山本藤光の文庫で読む500+α

著書「仕事と日常を磨く人間力マネジメント」の読書ナビ

森鴎外『舞姫』(岩波文庫)

2018-02-06 | 書評「も」の国内著者
森鴎外『舞姫』(岩波文庫)

日本人留学生とドイツの一少女との悲恋を描いた「舞姫」のほか、鴎外(1862‐1922)の青春の記念ともいうべき「うたかたの記」「文づかひ」、名訳「ふた夜」を収めた。いずれも異国的な背景と典雅な文章の間に哀切な詩情を湛える。併収した「そめちがへ」は、作者の初期から中期への展開を示す作品として重要である。(「BOOK」データベースより)

◎モデル騒動に決着

 2013年8月29日、新聞やテレビは「森鴎外『舞姫』のヒロイン・エリスのモデルになったエリーゼの写真発見される」のニュースを報じました。エリスのモデルについては、これまでさまざまな憶測がなされてきました。

 私の手もとには「エリスのモデルはルイーゼだった」とする朝日新聞(2010年11月11日夕刊)の切り抜きがあります。しかし現在では、エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトだったということで落ち着いています。
今回の新証拠発見で、それもガセネタだったことになってしまいました。朝日新聞って、いろいろやってくれます。また植木哲は『新説 鷗外の恋人エリス』(新潮選書)のなかで、エリスの正体はルイーゼであると断定しています。どうやらこれも、空振りに終わったようです。

 森鴎外が帰国後に、ミス・エリーゼ・ヴィーゲルトが追いかけてきたのは明白です。彼女の名前が、当時の乗船名簿にあったからです。しかしミス・エリーゼの実在を証明する資料は、見つかっていませんでした。没後90年にして、どうやらモデル騒動に決着がついたようです。
 
森鴎外を語るとき、軍人、軍医、官吏、ドイツ留学の体験は、切っても切り離せません。実際に『舞姫』は、ドイツ留学時代の実体験から書かれています。ドイツ3部作といわれる『舞姫』『うたかたの記』『文づかい』(いずれも岩波文庫)は、どれも淡い恋愛を描いた作品です。

 数年前、森鴎外が『舞姫』を書いた、という場所へ行ってきました。上野不忍池のほとりに「水月ホテル鴎外荘」(東京都台東区池之端)は、どっしりと存在していました。「舞姫」を執筆したといわれる「舞姫の間」で、私は座って目を閉じました。「舞姫」を執筆した、森鴎外の心中に思いを馳せて。

◎エリスとの別離

『舞姫』の主人公・エリート官僚の太田豊太郎は、出世街道をひた走り異国(ドイツ)の地に赴任します。彼は外国の知を日本に導入しよう、との野心を抱いていました。ベルリンの自由な風は、豊太郎にとって学ぶべきことばかりでした。豊太郎は少しずつ、自我に目覚めはじめます。

 作品のここまでは、そっくり森鴎外の現実と重なります。森鴎外の筆運びに、迷いは認められません。そのあたりの部分を、『舞姫』の一節から引用してみます。

――かくて三年ばかりは夢の如くにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教に従ひ、人の神童なりなど褒(ほ)むるが嬉しさに怠らず学びし時より、官長の善き働き手を得たりと奨(はげ)ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、ただ所動的、器械的の人物になりて自ら悟りしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなく妥(おだやか)ならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。(本文P11より)

 これは一文です。あまりにも長すぎます。でも留学前の森鴎外、留学してからの森鴎外の気概は十分に感じとることができます。引用文の中ほど、「所動的」は能動的の逆で受身という意味です。主人公・太田豊太郎は自分自身が受け身になり、他人が命ずるままに動いていることを感じとっています。

 そして豊太郎は、もっと主体的になろうと決意をします。ところがその思いが空回りし、役所の長官や日本人グループから浮いた存在になってゆきます。そんなとき貧しい育ちの踊り子・エリスと知り合い、激しい恋におちいります。そのことが露見し、太田豊太郎は免官になってしまうのです。

 彼はエリスとの同棲をつづけます。豊太郎は友人・相沢の勧めで、帰国することをきめます。それを知ったエリスは、発狂してしまいます。エリスを残し、傷心のまま豊太郎はドイツを離れます。自由とエリスを失うことへの悲しみから、豊太郎の心は乱れます。

 エリスだけを残して、日本に戻る太田豊太郎。現実では、そのつづきがありました。エリーゼが追いかけてきたのです。そして追い返されました。この現実を、森鴎外は『舞姫』に描きませんでした。いや描かなかったというよりも、描けなかったというほうが正しいのでしょう。

『舞姫』において、主人公・豊太郎がエリスを残してきたことでさえ、批判されており「舞姫論争」に展開しています。新進の評論家・石橋忍月はつぎのように解説しています。

――太田(豊太郎)のように小心で恩愛の情に満ち、『愛』の大切さを知る人間がエリスを棄てて帰るのは理屈に合わず、彼は『功名を捨てて恋愛を取るべき』だったと論じた。これに対して鴎外が、太田は境遇に流される『弱性の人』であるとか、エリスとの仲は『真の愛』ではないとか反論して『舞姫論争』となるのだが(後略)。(十川信介『近代日本文学案内』(岩波文庫別冊19より)

 この文献を読み私は、漢文体と和文体が入り混じった文章に苦労しながら再読することになります。森鴎外がモデルであるエリーゼのことを現実どおりに書いたら、『舞姫』という作品は空中分解してしまったでしょう。

◎森鴎外をもっと知る

『舞姫』だけを読むと、希望に満ちていた森鴎外は、やがて挫折してしまうという図式になります。ところが現実は違います。森鴎外は貪欲に、さまざまなものを吸収しています。医学はもちろん、文学、哲学、美術などを楽しみながら、身につけているのです。語学も堪能だったようで、青春を謳歌していたというのが実際でしょう。

 この点が、英国留学していた夏目漱石とはちがいます。それは帰国後の作品にも、大きな陰を落としています。夏目漱石は現地に溶けこめず、鬱々とした毎日を過ごしていました。
 
不思議なもので森鴎外は、夏目漱石の『三四郎』(岩波文庫)に刺激されています。そして生まれたのが、『青年』(新潮文庫)でした。エリーゼとの恋愛も、現地に溶けこんでいなければ成就しないはずです。会話が成り立たなければ、恋の芽も生まれないでしょう。

 傷心のエリーゼが帰国した翌年(1889年当時27歳)、森鴎外は結婚しています。そして1890年に『舞姫』を発表したのです。『舞姫』は、留学時代の自身への鎮魂歌だったのだと思います。水月ホテル鴎外荘で「舞姫の間」にすわり、「舞姫の碑」を眺めながら、私はそう考えました。なにもかも清算してしまいたい。そんな思いが、感じとれたのです。

 森鴎外にもっとふれたい方は、『青年』(新潮文庫)の一読をお薦めします。森鴎外が散歩の日課としていた、上野、谷中、根津、千駄木などの風景、風俗が活き活きと甦ってきます。前記のように、森鴎外が夏目漱石『三四郎』に影響を受けた部分を、考えながら歩くのも一興でしょう。

◎『舞姫』の現代語訳
(挿記2016.01.09)
『舞姫』に現代語訳があることは知りませんでした。しかも井上靖が翻訳しているのです。驚きました。私はそれを偶然、ブックオフの棚で発見しました。『現代語訳・舞姫・森鴎外・井上靖訳』(ちくま文庫)です。心を躍らせて読んでみました。

私は先に長い一文を引用しています。その部分を井上靖訳で紹介させていただきます。実に味わい深い文章になっています。

――このようにして三年程は夢のように過ぎてしまったが、時が来れば包んでも包んでも、包みきれることができないのは人間の持って生まれた好尚というものである。私は父の遺言を守り、母の教に従い、人から神童などと褒められるのが嬉しくて怠らず勉強した時期から、役所の長官に善い働手を得たと励まされるのが喜ばしくて怠りなく勤めた時期に至るまで、一貫して自分が消極的、器械的な人物になっていることに気付いていなかった。今や私も二十五歳、既に久しくこの大学の自由な気風の中に身を置いたためであろうか、心中なんとなくおだやかならず、自分の中に奥深く潜みかくれていた真の自分が漸く表面に現れでて来て、昨日までの自分でない自分を責めるような具合になった。

井上靖『現代語訳・舞姫』(ちくま文庫)には、原文も併載されています。加えて解説と資料が充実しています。星新一の「資料・エリス」や小金井喜美子「兄の帰朝」は、新たな話題を提供してくれています。
(山本藤光:2013.09.02初稿、2018.02.06改稿)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿