ふくちゃんの絵日記

バイク等での旅行記や、日常生活で感じたことを、絵(写真)に描けるものは描き(添付)絵日記風にしたいと思います。

☆その後の”メダカ”たち

2014年11月15日 | 日記
 我家に”メダカ”が来て程なく、産卵・孵化を体験し、正直・幾らでも増やせると思った。
 甘い! 甘かった。
 原因は判らないが、メダカ鉢では、産卵を繰り返していたものが、水槽ではタマゴを抱えなくなった。
 何故だろう??
 そして、数度の産卵で、確認できた孵化数は9匹であった。
 引続き、親たちの水槽とは別に”メダカ鉢”で成長を見守ってきた。 つもりであった。
 水が悪かったのか、一匹だけになってしまっていた。
 死なせてしまって、かわいそうな事をした。
 そこで、閉塞した”鉢”より、育成水を循環させる水槽が良いのでは!と想い、移し替えた。
 まだまだ、小型ではあるが、親達に”食われる"ことはないだろう。
 虐めか、お遊びか知らないけど、時々、先住人(メダカ)に追っかけられてはいるが・・・・
 「おい!大丈夫か? 虐められているのか?」とも聴けないし、見守るしかない。
   
 二週間程、経過すると”苔”が付着する。
 取り除くのが大変である。
 しかし、清掃してやると、輝くばかりの育成水になる。
 メダカたちも気持が良いのだろうと思うが「気持ち良いよ!有難う!」と言う声は聞こえてこない。
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☆文章というもの

2014年11月14日 | 日記
 昨夜は、月例の懇親会があった。
 電車の下車までに1名ないし2名が同じ電車に乗り合わすのであるが、誰も乗車してこない。
 本当に、今日なのか?と、又しても不安となった。 
 自問自答した。
 13日・木曜日、よっしゃ!間違いない。
 そして、会場に到着「いらっしゃい。今日は三階に御用意しております」と案内された。
 ほっとした。
 何時のとおり、楽しい会話はあっと言う間に過ぎ去った。
 帰りはK氏と、三駅を伴にして帰宅した。
 K氏が「日記を続けられることが凄い!」と面映いお言葉を頂いた。
 私の文書は「くどい!」と子供に受け入れてもらえない。
 日記にする場面の環境状態や雰囲気などを説明するのに”此れでもか!”と二重三重に説明を重ねるクセがある。
 そのことで、文書が長文化し”くどい”と言う文書になってしまう。
 私の”くどい”と云われる文書と、余りにも簡潔すぎる文書がある。
 Twitterと言われるものの文章である。
 140文字と言う制約があるにしても、理解できる文書がどれ程あるだろうか、と考える。
 多く観られる、疑問符で終わる文書は、何を訴えたいのだろうか、私は理解できないでいる。
 確かに「此れは!」と考えさせられる表現のものもある。
 日本には17文字で言い表す文化がある。
 「140文字の制約」と云っても、17文字に比ぶれば表現できる情報量は膨大である。
 「起承転結」と言う言葉がある。
 そして「5W1H」による文書表現の手法がある。
 5W1Hのうち、どれが欠落しても、不明確な文書になると云われる。
 長すぎても短すぎても、読む側に不快感を与えてしまう結果となる。
 やはり、作文は難しい!!
 *
 *
  ”つぶやき”をつぶやく
   「つぶやき」&「つぶやく」は、問い掛けたり、話しかけたりする事でなく、内面的な事と思う。
   従って、他人に対して、意味不明であっても、何ら差し障りはない事になる。
   しかし、つぶやく言葉を公開する意味とは・・・・・??
 
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☆「ふくちゃんの絵日記」は、お引越しします。

2014年11月14日 | 日記
 Blog「ふくちゃんの絵日記」は引越しを余儀なくされました。
 Blogを運営する「OCN」がブログ・サービスを終了するするとの事で止む無しです。
 「体験版」で、予行演習を行うも、絵(写真)の添付方法等の手順が、今一つ・理解できません。
 元の絵日記の形態も整うまでに、いま暫く時間が掛かりそうです。
 何はともあれ「OCNブログ人」から「gooブログ」に、引っ越す事を御通知申し上げます。
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☆”情が移る”と云うこと

2014年11月10日 | 日記
 我家の犬くんに関する日記である。
 六年程前のある日、娘に「犬を飼いたい!」と私の意思を伝えた。
 犬との同居は、中学生の頃、以来であった。
 犬種は、息子の処に居るのと同じで!と言う話しがまとまり、娘の友人に”仲人”をお願いした。
 やがて生後三ヶ月の子犬と”養子縁組”が決まり、熊本から飛行機で遣って来た。
 そして、我家の”次女”となった。
 写真による”御見合い”であった。
 その映像は鮮明なものではなかった。
 どんな子と、期待と不安が交差した。
 出迎えた空港で初対面を果たした。
 一目惚れであった。
 愛しさをおぼえた。
 年に一度、予防接種やワクチン接種・フィラリアの予防薬を受けに獣医院に行く位で、世話の懸らない”子”であった。
 この様な平穏な日が五年ほど続いた。
 この間に、長女は嫁ぎ、此の子は我家の”一人娘”となった。
 しかし、今年(平成26年)4月に至って、病気を発症した。
 重症であった。
 獣医から「何時、如何なる事があって(死亡して)も不思議ではない」と言う言葉を何度と無く聴かされる程度のものであった。
 「死なせたくない!」と思ってみても、此ればかりは、人間の”力”だけでは、制御が効かない。
 無力を知らされた。
 施術の状態をみて、娘は涙ながらに「楽にしてやろう!」と言う場面が、2度ほどあった。
 私も、秘かに”その方が良いか?”とも思った。
 しかし、奇跡はおきた。
 回復の兆しが見え出した時、獣医師が「私の力(医療の施し)ではなかった」と云わしめ、犬くんは”生存を選んでくれた。
 振り返って、歴史を検証する。
 二つの歴史があったと想定する。
 一つは、何事も無く今日まで過ごしてきた架空の歴史。
 そして、病という経験を伴う、今回の 実体験の歴史である。
 後者の歴史では、犬くんに病気と言う、想いもよらない事件が起きた。
 闘病中、娘との感情の葛藤であったり、生きようと努力する犬くんの姿勢を観るに附け、犬くんの死と直面しながら、平常心を装う姿に、愛しさが増幅された様に思える。
 生かしてやりたい!と言う想いと願い・・・・
 深く関わることで”情が移る”と言うことであろうか?
 今は、生きてくれたと言う感謝と伴に、難病を克服してくれた”犬くん”が愛おしく・可愛くて堪らないのである。
 二つの想定する歴史の中で、一つ目は実体験でないことから、犬くんに対する感情が”どれ程”のもの定かでない。
 だが、後者は、苦しさを経験した分だけ”情”が深くなった事は確かな様である。
 この様な事を、経験したことにより「(死なせた悲しさから)犬は飼わまい!」と中学生の頃から思っていた不安や恐怖を克服することが出来た様に思う。
 そして、当の犬くんは、この日記を書いている傍で、微かな寝息をたてている。
 穏やかな時間の経過である。
 
 追伸
 闘病中は、何事にも手助けをしてきたことから”甘え方”を学習したようである。
 例えば、スポーツ・ジムに行こうと準備を始めると「私はどうするの?・私も行くのでしょ!」と、思える表情と伴に、甘え声を発し、訴えるのである。
 ”心を鬼にして!”独り立ち(甘えの解消)出来る状態に戻さなければならない。
 此れも辛いよ! ホイホイと、何時ものとおり、甘えさせるほうが楽である。
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☆新年への準備

2014年11月10日 | 日記
 2014年・平成26年も、残り僅かとなった。
 来年の年賀ハガキは”配達付き”で購入(「光陰矢のごとし(2014.10.19)」)する事になっていたが、先方の都合(「所用が出来て、持って行けない」との事)により、郵送されてきた。
 年賀ハガキの準備は整った。
 例年の、バイク仲間の忘年会も計画された。
 と、同時に今年、最後のツーリングの計画も設定された。
 そして、ご不幸があり、年末始の挨拶を遠慮する旨の郵便物も受取る様になった。
 視覚(カレンダーから)だけでなく、周囲が騒がしくなってきた感がある。
 めぐり巡って”新年”を迎える来年は、六順目となる節目の年明けとなる。
 しかし、特段、変わった儀式をする事もない、例年のとおりの新年を迎えることになるのでしょう。
 最近、チョット気掛かりな事がある。
 ”年”を表すのに「西暦」表示が多くなってのではないかと、思うことである。
 平成になって早、26年となるが、昭和の時代には「和暦」表示が多かった様に思うのである。
 近年の、カレンダーを観ても、主題表示は西暦で、副題的に和暦が表示されている。
  注:主題・副題は単に文字の大きさを区別したものである。
 製造工場の海外進出など、海外との関わりから”西暦”表示となったのであろうか?
 この様な思いをしているのは、私だけではないと思うのですが・・・
 疑問に思った事から少し調べてみた。
 そして、以下のことが分かった。
 ①官公庁で扱う”暦”は和暦であること。
 ②和暦の改元は、年の途中でもされることから”不便”と感じる人(若年層に)が多いこと。
 加えて、社会的要因(NET等)から、西暦での取り扱いが一般的になっていることが分かった。
 確かに、昭和から平成となって、昭和なら今年は何年?とか、西暦では?と言った”早見表・換算表”が必要となる。
 官公庁以外での書類には”年号”の記載は無く、西暦でも和暦でも良くなっている。
 和暦の使われ方も、今後、少なくなっていくのであろうか・・・・
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☆日本流?

2014年11月09日 | 日記
  品質管理(Quality Control=QC)&統合的品質管理、または、全社的品質管理(Total Quality Control=TQC)という言葉を耳にしなくなった。
 現役を退いた為であろうか?
 指導し・指導され”業務改善”の取組みを経験した。
 工程を見直し、無理・無駄を徹底的に無くす事などに、血眼になった時代を経験したのである。
 当時、手本となったのが「トヨタ」の取組みであったと思う。
 技術系・事務系を問わず”業務改善”に取り組んでいた。
 その様な取組みが、今ある日本の”(高品質を産み出す)仕事のやり方”と云われ、世界的に評価されているとすれば、喜ばしい事と思う。
 合理主義であるか・多少の合理性を犠牲にしてでも”美”と云うか”+α(付加価値)”を求め、QC手法で不合理分を軽減するか。
 そして”煌びやかさ”を好むか”ワビ・サビ”を好むかは、人・夫々であると思う。
 大上段に振りかぶった文書から始まったが、大した日記ではない。
 些細な事であるが、私のバイクで思うことがある。
 例えば、排気管と消音器を連結し、固定する部品の扱い方に違和感を覚えるのである。
 クランプと言うかバンドと言うか、両者を固定するボルト・ナットの扱い方が”日本流”で無い様に思うのである。
 ボルトの頭を表面(見える側)にして、体裁を整えるのではないかと思う。
 しかし、ナットとボルトのネジやまが目に付く表面に取り付けらている。
 ある時、消音器を交換した、
 その時、私が”美”と思う、ボルトの頭を表面にしておいた。
 その後、整備工場(ディラー)に整備依頼をし、受取ると、ボルトのネジやまとナットが表面になる様に戻されていた。
 マニュアルに基づき”正当”な形状に戻されたものと思われた。
 合理性の観点からすると、工程(締付ける)は単純化される。
 ”美的”とか体裁から考えると、長く伸びたボルトとナットが見えないほうが良いように思うのである。
 工程の無駄を省くためには、工具を考案したり、バンドにナットを溶接して一体的な部品にするのではないだろうか?と考えてしまう。 所謂、QC手法を用いて(業務)改善を図ると言うことになる。
 時代を少し溯って、現役時代、無線での中継回線を作成する業務を担ったことがある。
 ”貿易摩擦”たら言う政治問題にも関わった。
 使い慣れた国産品で設計し、施工する段取りであったが、急遽、外国産を使用することになった。
 無線通信での”電波”を空中に送出したり受けたりする空中線(アンテナ)である。
 その空中線を、鉄塔に設営する工事に、メーカーの技術者と通訳が立ち会った。
 地上からクレーンで鉄塔上まで吊り上げ、設置をする際に、鉄材の端に指が触れた。
 軍手をしての作業ではあったが、軍手が刃物で切られた様に口が開いていた。
 良く観ると”バリ”の処理がされていなく、刃物のような形状であった。
 「危険ではないか」と通訳を通じ、質問した。
 「性能には影響しない。 何故、そこ(研磨)まで、しなければならない?」と云う回答であった。
 「施工の際に、気を付ければ良いだけ!」との発想であった。
 「商品・製品としての総合品質ではないか」と反論したが、通じることでは無かった。
 求める電波伝播上のスペックだけなら、正当ではある。
 合理性を追求した結果ではあるだろうが、人間との整合性から考えて”如何なもの”かと、私は思ったことであった。
 国産では考えられないことであり”文化の違い”と云えば片付く話ではあった。
 バイクの車検時期を迎え、消音器を取り替える作業で、昔を懐かしく思い出された話である。
 QCから、モノ造りと国民性と、壮大なテーマで始まり、些細な内容で”オチ”となりました。
 だから(冒頭に)云ったでしょ!大した内容の日記ではないと・・・
  注:消音器は純正部品ではあるが、ノーマルなカタチで車検を受けるため交換したものである。
    車検後、再度の交換はしない。 此れからは、大人しくノーマルでいきます。
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☆老いの代名詞

2014年11月07日 | 日記
 男性の”老い方”を表現すのに「歯・眼・〇〇」の順番(でその機能が失われていく)と言うことを耳にする。
 しかし”毛(体毛)”に関する加齢との関係式は聞かない。
 体毛は、その人の置かれた環境に左右される様である。
 40数年前、東京都・高円寺に半年程、家族で生活した経験がある。
 人の多さに、特に丸の内線での通勤は、地獄の様に感じていた。
 ”人に酔う”である。
 そして、家に帰れば、環状7号線の近くであった為だろうか”鼻毛”が異常に成長するのである。
 排ガス規制の直後で、自己防衛的に有害な吸気を体内に入れまいと、鼻毛の成長が促進されたのだろうか?・・・・
 そして、25年位前に、転勤で千葉県柏市に転居した。
 此の時の、私に与えられた”仕事”は、それまで経験もした事も無い業務で、言語の異なる外国で生活している様な感覚であった。
 所謂、ストレスを感じる毎日であった。
 毎朝、出勤の準備をしていて頭髪の異常に気付く様になっていた。
 娘が背後に立って、息を吹きかける。
 その息を感じるのである。
 業務上のストレスから”円形脱毛症”を患っていた。
 しかし、転勤で地元に帰って、数年が経過した頃には、完全とは云えないが復帰していた。
 若い年齢層にも、頭髪に悩みをお持ちの方たちも居られる。
 従って、加齢・即ち頭髪と云った直接的な関係は無いものと思われる。
 今・現在の、私の体毛を表現すると、娘に注意される”まつ毛”が異常に長く伸びること。
 そして、理髪をして感じることは、カットされた頭髪を観てみると、白一色であること。
 仕事仲間との定例会で”薄くなった!・・ね”と、云われる様に成っている。
 そうなんです!頭の”テッペン”に違和感を覚える事である。
 加齢と伴に”枯れて”逝くでしょう。
 加齢の進捗での象徴である”三要素(歯・眼・〇〇)”に加え”頭髪”までも加わり、オールキャスト勢揃いとなった現状を憂う、今日この頃である。
 そして、残り少ない次なる失うものは、何だろう?
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☆古きカメラ

2014年11月06日 | 日記
 先日、子供から「ブロニカのカメラ、今も持ってる!」と電話があった。
 「ああ、持ってるよ!」と返事すると「使わせてもらえる?」と云うので「ええよ!」と返事を返した。
 何時でも出せるように準備した。
 思い出のカメラが出てきた。
 私とカメラの出会い(「カメラと私(2014.10.06)」)は、中学生の時であった。
 兄が、カメラを所有し、簡易な暗室を持っていた。
 中学の修学旅行に、借りて行った以降”カメラ”と言うものを意識したと思う。
 加えて、仲が良かった友人も、カメラ好きであったことが影響したと思われる。
 しかし、高校に入学して以降、写真撮影の機会も、疎遠になった。
 そして、再度目覚めたのが社会人になってからである。
 初めて”高額”な買物をしたモノが、カメラであった。
 現金で購入することなどは出来ない(薄給な)ことから、当時、流行っていた”割賦販売”を利用した。
 会社の福利厚生を担当する部門(別会社)から購入する形式である。
 一眼レフ・カメラが主流と成り始めた時代であったと記憶している。
 当時、印象深い宣伝の効果もあり、一眼レフと言えば「アサヒ・ペンタック」であったと、今も思い出される。
 しかし、何故か私は「ミノルタ」に拘った。
 初めて所有したカメラは、ミノルタ社製一眼レフ・カメラであった。
 ペッタックスに比べ、形状も大きく、重量も重かった。
 兄が持っていた、ミノルタ社製(二眼レフ)に影響されただけではない、選択基準が私なりにあったのであろうが、今となっては、その記憶はない。
 当時の私は、時間があると山登りを楽しんでいた。
 それは、日帰りであったり、宿泊(山小屋)での山歩きであった。
 そして、紅葉であったり、雪景色の山であったり、山の風景を撮影していた。
 しかし、カメラにとって良い環境であったとはいえないだろう。
 此のカメラは”過酷”と思える使い方を強いた様に思う。
 リックに押し込まれ、汗や雨で湿気”ムンムン”な環境では・・・
 時間が過ぎ、長男が誕生した。
 御多分にもれず、親ばか振りを発揮し、山登りは中断、被写体は専ら「長男」となっていた。
 長男が二歳位に成長した頃には、レンズにカビと思われる斑点が大きく成長しているし、フォーカル・プレーン・シャッターの動作が、我慢できない程に劣化していた。
 二代目となるカメラは「ニコン社製ニコマート」である。
 東京の企業に就職した中学の友人(前出)から、想いもしない価格で購入出来る事を教えられた。
 そして、思い切って購入した。
 40数年を経過した現在も、カメラとしての”かたち”は現存している。
 ピント機能に不具合がある様で”ピント”が合わないことから”写真機”として不適切である。
    =少し早送りして=
 仕事に疑問や、不安を持つような時代をも経験した。
 親戚を頼って写真の修行をしよう等と大胆な想いもあった。
 ”ゼンザブロニカ”というカメラを入手した頃である。
 此のカメラは、流石にシッカリとした造りで、現在も、あの独特な「カッシャァ!」と言うか「バッシャ!」というシャッター音も健在で、ブロニー・サイズの独特な映像が魅力的である。
 現在では、ピント合せの必要も無く、撮影した映像は、その場で確認することが出来る。
 そして、撮影したその夜には、映像処理が出来ると云う(便利さ)誘惑に負け、デジ・カメ一辺倒になっている。
 子供に言われなければ、物置から出すことも無く、カメラにまつわる”若き頃”を思い出すことは無かっただろう。
 写真撮影に、情熱を燃やしていた若かりし頃が思い出され、日記とした。
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☆景色が変わる

2014年11月02日 | 日記
 私が此の地に居をかまえた大きな理由は”歴史ある松林のある海岸”の近くと言う事であった。
 20数年の年月が過ぎ、大きく様変わりしてきた。
 歴史ある松林(砂防林)は伐採され、松林のあった場所は、津波対策で5m嵩上げされ、施設が建った。
 二年ほど前のことである。
 それまでは、海水着を着て出かけ、海水浴を楽しんでいた。
 徒歩、一分程で海岸という立地であった。
 地元の電鉄会社が、夏になると海の家や売店を開設し、大いに賑わっていた。
 しかし、近隣に”流水プール”を備えた施設が開業して以降、海水浴客は減少していった。
 そして、10年程前、トイレや売店の建物が撤去された。
 それでも、夏になるとキャンプをする人や、バーベキュー等で訪れる人はいた。
 今では、5mの擁壁が「通せんぼ」するので、少し遠回りを余儀なくされる。
 ”海水着のまま”ということには成らなくなった。
 加えて、家の窓から見える、一本の松の木が”紅葉”でもあるまいし、葉を落とし始めている。
 伐採を逃れた敷地外の松の木であった。
  Dsc_0002
何も私の頭髪の、お付き合いをしてくれなくても良かったのに・・・!と悔やまれる。
残るは、一本だけとなった。
寂しい!
そして、歴史ある松林や、夏の憩いの場であった海水浴場がなくなったことが、実に悔しい!
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☆今日は・・

2014年11月01日 | 日記
 2014年・平成26年11月1日である。
 今年のカレンダーも、残すところ二枚となった。
 11月1日という”日”は、再び廻り廻って訪れてくれる。
 しかし、2014年・平成26年の11月1日は、後にも先にも今日限りである。
 その昔、私にも”若かりし頃”はあった。
 そして、嫌な時間の経過と、楽しい時の時間の経過は違った想い出もある。
 楽しい・心地良い時間は一瞬にして過ぎ去った。
 大成を夢見て「早く時間が過ぎないかなぁ!」などと贅沢な事を考えたこともあった。
 年齢を重ねた現在、嫌な事や・不快と思われる事が無くなったのだろうか?
 先日も日記にしたが、やけに時間が過ぎ去るのが早くて”カナワン!!”
 しかし、私には気付かないけど”楽しく・心地良い”時間を過ごしているのだろうか?
 だから、早い?
 それなら「贅沢を言うな!」とお叱りを頂く事になるのでしょうねぇ!
 でも「もう少し、ゆっくりでも良いよ!」と願う気持ちもあるのです。
 此れって、心揺れる”乙女心”の様な気持ちの再来でしょうか?
 まだまだ・お若いねぇ!
 サンキュー!
 この様な日記を書いているは、平和な時間・ひと時なのでしょう。
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☆ダム湖に水没する”吾妻渓谷”

2014年11月01日 | 日記
 今日で10月も”おしまい”
 友人宅で、偶然と云えるTVの報道番組「報道ステーション」を観た。
 想いもしない”演出であった。
 今期で見納めとなる、小雨降る「吾妻渓谷」をスタジオにしたものである。
 色付いた木々が(撮影用に演出されたと思われる)ライト・アップされ、見応えある”紅葉”であった。
 報道された時事ニュースやスポーツ・ニュースはさておき、JAZZのライブ演奏が印象的であった。
 演奏者は「矢野 沙織」さん。
 高校生の時から活躍する、JAZZサックス奏者である。
 アルトサックスで、二曲、演奏した。
 TV受像機での音質ではあるが、音が山々にコダマして、私には心地良いと思われる”残響”があって「良い!」と聞き入った。
 吾妻渓谷、ダム問題で話題となった場所である。
 私は、訪れた事はない。
 という事は、未来永劫、私は観ることは出来ない”渓谷”と言う事になる。
 TV放送用に照明の演出はされていたとは云え、それは見事な紅葉であった。
 今期以降は、記録写真・映像でしか観ることが出来なくなる。
 今日のこの(TV)映像を観て”もったいない!(残したい日本の風景)”と思ったのは、私だけだろうか?
 遅きに失しした事ではあるが・・・・
 ”渓谷美とJAZZ演奏のコラボ”という演出で、渓谷を葬送するが如く、その演奏は、哀愁をおびたものがあった。
 人的には到底、造詣出来ない”自然美”を残すという選択は、無かったのだろうか?と考えてしまう。
 人工的に造られたダム湖は、やがては埋没して、その機能を失う。
 自然の倫理に逆らってまでも、(ダム建設は)価値はあったのだろうか?
 若かりし頃の熱気が、再燃するがごときTV鑑賞であった。
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