アメリカ三日目、9月23日である。
 レンタルバイクショップ、9時の開店を見計らって入店した。
 担当者は昨日の女性担当である。
 娘が「親切で感じの良い人」と云っていたが、言葉の壁を超えて、感じられた。
 提供車両の点検(傷とか・・)で同意を求められサインをし、手続きは完了した。
 そして、その人は契約書にある返却時刻(25日午前9時)を過ぎ10時30分位までは良いですよ!と付け加えてくれた。
 私としては、アメリカの極一部をツーリングする訳であるが、昨日、TFさん宅でのホームパーティーで、今日「セブンマイルブリッジ・キーウエスト」に行く話しを(娘が)した。
 言語が判らず、意味不明であったが、何か忠告をして頂いた様である。
 そして、計画を若干、修正しての行動となった。
 当初、キーウエストまで行く予定を、セブンマイルブリッジを渡ったところで折り返すこととした。
 時間的な制約が有ったことが最大の理由である。
 バイクを24日17時(閉店時刻)までに返却しなければ、25日午前7時の搭乗手続き前の時刻に、オーランド空港に行けなくなる。
 閉店時刻の17時までに返却出来なければ、帰国出来ないこととなってしまうのである。
 これらの時間的な制約に加え、昨日の忠告を勘案して、マイアミの手前で宿泊し、翌早朝(4時)ホテルを出発。
 セブンマイルブリッジを渡り終えた処で、折り返しオーランドのホテルに戻るという計画となった。
 エンジンの調子、油圧状況、走行でのブレーキング動作、チェンジ状況等を確認して、最初の目的地NASAに向け、ツーリングを開始した。
 初めて体験する6速エンジンである。
 レンタルバイクの予約が成立すると、現地での契約に関する記入要領や交通ルールに関する情報の提供があった。
 標識類について、見て(私の感覚で)意味不明なものは覚えるしかない。
 「進入禁止」、フリーウェイへの合流点に有ると言う「ゆずれ(VIELD)」や「制限速度」表示等を覚えた。
 日本と大きく異なる点は、右側走行であること、赤信号であっても左から進行車両がなく安全であれば右折が出来ること、踏切では一旦停車は必要でないこと等であろうか。
 右側走行に関しては、周囲の(車両走行)状況から、余り気にならなかったが、左折時に内側の左車線に進みそうで緊張でした。
 走行中、パスポートの写真に類似するよう整髪した為と、髪の毛のボリュームが無く、風圧でヘルメットがガサガサ揺れる。
 二時間程の距離を、先ずは最初の”アメリカ”を走りきった。
 NASA到着が正午前で、NASAの出発を14時30分とすることにして、自由見学とした。
 しかし、意思疎通上での不安もあり、買い物以外は同じ行動となっていた。
 ここアメリカに来る前に、バイクショップのKSさんに聞いていた「嵌るらしいよ!」との言葉どおり、見学コースも多種あるようで、時間を考え見学コースの選定は、娘夫婦にお任せしていた。
 集合・出発の時間となり、念願の「セブンマイルブリッジ」に向けNASAを後にした。
 遠い、そして、フロリダ”半島”と云っても広い。
 走っても・走っても、今日の目的地までの距離が縮まらない。
 日付が変る時間頃になってやっと、予約していたホテルを見付け、チェックイン前に、夕食を買いにコンビニに行った。
 明日は、午前4時出発である。
 早々に寝床についた。
 翌・24日早朝、暗闇のなかセブンマイルブリッジを折り返し、オーランドのバイクショップへ返却に向け出発した。
 まだ、太陽が昇らない頃、マイアミを通過した。
 ルート1号をキーウエスト向け南下。 フロリダ半島の本土から島伝いにキーウエストまで続く「オーバー・シー・ハイウェイ」を走行する。
 日の出は観られなかったが、此処、半島の本土と島を結ぶ橋の付近で、東の空が明るくなってきた。
 思い描いていた、新旧二本の橋が延々と続く風景を観て「本当に来たんゃ!!」と感動した。
 やがて、Uターン可能な場所を見つけ先頭車両がUターンした。
 私も、Uターンし、帰路に付いた。 今度は、逆方向の風景画が広がっていた。
 マイアミの手前付近?で、睡魔が襲ってきた。
 先頭車両が停止した。
 同じく、眠気で休憩すると言う。
 助かった。
 20分程、仮眠することとした。
 私も仮眠をとろうとしたが眠れなかったので、お土産ものとして二点、買物をした。
 マイアミを過ぎ、燃料ゲージが”E”に近づいてきた。
 先を走る車両の燃料容量の違いか、停車する様子がない。
 高速道路であり、ガス欠にでもなれば一大事と考え、サービスエリア(SA)と思われる看板にGSのマークがあったので、ヘッドライトをHighとLowを切り替え停車の意思を伝えた。
 すると、SAの手前のICで料金清算をして、高速を降りた。
 燃料を補給し、再度、高速道路に入った。
 そして、SAに入って停車した。
 売店の担当者に何やら聞いているようであった。
 この一連の行為については後で説明する。
 燃料タンク「空返し」で契約しているので、返却まで走行出来ると判断していたが、またもや”E”に近づいてきた。
 停車要請の信号を出そうとした時、高速を降りた。
 ガソリンゲージはEの上となり補給なしで走行可能と思った。
 16時過ぎ、無事に返却し、事故等での賠償の(預託金)支払いもなく返却が出来た。
 総走行距離780マイル(バイクのメーターでの走行距離)であったが、ショップのログでは1400マイルとなっていて、ショップの担当者が驚いていた。
 どちらが正しいか、検証はまだしていない。
 此処で先ほどの問題であるが、SAでなく料金所(IC)で降りて(給油はしたものの)再度、高速に入った事の問題は、前の料金所で、前を走る娘から「〇〇」と云って”切符”を振りかざしていた。
 後続の私の”切符”の交付を要求したが、認められなかった様で「”切符”を受取れ!」と言う意思表示であった。
 私は、何時ものとおりで良いと思い受取らずに通過した。
 それを観て、次の料金所で降りて、事情を話し問題を解決(一枚の切符で二台分の支払い)してもらった様である。
 加えて、我々は高速道路上に仕掛けられたTVカメラの様なものが沢山取付けられたゲートを少なくても三回程、通過していた。
 娘達が「何かおかしい」と気付き、走行中の車両の中で調べた様(インターネット)で、日本で云う「ETC」未搭載車は通過してはいけないレーンだったようである。
 そして、そのゲート付近には”〇〇カードだけ(only)”と言う表示があった。
 従って、この表示の説明と”カード”が必要なら購入すべくSAに入った様であった。
 違反(無申告)なら数百ドルの請求があるらしい。
 返却時に、バイクショップの担当者に、その旨を話すと「判りました。
 (当局?から)請求があった時点で登録してあるキャッシュレスカードから引き落とさせて頂きます」との事で、よくある間違いの様であった。
 自動車の方も同じ処理を返却時に申告して処理することとした。
 請求額は数ドル程度の様であった。
 今日も、波乱万丈の一日であったと思う。
 いよいよ、明日は日本に帰る日である。
 無事に行程が終了したので”祝杯”を挙げよう!と云う事になった。
 しかも、日本的料理で・・・とは言え、右も左も判らない場所である。
 結局、Mさんが教えてくれた”西部劇に出てきそうな佇まいのお店”で、最終の夕食をとることにした。
 ビールの提供はあるだろうと期待したが駄目であった。
 私は、最後の食事に「ビフテキを!」と思い注文したが、揚げた肉料理が出てきた。
 ビーフ〇〇の頭に何か書かれていた。
 娘に聞くと、出された料理の意味であったようで、失敗した。
 近くにあったマーケットでビールとおつまみ、明日の朝食を買ってホテルに帰った。
 荷物をまとめ、帰り支度を整えた。
 明日の問題点、それは、娘夫婦は30日に帰国する。
 従って、出国手続きは、乗換え空港であるワシントン・ダレス空港である。
 オーランド空港を出ると、私たち年配三人組だけとなることから、これまた心配の種である。
 さて、如何なる事になるのでしょうか?
 今日の絵日記の絵(写真)は3枚で、写真・左より写真:1~写真:3とする。
 写真:1 レンタルしたバイクと私、駐車場での試験運転も済ませた。
 写真:2 NASAに向かって、高速走行中
 写真:3 ケネディ宇宙センター(NASA)入口

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☆アメリカでの二日目

2012年10月01日 | 旅行記
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 9月22日 アメリカ二日目で、今日の絵日記の絵(写真)は、訪問したTFさん邸の三枚である。
 写真・左は、TFさんのご自宅 玄関部分
 写真・中は、ウッドデッキに続く建築中の東屋? この東屋は、TFさんの手造りとの事であった。
 写真・右は、中庭のプール(深さ1.5m)
 昨夜、オーランド空港で出迎えて頂いた、Mさんの孫娘であるTFさんが、ホームパーティーを開いて歓迎して頂けることになり、訪ねることとなった。
 TFさんとは、25年ぶりの再開である。
 最初にお目にかかった時は、14~5才だったが、今では二児の母親となっている。
 再会がたのしみである。
 アメリカ二日目をホテルで目覚める。
 朝食を食べるため、ホテルから車で10分程のところにある、人気のお店ということで、Mさんが案内してくれた。
 西部劇に出てくる様なお店の佇まいで、順番待ちの状態で”人気のお店”と言う感覚が伝わってくる。
 私の日常的な朝食は、軽めなことから、ベーコンと目玉焼きがメインとなった定食に牛乳を注文した。
 牛乳が美味しかった。
 朝食を済ませると、最近出来たという巨大な”ショッピング・モール”を案内された。
 此処で、娘夫婦は、プリペード式の携帯電話を購入していた。
 MさんやTFさんとの連絡用に、そして明日と明後日は、自動車とバイクの二本立てとなるため、連絡用にと気遣って二台、購入してもらったものであった。
 店舗の広さに驚くとともに、広大な土地を有するアメリカと言うことか、駐車場も立体駐車場でなく、平面な駐車場である。
 広大過ぎて何処に駐車したのか判らなくなるのではないかとか、駐車場と店舗を結ぶ連絡バスが要るのではないかと、要らぬ心配をした。
 Mさんにお願いして、予約してあるレンタル・バイクのお店に連れて行ってもらった。
 そして、手続きを今日、済ませておけば明日、素早く行動が出来るとの考えからである。
 手続きで、娘の語学力で無理な部分はMさんが補って頂き、無事に手続きは完了した。
 契約の中に「日本語サポート」という事項を追加していたが、手続きでのサポートはMさんのご助力で、不要であった。
 昼食を済ませ、TFさんのお家に向かった。
 一時間半程、自動車で移動し、15時頃に到着した。
 湖畔に佇む住居は、環境的にも、住宅そのものも素敵であった。
 TFさんがビール(瓶)を出してくれた。
 アメリカ式と言うか”ラッパ飲み”である。
 瓶の栓は普通に変らない王冠であるが、栓抜きが無くても、手で開けらるもので感心した。
 やがて、ALさん(母親)と娘さんのANとGLがやって来た。
 ALさんとANとは、15年来の再会である。 
 GLは5年前に来日した折、お会いしている。
 Mさんのご主人の兄弟達(弟と妹、息子)も来た。
 娘と懐かしい再会の挨拶を交わしていた。
 夕食時になって、分厚いステーキ肉を振舞われた。
 お腹いっぱいになった。 
 予めTFさんから”焼き加減”を聞かれたが、無難な”普通で!”とお願いしていた。
 夕食も落ち着いたところで、MさんやGLが来日した時の写真をスライドショーにして、TV(DVD)若しくは、パソコンで観られるようと二種類のディスクを用意してあったものを、プレゼントした。
 不安であったTV(DVD)で観られたので一安心であった。
 21時も過ぎたことから、ホテルに帰ることにした。
 地理不案内な私達を気遣って、TFさんが途中まで道案内をしてくれることになって、無事にホテルに着くことが出来た。
 TFさん、お世話になりました。
 そして、ご馳走様でした。
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