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山本藤光の文庫で読む500+α

著書「仕事と日常を磨く人間力マネジメント」の読書ナビ

久間十義『刑事たちの夏』(上下巻、中公文庫)

2018-10-06 | 書評「ひ」の国内著者
久間十義『刑事たちの夏』(上下巻、中公文庫)

新宿歌舞伎町裏のホテルで大蔵省キャリア官僚が墜落死した。自殺か、他殺か―。「特命」で捜査に加わる強行犯六係の松浦洋右は、他殺の証拠を手にする。しかし、大蔵省と取引した上層部が自殺と断定し、捜査は中止に。組織と対峙し私的な捜査を続ける松浦は、政官財癒着を象徴する陰謀にたどり着くが…。ブームの先駆となった傑作警察小説。(「BOOK」データベースより)

◎ルポ的純文学

久間十義とは、デビュー作『マネーゲーム』(河出文庫、初出1987年)からのおつきあいです。本書は文芸賞佳作となりました。当時社会的なニュースになった、豊田商事事件をテーマにした作品です。このときに久間十義が道産子作家であることを知り、以来ずっと読み続けています。
その後発表された『世紀末鯨鯢記』(河出文庫、初出1990年、三島由紀夫賞受賞)に代表されるように、現代社会を鋭くえぐる作品を書き続けています。そしてデビューから約10年後、『刑事たちの夏』(初出1998年、日経新聞社)を読んで、久間十義が高みに登ったと感激させられました。このとき書評はPHP研究所メルマガ「ブックチェイス」で発表しています。
そして2017年1月に、新装版『刑事たちの夏』(上下巻、中公文庫)が出たのを機会に再読しました。ほとんどストーリーを忘れていましたが、腐敗した権力機構と闘う男たちの姿は、現在に通じるとその先見性に驚かされました。

『刑事たちの夏』は、1997年2月から1年以上に渡って、日本経済新聞社夕刊に連載されていました。本書は現代の病める事件を、虚構の世界に再現したものです。事件は、灰色と評されていた、大蔵省審議官の墜落死からはじまります。
 久間十義は、社会現象を取り入れたこの手法を好んで用います。前記の豊田商事事件やイエスの方舟などを彷彿させる作品に続いて、今度は大蔵省です。
 審議官の墜落死を他殺とみた刑事に対して、様々な妨害が入ります。政府や警察組織の弾圧が見え隠れします。
 主人公の松浦洋右は警視庁捜査一課、強行犯捜査六係主任です。彼には別居している妻と息子がいます。仕事に熱中するあげく、家族をかえりみなかったのが原因というお決まりのパターンなのです。
 洋右には銀座のクラブに勤めるヒロコという恋人がおり、彼に憧れている東京地検の美由紀がいます。物語りはこの三人を基軸に進められます。
 ストーリーは意外に単調です。また文章は平易であり読みやすいものです。最後に予想外のどんでん返しはありません。したがって本格的な推理小説として読んだら、何か損をした感じになってしまいます。
 単行本購入時の本書は、推理小説の棚にありました。当時の書店はジャンル別に棚分けされていたのです。したがって私は推理小説の前提で読んでしまいました。妻子に見放されたが、二人の女性から心を寄せられている反体制派の刑事の物語。こんな帯なら、失望することもありませんでした。
 しかし本書は、ルポルタージュに近い純文学と呼べるものです。そのあたりを踏まえた評論があります。引用してみます。

――「現実をいかに描くか」という問題にかなりこだわっているせいか、久間さんの作品は一見ルポルタージュ的な印象を受けるのですが、久間さん自身はむしろルポにこそ虚偽が入り込むという思いがあって、小説というかたちの中で現実を描く方がより一層現実を追求することができるのではないか、と考えておられるんじゃないかと思います。(女性文学会編『たとえば純文学はこんなふうにして書く』同文書院P124)

◎バルザック的な視線

 タイトルは、「刑事たち」と複数形になっています。筆者は複数の刑事を描きたかったのでしょうが、残念ながら主人公以外は影が薄い感は否めません。
 気になったのは「目をしばたたいた」の表現が、何回となく出てくることです。単行本10ページ「洋右は目をしばたたいた」、14ページ「彼は目をしばたたいた」、105ページ「彼はしばたたき……」、154ページ「羽田は目をしばたたいた」、166ページ「洋右は目をしばたたいた」、278ページ「彼女は目をしばたたいた」……キリがないので探すのはやめます。
 違う表現はないものなのでしょうか。私は目をしばたたいて、考えこんでしまいました。最後は茶化しになりましたが、私は久間十義は骨太な作家だと思っています。そして本書は、大蔵省改め財務省の現在を描いているように思えました。
 久間十義について、秋山駿は次のように書いています。

――社会の変化の運動をぎゅっと掴み、その運動に操られる人間の生態を、ときおりモデル人形をいじくるように自分の指で揺すぶっては観察する――そんなバルザック的な視線がある。(秋山駿『作家と作品』小沢書店P349-350)

 中公文庫下巻は、大蔵省の不正について書かれた「白鳥メモ」が登場します。そしてそのメモの争奪戦が展開されます。このあたりの描写は繊細で、まるで現在の財務書の不正を彷彿とさせます。現実にあった社会問題を、独自の視点で小説化し続ける久間十義。私は、佐木隆三『復讐するは我にあり』(文春文庫、500+α紹介作)とともに、新たなジャンルが確立されたと評価しています。
山本藤光1998.09.12初稿。2018.10.06改稿


平野啓一郎『日蝕』(新潮文庫)

2018-04-11 | 書評「ひ」の国内著者
平野啓一郎『日蝕』(新潮文庫)

錬金術の秘蹟、金色に輝く両性具有者(アンドロギュノス)、崩れゆく中世キリスト教世界を貫く異界の光……。華麗な筆致と壮大な文学的探求で、芥川賞を当時最年少受賞した衝撃のデビュー作「日蝕」。明治三十年の奈良十津川村。蛇毒を逃れ、運命の女に魅入られた青年詩人の胡蝶の夢の如き一瞬を、典雅な文体で描く「一月物語」。閉塞する現代文学を揺るがした二作品を収録し、平成の文学的事件を刻む。(内容紹介)

◎評価は真っ二つ

平野啓一郎『日蝕』(新潮文庫)を初めて読んだのは、20年前になります。平野啓一郎は当時、現役の京大生で「三島由紀夫の再来」と大いに話題になりました。三島由紀夫というよりもデビュー時の姿は、大江健三郎と重なるものがありました。

『日蝕』は文芸誌「新潮」に掲載され、その後芥川賞を受賞しています。当時の「新潮」編集長・前田速夫は、興奮した調子で次のように書いています。

――京大法学部在学中の学生の投稿作品を巻頭一挙掲載しました。平野啓一郎氏の「日蝕」二百五十枚。もちろん、異例中の異例ですが、ルネッサンス前夜のフランス寒村を舞台に、異端と聖性の問題を追求した本作は、その高度な内容と荘重な文体で、三島由紀夫の再来かと、小生を驚喜させました。弱冠二十三歳、ポスト・モダン総崩れの中で、出るべくして出た才能に、ご声援を。(「波」1998年8月号)

ところが、文壇での評価は真っ二つになりました。それは芥川賞の選評に、表れています。(以下『芥川賞全集第18巻』より)

――私はこの作品に作者の志の高さを見たので、それに賭けるつもりで推した。(河野多恵子)

――矛盾した記述は矛盾のままに、「両性具有者」は私自身であったのかも知れない」という主人公の魂の統合体験を、私は共感することができた。(日野啓三)

――この衒学趣味といい、たいそうな擬古文といい、果たしてこうした手法を用いなければ現代文学は蘇生し得ないのだろうか。私は決してそうは思わない。(石原慎太郎)

――自分の意図するところを読む者へそっくり正確に伝えられるような独自の表現方法を考慮するべきではなかったろうか。(三浦哲郎)

これらの騒音を、平野啓一郎はばっさりと切って捨てます。

――『日蝕』は、雑誌掲載時から随分と方々で反響があって、中には当然、まったくお話にならないような、呆れた「愚評」(中略)の類もあった。それでも、幾つかの指摘は十分意義あるものであった。(「波」1998年10月号)

引用文中、「まったくお話にならない」には、ごていねいにも傍点までふられていました。

◎読み解く鍵は、「受肉」

 舞台は、中世のフランスの小村。異端の哲学に関心を示す修道士「私」は、ヘルメス選集を求めて旅に出ます。作品は「私」の回想録風に書かれています。この形式は通常なら、読者が主人公に感情移入しやすく、わかりやすいはずです。
 ところがこの作品は違いました。漢語調の難解な文章に加えて、古風な道具立てが私の理解力にモヤをかけるのです。異端審問、異教哲学、魔女裁判、錬金術、黒死病(ペスト)、両性具有者(アンドロギュノス)……こんな単語がところ狭しと並んでいます。

今回20年振りの再読にあたり、私はストーリーよりも一文の意味について注意を払いました。発売直後に単行本を読んだときの、トラウマと決別するために。

難解な本書を、著者自身が解説してくれている文章があります。
  
――この小説を読解く一つの鍵は、受肉の問題である。錬金術が二十世紀になって殊に再評価されたのは、それが飽くまで物質を通じて超越的なものに触れようとする試みだからである。西洋的な二元論の克服を、「もの」との、そして世界との和解を通じて行おうとしたからである。(「波」1998年10月号)

 読み解く鍵は、「受肉」だと説明されています。作品中には、神の受肉の意義について「全能な神が、肉を受け、女の胎内より産まれ出て、自ら創造したこの世界に、人として生き、死んだと云うこと」と書かれています。

著者がなぜこういう文体を選んだのか、についての解説があります。

――本作の大きな特徴である、新字体と新仮名遣いによる非常用漢字を多用した凝古典的な文体の採用の背景には、主人公のラテン語による思考を日本語の文脈に翻訳する意図や、十五世紀のヨーロッパの言語の使われ方と明治期の言文一致を重ね合わせようとする歴史的意味が込められている。(栗坪良樹編『現代文学鑑賞辞典』東京堂出版P317)

確かにこの舞台を描くには、この文体がふさわしいとも思います。平野啓一郎の意図について、中沢けいは次のように書いています。

――現代に多く流通している口語文は、文章の格調に欠ける。だから車谷の作品も、花村の作品も詳細を読めば微妙なところで、かなり古い表現を取り入れている。(中沢けい『書評・時評・本の話』河出書房新社P307)

 平野啓一郎の文体には、先達がいたのです。車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』(文春文庫)、花村萬月『ゲルマニウムの夜・王国記1』(文春文庫)は、「文庫で読む500+α」で紹介済みです。彼らの文章よりも、平野の文章はよりこったものになっています。

ちなみに、なぜ本書を再読したかというと、文体論を書いてみたかったからです。石川順の長文に魅力を感じています。そんなおりに、平野啓一郎の練り上げた文章を思い出したのです。23歳でこれだけの文章を書いたことに、今回も改めて驚いています。
山本藤光018.04.11

干刈あがた『ウホッホ探険隊』(河出文庫)

2018-03-11 | 書評「ひ」の国内著者
干刈あがた『ウホッホ探険隊』(河出文庫)

離婚を機に、新しい家族のあり方と、自立する女性の生き方を、優しく切なく描いた感動作。作家デビューからわずか十年、四十九歳の若さでこの世を去った著者の名作復刊! (「BOOK」データベースより)

◎ぼんやりとした作品

干刈(ひかり)あがたの著作については、すでに『堤中納言物語』(講談社「21世紀少年少女古典文学館7」)を紹介済みです(知・教養・古典ジャンル125+α作品)。みごとな訳文に感動しました。   

今回はずっと絶版状態だった『ウホッホ探険隊』(河出文庫)が復刊されましたので、取り上げたいと思います。私はぼんやりとした干刈作品が好きです。デビュー作からずっと読んでいます。なかでも『ウホッホ探険隊』が、彼女の代表作だと思っています。それゆえ、今回の復刊は感動的なできごとでした。

干刈あがたは1943年生まれの女性作家です。両親がそろって奄美の沖永良部島出身でした。ここは米軍の統治下におかれ、両親は帰郷できないままでした。そんな関係で干刈あがたは、両親から島の話を聞いて成長しました。

干刈あがたは49歳(1992年)のときに、胃がんで亡くなっています。デビュー作『樹下の家族』(朝日文庫、初出1982年)は、第1回の「海燕」新人賞を受賞しています。
 このとき選者だった小島信夫は、「海燕」の干刈あがた追悼号(1992年11月号)に次のような文章を寄せています。

――この作品(『樹下の家族』)の魅力は、彼女の目にうつったこと、感想、思い出が読者に訴えてくる新鮮さにある。その新鮮さは、何かしら宙に放り出されているような気がし、一人の女性のものであるかどうかも、はっきりしない。(同書P134)

◎味わい深い『ウホッホ探険隊』

『樹下の家族』では2人の男の子の母が、仕事が忙しくて家に戻らない夫との危うい結婚生活を描いています。
『ウホッホ探険隊』も似た設定ですが、こちらは15年の結婚生活に終止符を打ち、離婚3ヶ月目を迎えた主人公「私」と2人の息子の話です。
 長男の太郎は、小学校の卒業式を控えています。次男の次郎は2歳下の小学生です。離婚しても子どもたちは、自由に父親と会うことができます。また彼らの名字も、夫の姓のままになっています。この部分は、干刈あがたの離婚時と同じです。その点について、触れられている文章があります。高樹のぶ子が離婚した干刈と電話でやり取りした場面です。

――「ねえ、子供はともかく、離婚したときにどうしてあなたの姓まで、ダンナの名前で置いといたのよ」と訊いてしまった。あのときの干刈さんの、短い沈黙が忘れられない。私はたぶん、何気ない質問でもって、彼女を傷つけたのだろう。(「海燕」の干刈あがた追悼号、1992年11月号)

 あまり家にはいなかった父親の完全不在。兄弟は意図的に乱暴な言葉で母親を励まします。しかし内面の寂しさは隠せず、太郎は弟に乱暴し、次郎は高熱を出します。
 主人公「私」の両親も、私が幼かったときに離婚しています。そのときの自分の心境を、2人の子どもに重ねてみます。しかし遠い昔の記憶は、目の前の2人と重なりません。

◎探険隊みたいだね

 ちなみに本書のタイトルは、太郎の次のセリフを用いたものです。

――僕たちは探険隊みたいだね。離婚ていう、日本ではまだ未知の領域を探険するために、それぞれの役をしているの。(本文P70)

 離婚を家族の崩壊ととらえず、新しい出発と位置づけた著者の思いが、このタイトルに表れています。ウホッホというのは、離婚後に元宅へ入ってくるときの父親の空咳のことです。

本書を際立たせているのは、ちょっと背伸びした子どもたちの言葉遣いです。母と太郎の会話を紹介させていただきます。

(引用はじめ)
「だって僕、脇毛、はえてきたもん」
「本当、見せて見せて」
「何ですか、あんた息子に」
「見せてよ。ちょっとでいいから。産んであげたんだから、見せてくれたっていいでしょ」
 君はTシャツをめくり上げて見せてくれた。
「本当だ。お餅のカビみたい。春の曙だね。うつくしいよ」
「涙ぐむことないでしょう。異常ですねえ」
(P39引用おわり)

 夭折した干刈あがたの傑作を、ぜひご堪能ください。
山本藤光2017.12.19

東川篤哉『密室の鍵 貸します』(光文社文庫)

2018-03-04 | 書評「ひ」の国内著者
東川篤哉『密室の鍵 貸します』(光文社文庫)

しがない貧乏学生・戸村流平にとって、その日は厄日そのものだった。彼を手ひどく振った恋人が、背中を刺され、4階から突き落とされて死亡。その夜、一緒だった先輩も、流平が気づかぬ間に、浴室で刺されて殺されていたのだ! かくして、二つの殺人事件の第一容疑者となった流平の運命やいかに? ユーモア本格ミステリの新鋭が放つ、面白過ぎるデビュー作。(「BOOK」データベースより)

◎ユーモラスでコミカル

待望の『謎解きはディナーのあとで』が文庫化(小学館文庫)され、山本藤光の「文庫で読む500+α」で紹介できるようになりました(文庫発売は2012年10月)。この作品は2010年の本屋大賞を受賞しています。それまでの東川篤哉は、一部の読者にのみ支持される、話題性のない作家でした。

私はデビュー作『密室の鍵 貸します』(光文社文庫、初出2002年)から注目していました。それから10年。押しも押されぬ人気作家として、『謎解きはディナーのあとで』は平台に山と積まれています。

『謎解きはディナーのあとで』の書評はあとまわしにしようと思います。その前に、ぜひデビュー作にふれていただきたいのです。

東川篤哉は1996年から2002年まで、「本格推理」(のちに「新本格推理」と改称)に短編を掲載していました。この当時は、東篤哉というペンネームでした。

以前からユーモアあふれる本格派として、高く評価されていました。東川篤哉をはじめて読む方には、作品発表年次をたどるように薦めています。東川篤哉は、確実に階段を上がっている作家です。そうすることにより、読者は著者の成長と伴奏することができます。それゆえ『謎解きはディナーのあとで』は、ツンドクだけにしてもらいたいと思います。

デビュー作『密室の鍵 貸します』の舞台は、千葉の東、埼玉の西にある架空の都市・烏賊川市です。この地名は、声に出して読んでもらいたいと思います。なんともユニークな命名ではないでしょうか。主人公の戸村流平は、烏賊川市立大学四年生で、映画学科に在籍しています。

本書の登場人物は、きわめて少人数です。私立探偵の元義兄・鵜飼杜夫、砂川警部と部下の志木刑事。そして殺害される元恋人・紺野由紀と先輩・茂呂耕作。これらの登場人物を「密室」に詰めこんで、東川篤哉マジックは炸裂します。

文庫解説で、有栖川有栖は「ユーモア本格ミステリーのエース」と絶賛しています。なるほど、文章の切れもいいし、伏線の張り方も巧みです。

本格的密室ミステリーの代表格として、鮎川哲也「赤い密室」(創元推理文庫「鮎川哲也短編傑作選Ⅱ」所収)や横溝正史『本陣殺人事件』(角川文庫)をあげる人はたくさんいます。東川篤哉は、そんな本格派作品に、甘味料を加えてみせました。

ストーリーは単純です。元恋人が殺害され、マンションの4階から突き落とされます。同じ夜、先輩も「密室」で殺害されます。流平は先輩の家で、殺害されている死体を発見します。一晩に身近な2人が殺害されてしまいます。しかも先輩の死は、完全な「密室」でのできごとでした。

流平は嫌疑をかけられるのを恐れて、元義兄の私立探偵に助けを求めます。2つの死を追う警部と刑事。探偵と警察が、「密室」という詰将棋に挑みます。「密室」ものは、書くのが難しいといわれています。ほとんどの作品は、こじつけや偶然で片づけられています。ところが『密室の鍵 貸します』には破たんがありません。

◎小峰元、赤川次郎、ウイングフィールド

東川篤哉の路線の先達は、小峰元でしょう。小峰元は『アルキメデスは手を汚さない』(講談社文庫)で第19回江戸川乱歩賞(昭和48年度)を受賞しています。その後、一貫してコミカルな作品を発表しつづけました。

東川篤哉の一連の作品を読みながら、懐かしく小峰元を思い出しました。私の書棚には、9冊の小峰作品がならんでいます。おそらく東川篤哉も、同じようになると思われます。断言できますが、しばらくは追いかけてみたい作家なのです。

私は東川篤哉作品を、小峰元とならべて、「コミカル」「ユーモラス」と書きました。ただし文体は大いにちがいます。東川篤哉は、翻訳ミステリーの影響を大きく受けているのでしょう。作品のなかに著者が登場するスタイルは、私の好みでもあります。

――いずれにしても、物語においてたびたび移動を繰り返す。映画流にいえばカットバックということになるだろう。ひょっとすると煩わしさを感じる人もいるかもしれないが、ご勘弁を願いたい。(本文P26より)

――繰り返しの多いこの物語にも、どうやら決着の時が近づいていることを、すでに勘のいい読者のみなさんならば感じ取っているはずである。むろん勘の悪い読者だとしても残り頁の少ないことから考えれば、「ここからさらに死体が増えることはあるまい――」というくらいの予想は立つだろう。事実、そのとおりである。終りは近い。(本文P238より)

読者とのかけあい。東川篤哉が楽しみながら、作品を仕上げていることを彷彿とさせてくれる挿入です。東川篤哉は「本屋大賞」(『謎解きはディナーのあとで』)の受賞インタビューで、「高校生のころ、赤川次郎を読んでユーモアミステリーを身近に感じた」(朝日新聞2011.4.26)と語っています。

そして、「ユーモアミステリーは他にあまり書いている人がいなかった。僕一人ぐらい需要はある」と考えたと語っています。

東川篤哉の見こみどおり、やがて赤川次郎、小峰元、東川篤哉をひとつのくくりとして語られるときがくるでしょう。東川篤哉は、ウィングフィールドのフロストシリーズ(『クリスマスのフロスト』創元推理文庫)の域まで達する可能性を秘めています。

お薦め。くれぐれも本屋大賞受賞作から、手を出すことのないようにしてください。まずは『密室の鍵 貸します』を読んでもらいたいと思います。あなたに本書の鍵をお貸ししますので。
(山本藤光:2012.10.16初稿、2018.03.04改稿)

東山彰良『流』(講談社文庫)

2018-02-26 | 書評「ひ」の国内著者
東山彰良『流』(講談社文庫)

1975年、偉大なる総統の死の直後、愛すべき祖父は何者かに殺された。17歳。無軌道に生きるわたしには、まだその意味はわからなかった。大陸から台湾、そして日本へ。歴史に刻まれた、一家の流浪と決断の軌跡。台湾生まれ、日本育ち。超弩級の才能が、はじめて己の血を解き放つ! 友情と初恋。流浪と決断。圧倒的物語。(「BOOK」データベースより)

◎きな臭い時代の台湾

東山彰良は台湾生まれで、日本育ちの作家です。『流』(講談社文庫)は満場一致で直木賞を受賞した、著者のルーツ探しの作品です。舞台は国民党の総統・蒋介石が死去した、翌年の1975年の国民党の戒厳令下にある台湾です。その時代の台湾を東山彰良は、次のように描いています。

――大街小巷から人影が消え、野良犬すらいなくなった。だれもいなくなった公園ではリスが梢を渡り、小鳥が楽しげにさえずっていた。/だれもが薄暗い家のなかで息を殺してテレビやラジオにかじりつき、この好機を共産主義者どもが逃すはずがないとおびえた。わたしたちを守っていた巨人が倒れ、邪悪なものが台湾海峡を越えて攻めこんでくるのは時間の問題だった。(単行本P15)

中国国民党による、戒厳令は1987年まで続きます。現在は観光地として華やいでいる台湾ですが、そこにはきな臭い時代がありました。

主人公・葉秋生(イエ・チョウシェン)は、17歳の高校生です。葉秋生は、祖父が経営する店内で、祖父・葉尊麟の遺体を発見します。祖父は後ろ手に縛られた状態で、浴槽に沈められていました。秋生は、やさしい祖父が大好きでした。戦時中は大陸で国民党の兵士として、多くの人を殺した経験を持っています。

秋生は優秀な生徒でしたが、替え玉受験が発覚して神学校から不良学校へと転校します。鉄製の定規で鋭利なナイフをつくり、酒を飲み、悪い友達とつきあいます。しかし空虚な胸のなかには、いつも祖父の死にざまが宿っていました。そして秋生は、祖父の足跡をたどる旅へと出ます。

『流』の冒頭は祖父のルーツ探しで、石碑を発見した場面からの展開となります。

――その黒曜石の碑は角が取れ、ところどころ剥がれ落ち、刻まれた文字もまたかなり風化していたが、それでも肝心な部分はかろうじて読み取ることができた。(本文冒頭より)

石碑には祖父の名前があり、民56名を惨殺したと刻まれていました。東山彰良は「週刊現代」のネットサイト「賢者の知恵」(2015年08月16日)で、直木賞受賞後の対談を伊集院静としています。そこで東山彰良は、父と祖父がモデルであると語っています。インパクトの強い冒頭場面の、亡き祖父の名が刻まれた石碑は実話でした。

◎エンタティメントの具材がてんこ盛り

直木賞選考委員は一様に『流』のスケールの大きさと、それを引っ張る筆力を絶賛しています。選考委員のひとり北方謙三は、本書を次のように評しています。

――暑さが、食物のにおいが、ドブの臭さが、町の埃っぽさが、行間から立ちのぼってくる。混沌であるが、そこから青春の情念を真珠のひと粒のようにつまみ出した。(北方謙三、直木賞選評)

『流』は東山彰良がいつか書きたいと、ずっと温め磨き続けた作品です。祖父が中国大陸から台湾に渡った物語は、徹底した資料の収集と関係者からのインタビューで動き出しました。東山彰良は物語を動かすにあたり、父親の視点を借りることにしました。父親なら著者自身も熟知しており、その方が物語を動かしやすかったのです。

台湾には日本人への愛着を持っている人と、憎悪を感じている人がいます。そんな微妙な心理を、東山彰良は実に巧みに表現してみせました。台湾、中国、日本と舞台を変えつつ、葉秋生は成長してゆきます。

最後に祖父殺しの犯人は、意外な人物だったことが判明します。しかしそのことは、秋生にとってどうでもいいことになっています。形だけの復讐を試みるのですが、結果は? 

本書はミステリー仕立てになっていますが、実際には青春小説といえます。肉親の死を目の当たりにし、死んだ祖父のルーツ探しと犯人探しをし、その間に恋も喧嘩もし、悪友に助けられ、裏切られる。まさにエンタティメントの具材がてんこ盛りの作品です。

東山彰良の出発点は、『逃亡作法』(上下巻、宝島社文庫)にあります。本作は当初、「タード・オン・ザ・ラン」というタイトルで2002年『このミステリーがすごい!』大賞の銀賞および読者賞を受賞しています。『流』では随所に、そのときの息吹が感じられました。秋生同様、東山彰良は大きな成長をとげたようです。

久しぶりに満足感を味わった作品でした。馳星周『不夜城』(角川文庫、「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作)を読んだときにも、こんなワクワク感を抱いたことを今思い出しました。東山彰良の次なる作品を、じっと待ちたいと思います。
(山本藤光2016.02.11初稿、2018.02.26)

姫野カオルコ『昭和の犬』(幻冬舎文庫)

2018-02-24 | 書評「ひ」の国内著者
姫野カオルコ『昭和の犬』(幻冬舎文庫)

昭和三十三年滋賀県に生まれた柏木イク。気難しい父親と、娘が犬に咬まれたのを笑う母親と暮らしたのは、水道も便所もない家。理不尽な毎日だったけど、傍らには時に猫が、いつも犬が、いてくれた。平凡なイクの歳月を通し見える、高度経済成長期の日本。その翳り。犬を撫でるように、猫の足音のように、濃やかで尊い日々の幸せを描く、直木賞受賞作。(内容紹介より)

◎5度目の正直

姫野カオルコは、1997年『受難』(文春文庫)、2003年『ツ、イ、ラ、ク』(角川文庫)、2006年『ハルカ・エイティ』(文春文庫)、2010年『リアル・シンデレラ』(光文社文庫)と直木賞候補となりました。そして2014年に『昭和の犬』で、ついに直木賞を受賞しました。

通常は連続して直木賞候補となりますが、姫野カオルコは選者の浅田次郎がいうように、「オリンピック状態」での直木賞候補でした。浅田次郎は姫野作品のオリジナリティを高く評価しています。姫野カオルコの小説は、軽いと誤解されがちです。ところが深いしかけがあり、常識の垣根を破壊する威力があります。

私は『ひと呼んでミツコ』(講談社文庫、初出1990年)から、注目していました。32歳で出版デビューした姫野カオルコは、女流版の橋本治(「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作『これで古典がよくわかる』ちくま文庫)を思わせるような作風での登場でした。このあとエッセイと小説を、無秩序に発信しつづけます。

姫野カオルコが転機をむかえたのは、5冊目の小説集『変奏曲』(角川文庫、初出1992年)を発刊した直後からです。もう恋愛小説は描けない。心底そう思ったようです。姫野カオルコは、「コメディと喜劇に命をかけている」とよく書きます。それが毒のつぶてとして、読者に投げつけられます。

直木賞受賞作『昭和の犬』が、やっと文庫化(幻冬社文庫)されました。「山本藤光の文庫で読む500+α」では、『ツ、イ、ラ、ク』『桃・もうひとつのツ、イ、ラ、ク』(ともに角川文庫)を選んでいました。当然、推薦作を切り替えることにします。

『ツ、イ、ラ、ク』は片田舎を舞台にした、少年少女の成長物語です。どこにでもありがちな設定ですが、笑いと毒に満ちあふれた姫野カオルコらしい恋愛小説でもあります。本文中にひんぱんに著者が登場するしかけといい、背伸びした少年少女のセリフといい、姫野ワールド全開の作品でした。しかし完成された『昭和の犬』とくらべると、姫野流でいうなら「性交後のペニス」のように見えてしまいます。

◎「場」つくりの名人

『昭和の犬』は、姫野カオルコの最高傑作です。主人公の柏木イクは、著者と同じ年の昭和33年に生まれます。生まれて間もなく、イクは人に預けられます。そして5歳のときにはじめて、両親といっしょに暮らします。父親はシベリア帰りで、ささいなことで怒鳴り声をあげます。母親は心を病んでおり、イクに愛情をそそぐことはありません。それでもイクは、現実を受け入れます。

高校卒業と同時に、イクは大学へ入るために上京します。貸間に住み、恋愛とは無縁の質素な日常をおくります。それ以来、イクは独身をつらぬきます。49歳になったイクは、近所の老人が連れ歩いている犬に魅せられます。犬はやさしい眼差しをイクに向け、過去を舐め清めてくれます。

『昭和の犬』は、それだけの話です。昭和にはまだ戦争の影が色濃くありました。ものいわぬ、怒りっぽい父親の存在がありました。夫のいうがままになっている、主体性のない母親の存在がありました。しかし時代が移ろうにしたがい、親子や家族のありかたに変化が芽生えます。そんななかで昭和の犬たちは、主人の変化にも従順に対応しつづけます。

『昭和の犬』には、印象的な「場」が設けられています。その場を核として、過去と現在がみごとに出し入れされます。5歳まで預けられていた、宣教師の家を離れて馬車で移動する場面。馭者が何気なく放った一言を、イクはずっと心に刻んでいます。

そして両親と暮しはじめた家。戦争の影を持ちこんでいる父。下着すら買い与えない母。怒声と諦念が充満した家で、犬だけが心のやすらぎでした。またイクには、家以外にもやすらげる場がありました。それは高校の近くにあった、たこ焼き屋「有馬殿」だったのです。無口な主人との心温まる会話は、思わず目頭があつくなるほどみごとに書きこまれています。

そして貸間の主である、老夫人とのやりとり。姫野カオルコは、さまざまな舞台をあつらえ、温かい風を主人公にそそぎます。

本書は8章からなる長編小説です。それぞれの章には「ララミー牧場」「宇宙家族ロビンソン」などといった、タイトルがつけられています。知らないテレビドラマのタイトルもありますが、章内の文章からイメージができました。

姫野カオルコは、直木賞という冠を手にしました。今後も流れるような文体に磨きをかけ、独特の語り口で日常のかけらを拾い上げてくれることでしょう。橋本治っぽいデビュー時代から、いまでは確固たる独自路線を貫く、姫野カオルコに敬意を称します。

文庫の解説を誰が書くのか、楽しみにしていました。買い求めた文庫は、「『昭和の犬』文庫版・解説としてのあとがき」となっていました。なんと姫野カオルコ自身が書いています。とりあえずそこだけを読んでみました。これがすてきです。文庫の再読は正月休みのお楽しみとします。
(山本藤光:2015.12.04初稿、2018.02.24改稿)

百田尚樹『ボックス!』(上下巻、講談社文庫)

2018-02-20 | 書評「ひ」の国内著者
百田尚樹『ボックス!』(上下巻、講談社文庫)

天才的なボクシングセンス、だけどお調子者の鏑矢義平、勉強は得意、だけど運動は苦手な木樽優紀。真逆性格の幼なじみ二人が恵美寿高校ボクシング部に入部した。一年生ながら圧倒的な強さで勝ち続ける鏑矢の目標は「高校3年間で八冠を獲ること」。だが彼の前に高校ボクシング界最強の男、稲村が現れる。(「BOOK」データベースより)

◎北上次郎がマッチアップした

 北上次郎(書評家)がマッチアップした対戦者は、まだ3戦しか経験のない新人でした。デビュー戦(2006年『永遠のゼロ』(初出:太田出版、講談社文庫)でラッキーパンチをあてて、一躍ヒーローになっています。私はデビュー戦のビデオはみていません。第2戦(『聖夜の贈り物』太田出版)、第3戦(『輝く夜』講談社文庫)は凡戦だったようです。

正直なところ、こんな相手とはファイトをしたくありませんでした。北上次郎はときどき、無名の新人とのカードを組んできます。グラブをまじえてみると、おおむね将来性のあるボクサーばかりです。「この男は手ごわい。すごいすごい、感動した」(『本の雑誌』より)と、彼は今度の挑戦者のイメージを伝えてきました。北上の刺激的な言葉にだまされて、とりあえずリングにあがることにしました。
 
 リングアナウンサーが、対戦相手の百田尚樹をコールしました。丸顔のスキンヘッド。腹はたるんでいます。なにしろ挑戦者は50歳です。セコンドにはNHKがついていますので、すこしは警戒が必要です。まずは右ストレートを鼻頭に打ちこんで、リングに沈めてやろう。そう思って、開始前のグローブをあわせました。

日の丸をあしらったトランクスに、『ボックス!』という縫い取りがしてあります。箱屋の宣伝か、と思ってしまいました。箱屋との対戦なら、安部公房(『箱男』新潮文庫)や萱野葵(『段ボールハウスガール』角川文庫)とグローブをあわせた実績があります。

『ボックス!』。単純な縫いとりだ、と笑ってしましました。これではファイティングスピリットがわきません。なぜか「ボックス」のあとに、オッタマゲーション・マーク(!)がついています。そんなもので威嚇(いかく)しようとしてもムダです。 
 
トランクスのベルト下には「興奮に次ぐ興奮、そして感動の結末」とあり、「映画化!」と大書されていました。本来は「北上次郎氏絶賛!!」などと書くべきでしょうが、「映画化」を優先したようです。これではマッチアップした北上次郎が気の毒です。
 
 トランクスにはごていねいに、ヘッドギアをつけたボクサーのイラストまで刷りこんでありました。映画の主人公を演じる「主演:市原隼人」の写真までそえてあります。しっちゃかめっちゃかなトランクスだな、と思いました。こんなやつと戦うのか、と思うと情けなくなってきました。(ここまでは太田文庫についての記述です。現在は講談社文庫に所属をかえています)
 
 開始のゴングがなりました。「甘いんだよ」と出した右ストレートを、スウェーでいなされました。「箱じゃなくって、ボクシング小説なんだぜ」というジャッブが飛んできました。「くだらないスポコン小説なんだろう」とジャブを突きかえしました。
 
 プロボクサー小説となら、過去に何度も対戦しています。マンガでは「あしたのジョー」(全12巻、講談社漫画文庫)でしたし、小説では飯嶋和一の『汝ふたたび故郷に帰れず』(小学館文庫)が強敵でした。「2番煎じかよ」と左フックを叩きこみました。今度はブロックでかわされました。挑戦者が不敵な笑みを浮かべています。
 
 観客席の最前列から、北上次郎の声が聞こえます。「山本藤光、気合いをいれろ。これまでお前の対戦した相手とは毛色が違うんだ。あてずっぽうのパンチじゃあたらないぜ」。なるほど、的確なジャブでした。強いなこいつ、と思いました。
 
◎著者と登場人物たちが、真剣勝負

 百田尚樹『ボックス!』(講談社文庫)はスポーツ小説として、あさのあつこ『バッテリー』(全5巻、角川文庫)よりも中味が濃いものでした。

『バッテリー』はすばらしい小説でした。しかしおまけで出版した『ラスト・イニング』(角川文庫)というデザートに、吐き気をもよおしてしまいました。「『バッテリー』あの伝説の試合結果がここに!」というコピーに、期待しすぎたせいかもしれませんが。
 
『ボックス!』には、この二の舞をしてもらいたくないと思います。上下巻で、りっぱに完結しています。おまけはいりません。北上次郎がいうように、『ボックス!』は近年にない迫力満点のスポーツ小説でした。
 
 舞台は恵比寿高校ボクシング部。登場人物は、学業成績はかんばしくないが、天性のボクサーの鏑矢義平。その親友で、いじめられっ子の木樽優紀。彼は特進コースの秀才です。そして2人の成長を見守る女教師の耀子。これら3人を軸にして、ボクシング部監督の沢木、マネージャーの丸野女子、立ちふさがるライバル・稲村、プロボクシング・ジムのトレーナーである曽我部などが脇役に配置されています。

 物語は木樽優紀と女教師・耀子の視点から、交互に展開されます。いじめられっ子の木樽優紀が、ボクシング部にはいります。病弱な丸野がボクシング部マネージャーになります。ボクシングには無知な女教師・耀子がボクシング部顧問になります。磁石に砂鉄が集まるように、登場人物たちが四角いリングに引き寄せられます。
 
 百田尚樹は、登場人物をみごとに融合させてみせます。対戦場面の迫力もみごとでしたが、人物造形が実に巧みです。意図的なお涙ちょうだいの描写もありません。著者と登場人物たちが、真剣勝負をしていることがわかります。
 
 私が箱だとばかり思っていた、「ボックス」の動詞はなんであるのか。アマチュアとプロのボクシングはどうちがうのか。これらの初歩的な差異を、百田尚樹は女教師・耀子に質問させます。
 
 本書には、共感できるすてきな言葉もたくさんありました。読書に支障が生ずるので、あえて引用はしません。ただし私の「読書ノート」は、「才能」「鉱脈」「基本」などの引用文でいっぱいになりました。ラ・ロシュフコー『箴言集』(岩波文庫、二宮フサ訳)をほうふつとさせる、あざやかな言魂にも満ちあふれていました。
 
『ボックス!』は、かんぺきな作品でした。フルラウンド戦いましたが、随所で重いパンチを食らってしまいました。文句なしにお薦め。北上次郎のマッチングした試合で、またも完全燃焼させてもらいました。

 百田尚樹は、川上健一(推薦作『翼はいつまでも』集英社文庫)とならぶスポーツ小説の名手のようです。あわてて『永遠のゼロ』(講談社文庫)も読んでみました。百田尚樹は、飯嶋和一のデビュー時に似ています。

レフリーが、高々と彼の右手を掲げているのをみました。百田尚樹には再挑戦しようと、『海賊とよばれた男』(上下巻、講談社文庫)を購入してきました。骨太の手強い挑戦者でした。ノックアウト寸前まで追いこまれたのは、ひさしぶりのことです。 
(山本藤光:2010.05.14初稿、2018.02.20改稿)

干刈あがた・訳『堤中納言物語』(講談社「21世紀少年少女古典文学館7)

2018-02-19 | 書評「ひ」の国内著者
干刈あがた・訳『堤中納言物語』(講談社「21世紀少年少女古典文学館7)

『堤中納言物語』には、いまに通じる個性的な人間像が、あふれる機知とユーモアで描かれている。『うつほ物語』は、全20巻という日本最古の長編物語であり、その成立、内容ともに謎をひめた新発見の魅力にみちている。天上の琴を守り伝える芸術一座四代の数奇な物語の背景に、恋のさやあてや貴族の祝祭などの王朝ロマンが,絢爛豪華にくりひろげられる。(「BOOK」データベースより)

◎干刈あがた訳を推薦

私の大好きな全集『21世紀版・少年少女古典文学館』(全25巻、講談社)のなかから、1冊を紹介させていただきます。全集のタイトルは少年少女向けになっていますが、大人でも十分に満足できる現代語訳ものです。
訳者が豪華です。竹取物語(北杜夫)、伊勢物語(俵万智)、太平記(平岩弓枝)、古事記(橋本治)、里見八犬伝(栗本薫)、源氏物語(瀬戸内寂聴)、万葉集(大岡信)、おくのほそ道(高橋治)……これだけでもわくわくしてきます。

そのなかから1冊。50歳を目前にして亡くなった、干刈(ひかり)あがたの作品を選ぶことにしました。干刈あがたは、40歳になろうとしている1982年に、『樹下の家族』(朝日文庫)で海燕新人文学賞を受賞しデビューしました。その後、年に1作のペースで『ウホッホ探険隊』『ゆっくり東京女子マラソン』(いずれも福武文庫)と発表し、芥川賞候補になっています。しかしこれらの文庫は絶版になっており、紹介を控えていました。

今回『21世紀少年少女古典文学館7・堤中納言物語(干刈あがた・訳)/うつほ物語(津島佑子・訳』(講談社)を読んで、どうしても干刈あがたという輝いていた女流作家を紹介したくなりました。

『堤中納言物語』は、角川ソフィア文庫や小学館『完訳・日本の古典27・堤中納言物語/無名草子』で読んでいました。しかし、干刈あがたの訳文は、ひと味違っていました。

少将が昨夜の女のところに、手紙を書く場面を比較してみます。(「花桜折る少将」より)その前にお断りしておきますが、『堤中納言物語』は10の短篇で構成されています。引用させていただく。「花桜折る少将」(中将となっている訳書もあります)は、「虫愛ずる姫君」とともに代表的な作品です。

◎訳文の違い

何冊かの訳文を並べてみます。

――日さしあがるほどに起きたまひて、昨夜(よべ)のところに文(ふみ)書きたまふ(小学館『完訳日本の古典27堤中納言物語/無名草子』P15)

――日が高く上がる頃に、中将はお起きになって、昨夜の女のもとに手紙をお書きになる。(角川ソフィア文庫P25)

――日が空高くのぼるころ、中将はようやく目が覚めた。昨夜会った女に、手紙をしたためる。(蜂飼耳訳、光文社古典新訳文庫P23)

――日がすっかり上がったころに起きて、昨夜の女のところへ言い訳の手紙をしたためる。(中島京子訳、河出書房新社『日本文学全集03堤中納言物語』P250)

――この時代、男と女が愛をかわすには、あたりがうす暗くなってから男が女のところへ訪ねていき、夜が明けてあたりが明るくならないうちに帰る、というのがきまりのようになっていました。そして、女と会ったあとは。家に帰ったらすぐに女のもとに手紙を贈るものだったのですが、少将はひとねむりしてから、昨夜会った女のところに手紙を書きました。(干刈あがた・訳、P14)

干刈あがたは脚注にたよらず、本文のなかに説明を溶けこませています。そのセンスは、みごとだと思います。

◎「花桜折る少将」と「虫愛づる姫君」

引用文の「花桜折る少将」は、エンディングがおもしろい作品として有名です。角川ソフィア文庫では、その題名についての解説があります。

――「花桜折る」とは美女(=花)を手に入れるという意味。また、姿形が美しいという意味もある。だからこの題名から読者は、「美貌の貴公子が美女を手に入れる話」と予想しながら読むことになる。(同書P18)

この解説どおりに、貴公子は美女を手にいれたのでしょうか。結末を楽しんでください。

「虫愛づる姫君」は、絵本にもなっているようです。干刈あがたは「あとがき」のなかで、絵本では姫君のまわりを美しい蝶が舞っていたのに、と書いています。ところが原作は違います。光文社古典新訳文庫の帯には、次のようなコピーがあります。

――眉も剃らず、/お歯黒もつけず/夢中になるのは虫ばかり/ 元祖虫ガール

 このコピーの「眉も剃らず」は、結末の愉快な展開の伏線になっています。

◎瀬戸内寂聴も田辺聖子も絶賛

 本書の現代語訳をしている中島京子は「あとがき」に次のように書いています。

―― 一編一編が、小粒だがピリリとおもしろい。文体も主題も異なり、ほろりとさせたり笑わせたり、ちょっといじわるな観察を持ちこんだりとテイストも変えておきながら、どこか通底する音を響かせて、短編集のお手本のような一冊なのだ。(中島京子、河出書房新社『日本文学全集03』P494)

――シェイクスピアの喜劇のような物語集だが、なぜ『堤中納言物語』なのか、書名のいわれさえもわからない、謎だらけの本である。(阿刀田高・監修『日本の古典50冊』知的生きかた文庫P125)

瀬戸内寂聴が晴美時代の著作『私の好きな古典の女たち』(新潮文庫)では、「虫めづる姫君」のほぼ全訳がなされています。そして最後に主人公の姫君について、次のように書いています。

――女たちが男のいいなり、親のいいなりになっていた平安の時代に、こんなにはっきり、自分の考えや思想を持って、世間の低俗な目などを相手にせず、真理だけを頼りに生きていた姫がいたとは何と愉快ではありませんか。(同書P86)

田辺聖子も『文車日記・私の古典散歩』(新潮文庫)のなかで、「虫愛づる姫君」の紹介をしています。田辺聖子はこの短篇の書き手は、女性ではないかと推察しています。私もこの説を支持しています。これほど魅力的な女性を描けるのは、女性しかいないと思っています。

平安時代に、こんなにユニークな短編集がまとめられていた。それだけでも驚きですが、すべての作品は完成されたものです。ぜひ読んでみてください。
(山本藤光2017.07.04初稿、2018.02.19改稿)


樋口一葉『たけくらべ』(新潮文庫)

2018-02-17 | 書評「ひ」の国内著者
樋口一葉『たけくらべ』(新潮文庫)

落ちぶれた愛人の源七とも自由に逢えず、自暴自棄の日を送る銘酒屋のお力を通して、社会の底辺で悶える女を描いた『にごりえ』。今を盛りの遊女を姉に持つ14歳の美登利と、ゆくゆくは僧侶になる定めの信如との思春期の淡く密かな恋を描いた『たけくらべ』。他に『十三夜』『大つごもり』等、明治文壇を彩る天才女流作家一葉の、人生への哀歓と美しい夢を織り込んだ短編全8編を収録する。(新潮文庫案内)

◎私には難解すぎた

樋口一葉『たけくらべ』(新潮文庫)は、私にとってハードルが高すぎました。何度読み直しても、情景がくっきりと浮かびあがらないのです。情けなくなりました。転がされても立ち上がる若い力士のように、歯をくいしばって挑みました。
 
3度目にびくともしなかった、関取の身体が動きました。それは松浦理英子『現代語訳・樋口一葉たけくらべ』(河出書房新社、現在文庫化されている)を読んで、予備知識を仕入れたからです。
 
さらに私は、『カセット文芸講座・日本近代史』(C.B.エンタープライズ)の「竹西寛子が語る樋口一葉」をくりかえし聞きました。この「カセット講座」はレアものです。全12巻で、樋口一葉の裏面には「吉村昭が語る森鴎外」が収録されています。
 
とにかく『たけくらべ』は、文庫の字面のみを追いかけても理解できなかったのです。近代日本文学を代表する100人から、樋口一葉ははずすことができません。必死でした。樋口一葉は写実性に富んだ作家なので、明治の風俗や社会を知っておかなければなりません。そんな意味で、私はしばし『たけくらべ』から遊離した世界を彷徨することになります。
 
樋口一葉の文体は、「雅俗折衷文体」と称されています。この文体は、幸田露伴(推薦作『五重塔』岩波文庫)や尾崎紅葉(推薦作『金色夜叉』新潮文庫)に代表されます。浄瑠璃や井原西鶴などの文体を踏まえたもので、われわれには読みにくいと思います。ところが当時は、「一定のリズムをもった流麗な美文」として賞賛されていたのです(「国文学・現代作家110人の文体」1978年11月臨時増刊号を参考にしました)。

『たけくらべ』の冒頭はつぎのとおりです。
――廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行交にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申しき、三嶋神社の角をまがりてよりこれぞと身ゆる大厦(いゑ)もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十二軒長屋、商ひじゃかつふつ利かぬ処とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形に紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田楽みるやう、裏にはりたる串のさまもをかし、(略)……。(新潮文庫『たけくらべ』より)

一文はまだまだつづきます。この文章から頭に情景を浮かばなければ、ものがたりに入りこむことはできません。情けないけれども、私には瞬時に舞台が掌握できませんでした。松浦理英子『現代語訳たけくらべ』は、つぎのとおりの書きだしになっています。
 
――回ってみれば大門の見返り柳までの道程(みちのり)はとても長いけれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火のうつる廓(くるわ)三階の騒ぎも手に取るように聞こえ、明け暮れなしの人力車の往来ははかり知れない繁盛を思わせて、大音寺前と名前は仏臭いけれど、それはそれは陽気な町と住んでいる人は言ったもの、三島神社の角を曲がってからは家らしい家もなく、軒端の傾く十軒長屋二十軒長屋ばかり、商いはいっこうにふるわない所だとかで半ばとざした雨戸の外に、ふしぎな格好に髪を切り抜いて、胡粉をぬりたくったのはまるで色をつけた田楽をみるよう、裏にはっている串の様子も面白い(略)……。(松浦理英子『現代語訳たけくらべ』より)
 
現代語訳を読んでから新潮文庫に戻ると、ずっとわかりやすくなりました。難解な文章につまって進めなくなるよりは、はるかに効率がよくなりました。私は積極的に、そうすることにしています。私の能力では、名作を読み進めないのですから。
 
◎声に出して読んでもらいたい

『たけくらべ』の舞台は、江戸の名残をとどめた、吉原に隣接する大音寺前。ほとんどの庶民は、手内職で生計をたてています。遊郭界隈に住むこどもたちは、みんなませています。そして、こどもなりのグループがありました。

鳶頭の息子・長吉が率いる横町組。高利貸しの孫・正太郎(数え13歳)が中心の表町組。表町組には、こどもたちの女王・美登利(数え14歳)がいました。正太郎は美登利に好意をもっていますが、彼女は龍華寺の藤本信如(数え15歳)に思いを寄せています。
 
樋口一葉はこうした幼い慕情の成長過程を、遊郭周辺の景色に溶けこませてものがたりをつづりました。千束神社の祭りを前に、こどもたちが揃いの浴衣を着て心躍らせています。祭りを明後日に控え、長吉は正太郎を懲らしめてやろうと考えました。長吉は信如に加勢を頼みます。信如は渋々同意しました。
 
当日、長吉は正太郎の子分・三五郎に難癖をつけます。見るに見かねて、美登利が仲裁に入ります。

――これがお前がたは三ちゃんに何の咎がある、正太さんと喧嘩がしたくば正太さんとしたが宜い、逃げもせねば隠しもしない、正太さんは居ぬでは無いか、此処は私が遊び処、お前がたに指でもささしはせね、ゑゑ憎らしい長吉め、三ちゃんを何故ぶつ、あれ又引きたほした、意趣があらば私をお撃ち、相手には私がなる、(略)……。(本文より)

こんな美登利がやがて髪を島田に結い、急激に女らしくなります。『たけくらべ』は、そうした美登利の成長を描いた明治の傑作です。文章のリズムがいいので、声に出して読んでもらいたいと思います。少しずつ場面がくっきりと、浮かんでくるようになるはずです。

『一葉青春日記』(角川文庫クラッシックス)の解説で、和田芳恵は樋口一葉についてつぎのように書いています
――この日記をよんでもわかるように、天才的というよりは、努力型の人であったと考えられます。そして、そういう生き方が天才的だと申されるのかもしれません。

こちらもぜひ読んでみてください。樋口一葉の日常をかいまみることができます。

◎追記2016.01.20
『一葉のたけくらべ』(角川ソフィア文庫)をブックオフで発見しました。先人の書き込みだらけのものでしたが、購入して読んでみました。図解も豊富ですし、なによりも解説がわかりやすく、入門書としてお勧めさせていただきます。そのなかに次のような一文がありました。なるほどと思いました。

――『たけくらべ』には、言葉による恋の語らいはありません。無声、無言の恋の葛藤劇が続くだけです。声高に恋の喜びを歌い上げるよりも、何倍も心を磨き上げる力が強いからです。(本文P4)
 
(山本藤光:2009.08.31初稿、2018.02.17改稿) 


東野圭吾『秘密』(文春文庫)その1

2018-02-03 | 書評「ひ」の国内著者
東野圭吾『秘密』(文春文庫)その1

妻・直子と小学5年生の娘・藻奈美を乗せたバスが崖から転落。妻の葬儀の夜、意識を取り戻した娘の体に宿っていたのは、死んだはずの妻だった。その日から杉田家の切なく奇妙な〈秘密〉の生活が始まった。映画「秘密」の原作であり、98年度のベストミステリーとして話題をさらった長篇。(「BOOK」データベースより)

◎長い長い『秘密』の舞台裏に挑む

 これから紹介するのは、私の最長の書評です。私はこれを「ミステリーZ」(2001年)というメルマガに連載しました。以下連載したものを引用させていただきます。

1.東野作品には、実体験がふんだんに反映されている

話題の作品『秘密』が文庫化されました。これを機会に何回かに分けて、『秘密』(文春文庫)の「秘密」に迫ってみたいと思います。すでに読んでしまった読者は多いと思いますが、東野圭吾をもっと深く知る一助になれば幸いです。断っておきますが、私は著者の追っかけではありません。読んだ作品もかぎられています。だから全作品を通しての作品論は書けません。

書棚をあさって出てきた初期作品は、『放課後』『卒業・雪月花殺人ゲーム』『学生街の殺人』(いずれも講談社文庫)と『白馬山荘殺人事件』(光文社文庫)だけでした。あとは単行本の最近の作品『白夜行』(集英社1999年)『片想い』(文藝春秋2001年3月)などです。こんな乏しい東野圭吾の読書体験で、『秘密』を語るのはおこがましいのですけれど、どうしても本質に迫ってみたい作品が『秘密』でした。

『秘密』の初出は、1998年9月文藝春秋刊です。文庫化されるまでに約3年を要しています。それだけ単行本が売れていたのでしょう。さもなければ、もっと早くに文庫化されているはずです。ちなみに本日、東京堂書店で確認してきました。書棚にあったのは、2001年2月印刷の28刷でした。

東京堂書店は、神田の古本屋街の裏通りにあり、私の知っているなかでは品揃え、書店としての美学・哲学などの面でナンバーワンの書店です。書泉グランデの真裏に位置していますので、一度のぞいてみていただきたいと思います。これぞ書店とうならせられるはずです。

話が横道にそれました。本題に入ります。『秘密』には東野圭吾の人生の断片が、いくつも埋め込まれています。東野圭吾のプロフィールを知るには、著者自身が書いているホームページを見ることをお薦めします。それを作品に重ねると、『秘密』のなかから著者自身の思いが見えてきます。

東野自身が書いたプロフィールを眺めてみます(文中のかぎカッコ内は引用部分)。東野圭吾は1958年「大阪市生野区にある、しけた時計メガネ貴金属の小売店で、3人姉弟の末っ子として生まれ」ました。

1962年自宅から1キロほど離れた公園で迷子になります。「迷子になった公園は、1999年発表の『白夜行』の冒頭に登場」します。両親は大相撲に夢中になり、気がつかなかったようです。1964年「大阪市立小路小学校に入学します。(中略)この年、東京オリンピックがあったはずだ」。「給食については苦い思い出が多々ある」。詳しく知りたい方は『あの頃ぼくらはアホでした』(集英社文庫)を読んで下さい」

プロフィールは、実にていねいに書かれています。コピーをとったら、A4サイズで5枚にもなりました。ここまでの引用は、まだ1枚目のコピーの半分だけです。東野圭吾は自分の過去を、重要なファクターとして描きます。そのあたりのことを、著者自身はつぎのように語っています。

――作品には今までの生き方や、経験がかなり反映されています。意識の中にある何らかの記憶なり、想い出なりに基づいて、ある部分を引き出し、拡大して、という作業で作品を仕上げることもありますし。無意識のうちに、過去の自分も投影されていると思いますし。作品と自分の経験が無関係ですとは決して言えないですね。(「ダ・ヴィンチ」2000年2月号「『秘密』がおしえるココロのヒミツ」栗田昌裕との対談)

東野自身の書いたプロフィールのなかからも、前記のごとく実体験と作品の関係が2つもでてきます。次回は『秘密』のなかから、東野圭吾の過去と重なる部分を拾ってみたいと思います。東野の人生がどう作品に反映されているのか。そのあたりを検証してみますのでお楽しみに。
(2009.06.11)

2.とことん「時計」にこだわりを示す『秘密』

松野時計店、懐中時計、壁時計、腕時計、札幌の時計台と、『秘密』のなかには数多くの「時計」が登場します。これは東野自身が、時計メガネ貴金属の小売店で生まれたためだけではありません。東野はとことん「時計」にたいするこだわりをもっています。東野自身の「時計」に関するエピソードを紹介しましょう。

東野は少なくとも1999年夏までは、文字盤の大きなクオーツの腕時計を愛用しています。就職祝に父親からもらったものです。ブランド品ではありません。(「週刊文春」1999年8月5日号「家の履歴書」を参照しました)

今でも愛用しているのか否かはわかりません。なぜなら東野圭吾の写真は、いずれも長袖シャツを着用していて、袖口が確認できないからです。どなたか腕時計が写っている写真をおもちでしたら、教えていただきたいと思います。私はいまだに、文字盤の大きなクオーツを身につけていると思っています。

主人公・平介は、もちろん腕時計くらいはしています。しかし、平介が腕時計に目をやることはあまりありません。どうして、と思う場面でも腕時計には目をやりません。作品のなかで、平介が腕時計を見るのは2回だけです。それも建物や食べ物に対するディテールに比べると、腕時計に関する説明はあまりにもそっけないものです。まるで詳細を書くことを避けているように、投げやりな記述になっています。

――彼(平介)は腕時計を見た。午前十一時を回ったところだった。今から急いで会社に戻っても、すぐに昼休みだ。(本文174ページより)

――翌日、平介は帰りが少し遅くなった。腕時計の針は八時十五分を指している。(本文209ページより)

腕時計ではなく、壁時計に目をやる場面は何度かあります。あるいは、時間の確認をした対象を明確にしないままの記述もあります。壁時計についても、ディテールは明確にされていません。東野が大切にしているのは、過去の思い出が染み込んだ時計のみのようです。あとは時計は単なる時を刻む道具として、大きな価値を認めていないといえます。

――祭壇をセットし終えると、彼(平介)は喪服から普段着に着替えた。壁の時計は午後五時三十五分を指している。(本文より)

――時刻は午後二時を少し回っていた。パンフレットによれば文化祭は五時までだ。彼は急いで支度を始めた。(本文より)

――受話器を置いた平介の胃袋には、しこりのようなものが生じていた。彼は時計を見た。(本文より)

いかがでしょうか。他にも目覚まし時計を見たりと、時刻を確認する場面はあります。しかしいずれも、前記の引用部分と差異はありません。時計に関しては、東野らしくないあっさりし過ぎの表現しか見つからないのです。

ところが懐中時計については、とことんこだわりを示します。実に詳細な記述がつづきます。これは単に、時を刻むものではないからです。就職祝いに父親からもらった腕時計を、東野は「文字盤の大きな、ブランド品ではない、クオーツ」とディテールを説明していることと考え合わせていただきたいと思います。

東野にとって、思い出につながる時計にこそ価値があるのです。事故を起こしたバス運転手・故梶川の妻は、夫のあとを追うように死亡します。平介は梶川の形見である懐中時計を、孤児・逸美より託されます。

――大きさは直径が五センチほどだ。銀色をしている。斜め上に竜頭がついていた。蓋を開けようとした。ところが金具がひっかかっているのか、指先にどんな力を込めても開けられなかった。(本文217ページより)

腕時計や壁時計とは比較にならないほど、詳細を書きこんでいます。さらに「時計」にまつわる、つぎのような場面があります。札幌へ出張した平介は、時間潰しも兼ねて有名な時計台を訪れます。

――タクシーは間もなく太い道路脇に止まった。なぜこんなところに止まったのだろうと思っていると、「あれです」と運転手が道の反対側を指差した。/「あれか……」平介は苦笑した。たしかに写真などから描いたイメージとは大違いだった。屋根についた、ただの白い洋風家屋といえた。(本文238ページより)

札幌の時計台も、陳腐なものにしか過ぎません。平介に一笑にふされた札幌時計台の描写は、松野時計店のそれと比べると違いは歴然としています。松野時計店や懐中時計については、次回にもっと掘り下げてみたいと思います。
(2001.06.30)

3.松野時計店は、東野の生家そのもの

 遅くなりましたが、『秘密』のストーリーを確認しておきたいと思います。主人公・杉田平介は、自動車部品メーカーに勤務する40歳前の働き盛り。妻・直子と娘・藻奈美に囲まれ、都内のマイホームで幸せに暮しています。そこへ突然の災難がふりかかります。妻と娘がバス事故にまきこまれ、病院へ搬入されるのです。

 妻・直子は死亡し、娘・藻奈美だけが奇跡的に一命をとどめます。目覚めた藻奈美は、平介に自分は直子だと主張します。肉体は娘のものですが、人格は妻・直子のものなのです。主人公・平介の奇妙な日常がはじまります。

 このなかで生家の時計メガネ貴金属店は、重要な役割として登場します。
――出張を明日に控えた木曜日、平介は定時で会社を抜けさせてもらい、その足で荻窪に行った。そこにある一軒の時計屋に用があった。(本文より)

 時計屋の場面は、作品のなかで2回使われています。背中を丸めた古臭い松野時計店の主人は、まぎれもなく東野の父親そのものです。この時計店の主人は、やがて『秘密』の作品全体を左右する告白をおこないます。詳細については、ネタばらしになりますのでふれません。時計店の主人が、秘密を告白する場面は圧巻です。

 東野作品は、常に読者を意識して描かれています。その根底には、客商売のプロだった父親の姿があります。プロの小説家としての東野圭吾は、父親を尊敬しています。客商売にたいする父親の思想が、読者のためにというプロ作家の哲学となって生きているのです。東野自身に語っていただきます。

――落ち着かない食事だったですよ。箸をとって、さあ一口食べようとすると、扉がギッと開く。今みたいに電子レンジなんかなかった時代ですから、親父はしょっちゅう冷めた味噌汁と御飯。かわいそうでしたけれど、客商売だったですからねぇ。(「週刊文春」1999年8月5日号「家の履歴書」より)

 平介が預かった懐中時計をめぐって、松野時計店の主人・浩三と交わす会話を紹介します。
――昔よく出回った懐中時計だよ。しかも何度か修理している。悪いけど、骨董的な価値はないねえ」「そうなんですか……」「だけど、別の価値はあるよ。これでなきゃだめだっていう人もいるかもしれない」「どういうことですか?」「おまけが付いているんだよ、ほら」。浩三は立ち上がり、蓋を開けたまま懐中時計を平介の前に置いた。(本文より)

 最近の時計は、使い捨てみたいに扱われています。東野圭吾にはそれが許せないのです。時計は時を刻むものですが、同時に1人の人生の生きざまをも刻んでいます。東野圭吾はそのことを実感しています。お客さんの思い出のときを再生する父親。時計は未来に向って進みますが、それは持ち主の歴史を内包してのものなのです。

 松野浩三が告げた「おまけ」とはなにか。ここでは形としての「おまけ」がついているけれど、懐中時計にはすべからく見えない「おまけ」がついているんだよ。東野はそう信じているのでしょう。そうでなければ、腕時計や壁時計との温度差が説明できません。
(2009.06.13)

4.異なる二つの「実験」

東野圭吾は、大阪府立大学工学部を卒業しています。その後、自動車部品メーカーに勤めました。このときの体験も『秘密』に色濃く投影されています。

  東野圭吾は大学時代の「実験」と、社会人になってからの「実験」は180度ちがうといいます。前者は実験によって導かれる結果が、最初からわかっています。わかっている結果どおりになれば、成功なのです。この退屈で単純で偶発性のない実験を、東野は嫌っていました。後者はなにもないところから、試行錯誤のすえになにかを見だす実験です。東野は熱心にとりくんだのは当然のことでしょう。

東野作品は、自動車部品メーカー勤務時代の「実験」に似ています。事実としての社会現象をベースとした、ミステリーは数多くあります。ところが東野はそれを好みません。素材としてあるのは、自分自身の過去の体験。そこから何かを構築するのが東野流なのです。

「実験」に関して、東野を象徴する資料があります。『探偵ガリレオ』(文春文庫、初出文藝春秋1998年)にたいする東野自身のコメントです。

――他の現象もすべて、一応科学的根拠に基づいて描いたつもりである。ただし実験はしていない。というより、現実問題として実験不可能な現象ばかりを扱っている。物理的に不可能なのではなく、道徳的に不可能なのだ。/実験はできないから、仮にやったとしたらこうなるだろうという予想が、本書の生命である。/たぶん確認実験などは誰にもされないだろうとタカをくくっている。」(「本の話」1998年6月号)

 東野作品は、周到に容易された結末に向って書き進められてはいません。ぼんやりと思い描いた結末に向って、試行錯誤をくりかえします。社会人時代の「実験」と同じ手法で、作品をつむぎだしているのです。

また『秘密』のなかには、多くの「一応科学的根拠に基づいて描いたつもり」を象徴する場面が登場します。下請け会社に関する描写を引用してみましょう。なんのことなのかさっぱりわかりません。ただし『秘密』の構図を際立たせる効果はあります。

――D型インジェクタというのは、来年本格的にスタートする予定の製品だ。現在はそれを田端製作所で作っている。その試作品を使ってビグッドの研究者たちがテストを繰り返し、最終的な確認を行っているわけだ。」(本文117ページより)
(2001.06.30)

5.結婚生活への鎮魂歌

『秘密』には、もう一つ重要な体験が見え隠れしています。東野圭吾は25歳のときに結婚し、『秘密』の執筆前に離婚しています。その当時のことを、東野自身がつぎのように語っています。

――たぶん僕のなかで変わったものがあるとすれば、力が抜けたんだと思います。/夫として、妻の気持ちをわかろうというのは必要だと思うんです。でも、難しいですよね。/夫婦という関係を解消してしまったあとのほうが、相手の気持ちが見えてくるというか。一歩下がって見られるようになったというか……。( 「週刊文春」1999年8月5日号「家の履歴書」より)

 夫婦の機微をみごとに描きだした『秘密』は、先に引用した言葉とは無縁ではありません。離婚の痛みを、新たなエネルギーにおきかえる。この作品は、東野圭吾の結婚生活への鎮魂歌なのかもしれません。

平介は若さを手に入れた直子に、嫉妬しはじめます。そしてすこしずつ夫婦の亀裂が深まってゆきます。私がもっとも心を動かされた場面があります。ちょっと長くなりますが、引用してみたいと思います。夫婦の危うい機微を、これほどまで的確に描き上げた文章をほかにはしりません。

――この夜の食事は、直子と結婚して以来最悪の晩餐となった。どちらも一言も口をきかず、ただ黙々と箸を動かした。かって何度か夫婦喧嘩をした時と決定的に違っていたのは、気まずさの底にあるのが怒りではなく悲しみだという点だ。平介は腹を立ててはいなかった。直子と自分との間にある、未来永劫埋まることのない溝の存在を認識し、たまらなく悲しくなっていた。そして同様の思いを彼女も抱いていることは、身体から発せられる雰囲気でわかった。皮肉なことに、こんな時だけ夫婦特有の以心伝心というものが働くのだった。(本文276ページより)

  おそらくこの文章は、離婚を経験していなければ書けないでしょう。東野自身が書いているように、「相手を一歩下がってみられるようになった」ための所産といえるからです。
(2001.07.07)