遠田潤子『雪の鉄樹』(光文社文庫)

祖父と父が日々女を連れ込む、通称・たらしの家で育った庭師の雅雪は、二十歳の頃から十三年間、両親のいない少年・遼平の面倒を見続けている。遼平の祖母から屈辱的な扱いを受けつつも、その傍に居るのは、ある事件の贖罪のためだった。雅雪の隠してきた過去に気づいた遼平は、雅雪を怨むようになるが…。愛と憎しみの連鎖の果てに、人間の再生を描く衝撃作。(「BOOK」データベースより)
◎いくつもの〈謎〉
遠田潤子は1966年生まれの女流作家です。43歳のときに書いた『月桃夜』(新潮文庫)が日本ファンタジーノベル大賞に輝き、作家デビューしています。
平凡な主婦だった遠田潤子は、母の看病に明け暮れる毎日でした。その母が亡くなり、一年ほどは虚脱した日々になりました。そんなときに、夫が新しいパソコンを買います。遠田潤子はそれで遊んでいるうちに、日記でも書いてみようかと思います。そのうちに、次のような感情が芽生えます。
――ふと「もっと書いてみたいな」と。「じゃあ、小説家になろうか」「よし、なろう」って(笑)。そう思ってからデビューするまでに5年かかりました。(中略)書いては応募する、落ちる、書く、応募する、の生活を5年間続けました。(WEB本の雑誌・作家の読書道より)
『雪の鉄樹』(光文社文庫)は、「おすすめ文庫王国」(本の雑誌社)で2017年第1位に輝いた作品です。遠田潤子を読むのは初めてでした。純文学作品だろうと思っていましたが、ミステリー小説のようにぐいぐい引っ張られました。
タイトルについて、著者自身が説明している文章があります。
――鉄樹とは蘇鉄のことです。葉は鋭く幹は無骨。ヤシの木に似た南国の植物です。雪の似合う植物ではありません。なのに、ふっと『雪の鉄樹』というタイトルが浮かびました。(『読書人ウェブ』著者から読者へ。2017.07.31)
遠田潤子はタイトルとラスト一行だけを決めて、本書を書き上げています。
物語は主人公の曽我雅雪が三十二歳のときから動き出します。雅雪は祖父の代から続く、曽我庭園の三代目です。既に頭髪は真っ白で、全身にケロイド痕がある独身です。
『雪の鉄樹』にはいくつもの〈謎〉がちりばめられています。遠田潤子はそれらの〈謎〉を明かさないまま、ぐいぐいと物語を引っ張ります。曽我庭園は〈たらしの家〉と呼ばれ、祖父も父も女には目のない悪癖を持っています。
二人は雅雪に対して愛情のカケラも持っていません。母親は雅雪を産んですぐに、姿を消しています。幼いころか雅雪は、食事もたった一人で、しかも自室の勉強机で食べていました。誕生祝いを祝ってもらったことも、どこかへ連れて行ってもらったこともありません。
そんな環境で育った雅雪は、愚直なほど仕事一途で、自虐的な性格になっています。
◎雅雪の「償い」
雅雪は庭師の傍ら、父母のいない、祖母と暮らす遼平という少年の面倒を十三年間見続けています。遼平の祖母は、「償い」を続ける雅雪を奴隷のようにあしらい、決して心をゆるしません。
読者は冒頭で雅雪の「償い」は、何に対するものなのかに、興味が引かれることになります。しかし遠田潤子はその謎を、徹底的に隠し続けます。
さらに雅雪がおった全身ヤケドも、なぜそうなったのかを明らかにされません。ICUに入り何度も手術を繰り返した、死線をさまようほどのヤケドでした。
冒頭場面で雅雪は、細田老という親しい顧客から〈扇の家〉という立派な蘇鉄のある家を紹介されます。この家には雅雪にとって、忌まわしい過去があるのですが、それも明らかにされません。
物語は過去と現在を行き来します。しかし現在は、わずかな日数しか描かれていません。現在の雅雪はひたすら〈七夕〉の日を待ち続けています。しかし誰を待っているのかは、〈謎〉のままです。
◎雅雪の恋
先に触れた〈扇の家〉に、祖父と父と十八歳の雅雪がいます。ずっと空き家だった家の庭は、荒れ果てていました。新しく引っ越してきたのは、若くて美しい母親と一卵性双生児の兄妹でした。母親を初めて見た雅雪は、こんな風に思います。
――慈愛と母性に満ちあふれた、と形容しても少しも大げさではない、それほど女は美しかった。俺は完璧な乳房を想像した。この女は全身が乳房だ。なめらかで、まろやかな乳房そのものだ。(本文P240)
そして著者自身が書いているとおり、雅雪は真辺郁也とは親友になり、舞子と恋をすることになります。
――主人公は誰にも関心を持たれず、孤独に育ちました。十八歳の時、そんな彼にも親友と恋人ができます。見事な蘇鉄のある家に越して来た双子の姉弟と関わり、これまで目を背けてきた自分の傷に向き合うのです。(『読書人ウェブ』著者から読者へ。2017.07.31)
この家族との出会いが、雅雪や父の人生を変えます。お互いに関心を示さない曽我家族。郁也を天才バイオリニストに育てたい母親は、舞子にはまったく関心を示しません。「償い」を続ける雅雪に、遼平の祖母は人間として関心を示しません。
すさまじい人間模様のなかに、いくつもの〈謎〉が見え隠れしています。遠田潤子は荒唐無稽にも思える物語を、力強い筆力で描き上げました。ネタバレになるので、これ以上ストーリーは追いません。とにかく迫力満点の壮絶な物語です。
遠田潤子は蘇鉄がある庭に、大きな〈謎〉の石を据え、いくつもの流れをそえてみせました。すばらしい作品に拍手。
山本藤光2018.03.17

祖父と父が日々女を連れ込む、通称・たらしの家で育った庭師の雅雪は、二十歳の頃から十三年間、両親のいない少年・遼平の面倒を見続けている。遼平の祖母から屈辱的な扱いを受けつつも、その傍に居るのは、ある事件の贖罪のためだった。雅雪の隠してきた過去に気づいた遼平は、雅雪を怨むようになるが…。愛と憎しみの連鎖の果てに、人間の再生を描く衝撃作。(「BOOK」データベースより)
◎いくつもの〈謎〉
遠田潤子は1966年生まれの女流作家です。43歳のときに書いた『月桃夜』(新潮文庫)が日本ファンタジーノベル大賞に輝き、作家デビューしています。
平凡な主婦だった遠田潤子は、母の看病に明け暮れる毎日でした。その母が亡くなり、一年ほどは虚脱した日々になりました。そんなときに、夫が新しいパソコンを買います。遠田潤子はそれで遊んでいるうちに、日記でも書いてみようかと思います。そのうちに、次のような感情が芽生えます。
――ふと「もっと書いてみたいな」と。「じゃあ、小説家になろうか」「よし、なろう」って(笑)。そう思ってからデビューするまでに5年かかりました。(中略)書いては応募する、落ちる、書く、応募する、の生活を5年間続けました。(WEB本の雑誌・作家の読書道より)
『雪の鉄樹』(光文社文庫)は、「おすすめ文庫王国」(本の雑誌社)で2017年第1位に輝いた作品です。遠田潤子を読むのは初めてでした。純文学作品だろうと思っていましたが、ミステリー小説のようにぐいぐい引っ張られました。
タイトルについて、著者自身が説明している文章があります。
――鉄樹とは蘇鉄のことです。葉は鋭く幹は無骨。ヤシの木に似た南国の植物です。雪の似合う植物ではありません。なのに、ふっと『雪の鉄樹』というタイトルが浮かびました。(『読書人ウェブ』著者から読者へ。2017.07.31)
遠田潤子はタイトルとラスト一行だけを決めて、本書を書き上げています。
物語は主人公の曽我雅雪が三十二歳のときから動き出します。雅雪は祖父の代から続く、曽我庭園の三代目です。既に頭髪は真っ白で、全身にケロイド痕がある独身です。
『雪の鉄樹』にはいくつもの〈謎〉がちりばめられています。遠田潤子はそれらの〈謎〉を明かさないまま、ぐいぐいと物語を引っ張ります。曽我庭園は〈たらしの家〉と呼ばれ、祖父も父も女には目のない悪癖を持っています。
二人は雅雪に対して愛情のカケラも持っていません。母親は雅雪を産んですぐに、姿を消しています。幼いころか雅雪は、食事もたった一人で、しかも自室の勉強机で食べていました。誕生祝いを祝ってもらったことも、どこかへ連れて行ってもらったこともありません。
そんな環境で育った雅雪は、愚直なほど仕事一途で、自虐的な性格になっています。
◎雅雪の「償い」
雅雪は庭師の傍ら、父母のいない、祖母と暮らす遼平という少年の面倒を十三年間見続けています。遼平の祖母は、「償い」を続ける雅雪を奴隷のようにあしらい、決して心をゆるしません。
読者は冒頭で雅雪の「償い」は、何に対するものなのかに、興味が引かれることになります。しかし遠田潤子はその謎を、徹底的に隠し続けます。
さらに雅雪がおった全身ヤケドも、なぜそうなったのかを明らかにされません。ICUに入り何度も手術を繰り返した、死線をさまようほどのヤケドでした。
冒頭場面で雅雪は、細田老という親しい顧客から〈扇の家〉という立派な蘇鉄のある家を紹介されます。この家には雅雪にとって、忌まわしい過去があるのですが、それも明らかにされません。
物語は過去と現在を行き来します。しかし現在は、わずかな日数しか描かれていません。現在の雅雪はひたすら〈七夕〉の日を待ち続けています。しかし誰を待っているのかは、〈謎〉のままです。
◎雅雪の恋
先に触れた〈扇の家〉に、祖父と父と十八歳の雅雪がいます。ずっと空き家だった家の庭は、荒れ果てていました。新しく引っ越してきたのは、若くて美しい母親と一卵性双生児の兄妹でした。母親を初めて見た雅雪は、こんな風に思います。
――慈愛と母性に満ちあふれた、と形容しても少しも大げさではない、それほど女は美しかった。俺は完璧な乳房を想像した。この女は全身が乳房だ。なめらかで、まろやかな乳房そのものだ。(本文P240)
そして著者自身が書いているとおり、雅雪は真辺郁也とは親友になり、舞子と恋をすることになります。
――主人公は誰にも関心を持たれず、孤独に育ちました。十八歳の時、そんな彼にも親友と恋人ができます。見事な蘇鉄のある家に越して来た双子の姉弟と関わり、これまで目を背けてきた自分の傷に向き合うのです。(『読書人ウェブ』著者から読者へ。2017.07.31)
この家族との出会いが、雅雪や父の人生を変えます。お互いに関心を示さない曽我家族。郁也を天才バイオリニストに育てたい母親は、舞子にはまったく関心を示しません。「償い」を続ける雅雪に、遼平の祖母は人間として関心を示しません。
すさまじい人間模様のなかに、いくつもの〈謎〉が見え隠れしています。遠田潤子は荒唐無稽にも思える物語を、力強い筆力で描き上げました。ネタバレになるので、これ以上ストーリーは追いません。とにかく迫力満点の壮絶な物語です。
遠田潤子は蘇鉄がある庭に、大きな〈謎〉の石を据え、いくつもの流れをそえてみせました。すばらしい作品に拍手。
山本藤光2018.03.17