山本藤光の文庫で読む500+α

著書「仕事と日常を磨く人間力マネジメント」の読書ナビ

ジュディ・マーサー『喪失』(講談社文庫、北沢あかね訳)

2018-03-12 | 書評「マ行」の海外著者
ジュディ・マーサー『喪失』(講談社文庫、北沢あかね訳)

不安な夢から醒めると、そこは見たこもない部屋だった。鏡に映った自分の顔にも見覚えがない。顔も体もこの部屋も、自分のものではないという感覚以外、彼女は何も覚えていなかった。おまけに何者かに狙われてもいるようだ。やがて自分探しを始めた彼女の前に…。魅惑のヒロイン誕生の傑作サスペンス。(「BOOK」データベースより)

◎将来性のある女流のヨチヨチ歩き

記憶喪失はミステリーのなかで、もっともおもしろいテーマです。それがずばり標題作になっていたので、迷わずに買いもとめました。翻訳ものは登場人物の名前が覚えにくく、読んでいて難渋することが多いものです。私が翻訳ものを敬遠する理由はそこにあります。

多くの翻訳ものには、ページの頭の方かしおりに「主な登場人物」がまとめられています。同じような苦労をしている読者が多いのでしょう。

『喪失』には登場人物として、18人の名前があげられています。もしも題名が『喪失』でなければ、店頭で買うことを放棄していました。私の場合は10人が限界なのです。この作品はしばらく、書棚の未読コーナーに眠っていました。読まなければならない作品が多く、なかなか手がまわらなかったからです。しかしいつも3番目のカテゴリーで、ペンディング(保留)第1位の場所にいました。

私の場合は、4つのジャンルを併行して読んでいます。現代日本文学、近代日本文学、海外文学、知・教養・古典ジャンルです。さて2年間温めていた『喪失』を読みました。冒頭の章が効いています。主人公のエアリアル・ゴールドは朝、夢で目を覚まします。鏡に映った顔が、自分の記憶にあるものではありませんでした。

室内にいたシェパードの名前がわかりません。しかも自分の衣服に、血痕が付着しています。さらに「片方の頬には切り傷とあざがある。額の上の方にはこぶが一つ。目は泣いたために赤く腫れ上がり、今にもふさがってしまいそう」であり、部屋の中も荒らされています。自分がだれだかわからず、なにやら事件に巻きこまれた形跡があります。

自分を失ったエアリアルは、だれかに狙われています。恐怖の真っ只中にいたエアリアルが、現実に引きもどされたのは一本の電話でした。しかし相手がわかりません。ただし主人公は、この電話で自分の名前を知ります。自分以外の他人を、敵と味方に区分しはじめます。
 
本書のおもしろさは、登場人物が敵なのか味方なのかが最後までわからないことにあります。自分の身辺にあらわれる人たちを選り分け、同時に自分の過去から現在までの空白を、埋めなければなりません。

長い作品にもかかわらず、登場人物が個性豊かなために、「主な登場人物」のページにたよることはありませんでした。気になったのは、会話が間延びしていることです。さかんにセリフのなかに名作からの引用が入るのですが、それがあまり効いていません。引用部分はイタリック体で書かれています。そのせいで会話がスムースに流れません。

結末はありきたりのものでした。私がこの作品を評価したのは、訳者(北沢あかね)が書いていることと一致します。

――著者のキャリアは、主人公の造形にも、細部まで目の行き届いた説得力のある描写と骨太の構成にも、見事に生かされていると言えよう。(本文より)

著者はニュースレポーターやディスクジョキー、広告のコピーライターなどを経験しています。相手に伝える技術、相手から引き出す技術、相手を惹きつける技術を兼ね備えているのですから、おおいに期待できます。第2作を待ちたいと思います。

(ここまでは、PHP研究所「ブック・チェイス」1998.08.02に掲載したものを加筆修正しました)

◎99番目の推薦作

その後ジュディ・マーサーは、『偽装』『猜疑』(ともに講談社文庫)を発表しています。こちらは未読ですので、読んでからコメントさせていただきます。本書は「海外文学作品125+α」の124番目の紹介作品です。

あと1作品を紹介させていただいたら、リストアップの入れ替え作業が待っています。なんとか残しておきたい作品なのですが・
(山本藤光:1998.08.02初稿、2018.03.12改稿)


マンスフィールド「園遊会」(マンスフィールド短編集・新潮文庫、安藤一郎訳)

2018-03-03 | 書評「マ行」の海外著者
マンスフィールド「園遊会」(マンスフィールド短編集・新潮文庫、安藤一郎訳)

楽しく華やかな園遊会の日にローラの心を占めていたのは、貧しい家族を残して事故死した近所の男のことだった。感じやすい少女の人生への最初の目覚めを描く代表作「園遊会」を含む15編を収める。一種の印象主義ともいうべき、精緻で微妙な文体で、詩情豊かに人間心理を追求する。純粋な自我を貫いた一生を通して、いつも生の下に死の影を見ていた著者の哀愁にみちた短編集である。(アマゾン内容案内)

◎チェーホフに学ぶ

『マンスフィールド短編集』(新潮文庫、安藤一郎訳)には、15の短編小説が所収されています。そのなかでも「園遊会」は、キャサリン・マンスフィールドの代表作といわれています。マンスフィールドは1888年生まれで、34歳で亡くなっています。それは『園遊会』発表の翌年のことです。作風については、次のような紹介がなされています。

――まれにみる短編小説の名手で、チェーホフの手法を学んだ表現技法を駆使し、ことに、故郷ニュージーランドの風物と人間をあざやかに描出した。(『新潮世界文学小辞典』P918)

 マンスフィールドとチェーホフについては、阿部昭が『短編小説礼賛』(岩波新書)のなかで次のように書いています。

――彼女(補:マンスフィールド)はおそらく最後の日まで、チェーホフを読んでいたにちがいない。チェーホフの名前は、彼女の手紙や日記のいたるところに現れる。(中略)彼女はいまやチェーホフを完全に自分のものにし、短編小説の世界に彼が知らなかった新しいものさえ付け加えた。(同書P176)

――「園遊会」は、人間の心理の微妙な陰影、豊かな色彩感、感覚のみずみずしさなど、まぎれもなくマンスフィールドを代表する傑作のひとつといえよう。(立野靖子・文、明快案内シリーズ『イギリス文学』自由国民社P197)

『マンスフィールド短編集』は何度も読み返していますし、原書にも触れています。原書は英語が得意ではない私にとっても、非常に読みやすいものでした。kindle版『ガーデンパーティ』は、和英対訳になっています。もう一つだけ、彼女の作品に触れている文章を紹介させていただきます。

――キャサリン・マンスフィールドの作品はあまりにも繊細すぎて、わたしの鈍いアンテナではほとんどとらえられないが、それでも微妙にひっかかるなにかがあって、読み返してみたくなる。(若島正『乱視読者の英米短篇講義』研究社P198)

◎ロウソクの炎のように

「園遊会」の主人公は、十代の上流階級に育った娘ローラです。
彼女が住む家の下には、貧しい人が暮らす家が肩を寄せ合って建っています。
 初夏の輝くような朝。ローラの家では、園遊会の準備をしています。ローラは朝からウキウキソワソワしています。ローラは会場の設営を仕切るようにと母親にいわれ、その高揚感は尋常のものではありません。
そんな様子を、マンスフィールドは繊細な描写でさばいてみせます。朝早くから庭師やテント張りの男たちや花屋がやってきます。ローラはちょっと背伸びして、それらの人たちに指図をします。そのときのローラの振る舞いや応対の様子は、読んでいて暖かな気持ちにさせられます。ローラはたくましい大人たちの働く姿を惚れ惚れと眺めます。そして彼らに、魅力を感じます。そのなかの一人の男の振る舞いを、ローラは次のように感じます。

――彼は、かがんで、ラヴェンダーの小枝をぎゅっとつまんで、その親指と人差指を鼻のところへもっていき、匂いをかいだ。その様子をローラは見て、男がそんなものに心をとめるのに驚いて、(後略)(本文P12)

 そんなとき、邸の下に住んでいた車夫のスコットが落馬して死にます。彼には妻と幼い五人の子どもがいました。ローラは園遊会の中止を主張します。しかし母も姉も、とりあってくれません。
 
園遊会は大成功に終ります。テーブルにはサンドウィッチや菓子が、たくさん残っていました。ローラは母から、それらを亡くなったスコットさんの家に届けるように提案されます。ローラはそれがよいことなのか、差し出がましいことなのか、迷います。

この先の展開については、触れるのを控えます。ただし感動的な最後だけは、のちに紹介させていただきます。ローラの微妙な心が、微風に揺れるロウソクの炎のようになるのを、ぜひ体感してみてください。「園遊会」は短編集の最初のページにあります。私は1日1編ずつ、味わうように読みました。すごい、すごいとつぶやきながら。

◎感動したラストシーン

短編小説で私が好きなのは、マンスフィールド以外では、O・ヘンリー『1ドルの価値/賢者の贈り物』(光文社古典新訳文庫、芹澤恵訳)と井伏鱒二『山椒魚』(新潮文庫)です。これらの作品については、山本藤光の文庫で読む500+α」で紹介しています。

短篇小説の魅力について、書かれた本はたくさんあります。阿刀田高に『短編小説を読もう』(岩波ジュニア新書)、『短編小説のレシピ』(集英社新書)、『海外短編のテクニック』(集英社新書)、筒井康隆『短篇小説講義』(岩波新書)などはお勧めです。しかし私の読み落としでなければ、これらの著作にマンスフィールドは取り上げられていません。

 さて、私が感動したラストシーンですが、小川洋子もそこを指摘しています。

――ローラは迎えにきた兄に、「人生って」、「人生というものは――」口ごもって、それ以上は言葉にならないのです。このラストシーンがとてもいい。言葉にできないことを描いた小説、これが傑作たるゆえんでしょう。(小川洋子『心と響き合う読書案内』PHP新書P222)

夭折したマンスフィールドが残してくれた、珠玉の短編集を堪能してください。
山本藤光2017.07.17初稿、2018.03.03改稿


モンゴメリ『赤毛のアン』(新潮文庫、村岡花子訳)

2018-03-01 | 書評「マ行」の海外著者
モンゴメリ『赤毛のアン』(新潮文庫、村岡花子訳)

孤児のアンは、プリンスエドワード島の美しい自然の中で、グリーン・ゲイブルズのマシュー、マリラの愛情に包まれ、すこやかに成長する。そして笑いと涙の感動の名作は、意外な文学作品を秘めていた。シェイクスピア劇・英米詩・聖書からの引用をときあかす驚きの訳註、みずみずしく夢のある日本語で読む、新完訳の決定版!楽しく、知的で、味わい深い…、今までにない新しい本格的なアンの世界。(「BOOK」データベースより)

◎娘から孫へ

文藝春秋編『少年少女小説ベスト100』(文春文庫ビジュアル版1992年)では、『赤毛のアン』(新潮文庫、村岡花子訳)は第39位となっています。個人的にはもっと上位にあってもよい、と思っています。私のベスト5は、次のとおりです。

1.ヴェルヌ『十五少年漂流記』(集英社文庫)
2.ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(新潮文庫)
3.モンゴメリ『赤毛のアン』(新潮文庫)
4.バーネット『小公女』(新潮文庫)
5.ルイザ・M・オールコット『若草物語』(新潮文庫、松本恵子訳)

このほかにはまだ執筆していませんが、サン・テグジュペリ『星の王子さま』(新潮文庫、河野万理子訳)ケストナー『飛ぶ教室』(光文社古典新訳文庫、丘沢静也訳)、マーク・トゥエイン『トム・ソーヤーの冒険』(光文社古典新訳文庫4-1土屋京子訳)などを紹介させていただく予定です。

そのなかでも、モンゴメリ『赤毛のアン』には、忘れられない記憶があります。幼い2人の娘とテレビアニメ『赤毛のアン・世界名作劇場』を観た日のことです。札幌への転勤の辞令を持ち帰った日だったのです。
「札幌って、こんなところかな?」
次女の呟きに長女は、「千葉よりはずっと都会だよ」と答えていました。画面には緑豊かな、プリンス・エドワード島のアポンリー村が映っていました。

札幌で『赤毛のアン』(新潮文庫、村岡花子訳)を買い求めて、読みました。小説世界のプリンス・エドワード島は、アニメで垣間見たような極彩色ではありませんでした。むしろ光と影と風と草花の香りに満ちた、落ち着いた雰囲気の村だったのです。

『赤毛のアン』(新潮文庫、村岡花子訳)を読んで以来、私はアン・シャリーとプリンス・エドワード島のとりこになりました。娘と娘の孫といっしょに、行ってみたいと夢見るようになりました。結局夢は実現していませんが、代わりにたくさんの『赤毛のアン』関連本を読んでいます。

松本侑子『アメリカ・カナダ物語紀行』(幻冬舎文庫)を読んで、松本侑子訳『赤毛のアン』(集英社文庫)も読みました。塩野米松『赤毛のアンの島へ』(文春文庫ビジュアル版)は、美しいカラー写真がふんだんにあり、憧れの島に魅了されました。

小倉千加子『「赤毛のアン」の秘密』(岩波現代文庫)、村岡恵理『アンのゆりかご・村岡花子の生涯』(新潮文庫)、茂木健一郎『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法』(講談社文庫)、バッジ・ウィルソン『こんにちはアン』(上下巻、新潮文庫、宇佐川晶子訳)、『世界名作劇場・赤毛のアン』(竹書房文庫)なども読みました。

書棚のモンゴメリのコーナーには、これらの本が仲良く並んでいます。いつか孫たちが読んでくれるだろうそのときまで、出番を待ってくれているのです。

◎プリンス・エドワード島のアン

主人公のアン・シャリーは11歳の孤児です。マシュウとマリラという、老いた兄妹の家の養女となります。2人は農業の手伝いをしてもらうために、男児をもらいうけるつもりでした。ところが手違いで、孤児院からは女児がやってきたのです。

マリラはアンを送り返そうとしますが、マシュウはおしゃまなアンを引きとりたいと思います。結局マリラが折れて、アンは晴れて2人の養女として迎え入れられます。

本書はそうしたアンの成長物語です。アンは初めて得た我が家に興奮します。アンはそそっかしく、想像力に富んだ、およそこどもらしくない饒舌家です。老兄妹の愛情を受けながら、アンは自然豊かな村でスクスクと成長します。 

アンはたくさんの失敗を重ねます。「腹心の友」であるダイアナを得ます。アンは学校でも優秀な生徒でした。ある日、主席を争っている男児・ギルバートに「にんじん」と赤い髪をからかわれます。それ以来、アンはギルバートを拒絶します。あらゆる自然を愛し、受け入れてきたアンが唯一遠ざけてしまった存在です。

アンの成長は、老兄妹にとっても幸せな毎日となります。やがてアンは短大へと進学することになります。短大へ進学すると寄宿舎生活となり、マシュウとマリラとは離れ離れになってしまいます。マリラは嘆き苦しみます。そんなときに、突然の不幸が訪れます。これから先には触れないことにします。

『赤毛のアン』は、こどもから大人まで、必読の1冊だと思っています。私はあえてエンディングを紹介しませんでしたが、立花えりかは、その不幸を乗り越えたアンをつぎのように書いています。

――「世はすべてよし」とささやくアンは、生きる勇気にみちあふれながら私の前に立っています。赤毛とそばかすとかがやく目の、永遠の少女の姿をして。(朝日新聞社学芸部編『読みなおす一冊』朝日選書、立花えりか)

アンが自然の美しさに歓喜して名づけた「輝く湖水」「恋人の小径」も、りんご並木の「よろこびの白い道」も。野生の桜の「雪の女王」も、「ドリュアスの泉」も、プリンス・エドワード島に現存しています。日本人の観光客も多いこの島への思いをはせつつ、現在の村人のことを紹介して結びとしたいと思います。私はこの文章を読んで、思わず「それはないだろう」と叫んでしまいました。

――この町の郊外の丘の上で、真っ白な花をつけた桜の木に出会った。牧草地の端にあるその木は、アンが「雪の女王」と名づけた大木を思わせた。私たちが日本で見る桜とは遠い五弁の花びら一枚一枚が細長いのだ。自転車で通りかかった農夫に、「あの花は何ですか?」と聞いたら、「ワイルド・チェリーだ」と答えて、去って行った。(塩野米松『赤毛のアンの島へ』文春文庫ビジュアル版P13)
山本藤光:2014.06.22初稿、2018.03.01改稿

マキアヴエツリ『君主論』(岩波文庫、河島英昭訳)

2018-02-25 | 書評「マ行」の海外著者
マキアヴエツリ『君主論』(岩波文庫、河島英昭訳)

ルネサンス期イタリアの政治的混乱を辛くも生きたマキアヴェッリは外交軍事の実経験と思索のすべてを傾けて、君主たるものが権力をいかに維持・伸長すべきかを説いた。人間と組織に切りこむその犀利な観察と分析は今日なお恐るべき有効性を保っている。カゼッラ版を基に諸本を参照し、厳しい原典批判をへた画期的な新訳。(「BOOK」データベースより)

◎果断でなければならない

敬愛する野中郁次郎先生の著書に、『戦略論の名著・孫子、マキアヴェリから現代まで』(中公新書)があります。野中先生の弟子と勝手に思いこんでいる私としては、どうしても推薦作を読まなければなりません。
本書では12の名著が紹介されています。しかし私が読んだことのあるものは、マキアヴェリ『君主論』だけだったのです。

ところがその『君主論』にしても、大学時代に背伸びして読んだにすぎません。まったく内容は覚えていませんし、処世の参考にもしていません。おまけに書棚に、存在もしていませんでした。これはいけないと思い、書店に足を運びました。マキアヴエツリ『君主論』(岩波文庫、河島英昭訳)とマキアヴェリ『君主論』(中公文庫、池田廉訳)の2冊を購入しました。

野中先生が紹介している果敢なリーダー像を探す、長い旅路のはじまりです。野中先生はこう書いています。

――マキアヴェリの主張は、いわゆる世間の常識に反している。一般には、性急さを避け、慎重に振舞うことこそ、賢明なリーダーのあり方とみなされているからである。だが、彼はそれを知りつつ、あえて果断さをリーダーシップと戦略実行の鍵と論じたのであった。(同書P49)

この一文が私の背中を押してくれました。多くの経営者が座右の書としてあげる『君主論』のパワーは、「果断さ」にあったわけです。

『君主論』は、26章で構成されています。1章から11章までは、さまざまな君主の分類と概説にあてられています。まず冒頭で、国家の骨格には2種類があり、共和国と君主国に大別されると紹介されます。
続いてマキアヴェリは、君主国のなかでもっとも統治が容易なのは世襲だと書いています。笑ってしまいました。世襲のお騒がせの国と、有名な日本の家具店が浮かんできたのです。

ところが読み進めるうちに、だんだん笑えなくなりました。今度はテレビの水戸黄門が、脳裏をちらつきだしたのです。「お主もワルじゃのう」という台詞まで、聞こえてきました。さらに読み進めると、地位にあぐらをかいた悪代官は、こっぱみじんに吹き飛んでいました。
同時に私の甘っちょろいリーダー論も、粉砕されていました。そして先達たちが、本書を座右におく意味も知りました。印象的な文章を、紹介させていただきます。

――軽蔑を招くのは、一貫しない態度、軽薄で、女々しく、意気地なしで、優柔不断な態度である。これを、君主は、暗礁のごとくに、警戒しなければならない。そして自分の行動が偉大なものであり、勇気に溢れ、重厚で、断固たるものであると認められるように努めねばならない。(岩波文庫・第19章P137-138)

◎国家を会社に置換して読む

岩波文庫『君主論』の半分ほどは、脚注がしめています。狐こと山村修(山本藤光の文庫で読む500+α推薦作『増補・遅読のすすめ』ちくま文庫)は、まずは脚注を無視して読むべきであるといっています。そして塩野七生の次の文章を紹介しています。

――塩野七生によれば現代イタリアの作家モラヴィアが、「運動選手の筋肉の動きは皮膚の下にかくれていても感ぜられるのに似て、マキアヴェリの文章にこもる力は一読するだけで感じる」と言っているという。(狐『狐の読書快然』洋泉社P150)

私は1度岩波文庫で『君主論』を読み、2度目はkindle版で読みました。こちらは中公文庫(池田廉訳)のもので、タップすると脚注がでてきます。いちいち巻末をめくる必要がなく、脚注をていねいに読むときには便利です。

『君主論』のブックガイドは数多く存在しています。本稿を書くにあたって、何冊かを読んでみました。少しだけ紹介させていただきます。

――本当の「君主」にはなれなくても、その「君主」の影武者というのかカリカチュアというのか、ごく限られた力を持った実力者になるためにも、マキアヴェリの『君主論』は、みごとな教科書で、拳々服膺(けんけんふくよう)して実践したならば、課長、部長はおろか、取締役になるぐらい朝飯前ではなかろうか。(杉浦明平『君主論の読み方』徳間書店P4)

杉浦明平が書いているとおり、ワンランク上の役職を目指す人には、本書は必読書であるといえます。『君主論』は悪徳の勧めを、声高らかにうたっています。その点について、木原武一は次のように書いています。

――君主が自分の地位を保持したければ、善からぬ者にもなり得るわざを身につけ、必要に応じて、それを使ったり使わなかったりすることだ。(木原武一『大人のための世界の名著必読書50』海竜社P193)

リストラ、合併、左遷、降格など、会社は善からぬ処遇を社員に下す場合があります。私が34年間勤務した会社を辞めたのは、合併と肩たたき(早期退職制度)によるものでした。マキアヴェリの説く悪徳は、こうした類いのことです。国家を会社と置換して読むと、驚くべきことが書かれているわけではありません。

◎上司の腹の内をのぞく

最近、架神恭介+辰巳一世『よいこの君主論』(ちくま文庫)と鹿島茂『社長のためのマキアヴェリ入門』(中公文庫)の2冊を読みました。

鹿島茂『社長のためのマキアヴェリ入門』は難解な『君主論』を、「社長論」として再構築したものです。本書のタイトルは「社長」となっていますが、自分の上司の帝王学を学ぶうえでは有用です。もっとも昨今、帝王学などもっている上司は数少ないのですが。

『社長のためのマキアヴェリ入門』のなかの、「合併するならワンマン経営の会社を狙え」(第四講P28)にユニークな意見がありました。マッカーサーの占領政策の成功は、マキアヴェリの主張のとおり、日本が天皇制国家だったからだとの認識には納得させられました。

架神恭介+辰巳一世『よいこの君主論』は、小学生の権力闘争を『君主論』になぞった小説です。とっぴなストーリーなのですが、『君主論』の水先案内にはなりそうです。

野心のない方には、『君主論』は無縁なものです。ただしやる気満々の上司を持つ人なら、その人の腹の内をのぞく格好の1冊となります。『君主論』のなかに、「君主は野獣の性格を学ばなければならない」というくだりがあります。狐の知恵や獅子の強さを身につけるべきと書かれています。

君主は狐にも獅子にも、ならなければいけません。世の中には善人しか存在しないという前提では、この説は意味をなしません。『君主論』は脚注をはずすと、ぺたんこの本です。悪代官と君主のちがいを、ぜひ目の当たりにしてください。
(山本藤光2014.09.22初稿、2018.02.25改稿)

モリエール『人間ぎらい』(新潮文庫、内藤濯訳)

2018-02-22 | 書評「マ行」の海外著者
モリエール『人間ぎらい』(新潮文庫、内藤濯訳)

主人公のアルセストは世間知らずの純真な青年貴族であり、虚偽に満ちた社交界に激しい憤りさえいだいているが、皮肉にも彼は社交界の悪風に染まったコケットな未亡人、セリメーヌを恋してしまう――。誠実であろうとするがゆえに俗世間との調和を失い、恋にも破れて人間ぎらいになってゆくアルセストの悲劇を、涙と笑いの中に描いた、作者の性格喜劇の随一とされる傑作。(7文庫解説より)

◎伝統の悲劇から喜劇へ

モリエールは、貴族的裕福な家に生まれました。シラノ・ド・ベルジュラックらとともに唯物論を学びながら、演劇の世界に傾倒してゆきます。年上の女優マドレーヌ・ベジャールに恋をし劇団一座を興しますが、やがて破産します。その後、各地を巡業しながら、イタリア喜劇に興味をもちはじめます。
 
プチ・ブルボン劇場での出演許可を得ましたが、上演した悲劇はことごとく失敗に終わります。この時点でモリエールは、本格的に喜劇と取り組みはじめました。1655年から上演した喜劇「粗忽者そこへ」や「恋の恨み」が評価を得て、「才女気取り」で人気が沸騰しました。
 
当時の演劇は、悲劇であることが伝統でした。モリエールは亜流だと、仲間うちの批判にさらされることになります。モリエールはつぎのように、それらのやっかみを切り捨てました。

――喜劇は悲劇に比べて、まさるとも劣らぬジャンルであること、ドラマとは必ずしも外面的な動きばかりでなく、人間心理のなかにも存在すること、そして演技は従来の誇張されたものではなく、あくまで自然でなければならないことを強調した。(「新潮世界文学小事典」より)

主人公のアルセストは、世間知らず、清廉潔白、生真面目な貴族です。年齢は定かにされていませんが、30歳後半くらいと推察できます。彼はフランス社会に憤りを感じています。特に偽善に満ちた社交界には、許しがたい感情を抱いています。
 
そんなアルセストが、若い未亡人・セリメーヌに恋をします。彼女は社交界の悪習にどっぷりと浸かり、若い伯爵たちを手玉にとっています。舞台は全5幕で構成されています。登場人物は少ないのですが、かみあわない会話が矢つぎばやに展開されます。何度も笑ってしまいました。
 
ちょっとだけ、会話の妙を味わってもらいたいと思います。セリメーヌは第2幕第1場から登場します。アルセストはいきなり「あなたのなさり方は、僕にはどうも得心が行かない。僕は、気が揉めてもめて、しょうがない」とセリメーヌに迫る場面です。

(引用はじめ) 
セリメーヌ:すると、どうやらあなたは、喧嘩を吹きかけようと思って、わたしを家まで送って来たようじゃありませんか。
アルセスト:いや、ちがう。でも奥さんは、訪ねて来る人があると、すぐだれにもなれなれしい素振りをなさるんだが、あなたのそのやり口がよろしくないんです。だからあなたのまわりには、憎からず思われようという連中が、うるさいほど押し寄せてくるんです。僕はそれを、とても平気で見てはいられないんです。    
セリメーヌ:するとあなたは、どなたにも愛想よくするのが不都合だとおっしゃるのね。だって皆さまがわたしを好きで訪ねていらっしゃるんだもの、それをいけないと言うわけには行かないわ。皆さまがわたしに会おうとうれしい骨折りをなさるのに、棒を持ちだして追払うわけには行かないじゃありませんか。       (引用おわり、本文P32より)
 
◎モリエールのような作品は書けない
 
モリエールのような登場人物は、どんなに熟達した劇作家でも、日本人には書けません。貴族はいませんし、社交の場もありません。アルセストは八方美人ではなく、訪問者に歓迎度合いの優劣をつけろと迫っています。つづきをご紹介したいと思います。

(引用はじめ)
アルセスト:いや、棒なんかどうでもよろしい。もっとみんなに、隔てのある、無愛想な仕向けをしていただきたいんです。(後略)(引用おわり、本文P33より)

アルセストは、セリメーヌの恋人ではありません。一方的に彼が彼女に恋しているレベルです。アルセストは、不思議な思考回路をそなえています。それが相手には伝わりません。本書の楽しさは、腹の中で笑うたぐいのものではありません。剛速球と変化球が読者というミットに、交互に投げこまれるような感じなのです。

あるいは、コインの表に喜劇、裏側に悲劇があって、それがくるくると回っているような感じです。モリエール作品のルーツは、古代ローマ時代の古典にあるようです。また吉本新喜劇に影響をおよぼしている、との記述も見つかりました。 
 
私はアルセストによく似た、部下をもったことがあります。実直で生まじめで怒りっぽい。そこまでは似ているのですが、彼の言動からは「喜劇」を読みとることはできませんでした。
 
アルセストもセリメーヌも魅力的に描かれていましたが、私はアルセストの友・フィラントの役まわりに感心しました。彼はすべての球種を捕球する、名キャッチャーなのです。
(山本藤光:2009.12.16初稿、2018.02.22改稿)


モーパッサン『女の一生』(新潮文庫、新庄嘉章訳)

2018-02-18 | 書評「マ行」の海外著者
モーパッサン『女の一生』(新潮文庫、新庄嘉章訳)

修道院で教育を受けた清純な貴族の娘ジャンヌは、幸福と希望に胸を踊らせて結婚生活に入る。しかし彼女の一生は、夫の獣性に踏みにじられ、裏切られ、さらに最愛の息子にまで裏切られる悲惨な苦闘の道のりであった。希望と絶望が交錯し、夢が一つずつ破れてゆく女の一生を描き、暗い孤独感と悲観主義の人生観がにじみ出ているフランス・リアリズム文学の傑作である。(文庫案内より)

◎夢から不幸な現実へ

私は『女の一生』(新潮文庫)を意図的に、フローベール『ボヴァリー夫人』(新潮文庫、「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作)のあとに読みました。フローベールの影響を知りたかったからです。しかし私の感性では、あまりピンときませんでした。いずれにせよ2つの作品は女性を描いた傑作として、ぜひお読みいただきたいと思います。

モーパッサンは、名高い短編の名手です。モーパッサン短編集は、岩波文庫、新潮文庫(全3巻)、ちくま文庫で入手可能です。有名な短編「首かざり」と「宝石」は、いずれも『モーパッサン短編集2』(新潮文庫)に所収されています。

『女の一生』は、モーパッサンの生い立ちを素材にしています。モーパッサンは、ノルマンディーの豊かな家庭で育ちました。幼いころに父親が女中とまちがいをおこし、両親は別居、離婚しています。『女の一生』は、この事件が引き金になって書かれたものです。

主人公のジャンヌは、17歳まで修道院で育てられました。清純無垢。両親の希望どおりに、ジャンヌは美しく初々しい娘となってもどってきます。ジャンヌは愛情あふれる両親と乳姉妹である小間使いのロザリーに見守られ、父祖伝来のル・プープル館で幸せな毎日を送ります。
 
そんなある日ジャンヌは、ジュリアンという若い子爵と出会います。2人はたちまち恋をし、結婚することになります。
 
――契りを結ぶ日として決められた時を待つのに、彼らは躁急(そうきゅう)ないらだたしさは感じなかった。ただ心地よい愛情のなかにおおわれ、包まれていた。なんでもない愛撫や、指を握りあうことや、魂と魂が溶けあうかと思われるほど情熱をこめた目を見あっていることなどに、甘美な魅力を味わいながら。そしてまた一方、漠然と、強烈な抱擁へのとりとめもない欲念に悩まされていた。(本文P63より)


しかし幸せな結婚生活は、長くつづきませんでした。ジャンヌは夢のような世界から、たちまち不幸な現実へと引きずり落とされるのです。
 
夫のジュリアンは、ケチで好色な男でした。ジャンヌは夫と、小間使いのロザリーの不倫を知ってしまいます。ロザリーは夫のこどもを宿していました。やがてロザリーは夫のこどもを出産し、ジャンヌもポールを出産しました。  夫・ジュリアンとの関係が希薄になった分、ジャンヌはポールを溺愛することになります。
 
夫・ジュリアンは、ジャンヌの親友・フールヴィル伯爵夫人とも不貞に走ります。怒ったフールヴィル伯爵は、ジュリアンを殺してしまいます。フールヴィル伯爵が2人の不倫現場を発見し、殺害にいたるまでの過程はすさまじいものです。
 
さらに最愛の母親も、病で死んでしまいます。ジャンヌは母親の枕元にあった手紙を読み、貞淑な母親の若き日の不倫を知ります。ジャンヌの不幸はまだまだつづきます。

◎姦通と遺産相続が主題
 
『女の一生』は、切なく残酷なものがたりです。「モーパッサンの小説の主題は、いつもほとんど姦通(と裏切り)に遺産相続問題が絡んでいるといっていい」(安田武『昭和青春読書私史』岩波文庫)とあるように、ジュリアンはジャンヌの莫大な遺産が目当てで結婚したのです。

ジャンヌの不幸は、それを見抜けなかったことにあります。それは両親の過保護により、ジャンヌに男に対する免疫がなかったためです。とすると不幸の出発点は、ジャンヌの生い立ちにあるといえます。
 
もうひとつの主題である「姦通」についても、モーパッサンは二重のものがたりをつむぎだしています。ジャンヌが親友のフールヴィル伯爵夫人に、夫・ジュリアンを寝取られたこと。そしてもっとも尊敬し信頼していた母親が、親友の夫と不倫をはたらいていたこと。

ものがたりの終わりでは息子・ポールの裏切りで、ジャンヌにさらなる不幸が訪れます。モーパッサンの筆致はスピーディで、わかりやすいものです。翻訳小説を毛嫌いする人には、うってつけの小説といえましょう。
 
 短編の名手といわれるだけに、モーパッサンはいくつものものがたりを巧みに編みあげます。『モーパッサン短編集』(新潮文庫)は、私に改めて短編小説の楽しさを教えてくれました。田山花袋が絶賛している作家・モーパッサンを、いつか田山花袋(推薦作『蒲団』新潮文庫)作品と重ねて書いてみたくなったほどです。
山本藤光2010.08.16初稿、2018.02.18改稿

アーサー・ミラー『セールスマンの死』(早川演劇文庫、倉橋健訳)

2018-02-18 | 書評「マ行」の海外著者
アーサー・ミラー『セールスマンの死』(早川演劇文庫、倉橋健訳)

かつて敏腕セールスマンで鳴らしたウイリー・ローマンも、得意先が引退し、成績が上がらない。帰宅して妻から聞かされるのは、家のローンに保険、車の修理費。前途洋々だった息子も定職につかずこの先どうしたものか。夢に破れて、すべてに行き詰まった男が選んだ道とは…家族・仕事・老いなど現代人が直面する問題に斬新な手法で鋭く迫り、アメリカ演劇に新たな時代を確立、不動の地位を築いたピュリッツァー賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

◎時空間を越えた会話

営業職に変化が起こりつつあります。これまで対面販売が中心だったものが、コンピュータにとって変わられてきました。松井証券は営業マンを廃止し、証券情報をインターネットでおこなっています。

松井証券・社長の考え方に、古い営業マンは「馬鹿げている」「尋常じゃない」といって猛反対しました。社長は営業マンの人件費を「情報」という、より高度な付加価値に転換したいと決断しました。当然、コストは下がります。そして業績は落ちるどころか上がっているのです。

日本型生命保険が、外資系に蹂躪(じゅうりん)されています。生保レディが人海戦術で保険の勧誘をしていたのが従来。今はコンサルティング・セールスを実施する会社が、シェアを急速に伸ばしています。

製薬会社の営業マンは、昔はプロパーと呼ばれていました。それが今はMR(エムアール)と名前を変えました。接待中心の商談型から、真の学術情報の提供(Medical Representative)に変身したのです。

そんな時代を意識しつつ、アーサー・ミラーの代表作を読みました。セールスマンの父親・ウィリー・ローマンは63歳。毎日見本を詰めた重い鞄を下げて、担当先であるニュー・イングランドを駆けまわります。

彼は先代の社長のときから、ニューヨークに本社のある会社に勤めています。彼には妻と2人の息子がいます。家は25年ローンで購入し、まだローンが残っています。生活は苦しく、仕事をやめるわけにはゆきません。彼は移動負担のないニューヨークで勤務をしたい、との希望をもっています。

父親は2人の息子に、大きな夢を抱いて生きてきました。ところが息子たちは、思うように社会的な地位をかちとれません。子供たちのジレンマ。父親の歯がゆさ。

この戯曲は「思いどおりにならない」老人と若者を、家族の枠におさめて描き出しています。2幕の戯曲なのですから、小説のようにはゆきません。そんなハンデを、会話・動作・表情・照明・音声などがカバーします。戯曲を読む楽しみは、会話と会話をつなぐ、こうした「ト書き」にあります。

――台所が明るくなる。ウィリーは、話しながら、冷蔵庫の扉をしめ、舞台前方の食卓のところへくる。グラスにミルクをつぐ。彼は、まったく自分のことしか頭になく、かすかに微笑をうかべている。(本文より)

現在から過去の回想場面に戻ります。そして場面が再び現在に戻されます。この時空を越えた会話と会話の間に、作者の意図が凝縮されています。

病める社会を4人家族に投影させた、『セールスマンの死』が初めて邦訳されたのは1950年でした。しかし今読んでも色褪せしていません。60年の時間を経ても、病める社会の構造は変わっていないということです。

子供に過度な期待と夢をかける父親。創設当時の恩義を忘れて、老いたセールスマンを邪険にする2代目社長。月賦を払い終わるころに壊れる家電。野菜を育てるスペースさえない狭い空間。

アーサー・ミラーは従順だった幼いころの息子たちを、くりかえし舞台にあげます。それがいっそう、老いたセールスマンの悲哀に深い陰を刻みます。

◎KDDとGNPの世界

『セールスマンの死』は、この原稿を書いている半世紀前に出版されました。今回文庫版で再読してみて、10年前に本書をはじめて読んだときのことを鮮明に思い出しました。ちょうどその時期、私は「SSTプロジェクト」という営業生産性向上プロジェクトに特化していたのです。詳細については、拙著・山本藤光『暗黙知の共有化は売上を伸ばす』(プレジデント社)をご覧いただきたいと思います。

まだ営業の世界は、「KDD」とか「GNP」と呼ばれていた時代の話です。KDDは勘・度胸・出たとこ勝負、GNPは義理・人情・プレゼントの略です。『セールスマンの死』はそれよりも、はるか以前に書かれた作品でした。それが現在にも十分に通用することに驚いてしまいました。ウィリー・ローマンはまさにKDDとGNPの権化だったのです。
 
タイトル通りウィリーは、自ら死を選んでしまいます。セールスの仕事を誇りに思い、人生にも大きな夢を抱いていたウィリー・ローマンは、なぜ死を選んだのでしょうか。前記のようにセールスの世界は、時代の荒波にもまれて方向転換を求められていました。老セールスマンの手法は、もはや通用しなくなったのです。
 
期待をかけていた息子たちは定職につかず、結婚もしていません。仕事にも家庭にもいやけをさしたウィリーに残された道は、幻想の世界だけだったわけです。死んだ兄や幼かった長男に向かって、ウィリーが語りかける場面は胸を締めつけられます。幻想の世界から抜け出す唯一の道。それが死だったのです。

『セールスマンの死』は、そのまま日本の営業現場にもちこんでも十分に通用します。しかし、当時のアメリカの社会情勢を理解していると、もっとわかりやすくなります。ウィリーは地道なセールスをつづけて、自分の会社をもとうとしていました。アメリカン・ドリームという言葉がありますが、ウィリーは自分にも自分の息子たちにも無限の可能性を抱いていたのです。

将来の希望が、老いと環境の変化によりしぼみつつある現実。それらが老セールスマンを、狂気へと走らせます。本書は絶対にはずしてはいけない、人生必読の1冊だと断言したいと思います。小さな書店では、本書を見つけられないかもしれません。私はアマゾンの新刊で購入しました。送料は無料なので、近所の書店で注文するよりも早く入手できます。
(山本藤光:2009.12.25初稿、2018.02.18改稿)

マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』(全5巻、新潮文庫、鴻巣友季子訳)

2018-02-16 | 書評「マ行」の海外著者
マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』(全5巻、新潮文庫、鴻巣友季子訳)

アメリカ南部の大農園「タラ」に生まれたスカーレット・オハラは16歳。輝くような若さと美しさを満喫し、激しい気性だが言い寄る男には事欠かなかった。しかし、想いを寄せるアシュリがメラニーと結婚すると聞いて自棄になり、別の男と結婚したのも束の間、南北戦争が勃発。スカーレットの怒涛の人生が幕を開ける―。小説・映画で世界を席巻した永遠のベストセラーが新訳で蘇る! (「BOOK」データベースより)

◎黒人だけが南部訛り?

マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』(全5巻、新潮文庫)は、以前に大久保康雄・竹内道之助・訳で読んでいました。今回鴻巣友季子訳が出ましたので、読み直してみました。鴻巣友季子は『全身翻訳家』(ちくま文庫)や『本の寄り道』(河出書房新社)を発表している、馴染みの翻訳家です。

新潮文庫『風と共に去りぬ』(大久保康雄・竹内道之助・訳)を読んだ後に、青木富貴子『「風と共に去りぬ」のアメリカ』(岩波新書)を読みました。こんなことが書いてあります。

――英語の原書には黒人の会話だけが、南部奴隷訛りの形でつづられている。白人は全員、今日ふうのきちんとした英語を使っているのに、黒人の英語だけに強い訛りがあるというのは、考えてみれば不自然なことである。当時は南部白人もかなり強い南部訛りをもっていたはずであり、文字の読めなかった黒人は白人の英語を耳で覚えてそう発音していたに違いない。(青木富貴子『「風と共に去りぬ」のアメリカ』岩波新書P67)

ずっと気になっていました。原書は読めないので、翻訳文に何の疑問ももっていませんでした。新訳版(鴻巣友季子訳)を読んでみたいと思ったのは、そのあたりの訳文の違いへの興味でした。

新潮文庫の新旧訳を読み比べてみました。基本的にはどちらも同じです。白人と黒人を区別するには、このほうが適切と判断しているのでしょう。同じ言葉では、読者は混乱してしまうと考えてのことだと思います。

――ブレントは、蔵の上からふりかえり、黒人の馬丁をよんだ。
「ジームズ!」
「へえ」
「おまえは、おれたちがスカーレットさんに話したことを聞いただろう?」
「いいえ、プレントさま。おいらが白人の話を盗みぎきするとでも思っとらっしゃるかね?」
(大久保康雄・竹内道之助訳P21-22)

グレントは馬上で身をひねり、黒人の従僕を呼びつけた。
「ヒームズ!」
「へい?」
「スカーレットさんとおれたちの話は聞いてたろう?」
「いや、聞いてねっす、プレントさん。なんでおいらが白人さんたちのことテエサツするなんて思うだ」
(鴻巣友季子訳)

「山本藤光の文庫で読む500+α」では、ストゥ『アンクル・トムの小屋』(河出文庫、丸谷才一訳)を紹介しています。丸谷才一訳では、主人公のトムのせりふは白人と同じものになっています。アンクルトムと幼女エバの会話を拾ってみます。

「でも、アンクル・トムは、どこへ行くの?」
「わたしには、わからないんですよ。エバお嬢さん」
「わからない?」
「はい。だれかに、売られるんですよ。だれが買うのか、わかりません」
(ストゥ『アンクル・トムの小屋』河出文庫、丸谷才一訳P162-163)

奴隷を扱った小説は、たくさんあります。訳者がどのようなせりふを用いているかを知るのも、読書の楽しみのひとつです。

◎逆上したスカーレット

『風と共に去りぬ』はミッチェルが生前に発表した、唯一の長編小説です。ミッチェルは49歳のときに、自動車事故で死去しています。

主人公のスカーレット・オハラは、アメリカ南部アトランタで農園主の娘として生まれました。魅力的なスカーレットは、青年たちのあこがれのまとです。スカーレットは、教養のあるアシュリに恋をします。しかしアシュリは、従妹のメラニーと婚約します。逆上したスカーレットは、メラニーの兄チャールズと結婚します。彼はアシュレの妹の恋人でした。

しかしチャールズは、南北戦争に出征して戦死してしまいます。幼い男児を抱えたスカーレットは、アトランタにあるアシュリの伯母の家に身を寄せます。アシュリへの思慕は、いまだに消えることはありません。ところがこの町も、戦火にのみこまれてしまいます。

スカーレットは、レット・バトラーに助けられて故郷・タラへと戻ります。母親は死んでおり、父親は廃人になっていました。生活のためスカーレットは、材木商と再婚します。しかし材木商は事業に失敗し、やがて死亡します。スカーレットは以前に助けられた、レット・バトラーと3度めの結婚をします。

レットと結婚して、スカーレットはアシュリへの愛は幻影だったことに気づきます。しかしレットは、自分はアシュリの代替物だったと悟り、スカーレットのもとを去ります。

◎16歳の自分を取り戻す

『風と共に去りぬ』は、南北戦争をはさんだ16歳の勝気な少女の愛の物語です。アシュリへのあてつけのために、最初の結婚をし、生活のために2度目の結婚をします。ずっとアシュリへの深い愛を意識していたスカーレットは、ある日それが幻影だったことに気づきます。

3度目の結婚相手のレットは、戦争は金儲けの手段と豪語する男です。スカーレットは彼を軽蔑しながら、利用していました。レットはなんとしてでも、スカールッの真の愛を得たいと願っていました。しかし、彼女は一向に心を開いてくれません。

そして娘のポニーが事故死し、アシュリの妻になったメラニーが流産のすえに世を去ります。さらに、レットはスカーレットの心に巣食っているアシュリの存在を、排除できないと悟ります。レットまで消えてしまったのです。

そして最後には、悲痛な言葉が残されます。

――スカーレットは毅然と顔をあげた。レットはきっととりもどせる。とりもどせるに決まっている。そうと決めたら、ものにできない男なんていなかった。
「とりあえず、なんでもあした、<タラ>で考えればいいのよ。明日になれば、耐えられる。明日になれば、レットをとりもどす方法だって思いつく。だって、あしたは今日とは別の日だから」
(新潮文庫、鴻巣友季子訳、第5巻P511-512)

すばらしいエンディングです。絶望のふちで、スカーレットは16歳の自分を取り戻したのです。

新潮文庫新装版は、旧版よりも活字が大きくなっていました。もちろん鴻巣友季子の名訳も光っていますが、老年期の読者にとって大きい活字はありがたいものです。1ページの文字数を数えてみました。

旧版:1行43字で19行
新版:1行38字で16行

◎「……でござえますだ」式の言い回し

新潮文庫の旧訳について、斎藤美奈子は次のような感想を書いています。

――黒人差別が露骨だとして近年では批判も浴びた小説。日本語訳では乳母マミーが話す「……でござえますだ」式の言い回しが気にかかる。それでも全五巻、飽きさせないのがすごい。(斎藤美奈子『名作うしろ読み』中央公論新社P87)

乳母マミーの言い回しを比較してみたいと思います。

「あの紳士たちは、もうお帰りかね? なぜ夕食におさそいしなかっただかね。スカーレット嬢さま?」
(大久保康雄・竹内道之助訳、第1巻P41)

「おや、旦那さんがたはお帰りですか? なんでまた、夕食までお引き留めしなかったんです、スカーレット嬢さん?」
(鴻巣友季子訳、第1巻P52)

斎藤美奈子さん、もうすっかり改められているだがさ。
(山本藤光:2013.12.08初稿、2018.02.16改稿)

トーマス・マン『魔の山』(上下巻、新潮文庫、高橋義孝訳)

2018-02-13 | 書評「マ行」の海外著者
トーマス・マン『魔の山』(上下巻、新潮文庫、高橋義孝訳)

第一次大戦前、ハンブルク生れの青年ハンス・カストルプはスイス高原ダヴォスのサナトリウムで療養生活を送る。無垢な青年が、ロシア婦人ショーシャを愛し、理性と道徳に絶対の信頼を置く民主主義者セテムブリーニ、独裁によって神の国をうち樹てようとする虚無主義者ナフタ等と知り合い自己を形成してゆく過程を描き、〈人間〉と〈人生〉の真相を追究したドイツ教養小説の大作。(文庫案内より)

◎3週間が7年間に

 むかしの日本にも、いたるところに「結核病院」(サナトリウム)がありました。ほとんどは国立病院で、現在はすべての病院名が改称されています。当時は結核に罹患したら、半数は亡くなる国民的な伝染病でした。サナトリウムにはいったら、死の運命を許容せざるを得ない状況でした。結核を題材にした小説の代表格は、堀辰雄『風立ちぬ』(新潮文庫)です。徳富蘆花『不如帰』(岩波文庫)や正岡子規『仰臥漫録』(岩波文庫)なども有名です。

 トマス・マン『魔の山』(上下巻、新潮文庫、高橋義孝訳)の舞台も、まさにサナトリウムです。本書のヒントは、実際に結核で療養生活をしていた妻を見舞った、実体験からえています。それはスイスのアルプスにありました。

主人公ハンス・カストルプは、23歳の大学をでたばかりの若者です。造船会社のエンジニアとして、就職が内定しています。エンジニア志望だけあって好奇心はつよく、なんでも吸収したいとの気持ちをもっています。さまざまな思想にふれ、かずかずの体験を自分の血肉にしようと真摯な姿勢で受けとめます。

ハンス・カストルプは、いとこのヨアヒム・ツィームセンを見舞うために、アルプスの山頂にある国際療養所を訪れます。そこには日常生活から切り離された、退廃的な空気によどんでいました。カストルプは、愛用の葉巻を持参してきています。のちに知ることになりますが、食事も豪華ですし、高級ワインもそろっています。「死」の匂いさえなければ、まるで楽園のようなところです。

療養所には、不可思議な空気が充満していました。退廃的で無気力な雰囲気のなかで、時間がほとんど消失しています。患者たちはひたすら、ベランダでの日光浴にいそしんでいます。これを「横臥療法」といいます。

――「横臥療法」とは、「ほとんど神秘的といってもよい心地よさ」を与える寝椅子をベランダに持ちだし、そこで毛布にくるまって、季節を問わず、また天候の如何にかかわりなく、ひたすら横たわっていることを命ずる治療である。(『世界文学101物語(高橋康也・編、新書館より)

3週間ほどの滞在のつもりで、カストルプは療養所にたどりつきます。彼は幼くして両親を失い、豊かな祖父と暮らしていました。ツィームセンは数少ない身内のひとりなのです。見舞いにいったつもりのカストルプは、やがて自分も結核に感染していることを知ります。「生」と「死」のあいだにある、「魔の山」での療養生活がはじまります。7年間の療養所生活で、若いカストルプはさまざまなことを学んでゆきます。

ここには雑多な種類の人々がいます。

 筆頭は、イタリア人で人文主義者のセテムブリーニ。彼は思想的にユダヤ人の神秘学者で、独裁主義者のナフタと対立しています。2人は顔をあわせるたびに、はげしくいい争いを展開します。そして2人は競うように、カストルプを洗脳します。死を意識している彼らにとって、自らの思想的な遺伝子を残そうと必死なのです。彼ら以外にも、ユニークな考えをもった人群れがいます。

オランダのコーヒー王は、豪華な食事つきのカード遊びパーティを主催します。あきれるほどのメニューの羅列に、私は圧倒されました。そんななかでカストルプは、魅惑的なロシア人女性・クラウディア・ショーシャ夫人に恋をします。しかし彼女にはピーター・ベーベルコルンという愛人がいます。カストルプとショーシャ夫人について、倉橋由美子(推薦作『スミヤキストQの冒険』講談社文芸文庫)はつぎのように書いています。

――ハンスがご執心のクラウディア・ショーシャをつかまえてフランス語で世にも奇妙な愛の告白をするところは、金管楽器の長い、音程の狂ったソロを聴かされるようで圧巻です。(倉橋由美子『偏愛文学館』講談社文庫より)

 サナトリウムでは世界中から集まった、男女が共同生活をしています。当然だれとだれが関係した、などのうわさ話も飛び交います。恋も芽生えます。倉橋由美子が「圧巻」と書いている箇所は、カストルプの少年愛の追想と、目の前の美しいロシア人とのやりとりが重なります。10歳ほど年上のショーシャ夫人は、まるで幼子のように彼をあつかいます。しかし彼女がサナトリウムをでる前夜に、カストルプを受けいれるのです。

◎ドイツ風教養小説なのか

『魔の山』は一般的に、教養主義小説といわれています。「教養主義」というのは、日本でなじみにくい概念です。以前、重松清の『とんび』(角川文庫)の書評を読んだときに、ある評論家が「教養主義小説」と書いていました。そのときは見つけられなかったのですが、池澤夏樹の著作を読んでいて納得できました。引用させていただきます。

――(教養小説で)何を作るかというと、一人の人格を作り上げる、ということです。ある若者が、さまざまなことを学んで一人前になるまでを追いかけて、その成長の過程を書く。ドイツ文学に特有の用語です。(池澤夏樹『世界文学を読みほどく』新潮選書より)

2人の作家は「教養小説」を、ユニークなとらえ方で解説しています。紹介させていただきます。

――主人公が「魔の山」のサナトリウム「ベルクホーフ」に従兄を訪ねてきて思いがけず病気を発見され、えんえんと滞在しなければならなくなるという極めて不条理な状況の中で、次第に下界の時間感覚をなくしていく課程に対応している。最後近く主人公は時計を持たなくなるが、時間に背を向けるというのは市民社会の否定であり、そう見ていくところの小説は教養小説の新しい形式をとったアンチ教養小説とも思えるのである。(筒井康隆『本の森の狩人』岩波新書より)

――この小説はドイツ風教養小説のパロディのようでもありますし、オリュンポスの山上に住むゼウス以下の神々の世界をパロディにしたもののようでもあります。ハンス・カスットルプはこんな世界に迷いこんだ無邪気な羊飼いの少年、といったところです。(倉橋由美子『偏愛文学館』講談社文庫より)

 7年間の療養所生活のなかで、カストルプはかずかずの体験をします。医師の反対を押し切って、退院したツィームセンが病気を悪化させてもどってきます。ショーシャ夫人も一度退院するのですが、愛人とともにもどってきます。秘かに部屋から運び出される入居者たちもいます。

 そんなときにカスットルプは、第1次世界大戦の勃発を知ります。長い麻痺状態から、彼はとつぜん覚醒することになります。カストルプは参戦する決心をかため、山をおりることにします。その後の彼の消息は不明のままに、小説は終ります。

『魔の山』は長い作品です。しかも上巻の半分までは、退屈な記述がつづきます。若いときはここで投げだしていました。今回ていねいに読んでみて、この作品は投げだしたあとから、がぜんおもしろくなることを知りました。豪華なリゾートホテルに数日滞在して、ベランダで寝椅子に体をのばして読んだら、最高だったろうなとも思いました。
(山本藤光:2013.02.05初稿、2018.02.13改稿)

メルヴィル『白鯨』(新潮文庫・上下巻、田中西二郎訳)

2018-02-11 | 書評「マ行」の海外著者
メルヴィル『白鯨』(新潮文庫・上下巻、田中西二郎訳)

獰猛で狡知に長けた白鯨を追って、風雨、激浪の荒れ狂う海をピークォド号は進んだ。ホーン岬、インド洋、日本沖を経た長い航海の後、ついにエイハブは、太平洋の赤道付近で目ざす仇敵をみつけた。熱火の呪詛とともに、渾身の憎悪をこめた銛は飛んだ……。作者の実体験と文献の知識を総動員して、鯨の生態と捕鯨の実態をないまぜながら、エイハブの運命的悲劇を描いた一大叙事詩。(新潮文庫下巻の内容案内)

◎著者の気まぐれを受け入れる

『白鯨』は著者メルヴィル自身の、捕鯨船体験をもとに書かれました。メルヴィルは1841年に捕鯨船アクシュネット号に乗りこみます。それからの波乱万丈のできごとについて、書かれた本があります。紹介させてもらいます。なにやらこちらのほうが、おもしろい小説になりそうだと感じるのは、私だけでしょうか。

――当時、捕鯨船の労働条件は劣悪であった。そのことに嫌気が差したメルヴィルは、十八カ月後、船がマルキーズ諸島(南太平洋に浮かぶフランス領ポリネシア)に寄港したときに仲間とともに脱走する。ところが、その島には食人の習慣を持つ先住民がいて、彼らは「いつ自分たちが食われるか」と怯えながら過ごした。/一カ月後、偶然に寄港したオーストラリアの捕鯨船に乗って島を脱出したメルヴィルは、その捕鯨船内の暴動に巻きこまれ、タヒチ島で投獄されてしまう。その後脱走に成功したメルヴィルは近くの島に隠れ住み、やがてアメリカの捕鯨船に救われて一八四二年四月にハワイへ到着、ホノルルで店員などをした。(金森誠也・監修『世界の名作50選』PHP文庫)

『白鯨』は『モービー・ディック』というタイトルで、1951年に刊行されましたが、当時はまったく受け入れられませんでした。『白鯨』は長く、しかも鯨に関する論文のような文章が挿入されています。そのあたりについて、サマセット・モームの助言を紹介しておきます。

――わたくしがよんで退屈におぼえた章も、いくらかある。たとえば、図書館でくそ勉強をしておぼえこんだような、古物に関する知識だけからなる章とか、鯨の博物学をとりあつかった章とかがそれである。だが、メルヴィルがその深遠で玄妙な知識をひじょうに重んじていたことは明らかである。あなたは偉大なる才能をもつ作家の気まぐれな考えをそのままうけいれねばなるまい。(W.S.モーム『世界文学読書案内』岩波文庫、P135より)

『白鯨』は、10人を超える人が翻訳をしています。私が手にしたのはたまたま新潮文庫(田中西二郎訳)でしたが、意図したものではありません。山村修はその著書『書評家<狐>の読書遺産』(文春新書)のなかで、岩波文庫の八木敏雄訳を高く評価しています。山村修(推薦作『遅読のすすめ』ちくま文庫)は「狐」の名義で、ニュートラルな書評を数多く発信し、2006年に肺がんのために亡くなっています。

『白鯨』には、難解な記述が数多くあります。それゆえ翻訳の波長が、自分のリズムと合うか否かを確認することをお薦めします。
最近では2013年に、丸山健二『白鯨物語』(眞人堂)が出版されています。私の大好きな作家で、個人的には評価しています。ただしあまり流通されていません。丸山健二については別途、『夏の流れ』(講談社文芸文庫)を紹介させてもらいます。

 翻訳のちがいを冒頭部分で検証しておきます。まずは新潮文庫(田中西二郎訳)から引用します。

――まかりいでたのはイシュメールと申す風来坊だ。もう何年前になるか――正確な年数などどうでもよかろう――懐中は文なし同然、陸地ではこれというおもしろいこともないので、しばらく船に乗って、水の世界を見て来ようと思った。わたしにとっては、それが憂鬱を追い払って、血行を良くする方法だったのだ。(本文P39)

河島弘美は『動物で読むアメリカ文学案内』(岩波ジュニア新書)で、原文の英語の下にみずからの翻訳文を書いています。

――わたしをイシュメイルと呼んでくれ。何年か前のこと――正確に何年かはどうでもよいのだが――財布の中身が底をつき、陸には興味をひかれるものもなかったので、船に乗って水の世界を見てこようと思った。それが凶暴性をなだめ、血行をよくするわたしのやり方だった。(河島弘美『動物で読むアメリカ文学案内』岩波ジュニア新書)

 もうひとつならべてみます。
――人の名前なんぞというものにおよそどれほどの価値があるのかは知らないが、/若くしてとんでもない運命に遭遇し、/その渦に完全に巻きこまれてしまった、/極めて特異な体験の語り部として登場するおれのことは、/とりあえずイシュメールとでも名乗っておくことにしよう。(丸山健二『白鯨物語』眞人堂)

 私は「水の世界」とか「血行をよくする」などの表現に、違和感をもっていました。翻訳が流れておらず、直訳っぽい場違いな単語が気になっていました。それを丸山健二はすべて削いで、みごとな滑り出しを描いてみせてくれました。

 ほかに『白鯨』の訳書として、講談社文芸文庫(千石英世訳)と岩波文庫(八木敏雄訳)などがあります。読んでいませんが。

◎迫力満点の最終章

『白鯨』の語り手は、イシュメイルという無宿者です。鯨にかんする古今東西の文献の紹介や捕鯨にまつわる歴史なども、彼自身の言葉によって語られています。彼は捕鯨の街で、銛(もり)打ちのクィークェグと同宿します。2人は意気投合し、やがて片脚の船長・エイハブが陣頭指揮をする、捕鯨船・ピークォツド号に乗りこみます。この2人については最後に、笑ってしまった珍説(?)を紹介します。

船長・エイハブは、自身の片脚を奪った白鯨・モービー・ディックへの復讐を胸に、長い航海へと出発します。エイハブはマストにスペイン金貨をはりつけ、第一発見者にはそれを進呈すると宣言します。エイハブはあらゆる航海の常識を放棄し、ひたすら白鯨を追い求めつづけます。

エイハブには、人情のかけらもありません。荒れ狂う航海の安全にかんする、考慮すら欠けています。乗組員への配慮もありませんし、行き違うほかの捕鯨船への仲間意識も欠落しています。

エイハブ船長の怨念と、乗組員の諦念を乗せて、ピークォツド号は荒海を進みます。行けども行けども、白鯨・モービー・ディックは出現しません。乗組員たちの、寄港すべきだという主張は、とうに切り捨てられてしまっています。

『白鯨』は135章にもおよぶ長編です。しかし活劇が展開されるのは、最後の3章のみです。それまで読者は、たいくつな鯨学につきあわなければなりません。1度乗船したら降りることのできない海原ですので、しかたがありません。最終章(第135章)の迫力ある場面まで、読者は耐えて待たねばならないのです。

――突如、あたりの波が、ゆっくりと、広い円形にふくらんできた。それから、まるで水面下の氷山が急に浮き揚がるときのように、ふくらみは横すべりながら急激に高まった。低い地鳴りのような音が聞こえる。地底の鼻唄。次の瞬間、みな息を呑んだ。垂れる鯨索、銛と槍、それらを引きずりながら、巨大なるものが縦に――だが海面には斜めに跳り出たのだ。(下巻本文P513より)

私がこの文章を読むために、大学時代の階段教室での講義のような時間に耐えました。このあたりのことを、池澤夏樹はつぎのように語っています。

――真ん中の部分に何が書いてあるのか。ずうっと鯨の話です。鯨の種類、鯨という言葉の語源、鯨の生態、解剖学、捕る時の技術、その他種々、ありとあらゆる鯨学。それから捕鯨船の航海の詳細。いかなる人間が乗っていて、それぞれいかなるポジションについていて、どういう役割か。実際にいかにして鯨を見つけるのか。見つけたらどうやって追いかけて、捕まえて、母船まで運んで、最終的な処理をするか。そこから始まって、人類にとって鯨とは何かを哲学的に問う。具体的な応用例から、形而上学的な意味、旧約聖書に出てくる「ヨナの話」も出てきます。(池澤夏樹『世界文学を読みほどく』新潮選書より)

私には読みにくい作品でしたが、この作品を抜きにして「山本藤光の文庫で読む500+α」は完結しません。そんな思いで、学生時代に挫折した本書を、みごとに読破しました。退屈な部分はどんどん飛ばして読むと、分厚い上下巻はあっという間に読み終えることができます。念のため。

◎『白鯨』に寄せられたあれこれ

 宮川雅は「『白鯨』はさまざまなレベルで読めるテキストである」として、つぎのように整理してくれています。

1. 十九世紀捕鯨業のルポルタージュ
2. 海洋冒険小説
3. シェクスピア的ないし神話的悲劇
4. 聖書のパロディ
5. 神や悪魔や認識の問題を巡る思想小説
6. フリーメーソンの象徴が解読され、エイハブと神の関係にグノーシス主義の思想
7. フランス批評家による図像学的・数秘学的解読
8. 男根冗句
(『世界文学101物語』高橋康也・編、新書館)

 岩波文庫の『白鯨』(上中下巻、八木敏雄訳)は、11番目の邦訳だそうです。「狐」こと山村修は、訳注の豊かさに着目しています。特に「聖書」との関連については新鮮さを感じています。

――八木訳の特色をなすのは、その訳注のゆたかさだ。この小説は、語り手のイシュメールや船長のエイハブなど人名の借用をはじめ、いたるところい聖書本文の引用・暗示・パロディなどが織りこまれている。それが訳注で巨細にわたってしめされるばかりではない。訳文にも聖書読解にもとづく独特の工夫がこらされ、ときにはハッとさせられる。(山村修『書評家<狐>の読書遺産』文春新書)

 もうひとつ、メルヴィルが他の作家から受けた影響について紹介させていただく。

――メルヴィルはホーソンを規範として、シェイクスピア悲劇の影響のもとに捕鯨の物語を書きなおした。そして、エイハブ船長は運命と悪に挑戦し、ついにはみずからを滅ぼすにいたるが、決して敗北はしないアメリカ的な英雄となる。(明快案内シリーズ:『アメリカ文学』自由国民社)

 ホーソンは『緋文字』(新潮文庫)、シェイクスピアは『マクベス』(新潮文庫)を別途紹介させていただきます。最後は斎藤美奈子が笑わせてくれたので、引用しておきます。鯨=ゲイ、とすこしこじつけっぽいけれど、物語の冒頭で引用させてもらった2人は、確かに同じベッドで寝ているのです。

――親友(恋人?)のクィークェグを失い、「孤児」となった悲しみがイシュメールを鯨学に向かわせたのではなかったか。なぜかって鯨は親友(恋人?)の思い出に直結するからだ。そう思うと、いっけん退屈な鯨学の部分まで切なく感じる。ゲイ文学の傑作に認定したい。(斎藤美奈子『名作うしろ読み』中央公論新社)
(山本藤光:2011.02.18初稿、2014.10.11改稿)