先日、子供から「ブロニカのカメラ、今も持ってる!」と電話があった。
「ああ、持ってるよ!」と返事すると「使わせてもらえる?」と云うので「ええよ!」と返事を返した。
何時でも出せるように準備した。
思い出のカメラが出てきた。
私とカメラの出会い(「カメラと私(2014.10.06)」)は、中学生の時であった。
兄が、カメラを所有し、簡易な暗室を持っていた。
中学の修学旅行に、借りて行った以降”カメラ”と言うものを意識したと思う。
加えて、仲が良かった友人も、カメラ好きであったことが影響したと思われる。
しかし、高校に入学して以降、写真撮影の機会も、疎遠になった。
そして、再度目覚めたのが社会人になってからである。
初めて”高額”な買物をしたモノが、カメラであった。
現金で購入することなどは出来ない(薄給な)ことから、当時、流行っていた”割賦販売”を利用した。
会社の福利厚生を担当する部門(別会社)から購入する形式である。
一眼レフ・カメラが主流と成り始めた時代であったと記憶している。
当時、印象深い宣伝の効果もあり、一眼レフと言えば「アサヒ・ペンタック」であったと、今も思い出される。
しかし、何故か私は「ミノルタ」に拘った。
初めて所有したカメラは、ミノルタ社製一眼レフ・カメラであった。
ペッタックスに比べ、形状も大きく、重量も重かった。
兄が持っていた、ミノルタ社製(二眼レフ)に影響されただけではない、選択基準が私なりにあったのであろうが、今となっては、その記憶はない。
当時の私は、時間があると山登りを楽しんでいた。
それは、日帰りであったり、宿泊(山小屋)での山歩きであった。
そして、紅葉であったり、雪景色の山であったり、山の風景を撮影していた。
しかし、カメラにとって良い環境であったとはいえないだろう。
此のカメラは”過酷”と思える使い方を強いた様に思う。
リックに押し込まれ、汗や雨で湿気”ムンムン”な環境では・・・
時間が過ぎ、長男が誕生した。
御多分にもれず、親ばか振りを発揮し、山登りは中断、被写体は専ら「長男」となっていた。
長男が二歳位に成長した頃には、レンズにカビと思われる斑点が大きく成長しているし、フォーカル・プレーン・シャッターの動作が、我慢できない程に劣化していた。
二代目となるカメラは「ニコン社製ニコマート」である。
東京の企業に就職した中学の友人(前出)から、想いもしない価格で購入出来る事を教えられた。
そして、思い切って購入した。
40数年を経過した現在も、カメラとしての”かたち”は現存している。
ピント機能に不具合がある様で”ピント”が合わないことから”写真機”として不適切である。
=少し早送りして=
仕事に疑問や、不安を持つような時代をも経験した。
親戚を頼って写真の修行をしよう等と大胆な想いもあった。
”ゼンザブロニカ”というカメラを入手した頃である。
此のカメラは、流石にシッカリとした造りで、現在も、あの独特な「カッシャァ!」と言うか「バッシャ!」というシャッター音も健在で、ブロニー・サイズの独特な映像が魅力的である。
現在では、ピント合せの必要も無く、撮影した映像は、その場で確認することが出来る。
そして、撮影したその夜には、映像処理が出来ると云う(便利さ)誘惑に負け、デジ・カメ一辺倒になっている。
子供に言われなければ、物置から出すことも無く、カメラにまつわる”若き頃”を思い出すことは無かっただろう。
写真撮影に、情熱を燃やしていた若かりし頃が思い出され、日記とした。
「ああ、持ってるよ!」と返事すると「使わせてもらえる?」と云うので「ええよ!」と返事を返した。
何時でも出せるように準備した。
思い出のカメラが出てきた。
私とカメラの出会い(「カメラと私(2014.10.06)」)は、中学生の時であった。
兄が、カメラを所有し、簡易な暗室を持っていた。
中学の修学旅行に、借りて行った以降”カメラ”と言うものを意識したと思う。
加えて、仲が良かった友人も、カメラ好きであったことが影響したと思われる。
しかし、高校に入学して以降、写真撮影の機会も、疎遠になった。
そして、再度目覚めたのが社会人になってからである。
初めて”高額”な買物をしたモノが、カメラであった。
現金で購入することなどは出来ない(薄給な)ことから、当時、流行っていた”割賦販売”を利用した。
会社の福利厚生を担当する部門(別会社)から購入する形式である。
一眼レフ・カメラが主流と成り始めた時代であったと記憶している。
当時、印象深い宣伝の効果もあり、一眼レフと言えば「アサヒ・ペンタック」であったと、今も思い出される。
しかし、何故か私は「ミノルタ」に拘った。
初めて所有したカメラは、ミノルタ社製一眼レフ・カメラであった。
ペッタックスに比べ、形状も大きく、重量も重かった。
兄が持っていた、ミノルタ社製(二眼レフ)に影響されただけではない、選択基準が私なりにあったのであろうが、今となっては、その記憶はない。
当時の私は、時間があると山登りを楽しんでいた。
それは、日帰りであったり、宿泊(山小屋)での山歩きであった。
そして、紅葉であったり、雪景色の山であったり、山の風景を撮影していた。
しかし、カメラにとって良い環境であったとはいえないだろう。
此のカメラは”過酷”と思える使い方を強いた様に思う。
リックに押し込まれ、汗や雨で湿気”ムンムン”な環境では・・・
時間が過ぎ、長男が誕生した。
御多分にもれず、親ばか振りを発揮し、山登りは中断、被写体は専ら「長男」となっていた。
長男が二歳位に成長した頃には、レンズにカビと思われる斑点が大きく成長しているし、フォーカル・プレーン・シャッターの動作が、我慢できない程に劣化していた。
二代目となるカメラは「ニコン社製ニコマート」である。
東京の企業に就職した中学の友人(前出)から、想いもしない価格で購入出来る事を教えられた。
そして、思い切って購入した。
40数年を経過した現在も、カメラとしての”かたち”は現存している。
ピント機能に不具合がある様で”ピント”が合わないことから”写真機”として不適切である。
=少し早送りして=
仕事に疑問や、不安を持つような時代をも経験した。
親戚を頼って写真の修行をしよう等と大胆な想いもあった。
”ゼンザブロニカ”というカメラを入手した頃である。
此のカメラは、流石にシッカリとした造りで、現在も、あの独特な「カッシャァ!」と言うか「バッシャ!」というシャッター音も健在で、ブロニー・サイズの独特な映像が魅力的である。
現在では、ピント合せの必要も無く、撮影した映像は、その場で確認することが出来る。
そして、撮影したその夜には、映像処理が出来ると云う(便利さ)誘惑に負け、デジ・カメ一辺倒になっている。
子供に言われなければ、物置から出すことも無く、カメラにまつわる”若き頃”を思い出すことは無かっただろう。
写真撮影に、情熱を燃やしていた若かりし頃が思い出され、日記とした。