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著書「仕事と日常を磨く人間力マネジメント」の読書ナビ

一気読み「町おこしの賦」041-050

2018-03-18 | 一気読み「町おこしの賦」
一気読み「町おこしの賦」041-050 
041:標高新聞の編集会議
――第2部:痛いよ、詩織!

 夏休みを目前にして、新聞部部室はあわただしかった。壁に貼られた割りつけ用紙を前に、南川愛華は腕組みをしながらいった。
「一面トップは、これでいいわね。でもこの見出しはダメ。だいたい僻地小学校という言葉は、差別用語じゃないの。僻地ではなく、辺地としなさい」
 瀬口恭二はすかさず、見出しに朱を入れて変更する。
「写真は生徒会長がノートや鉛筆をプレゼントしている方がよくない? この写真よりも、ずっとインパクトがあると思うけど」
「ちょっと、入れ変えてみますね」
秋山可穂は、新たな写真と貼り変える。
「いいね、こっちにしましょう。では見出しと本文の検討をします。瀬口くん、見出しからゆっくりと朗読してください」

「大見出し。辺地に響く児童の歓声と笑顔」
「歓声は響くけど、笑顔は響かないよ」
 愛華の鋭い指摘に、恭二は考えこんでしまう。
「辺地に響く児童の歓声、だけでいいと思います」
 藤野詩織が助け船を出す。
「辺地ではなく、原野の方がいいと思います」
可穂が続ける。僻地が辺地となり、それを原野に改めようとの提案である。結局、大見出しは詩織の提案したものに収まる。

「小見出し。標高生徒会の第一回企画大成功」
 恭二は壁に貼ってある、割りつけ用紙を読み上げる。我ながらよくできた見出しだ、と思っていた。
「漢字ばかりで、ちょっと硬い感じがするけど」 
「虹別小学校に咲いた善意の輪、なんてどうですか?」
 愛華の投げかけに、詩織はすかさず新たな提案をする。
「どこへ、を入れるのは、大正解だと思います。でも善意というのは、上から目線でいただけないと思います」
「交流の輪、ではどうですか?」
 恭二の提案を無視して、愛華はすかさず新たな単語をつまみだす。
「さっき抹消した、笑顔をここに持ってくるのよ。虹別小学校に咲いた笑顔の輪。これならばっちりと決まっている。いいわね、これで決まり。では、本文。かなり手を入れておいたので、訂正されている原稿を読んでください」
 渡された原稿は、真っ赤に染まっていた。恭二が初めて手がけた記事は、まるで別物になっていたのである。

042:私たちにもいわせて
――第2部:痛いよ、詩織!

 新聞部編集会議は続いている。開け放された窓から、せわしないセミの声が聞こえている。風はまったく入らない。
「では二面の特集は、今回からシリーズをスタートさせる『私たちにもいわせて』です。今回は標茶町の二大プロジェクトの、現状を取り扱います。町長のインタビューは、私が行いました。時間がなくて、何も取材できませんでした。だから、インタビュー記事はなし。町長と面談、くらいに止めたいと思います。野口くんと田村さん、現地レポートの発表をお願いします」

「ぼくは、『会社の博物館』へ行ってきました。日曜日の昼どきだというのに、お客さんはゼロ。館長の宮瀬さんに、インタビューをしました。入館者は現在、月平均で百人ほどです。研修室の利用は、月に五件ほどあるくらいです。売店の売り上げも低調で、いわば閑古鳥が鳴いている状態です」

 野口猛の報告が終り、愛華は田村睦美へ報告を求めた。
「私は『日本三大がっかり名所』をめぐってきました。ちょうど釧路から、婦人会の団体十二人がきていました。一緒に歩きましたが、みんな爆笑の連続で、結構受けていました。
高知のはりまや橋で記念写真を撮り、長崎のオランダ坂で一休みして、札幌の時計台まで、だいたい一時間ほどで回れます。時計台の売店の、高知や長崎や札幌の名産品には、みなさん満足していました。
食堂ではビールで乾杯したり、撮った写真を見せ合ったりと、にぎやかでした。ただみなさん、二度とこなくていいね、とおっしゃっていました。つまり、リピーターは望めないということです」

「野口くん、田村さん、ありがとうございます。会社の博物館は行ったことがないんだけど、どんなふうになっているの?」
「玄関を入ると、タイムレコーダーがあります。これが入館の記録です。一階には売店しかありません。二階は展示室で、古い会社の備品が展示されています。壁面は社員旅行の写真や朝礼の写真などが、展示されています。三階は企業に使っていただく、研修室になっています」
「なんだか、つまらなそうだな」
 報告を聞いて、恭二が口をはさんだ。
「ねらいは企業の研修に、活用してもらうことにあるのね。でも、閑古鳥が鳴いている。瀬口くんも見たことがないのなら、今度の日曜日に見学しない? 記事は足で書け。百聞は一見にしかず。ほかに行って見たい人、いる?」
 詩織が手を上げた。

043:会社の博物館
――第2部:痛いよ、詩織!

瀬口恭二たちは、「会社の博物館」の看板を確認して中へと進む。玄関脇の売店は、シャッターが閉ざされている。正面には青銅の胸像があり、その横に「受付」と書かれたブースがある。南川愛華は、胸像を指差して笑い出した。
「町長だ。ビア樽みたいなお腹はみっともないので、胸から上だけにしたんだね」
 藤野詩織もインタビューのときに、顔を見て知っている。それにしても、なぜ会社の博物館に、町長の胸像が設置されているのだろう。詩織には、その必然性が思い浮かばない。

無人の受付には、トースターのような器械が置いてあった。「入場券を購入し、そのカードを表向きにして、この器械に挿入してください」と書かれたプレートがある。自動券売機で入館券を買い求め、指示どおりにする。カードには赤字で「2017・07・26・10:14」と刻印された。
「何ですか? この数字は?」
 詩織はカードを見ながら、首を傾げている。 
「これはタイムレコーダーといって、社員は出退社時にこれを押さなければならなかったのよ」
 愛華は笑いながら、解説する。まだ醜悪な胸像の残像から、抜け切っていないようだ。
 
二階への階段の前に、黒い電話が置いてある。「展示コーナーへ行く前に、この電話で三六番にご連絡ください」と書かれたプレートが添えられている。
「藤野さん、電話をしてみて」
 愛華にうなずいて見せた詩織は、たちまち電話の前で硬直してしまう。
「この電話、ボタンがありません」
「ダイヤルだよ、ダイヤル」
 受話器を受け取って、恭二が代わりにダイヤルを回す。テープレコーダーの声が聞こえた。
――会社の博物館にようこそ。それでは二階にご案内させていただきます。まずはエレベーターの方へお進みください。

「愛華部長、おかしな貼り紙があります」
詩織が指差したところに、一枚の紙片があった。
――このエレベーターは、荷物専用のものです。あなたは、会社のお荷物ですか? 違いますよね。それならば、年功序列という階段を、着実に上ってください。
「お荷物」と「年功序列」が、赤文字になっている。笑いながら、三人は階段へと向かう。そのとき玄関から、一人の男が入ってきた。

044:ヒラメの水槽
――第2部:痛いよ、詩織!

「きみたち、高校生かい? おじさん、ここの館長なんだ。勉強にきたとは、感心なことだね。ちょっとだけ、案内させてもらうよ」
受け取った名刺を見ると、標茶町観光協会長・宮瀬哲伸とあった。彼は宮瀬建設の経営者であり、会社の博物館の館長を務めている。宮瀬は三人の返事を待たずに、スタスタと階段を上りはじめる。
「長い階段ですね。何段あるのですか?」
二階にたどり着いて、詩織は質問をした。恭二の息は、すでに上がっている。野球を離れてからの、運動不足が響いているようだ。
「全部で三十六段だよ。それには、ちゃんとした意味があるんだけど、わかるかな?」
「三十六に意味があるのですか? 恭二、わかる?」
「わからない」恭二は詩織に、それを告げる。
「労働基準法の第三十六条だよ。現在の労働環境に異議はありません、と従業員の代表が署名捺印するものを意識しているわけさ」
「そのために、わざわざ螺旋(らせん)階段にしたのですか?」
額の汗を拭い、愛華は独りごとのようにいった。

壁にはセピア色の写真が、貼られている。朝の体操、朝礼、給料袋、社員旅行、腕抜きをした社員……。どれもこれも、愛華には興味のわかないものばかりである。足早に通り過ぎると、目の前に大きな水槽があった。
「魚がいる」
 のぞきこんだ詩織に、宮瀬館長は「ヒラメだよ」と教えた。詩織には、ヒラメの意味がわからない。「ヒラメって、上に目がついているだろう。だから上しか見えない。サラリーマンには、上しか見ていないヒラメがたくさんいる、というシャレだよ」
 恭二の説明に、愛華のあきれたような声が割りこむ。
「ここには、ゴマすり器がたくさんある。どこまでやるの、って感じだよね」

 三人はあ然として、会社の博物館を出る。通りに出た瞬間に、愛華は大声で笑い出した。そしてこれでは、お客さんを呼べないと思う。こんなものに五千万円も投じたのかと考えると、情けなくなってくる。目的は企業研修の受け皿としての、施設建設だったはずである。粗末な陳列物を思い出し、愛華の心は痛んだ。
 恭二は愛華の笑い声を耳にしながら、頭タオルの男の言葉を思い出していた。あんなものに五百円も払った。詐欺だよな。

045:右、ひだり、みぎ、左
――第2部:痛いよ、詩織!

 北海道にも、駆け足で通り過ぎる夏がきた。瀬口恭二、藤野詩織、猪熊勇太、南川理佐の四人は、塘路(とうろ)まで足を伸ばした。カヌーを体験しようとの約束だった。四人は申し合わせたように、ポロシャツとジーンズ姿で帽子をかぶっている。
 恭二は詩織から受け取った弁当をリュックに背負い、額には玉の汗を光らせている。真夏の太陽は、容赦なく照りつけている。
「詩織、弁当が重いよ」
「恭二のために、早起きして一生懸命作ったんだから、がまんしなさい」
 恭二の訴えを、詩織は笑ってたしなめた。

 カヌー乗り場で三十分の研修を受けて、四人は支給されたオレンジ色の救命ジャケットを身につけた。首にタオルを巻いた麦わら帽子の男が、四人をカヌーに案内してくれた。四人は二艘のカヌーに分乗した。アメンボのような船艇は、ゆっくりと釧路湿原へと滑り出た。川面を少しだけ冷たい風が、渡っている。
 教わったとおりに、オールを交互に水面にくぐらせる。右、ひだり、みぎ、左。オールはきしんだ音をたてて、動き続ける。岸辺の緑は、目の高さにあった。雑草の葉裏が陽光を受けて、真珠のように光っている。水面からは、釧路湿原の腐葉土の香りが立ち上っている。
「気持ちいいね、恭二」
詩織は少し声を弾ませて、大きな深呼吸をした。並んでいた勇太たちのカヌーが、先頭にたった。オールさばきはスムーズだった。
「勇太、さっきの係の人、穴吹健二くんだったよ」
 勇太には、その名前に心あたりがない。「穴吹って誰?」と質問をする。「通学バスでいつも一緒の、農業科だけど同級生よ」と理佐が答えた。「偉いな。アルバイトしているんだ」と勇太はいった。

「恭二、ほら丹頂鶴だよ」
 もう一艘のカヌーで、詩織が叫んでいる。親子の丹頂鶴が、水辺で餌をついばんでいた。
「ラッキーだな。釧路湿原の主を拝めた」
 真夏の太陽に照らされ、つややかな白い身体が輝いている。頭頂の赤が神々(こうごう)しい。前方から、折り返してくるカヌーがきた。二人は「お早うございます」と声をそろえる。先方からも、あいさつが返ってくる。水にくぐったオールは、大量の水玉を作って跳ね上がる。先を行く勇太たちのカヌーからは、かなり離れてしまった。
「恭二、少しスピードを出そうよ」
 詩織がいった。
「いいんだよ、のんびりやるのがいちばん」
 恭二はペースを上げようとしない。二つのオールの速度が乱れて、船体が少し揺れた。
「詩織、おれのペースに合わせなさい」
 振り向いて、恭二は詩織をたしなめた。
「今朝、愛華部長から電話があって、今日は菅谷さんのお見舞いに行くんだって」
 詩織は、思い出したように告げた。
「生徒会長がどうしたんだ?」
「アルバイト先の建築現場で、怪我をしたようよ。重傷ではないみたいだけど」
「生徒会長は、夏休みにアルバイトをしていたんだ」
「菅谷さんはいつも、貧乏神と同居しているって、教室のみんなを笑わせている」
 
 勇太と理佐のカヌーが、折り返してきた。すれ違いざま、理佐が声をかけた。
「カヌー乗り場の係の人は標高(しべこう)の同級生だから、返却するときはていねいにやりなさいね」
「誰?」
「虹別の穴吹健二くん。農業科だよ」
「わかった」
 詩織は短く応じた。
「夏休みにアルバイトか」 
 そうつぶやいた恭二の胸のなかに、ひとつの言葉が浮かんできた。そうなんだよな、怪我をした菅谷や今聞いた穴吹にとって、アルバイトをすることが「普通なんだ」。恭二は南川校長がいっていた「ここの児童は働くことも麦だけの弁当も、普通のことなんだ」という言葉を思い出している。
 オールをこぐ手に力が入った。
「恭二、呼吸を合わせなきゃ危ないわ」 

046:失意のなか
――第2部:痛いよ、詩織!

 穴吹健二は、失意のなかにいた。密かに思いを寄せていた南川理佐の登場は、あまりにも残酷だった。遠ざかっていく理佐の背中を目で追い、健二は唾を吐き捨てる。
おれが働いているときに、男とたわむれやがって。こみあげてくる怒りが収まらない。早朝に牛舎の掃除をして、麦だけの飯を食い、アルバイト先へと駆けつける。夏休みは、学資を稼ぐために存在している。
 健二は、生まれ落ちた家のことを思う。育った環境のことを思う。
みじめな思いのなかで、魔がさした。健二は預かり荷物のなかの、理佐のピンクのリュックに手を伸ばす。震える手でチャックを開ける。
 化粧ポーチや菓子袋があった。化粧ポーチを開ける。手鏡や化粧品と混じって、生理ナプキンが二つある。健二は一つを抜き取り、ポケットに入れる。呼吸が乱れ、首筋に汗が噴き出す。

 釧路川のゆるやかな流れをさかのぼり、カヌーは岸辺へとたどりつく。穴吹健二が待ち構えていて、カヌーを引き寄せる。勇太が飛び降り、理佐に手を差し伸べる。よろけた理佐は、勇太の胸のなかに倒れこむ。
 健二は顔を上げない。
「ありがとう。楽しかったわ」
 理佐の快活な声が、汗のにじんだ健二の背中に向けられる。汗だらけで働いている姿を見られたことが、健二にはみじめに思えた。健二は無言で、預かった荷物を二人に手渡す。「ありがとう」と、また理佐がいった。

恭二と詩織のカヌーが、やってきた。二人は手を振り、それを迎えた。健二は足早に近寄り、カヌーを引き寄せた。
「ありがとう。楽しかったわ」
 詩織は目を輝かせて、カヌーを抑えている健二に告げた。
 二組の姿が消えるのを、健二はいらいらして待った。「楽しかったね」と、女の声が遠のいていく。健二はカヌーのとも綱を固定し、鋭い視線を二組の背中に向けた。
喉が渇いていた。水道の蛇口を大きくひねって、直接口をつけた。水はぬるかった。健二はそれをすくって、頭から降りかけた。小さくなった背中から、大きな笑い声が響いた。健二はポケットから、たばこを取り出し火をつけた。
足下に落ちていた小枝を拾う。くわえたばこのまま、健二は力任せに小枝を折る。バキッと乾いた音がした。

047:標高新聞のゆくえ
――第2部:痛いよ、詩織!2

九月になった。学校は二学期を迎えている。越川常太郎町長の部屋に、弟の多衣良(たいら)が飛びこんできた。手には、「標高新聞」最新号が握られている。
「兄貴、これ見たか?」
 多衣良は町長室の机の上に、新聞を放り投げた。
「読んだ。新聞部の顧問と山際校長に、きてもらうことになっている」
「ガキどもが、とんでもないことをしでかしてくれた。許さん!」
 新聞には、大きな活字が躍っている。
――閑古鳥の鳴き声が聞こえる、会社の博物館
――日本三大がっかり名所で、さらにがっかり

「学校は検閲もなしに、こんな記事を許しているのか」
多衣良は、日本三大がっかり名所の施工責任者である。怒りは収まりそうにない。町長は受話器を取り、北村広報課長を呼ぶように秘書に伝えた。

町長室に入るなり、北村は「標高新聞」に目をやり、呼ばれた理由を察した。
「さっき、校長から連絡がありました。本日の緊急職員会議で、全数回収の方向で動くとのことです」
「当然だ。こんな悪質な新聞は回収させなければならない。そのうえで、新聞部は活動停止にさせる必要がある」
「新聞部の部長は、この前町長のインタビューにきた子です。あのとき、物騒な思想の持ち主だと思いました」
 北村は怒りの収まらない多衣良に向けて、同調するように話した。多衣良は大きな音をたてて、ソファに腰を下ろした。北村も向いの席に座った。そしてメモを膝のうえに広げて、説明をはじめた。
「越川翔くんと生徒会長を争ったやつは、町の活性化のために貢献すると公約しているそうです。こいつは四年間も、飯場暮らしをしています。アカに染まった貧乏人だとのことです。
おまけに新聞部長は、札幌からの転校生です。父親は虹別小学校の校長をしています。さらに、新聞部顧問の長島は、新任教師でアカです。この三人が結託して、生徒を扇動しはじめています」

町おこし048:緊急職員会議
――第2部:痛いよ、詩織!

そのころ、標茶高校の職員室も、大騒ぎだった。先ほどの緊急職員会議で、標高新聞最新号の全数回収が決められたのである。糾弾の急先鋒は、新聞部前任顧問の柳田だった。
「高校生は、勉学に励めばいい。事件記者のような糾弾記事を許した、長島先生の責任を問う」
 柳田は激しい口調で、長島に弁解の余地を与えなかった。全数回収は長島を除く、圧倒的多数で決議された。長島は部長になったばかりの、南川愛華の純粋な気持ちを考えた。あの記事のどこが、不適切なのか。事実をそのまま書いて、私たちも標茶町の活性化のために、力を注ぐべきだと結んである。
元々は議会のロートル石頭たちが、まいた火種である。愛華たちはそこに、若い息を吹きかけた。ダメだなんて、一行も書いていない。私たちも力を合わせて観光客が集まる場所にしたい、としか書いていないのだ。

 標高新聞の回収とともに、新聞部には無期限活動禁止処分が下された。長島顧問からの説明を聞いて、みんな泣いていた。
「私たちの記事のどこが、謹慎にあたるのか、理解できません」
二年生の田村睦美は目を真っ赤にして、みんなの気持ちを代弁した。長島は腕組みをしたまま、黙りこんでいる。
「おそらく、高校生は町政に口を出すな、というのが校長の見識だと思う。でも私たちには、それを考える自由がある。校則でビラ配りとか政治集会は駄目とあるけれど、標高新聞はビラじゃないし、編集会議は政治集会ではない」
二年生の野口猛は口をとんがらせ、テーブルを叩いていった。

「前の部長だった佐々木さんがよくいっていたけど、批判記事は書くなということが、今回の処分の原因だと思う」
「おれたちの記事の、どこが批判なんですか?」
 野口猛の言葉に、田村睦美はすばやい反応をみせる。
「たとえば私の記事の閑古鳥とか、野口くんのさらにがっかり、などの表現は、そう感じさせてしまうかもしれません」
 それまで黙っていた長島顧問が立ち上がった。
「きみたちには、これっぽっちの責任もない。私の検閲が、甘かったんだ。だからきみたちは、謹慎が解けたら、またいい記事を書くことだ」
「町の活性化のために、私たちは何ができるのか。そう問いかける新聞にしたかった。でも、もう終り」
 愛華はそういって、床に崩れ落ちてしまった。詩織は駆け寄り、抱き起こした。

「おれたちは、町を元気にしたい。そんな思いで新聞を作った。あの新聞のどこが、悪いんだ」
 恭二も、テーブルに突っ伏した。室内には嗚咽(おえつ)だけが響いた。恭二は長島先生がいっていた、「社会貢献」という言葉を思い出している。
「ぼくたちは、標茶を活気のある町にしたい。その思いを新聞で発信した。そのどこが、まずいのかがまったくわからない」
野口猛は目を真っ赤にして、天を仰いだ。
「悔しい!」
田村睦美は、絶叫して部室を出て行った。

 睦美と入れ替わるように、生徒会長の菅谷幸史郎が飛びこんできた。
「とんでもないことになった。絶対にこんな暴挙を、許してはいけない」
 幸史郎は怒りの形相で、口早に告げた。誰も反応しない。
「みんな、泣き寝入りをしてはダメだ。闘おう」
 誰も反応しない。
「菅谷さん、ありがとう。でも、私たちのこと、そっとしておいてくれない」
 愛華は涙顔で、幸史郎に懇願した。
「おれは許さない」
 幸史郎は、きっぱりとそう宣言した。

翌朝、菅谷幸史郎が率いる生徒会は、いち早く新聞回収反対の声明を発信した。校庭でビラ配りをしていた菅谷は、校則違反として自宅謹慎をいい渡された。

町おこし049-1:退部届け
――第2部:痛いよ、詩織!

 翌日の部室は、お通夜のような雰囲気だった。恭二と詩織と可穂は、テーブルに頬杖をついて、さっきからため息ばかり吐き出している。
「誰もいなくなっちったね。みんな退部届けを出したんだって」
 がらんとした部室を見渡し、詩織は恭二にいった。
「残ったのは、可穂とおれたちだけ」
「愛華部長まで、退部届けを出した」
 可穂は涙目になっていった。
「謹慎はいつ解けるのかな?」と詩織。
「謹慎が解けても、余計なことは書くなってことだ。やってられないよ」
 そう嘆いた恭二に、可穂は深刻な顔になって告げた。
「長島先生と校長は、町長に呼び出されたんだって」
「回収に、町もからんでいたのか?」
「町長の命令だって。お母さんがそういっていた」

 部室の引き戸が、乱暴に開いた。前新聞部顧問の柳田が腕組みをして、にらみつけている。
「きみたち新聞部は、謹慎処分中だぞ。部室への出入りはいかん」
 それだけをいって、柳田はきびすを返した。あ然として見送る恭二に、詩織が声をかけた。
「もし謹慎が解けても、私たち三人では新聞は作れない。ノウハウを持っている先輩なしでは、絶対にムリ」
「そうだよね。愛華部長に戻ってくれるように説得するしか方法はないわね」
 可穂はテーブルの上の原稿用紙に、「の」の字を書きながらまたため息をついた。

町おこし049-2:往生際が悪い二人
――第2部:痛いよ、詩織!
「喫茶むらさきの看板」が「居酒屋」にかわってすぐに、二人の男が入ってきた。二つのプロジェクトの責任者、宮瀬哲伸と越川多衣良だった。二人はカウンターに並んで座り、生ビールを注文した。
「高校生の分際で、大人の世界にしゃしゃり出てくるなんて、絶対に許さん」
 ビールを一口飲み、多衣良は泡を飛ばしながら吐き捨てた。
「閑古鳥が鳴いている、だと。バカにするな、てんだ」
「おれの方は、がっかりスポットと切り捨てられた」
「だいたい、あんないい加減な記事を素通ししてしまう高校の管理体制に問題がある」
「町長の話では、生徒会も会長はアカらしい」
 酒のせいではない。二人の顔は次第に紅潮してゆく。お通しのキンピラを運んできた秋山昭子は、そんな二人をたしなめる。
「うちの娘は、新聞部なんだよ。私も記事を読んだけど、町の活性化のために、私たちも力になりたいって書いてあった。あの記事の何が、問題なの」
「行政の失敗を、まるで鬼の首でもとったみたいに書きたてている。おれたちのプロジェクトはまだ発足して間もない。これからだべさ」
「多衣良さん、往生際が悪いわね。あんなものに、観光客がわんさと押しかけてくると、本気で思っているんですか」
「おい、おい、聞き捨てならない。これからだ、っていっているべさ」
「町民のみんなが思っていることを、代弁しただけだから、そんなに大声を出さないで」
 そこまでいうと、昭子は厨房に姿を消した。残された二人は、申し合わせたように深いため息をついた。


町おこし050:個人的にやろう
――第2部:痛いよ、詩織!

 標高新聞の全数回収から、一週間が経過した。放課後、恭二はいつものように部室に顔を出す。
謹慎は、新聞を発行する行為に向けてのものだ。部室への出入りは、構うものか。これが恭二の下した結論だった。部室には藤野詩織と秋山可穂がいた。
「新聞部を解散させるって、柳田先生は息巻いているらしい」
 詩織は窓外に目をやりながら、まるで独り言のようにつぶやく。壁には次号の、割りつけ用紙が貼られている。何も書かれていない。窓から吹きこむ風に、紙片の端が神経質そうに揺れている。

「標高新聞の使命は、町の活性化のために寄与することだ。不人気なスポットに焦点をあてて、自分たちで何ができるのかを考えてもらう。その問題提起のどこが悪い」
 詩織と並んで窓辺に立ち、恭二は外を向いたまま怒っている。校庭では野球部が、シートノック練習をしている。捕手の位置には、猪熊勇太の姿があった。
「標高新聞はもうダメかもしれない」
 詩織は白球を目で追いながら、ポツリといった。
野球を断念したときのことを思い出し、恭二は南川愛華の胸中を探ってみる。そしてふと浮かび上がった、ひらめきをつかまえる。

「詩織、おれたちで個人的なマガジンを発行しないか? 続けるんだよ。標茶町の未来について、発信しよう。個人的なレベルでやるなら、誰も文句はいえない」
「マガジンか、名案かもしれないね」
「明日にも、愛華部長に提案してみよう。標茶町の未来を考える、高校生の広場みたいなタイトルで、大人まで巻きこんだものにしたい」

 詩織の横に、いつの間にか可穂の姿があった。
「来週から、菅谷さん戻ってくるらしい」
「菅谷さんにも、参加してもらえるといいね」
 詩織は愛華と菅谷の顔を交互に思い浮かべ、うつろな目でつぶやいた。

新聞部という荷車は、今急な坂道に放置されている。このままでは、転げ落ちるしかない。荷車の先頭を引いていた上級生は、みんな抜けてしまった。
それを恭二は、引上げようとしている。いつも荷車の後ろにいて、手加減していた恭二は、渾身の力でそれを引きはじめたのだ。
 詩織は、そんな恭二を頼もしく思う。この騒動で恭二の本気モードに、火がついたのかもしれない。詩織はそんな恭二を愛おしく思う。


「管理系」から「人間系」へ:めんどうかい002

2018-03-17 | 一気読み「町おこしの賦」
「管理系」から「人間系」へ:めんどうかい002
――「めんどうかい」まえがき

これまでの企業は、営業リーダーの「使命」を、「年度目標の達成」と「部下育成」としていました。営業の世界は、結果がすべてです。必然、営業リーダーは業績向上に熱心なあまり、部下育成を棚上げにしていた感があります。
いま営業リーダーに求められているのは、部下のレベルを上げつつ、営業生産性の向上を実現することです。そのためにも営業リーダーは、部下と密着した仕事をしなければなりません。

 のちほど詳述しますが、営業リーダーは「管理系」から「人間系」へと、マネジメントスタイルを変える必要があります。「命令する、提出させる」のスタイルを、「考えさせる、聞き取る」に変えなければなりません。

 あなたが変われば、部下も必ず変わります。

一気読み「町おこしの賦」031-040

2018-03-01 | 一気読み「町おこしの賦」
一気読み「町おこしの賦」031-040
031:研究テーマ
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

放課後、恭二は新聞部部室をのぞいた。二年生の田村睦美がいた。
「こんにちは」
 恭二はあいさつをして、窓辺の椅子に座る。原稿から顔を上げて、睦美は思い出したようにいった。
「瀬口くんはいいときに、新聞部に入ったのよ。前の佐々木部長のときは、書きたいことは一切書かせてもらえなかった。きれいごとばっかり。私が一年の時、抜き打ちテストの是非という記事を書いたんだけど、批判的だと没にされた。今度の愛華部長は真逆の人だから、やりがいがあるわ」

 詩織が入ってきた。恭二を認めて、手を振る。
「二人ともそろそろ、研究テーマを決めなさいね」
 睦美は鉛筆をワイパーのように、左右に振り続けた。
「もし決まっていないのなら、私たちの『文学のなかの高校生』に参加してくれてもいいよ」
 睦美は何人かの部員と、小説のなかに登場する高校生像を収集している。読書が苦手な恭二には、歓迎できない誘いである。

 帰り道、恭二は詩織に、研究テーマについて質問した。
「まだ何も浮かばない。でもせっかく何かの研究をするのなら、恭二と二人でやりたい」
「おれも同感だけど、何を研究したらいいんだ?」
「義務じゃないんだから、焦る必要はないよ」
「それにしても、菅谷幸史郎の演説はすさまじかった。詩織の教室にもきた?」
「うん。標茶の活性化のために、貢献できる高校を目指すといっていた」
「愛華部長と一緒だよな。二人とも前向きだ」
「菅谷さん、勝てるかしら?」
「越川さんには運動部の票があるし、微妙だと思う。でもあの演説を聞いたら、何としても勝ってもらいたいよね」

町おこし032:靴箱のビラ

――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

 翌日、新聞部の緊急会議があった。全員が集ったことを確認して、南川愛華は一枚の紙片をひらひらさせて語りはじめた。
「菅谷幸史郎さんを中傷するビラが出まわっています。みなさんの靴箱にも、入っていたと思います。これは明らかに、対立候補の越川翔側がばらまいたものだと思います。許せません。菅谷さんは町の活性化に寄与できる高校を目指すと主張しています。これは新聞部の目指す方向と完全に一致しています。だから、私たちは力を合わせて、菅谷さんが生徒会長になれるように応援したいと思います」
 ビラは恭二も見ている。菅谷幸史郎は共産思想を持ったアイヌである、と書いてあった。
「同じクラスの猪熊勇太くんが推薦人代表だったのですが、野球部の顧問から運動部の推薦は越川だといわれて、推薦人を外されました」
 詩織は、着席した愛華に向かっていった。
「知っているわ。だから菅谷さんは独りで演説して歩いているの」
「菅谷さんは勝てますか?」
 田村睦美が質問した。
「一年生では、学校のことはわからない。先生たちも、みんな越川を応援している。だから私たちが力を合わせて、菅谷さんを応援するの」
「おれたちもビラをまきますか?」
 愛華の言葉を継いで、恭二がいった。
「ダメよ。ビラまきは校則違反なんだから」
 愛華はきっぱりと拒絶してから、「明日から私が、推薦人の応援演説をします」といった。どよめきが起こった。愛華は続ける。
「みなさんは個別に、生徒を説得してください。ビラの件はみんな知っているんだから、それが校則違反だと伝えてください。そして菅谷さんの標茶町を元気にしたい、というメッセージを広げてください」
 
町おこし033:ちん入者たち
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

 翌日から南川愛華は菅谷幸史郎と一緒に、熱心に昼休みの教室回りを実行した。愛華はビラを頭上にかざして、その不当性を訴えた。幸史郎は胸を張って「私にはアイヌの血が流れています。もう一つの共産思想については、残念ながら正しくない情報です」と笑い飛ばした。

 放課後の新聞部部室に、三人のちん入者が現れた。前島豊とその仲間たちだった。
「南川はいるか?」
 入るなり、前島は室内を見回した。愛華は不在だった。前島は恭二を見つけて、「越川がビラをまいたなんて、デマを流しやがって。あれは菅谷が自分でやったことだ。南川にそう伝えろ」と吐き捨てた。
「票を稼ごうとして、菅谷が自作自演したんだよ。汚い手を使った」
 背の高い色黒の学生服がいった。
「前島くん、変ないいがかりはつけないで。出て行きなさいよ。私たちは編集で忙しいんだから」
 田村睦美は、顔を紅潮させて指を突きつけた。前島はひるまず部屋を歩き回り、「この印刷機でビラを作ったのか」と印刷機を叩いてみせた。
「出て行きなさいよ。先生を呼ぶわよ」
 秋山可穂が甲高い声を発した。

 三人が消えてから、恭二は情けない思いにかられた。何も反発できなかった自分が、情けなかったのである。同時に越川グループに対する怒りも、ふつふつとわき上がってきた。そこへ愛華が入ってきた。
「前島たちが乗りこんできたでしょう。今、そこで会ったわ。菅谷さんがビラを自作したんだって、血相を変えていた」
「そんなことをするはずがないのに、とんでもないいいがかりだわ」
 田村睦美はため息まじりにいった。
「ビラのことはもういわない。さっき菅谷さんとそう決めたの。だから堂々と施策で闘うわ」
「あいつらの施策は、何なんですか?」
「クラブ活動の活性化。その予算を厚くするんだって」
 恭二の質問に、愛華は笑いながら応えた。下校時間を告げるチャイムが鳴った。
「こうなったら、絶対に負けられないわね。がんばろうね」
 愛華は大きな伸びをしてから、また笑ってみせた。勝利を確信している顔つきだった。


034:選挙結果
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

一年生が異例の立候補という、生徒会長選挙は大変な盛り上がりをみせた。越川翔は卓球部の主将ということもあり、運動部の熱烈な支援を集めた。さらに数多くの先生たちは、さりげなく越川翔への一票を、生徒たちに促した。
これまでの生徒会選挙では、高々と公約をうたうことはなかった。しかし菅谷幸史郎の場合は違った。標茶町の活性化のために寄与する、と宣言したのである。

菅谷は低学年の生徒と文化系クラブから、大きな支持を受けた。標茶町の活性化にまで言及したのは、開校以来菅谷が初めてだった。多くの教員は困惑した表情で、選挙の成り行きを見守るしか術がなかった。

菅谷はアカだ。菅谷はアイヌだ。誹謗中傷の声は鳴り止むことがなかった。菅谷はそれらと、真っ正面から対峙(たいじ)してみせた。
「私のことを、アカだといっている人がいます。おそらくどこかの国のような、独裁君主になるといっているのでしょう。そんな気は、毛頭ありません。生徒と先生が同じ土俵で課題について意見を交わし、解決できる学園にしたいだけです」
「私には、アイヌの血が流れています。アイヌの何が、いけないのですか。私はアイヌの血を、誇りにすら思っています。だいいち、標茶という地名はアイヌ語のシペッチャがなまったものです。アイヌ語では、大きな川のほとりという意味なんです」

 これらの演説は、確実に生徒たちの心をつかんだ。そして菅谷は、圧倒的な多数票を集めて当選した。一年生が生徒会長に就任するのは、初めてのできごとだった。
 菅谷は生徒会顧問と相談して、副委員長に柔道部の野方智彦、書記に農業科の寺田徹を選んだ。二人とも、以前にちらっと登場した人物である。

035:僻地小学校訪問
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

標茶町の過疎地で学ぶ、小学生や中学生に夢と元気を与えたい。菅谷幸史郎は、生徒会長就任のあいさつで、こう述べた。
標茶町には、六つの小学校がある。標茶小学校を除くと、ほかの五つの児童数はきわめて少ない。それらの小学校を、ブラスバンド部、合唱部、人形劇部が中心となって、訪問しようということが決まった。
新聞部部長の南川愛華は、諸手をあげてこの企画に賛成した。愛華には、別の取材が入っていた。当日の随行メンバーとして、瀬口恭二が指名された。

最初の訪問先は、南川愛華の父が校長を務める、虹別小学校であった。児童数三十八人。派遣されたのは、生徒会役員三人、ブラスバンド部十八人、合唱部十二人、人形劇部十二人。それだけでも児童数を上回った。恭二は首からカメラをぶら下げ、取材用のノートを持って、二台のトラックの片方の荷台に乗りこんだ。

標茶町を抜けると、たちまちアスファルト道が消えた。小刻みに揺れる荷台では、人形劇部のセリフ稽古が続いていた。幸い二台のトラックの先頭車両だったので、土埃の襲来はまぬがれた。
「きみは瀬口くんだよね。生徒会長の菅谷です。本日の取材、よろしく」
 彩乃さんのことを伝えようと思ったが、菅谷は話を続ける。
「この企画は新聞部の南川さんから、アドバイスされたものなんだ。子どもたちの弾けるような笑顔が撮りたいって、張り切っていた。私たち高校生にできることは、まず後輩へのやさしい眼差しだっていっていた」
「部長は町議会の取材なので、今回はこられません。残念がっていました」
「新聞部は町議会まで、取材をするのかい?」
「『私たちにもいわせて』という企画を連載することになって、今回は会社の博物館と日本三大がっかり名所に、フォーカスをあてることになっています」
「あれは、とんでもない税金の無駄遣いだよな。あんなものこしらえたって、町の活性化にはつながらないさ」

036:それが普通のことなんだ
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

 子どもたちの大歓迎を受けて、「三匹のこぶた」の上演が終り、合唱とブラスバンドの演奏も終わった。昼食時間には、児童との弁当の交換が行われた。これは恭二が提案したもので、菅谷が受け入れてくれた。
菅谷は恭二の隣りに座って、児童と交換した弁当を見せてくれた。麦ごはんの上に、生味噌が乗っているだけの質素なものだった。あっちこっちから、児童の「白いご飯だ!」という喜びの声が聞こえた。
 恭二は自分の発案が、児童に受けたことに満足していた。しかし、持参した弁当の蓋を開けかけて、すぐに閉じてしまった。児童の弁当を見た瞬間から、胸が痛んでしまったのだ。

 帰り際、南川小学校校長に、インタビューをすることができた。愛華と目元がそっくりだった。
「合唱も、ブラスバンドも、人形劇も、子どもたちは大喜びだった。あんな笑顔は、運動会のときにしか見られない。このあと阿歴内(あれきない)や中茶別(なかちゃんべつ)にも行くんだよね。老婆心ながら伝えておくけど、あの弁当交換はいただけない。
子どもたちは自分たちの弁当を、普通だと思っていた。ところが白いご飯だと叫んだ彼らは、自分たちの弁当の貧しさを知ってしまったんだよ。今度行く先では、ご飯の炊き出しとか芋煮とか、子どもたちと一緒に作る方がいいね」
 話を聞いて恭二は、自分の企画が浅はかだったことを知った。
「申し訳ありませんでした。今後の参考にさせていただきます」
「こういうところの小学生は、労働力なんだ。だから朝早くから起きて牛の世話をし、収穫期には学校にもこられない児童がいる。働くことも、麦だけのご飯も、彼らにとってそれが普通のことなんだよ」

恭二は南川校長のいう「普通のこと」という言葉が身にしみた。もう一度、「すみません」を繰り返した。。
「いいってことさ。すんでしまったことなんだから。ところできみは、うちの愛華のところの新聞部なんだろう」
「はい。愛華さんは、部長をしています。妹の理佐さんとは、同じクラスです」
「よろしく頼むね。二人とも田舎に引き連れてこられて、いまだにブーブーいっているんだ」

037:社会的な貢献
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

放課後、恭二は夏休み中に読む本を選ぶために、部室に顔を出す。新聞部の部室には書棚があり、先輩たちの代からの寄贈本が並んでいる。長島太郎先生の姿があった。窓辺で本を読んでいた。
「長島先生、こんにちは」
「瀬口か、今日は藤野と一緒じゃないのか」
「ええ、いつも一緒ってわけでは……」
「おまえたちの時代が、うらやましいよ。社会人になったら、社会的な責任というのがのしかかってくる」
「社会的な責任ですか?」
「働いて報酬を得る。これは自分や家族の幸せだけを、意味しているのではない。困った人を助けるための、税金を稼いでもいる。しかしその税金は、的確に配分されていない」

 恭二はとっさに、二つのプロジェクトのことを思う。貧しい菅谷兄妹のことを思う。
「つまり社会的な責任とは、税を納めることだ。そして誰かのためにつくすことだ」
「誰かのために、つくす、ですか?」
「そうさ、瀬口は今、誰かのためにつくしているか?」
 頭のなかに、いろいろな人の顔を浮かべてみる。適当な人が見あたらない。
「辺地校への訪問。あれは子どもたちに、夢と元気を与えたかったんだろう。会社の博物館の件も、町の人たちに喜んでもらえる場にしたい、と話し合ったよな。今の新聞部には、そんなやさしい眼差しが芽生えつつある。ただし、何かをやったときには、その行為に社会的な責任が生ずる」

 恭二は考えこんでしまう。自分たちの提案を、長島先生は社会的な責任を持って、受け止めてくれていた。おれたちには、まだ社会的な責任はない。何と甘っちょろい、世界にいるのか。そう考えて、恭二は質問した。
「先生、おれたち高校生に、社会的な責任はないのですか?」
「ある。親の期待に応えること。しっかりと勉強して、やがて社会の役に立つようになること。そして、若い力を誰かのために活用することだ」
「誰かって、誰のことですか?」
「すべての人だよ。両親、兄弟、クラスメート。そして、近所の人や困っている人。これらの人を全部まとめて、社会は形成されている」

廊下から、足音が聞こえた。詩織が顔を出す。
「瀬口、藤野くんだ。彼女以外に関心を抱く人、
関心のある現状を、どんどん増やさなければならない。きみたちは豊かだけど、世の中には困っている人がたくさんいる。底辺を見ろ。そこに暖かな手を、差し伸べられる人になることだ」
「長島先生、こんにちは」
 快活にあいさつをして入ってきた詩織の笑顔を、恭二はまぶしく見つめる。

038:マシュマロみたい
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

 恭二は詩織と一緒に、部室を出る。
「長島先生と何を話していたの?」
 さっそく、質問の矢が飛んでくる。恭二は頭のなかを整理してから、詩織に告げる。
「詩織と一緒に、世の中に貢献できる何かを探しなさい、っていわれた」
「私と恭二とで、どんな貢献ができるの?」
「おれ一人では、何もできない。でも詩織と一緒なら、何かができる。でも二人だけでは、限界がある。だから、新聞部の仲間とやる。これをどんどん、広げていくわけだ」
「何だか、よくわからない。でもみんなで力を合わせてやる、っていうところは理解できる」
「自分たちでできないことは、誰かに委託する。それが選挙だよ。衆議院や参議院の選挙、この前あった生徒会長選挙。みんな委託する行為だったんだ」
「恭二、だんだん賢くなってきた」
「てへへへ。実はおれも、そう思っている」

「恭二、きて!」
 戸外に目をやり、詩織が叫んでいる。雨だ。詩織はかばんから折りたたみ傘を取り出し、恭二に聞いた。
「恭二、傘持っていないの?」
 うなずいてみせる。
「天気予報は、雨っていっていたでしょう。ちっとも、賢くないんだから」
 詩織の小さな傘に、潜りこむ。恭二は自分のかばんのなかにある、傘を手のひらで確認する。詩織の傘をかざしたとき、ひじがやわらかいものに触れた。マシュマロみたいだ、と思った。恭二はその弾力を楽しみながら、長島先生っていい人だなと思う。「底辺を見ろ」という言葉が、心の片隅をわしづかみしていた。
 雨が強くなってきた。二人は小さな傘のなかで、二つの磁石のように密着した。恭二は傘を低く修正して、ひじの位置をマシュマロに固定した。高まった鼓動は、傘を叩く雨音で消された。冷たい雨だったが、恭二の心臓は熱く早鐘を打っている。
 中学の卒業旅行の夜が、脳裏をよぎった。あの日恭二は、捕手から投げ返されるボールを受け取るみたいに、詩織の隆起を手のひらに包んだ。


039:町長へのインタビュー
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

南川愛華新聞部長は、藤野詩織と秋山可穂と一緒に、町議会の控え室にいる。議会がはじまる前に、越川常太郎・標茶町町長にインタビューすることになっていた。
前回のアポイントのときは急用が入ったとのことで、インタビューは実現しなかった。約束の時間に十五分ほど遅れて、ビア樽のような姿態の町長は、北村広報課長とともに現れた。
「標茶高校新聞部のみなさん、ようこそ」
 秘書にかばんを渡して、町長は重い体をソファに沈めるなり、笑ってみせた。遅れたことへの、釈明はない。
「では、遠慮なく質問させていただきます」
胸のポケットから紙片を取り出し、愛華の質問がはじまった。詩織はペンを握り、可穂はカメラのレンズを向けた。

「標茶町の人口ですが、人の数より牛の数の方が多いというのは事実でしょうか? 事実だとしたら、人間が減ったせいなのか、牛が増えたためなのか、その理由を教えてください」
「いきなり突っこんでくるね。ここのところ冷害続きで、離農する人が増えたこと。逆に酪農は規模を拡大するところが増えたこと。この二つが、人と牛の数の逆転現象を生んだ要因だよ。いま町営住宅を移住希望者に開放するとか、流動人口を増やすとかの対策をしているんだけど……」
「流動人口って何ですか?」
「ごめん、定住していないけれど、観光や仕事などで訪れてくる人の数のことだ」
「そのための手段が、会社の博物館と日本三大がっかり名所の、建設だったわけですね」
「三大スポットは、現在四つ目を検討している」
「二つの事業は、ともに大失敗だとの噂ですが……?」
 それまで黙っていた北村広報課長は、顔色を変えて割って入った。
「きみ、高校生の分際で、大人の世界を論評してはいけないよ」
 餌に魚がかかったときの釣り糸のように、愛華の背筋が伸びる。愛華はすかさず、北村課長の放った言葉を釣り上げている。
「高校生の分際、聞き捨てならない言葉です。なぜ高校生は、町の噂の真相に関心を持ってはいけないのですか?」

 一瞬沈黙が訪れる。詩織の筆記音が大きくなり、可穂のシャッター音が響いた。
「きみたちは、北海道立の高校生だよ。いわば税金で、保護されている身分だ。だから軽々しく大失敗の事業、などといってはいけない」
「おっしゃっている意味が、わかりません。若者は口をつぐめという、理論の根拠を教えてください」
 愛華は北村課長の目をしっかりととらえて、質問を加えた。
「きみたちの本分は、しっかりと勉強すること。町政に口をはさまないでもらいたい。これからという事業を、大失敗などと軽々にいってもらっては困る」
「では、いつごろに投資の効果が上がるとお考えですか?」
 北村の眉間に、しわが刻まれた。愛華はさらに背筋を伸ばした。越川町長は、手のひらを差しだし、愛華の質問を制した。そしていった。

040:聞く耳を持たない
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

「あの二つは確かに、かんばしい成果を上げていない。しかし、少しずつ認知度が増しているので、成果が上がるのはこれからだよ」
 町長は、遠い目をしていった。
「生徒会では日曜日限定で、三大がっかり名所の案内をボランティアでやろうかという話が出ています。でも、ほとんど観光客が訪れない現状では、手伝いようがありません」
そういってから愛華は、持参したメモに目を伏せて質問を重ねる。
「駅前の商店街は、次々にシャッターを下ろしています。その理由は後継者がいない、と聞いています。でも標茶町の目抜き通りがあんな状態では、町に活力が生まれないと思います」
「店を閉じるのは、やってゆけなくなっているのも、理由の一つだよ。今はネットで、何でも買い求められる時代だ。人口減も、もちろん閉店の理由だけどね」
そのとき秘書が顔を出し、議会の開会時間だと告げた。
「また今度、取材に応じるから、途中で悪いね」
 越川町長はそういって、姿を消した。愛華は町長の背中に、質問の矢から逃れられた安堵感を見た。

「インタビュー記事はなし、だね。これでは何も書けやしない」
 二人の背中を見送り、愛華は吐き捨てるようにいう。そして続ける。
「北村課長は、元顧問の柳田先生と同じだね。高校生が町の事業に口を出すと、たちまち赤のレッテルを貼ってしまう」
「けんか腰でしたね。上から目線で、あれでは私たちがどんな提言をしたところで、聞く耳を持たないって感じ」
 詩織は、落胆した口調でいった。
「会社の博物館と三大がっかり名所を、どうしたらにぎわわせることができるのか。私たちなりに考えてみるべきと思いました」
 可穂は首から提げたカメラを肩にかけ直しながら、少し上気した声でいった。
「秋山さんは、会社の博物館がいつかにぎわいをみせると思う? それに三大がっかりスポットに観光客が押し寄せてくる日がやってくると思う? 私はノーだね。絶対にそんな日はこない」
 愛華はきっぱりと断言した。足取りが速くなった。詩織と可穂は、あわてて後を追った。 

一気読み「町おこしの賦」021-030

2018-02-27 | 一気読み「町おこしの賦」
一気読み「町おこしの賦」021-030
021:……はずだ
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!

恭二たちの部屋で、トランプをした。しかし恭二の頭のなかは、別のことでうつろになっている。十時を回った。女性陣は「おやすみ」といって、部屋を出ようとした。勇太は理佐に向かって、「歯ブラシを持ってくるの、忘れた。ちょっとコンビニまで、つきあってくれないか」と告げた。
「先に寝ているぞ」
 恭二は勇太の背中に向かって、声をかけた。声が震えた。詩織には「おやすみ」と片手を上げてみせる。詩織も手を振って、隣りの部屋へと消えた。ついていこうと一瞬思ったが、ぐっと自制した。

部屋に残った恭二は、ひたすら時を待つ。セーターを脱いでいる。ズボンも脱いだ。パジャマに着替えた。電気を消した。布団に入った。情景を思い描いているうちに、心臓がドクンドクンと鳴りはじめる。電気を消して、詩織は目を閉じている、はずだ。
大きく深呼吸をして、恭二はそっと詩織のいる部屋のドアを開ける。彼女は布団に仰向けになって、スマートフォンの操作をしていた。黄色い水玉模様の、パジャマを着ていた。電気は消えていない。

恭二はすかさず、理佐の赤いかばんを廊下に運び出す。ドアを閉めて、電気を消した。そして、詩織の横に滑りこむ。詩織は、「あっ」と声を上げた。抵抗はしない。スマートフォンをもぎ取り、恭二は詩織を抱き締める。石けんの匂いがした。唇を重ねる。詩織は、目を閉じている。長いまつげは、ピクピク震えていた。動悸が激しくなった。「好きだよ」と告げた。背中に回った詩織の手に、力が入った。「好きよ」と、上気した声が聞こえた。

 勇太たちは、部屋にやってこなかった。恭二と詩織は一組の布団で、手を握り合ったまま眠った。何度も唇を重ね、恭二は白桃のような胸にも触れた。小さな隆起を、手のひらに包みこんだ。乳首を軽く、ひねってもみた。詩織の吐息が、乱れるのを感じた。しかしそれ以上の行為は、自制した。

022:卒業とは
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!

カーテン越しに、朝の日差しを感じた。詩織はそっと、目を開ける。恭二の寝息が、耳元で聞こえた。小さな胸の隆起には、恭二の右手が乗ったままだった。熱いものが、こみ上げてくる。恭二が最後まで求めてきたら、どうなっていたのだろうか。詩織はそんなことを考えて、赤面してしまう。
詩織はそっと恭二の手を持ち上げ、はだけた胸を隠して、静かに起き上がる。幸せって、これなんだわ。カーテン越しの日差しに目をやり、詩織は満たされた気持ちで、大きな伸びをする。
身体が、こわばっているように思う。恭二の寝顔を見下ろし、詩織は甘酸っぱい何かを飲みこむ。

気配で恭二は、目を覚ました。少し照れくさそうに、「おはよう」と告げる。詩織も真っ赤になりながら、「おはよう」と返す。詩織の長い上向きのまつげが震え、大きな目から大粒の涙がこぼれた。詩織はあわててパジャマの袖でぬぐい、照れたようにいった。
「うれしかったの。恭二と二人っきりで、朝を迎えたのね。ごめんね」
 初めてのキス。初めての抱擁。そして初めて詩織の胸に触った。昨夜のことを詩織の涙に映し、おれたちは、まだ卒業していないと思う。高校生になって、まだ詩織との仲が続いていたら、卒業だよな。それまでは、ピュアなままの詩織でいてもらいたい。手のひらに、昨夜の温もりが残っていた。

卒業って、すべてが終わってしまうことなのかもしれない。あるいは新たなステップへの、第一歩なのかもしれない。恭二はこんがらかってきた思考に別れを告げ、トイレへ向かった。

勇太たちが眠る、部屋の前を通る。廊下には、昨夜のジンギスカンの匂いが残っている。恭二はドアに向かって、心のなかで「おはよう、お二人さん」とつぶやく。そして、思わず微笑んでいる。
廊下には朝の陽光が、横たわっていた。新しい朝。最高の朝。廊下の日だまりを踏み、恭二は窓越しの藻岩山に向かって、大きな伸びをした。

023:黄色いマフラー
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 

午前十時、理佐の祖父母に見送られて、四人はバスに乗る。席が別れたせいで恭二は、勇太に成果を問いかけることができない。バスを待つ間、何度も目で合図をしてみた。伏し目がちの勇太は、何も語ってはくれなかった。
札幌駅に着いてから、帰りの電車の時間までは、二時間ほどの余裕があった。二組は、別行動をとることにした。そのときにも恭二は、勇太に目の信号を送っている。二人は優秀な、バッテリーだったのだ。目だけで十分な、意思疎通ができるはずだった。しかし勇太は、何も返してこなかった。

二人と別れて、恭二と詩織はマフラー売り場へ直行する。売り場はごった返している。詩織は恭二の手を引き、ぐいぐいと進む。つないでいた手が、混雑のなかで離れた。
「恭二、きて!」
詩織の呼ぶ声が聞こえる。詩織の声を追いかける。お目あての、黄色いマフラーがあった。詩織はサイズの違う、二つを選ぶ。
「恭二、これすてき。これにしようよ」
 詩織は愛おしそうに、大きな瞳を恭二に向ける。
そして二つを持ってレジに進み、店員に値札を外
してくれるようにお願いする。店を出た二人は、
さっそくマフラーを首に巻く。
「暖かいね、恭二、似合っているよ」
 詩織は弾んだ声でいい、わざとマフラーを鼻ま
でずり上げてみせる。そして、いたずらっぽく笑った。
「恭二のマフラーの方が高かったんだけど、割り
勘でいいよね」
 恭二は苦笑し、自分の財布から詩織にお金を渡
す。
「ありがとう。このマフラーは、恭二と私の卒業記念。それから……」
「それから、何だい?」
「初キスの記念かな。でも春はそこまできている。だから今日が最初で最後の、マフラー日和になるかもしれないね」

024:恋の町札幌
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて

 停車中の電車の指定席に着くと、理佐の姿はなかった。勇太は一人で、ぽつねんと座っていた。恭二の胸のなかに、ざわざわとした風が起こる。やっぱり、何かがあったんだ。
「理佐は?」
 詩織は、無頓着に質問する。恭二に緊張が走る。触れてはいけない闇に、詩織は踏みこんでしまった。
「お姉さんへのお土産を、買い忘れたんだ。あわてていたけど、間に合うよ」
 返ってきた答えに、恭二は胸をなで下ろす。小さな紙包みを抱えて、息せききった理佐が飛び乗ってくる。
「ごめん、心配かけちゃって」
 ペコリと頭を下げた理佐は、「勇太の買い物がのろいから、肝心なお土産を買い忘れたのよ」と矛先を変えた。

電車はゆっくりと、ホームを滑り出した。恭二と詩織の首に巻かれたそろいのマフラーを認めて、「お似合いよ」と理佐は目を細めた。その理佐の首には、ペンダントがぶら下げられていた。小さな額縁のなかに、モネの睡蓮の絵がはまっていた。理佐が大好きだ、といっていた絵である。
「勇太、おれからおまえに、プレゼントがある」
 恭二は勇太に、紙包みを手渡す。
「マスクだ。ずっと欲しかった、キャッチャーマスクだよ」
 勇太はつばを飛ばして、理佐にいった。

進行方向に向かって右の窓に、テレビ塔が現れた。勇太はその光景を、マスク越しに見ている。詩織は心のなかのオルゴールを、そって開いた。いつもなら、「月夜の散歩」が聞こえてくる。しかし今、詩織の聴いているのは、
――時計台の下で逢って/私の恋は はじまりました/黙ってあなたに ついてくだけで/私はとても 幸せだった/夢のような 恋のはじめ/忘れはしない 恋の町札幌
という曲だった。それは羊ヶ丘の石碑から、聞こえてきたメロディである。
(第1部『恭二、きて!』終り)



025:高校一年の初日 
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

 瀬口恭二たちは無試験で、標茶(しべちゃ)高校普通科への入学を決めた。農業科の方は一・三倍の競争率だった。恭二はD組、詩織はC組とクラスは別々になった。
恭二のクラスには、南川理佐がいた。猪熊勇太(ゆうた)は、詩織と同じクラスだった。そしてC組には、菅谷彩乃(あやの)の兄・幸史郎(こうしろう)がいた。彼は、十九歳になったばかりである。中学を出てからすぐに働き、学費を貯めて入学してきている。同じ詰襟を着ているが、勇太にはまるでおっさんに見えた。幸史郎には、勇太の方から声をかけた。

「菅谷さんですよね。お姉さんから話を聞いています。おれ、猪熊勇太」
「姉、ですか? 私には妹しかいませんが……」
 その言葉で気がついた。彩乃さんの方が、妹だったのだ。
「ああ、すいません、妹の彩乃さんでした。湖陵高校だと聞いていたんで、つい間違えてしまいました」
 勇太は自分の軽率さを恥じ、彼を詩織の席に連れて行く。
「彼女は藤野詩織さん、こちらは……」
「紹介されなくても、わかるわよ。彩乃さんのお兄さんでしょう」
 詩織は幸史郎の精悍な顔立ちを見て、やっぱりアイヌの血が混じっていると思った。眉が濃く、目は深い二重で、顎のひげそり跡が青々しい。しかも勇太よりも、さらに筋肉質の身体をしている。

恭二のD組では、初めてのホームルームが開かれていた。標茶中学からの顔見知りが半分で、あとは隣町の磯分内(いそぶんない)中学校などから進学してきている。担任の指示にしたがい、それぞれが自己紹介をした。出身中学校名と入りたいと思っているクラブ活動名を、あげるのがルールだった。
南川理佐は、「標茶中学出身、美術部を希望しています。趣味は絵を描くことです」と、落ち着いて自己紹介した。恭二の番がきた。
「瀬口恭二、標茶中学出身。新聞部へ入部しようと思っています。兄がいます。標高の二年生です」

一通りの自己紹介がすんだ時点で、担任は伝えた。
「便宜的にクラス委員を決めてある。落ちついたら選挙で選ぶけど、それまでは瀬口恭二に委員長、南川理佐に副委員長をやってもらう。
何か相談ごとがあったら、二人を通すように。瀬口と南川は、突然の指名で悪いけど、みんなに顔を覚えてもらうために、壇上に並んでくれないか」
二人は教壇に立ち、頭を下げた。

ホームルームが終わると、さっそく「委員長!」という声に呼ばれた。磯分内中学校出身で、柔道部希望の野方智彦だった。
「あのさ、委員長。おれ、目が悪いんで、黒板の字が見えないんだ。だから席を前に変えてもらいたいんだけど」
「わかった、担任に伝えておくよ」
 面倒な役職を、与えられたと思う。クラス委員長というのは、頭がいいやつが選ばれるのが常識じゃないか。何で、おれと理佐なんだ。そう思いながら恭二は、クラス日誌に席替えの件を書き留めた。

 校舎から校門までの道の両脇には、さまざまなクラブの看板が並んでいた。執拗に、勧誘している生徒もいた。まるで繁華街のぽん引きみたいだった。恭二は足早に、そこを通り過ぎる。

026:穴吹兄弟の始業式
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

 午前八時。穴吹健二は、標茶高校農業科一年B組の教室にいる。中学時代の同級生だった、寺田徹も同じクラスだった。徹の実家は、塘路で酪農業を営んでいる。
「合格おめでとう」
 徹は白い歯を見せて、健二にいった。中学時代、徹はバトミントン部、健二は卓球部だった関係で、二人は体育館でよく顔を合わせていた。
「一度は高校進学を諦めていただけに、合格はすごくうれしい」
 健二は徹に応えながら、入学した喜びをかみしめている。
「よかったよな、進学できて。やっぱり高校ぐらいは、卒業しておきたいものだ」
「兄貴はおれを高校へ行かせるために、昼間働くことになって、定時制に編入した。頭が上がらないよ」
「おまえの家、厳しいんだな」
「零細酪農家は、どこも大変だ。おれは毎朝五時に起きて、牛舎の掃除と餌やりを手伝っている。夏休みはアルバイトで、学費を稼ぐつもりだ」

始業式を終えて健二は、卓球部員募集の看板の前に立った。中学時代の卓球部の先輩だった、越川翔が「おう」といって迎えてくれた。越川翔は町長の息子・誠の次男である。
「入部したいんですが」
「穴吹が入ってくれれば、大きな戦力になる。歓迎だよ」
「よろしくお願いします」
「また鍛えてやるよ。ところで兄貴の健一は、今日は欠席していた。具合でも悪いのか?」
 翔と健一は、農業科で同級生だった。
「いえ、定時制に編入したんです。働かなければ、ぼくを高校へ進学させられなかったからです」
 健二は正直に告げた。
「貧乏はつらいな」
 翔は口中の食べカスを吐き出すように、顔をしかめて見せた。

 午後六時。穴吹健一は、標茶高校定時制二年の始業式の列にいる。全日制からの編入は容易だった。二十一人の生徒は一年からの進級で、健一だけが新顔である。健一は、担任から自己紹介を求められた。
「穴吹健一です。三月までは、全日制の方にいました。家庭の事情で、昼間は働かざるを得なくなりました。それで定時制に編入しました。昼間は実家の酪農を、手伝っています」
 拍手が起こった。

027:新聞部への入部
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

恭二は詩織の誘いもあり、新聞部への入部を決めている。新聞部は年に四回、ブランケット版の「標高新聞」を発行している。ブランケット版とは、朝日新聞などと同じサイズのことである。恭二は文章を書くのも、本を読むのも苦手だった。しかしこれといって入りたいクラブもないので、強引に誘う詩織にしたがったまでである。

新聞部は佐々木部長が卒業し、後任の部長として南川理佐の姉・愛華(あいか)が就任したばかりだった。愛華は二年生で、恭二の兄と同級生である。
「今年は瀬口恭二くん、藤野詩織さん、秋山可穂さんの三人が入部してくれました。佐々木先輩がいなくなったことだし、これからの標高新聞は、標茶町の活性化をテーマに、新たな紙面作りに挑戦します」
愛華は肩まで届いている髪を、かきあげてから続けた。目元は理佐とそっくりだった。
「これまで、学校内のニュース以外は書いてはいけない、というしばりがありました。しかしそれって、おかしいと思います。標高(しべこう)は標茶町という過疎化が進んでいる、貧乏な町にあります。だから私たちの若い力は、町の発展に必要なんです」
 過去のことはわからないまま、恭二は愛華の演説を心地よく聞いた。せっかくの地方再生予算を、とんでもないプロジェクトでムダにした大人たちが、許せなかった。めらめらと、闘志がわいてきた。

 最後に顧問の長島太郎先生が、あいさつに立った。長島は国語が専門で、教師になって二年目とまだ若い。
「私は南川の標茶町の発展にも寄与したい、という考えに賛成だ。この町は空気だけではなく、樹までも死んでいる。若い力で、死んだ町を活性化させる。それを標高新聞編集の中核にすえた新たな企画を、楽しみにしている」
恭二の胸のなかに、熱いものがストンと落ちた。

028:町の活性化のために
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

新聞部の会議を終えて、恭二、詩織、可穂の三人は「喫茶むらさき」に席を移していた。以前、前島たちにからまれた一件があるので、恭二は入るときにちゅうちょした。ほかに客はいなかった。
「お母さん、同じ新聞部に入った瀬口くんと藤野さん。二人は相思相愛らしいわ」
 とんでもない紹介に顔を赤らめながら、二人はあわてて冷たい水を飲んだ。可穂の母はこの前の騒動には触れず、初対面のようにいった。
「瀬口さんって、瀬口薬局の息子さんね。藤野さんは、藤野温泉ホテルの娘さんかしら?」
「はい」
二人は、声を合わせたかのように答える。
「あら、やっぱり息が合っている」 
 可穂の突っこみに、二人はまた頬を染める。
「愛華部長は前の顧問の柳田先生と、大げんかしたみたい。それで今年から顧問は、長島太郎先生に代わったんだって」
 可穂はさっき先輩から聞いたばかりの情報を、二人に披露した。

コーヒーを入れながら、可穂の母が口をはさむ。
「おまえたちはアカか、って柳田先生が激怒したようよ。この前、長島先生がお見えになって、町の発展を願う若者に、アカはないでしょうと反発したら、じゃあ、おまえが顧問になれ、っていわれたらしいの。それで長島先生は、引き受けることにしたんだって。長島先生はここで、ときどきモーニングセットを召し上がっているのよ」
恭二の胸のなかで、小さな何かが破裂した。おもしろいかも、新聞部。
「長島先生はテレビに出てくる先生みたいで、若くて正義感がいっぱい。すてきだよね」
 可穂はうっとりとした表情で、そういった。

「愛華部長は、標高新聞で町を変えると張り切っているけど、そんなことができるのかな?」
 詩織は、砂糖を入れたコーヒーを口に運んだ。小首は傾げたままだった。
「ただ文化祭がありました。体育祭がありました。こんなニュースの後追いばかりじゃ、つまらない。私は愛華部長を信じて、新聞でどこまで町の活性化に寄与できるのかに、挑戦してみたい」
 可穂の熱のこもった話を、恭二は冷めた思いで聞いた。みんなで力を合わせれば、ちょっとくらいは大岩が動くかもしれない。たかが高校生が発信した記事は、予防注射の針が刺さったほどの、刺激にしかならないだろう。
 愛華部長の演説を聞いたときは熱くなった恭二だったが、風呂に入れた雪みたいに、もう跡形もなくなってしまっているのである。

029:液状化現象を起こしている
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

 高校へ入学して最初の日曜日、恭二はプロ野球のデイゲームを観ていた。ファイターズの猛打が爆発し、一方的な展開になっている。店舗から父の大きな声が聞こえた。
「母さん、戸田さんがお立ちになるって」
 鼻眼鏡で新聞を読んでいた母は、立ち上がりざま「戸田さんが引っ越すんだよ」と恭二に告げた。恭二も母のあとを追った。店舗には、戸田さん夫妻がいた。戸田さんは瀬口薬局の隣で、靴店を営んでいた。不景気で閉店するという話は聞いていた。
「寂しくなるわね。お店の借り手は見つかったの?」
 母が尋ねた。
「貼り紙をしてあるので、瀬口さんのところへ問い合わせがくるかもしれません。その際はよろしくお願いします」
 戸田さんはそういって頭を下げた。

 戸田さん夫妻を見送って、居間に戻った母は大きなため息をついた。
「明日は我が身だね。また、シャッターがひとつ降りてしまった」
「戸田さん、どこへ引っ越すの?」
 恭二が聞いた。
「釧路の息子さんのところだって。商いって自己責任でするものだけど、こうも町が寂れると、町の責任にもしたくなるわ」
「地方活性化予算を、あんなばかげたものに投入しちゃうんだから、情けないよ」
 お茶を飲んで、父はそういい捨てて店舗へ消えた。居間には父の残した声が、どんよりとただよっていた。恭二はテレビを消して、父の言葉を胸のなかではんすうしている。この町は液状化現象を起こしている。傾いてゆく、瀬口薬局の映像が浮かんだ。

町おこし030:生徒会長選挙
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

六月になった。高校生活に慣れてきたとき、生徒会長選挙の候補者募集が行われた。例年なら学校側が推薦する誰かが、生徒会長に就任する。しかし今年ばかりは違った。
何と一年生の菅谷幸史郎(こうしろう)が、名乗りを上げたのである。対立候補は学校側推薦の二年生・越川翔だった。彼は標茶町町長・越川常太郎の孫である。

学校側は菅谷幸史郎に、立候補の撤回を求めた。一年生では校内のことが、わからない。だから立候補を、取り下げるように。表向きは、そのように説得された。しかし菅谷には、学校側の底意が見えていた。彼は頑として、説得を聞き入れなかった。

昼休みの恭二のクラスにも、生徒会長候補の菅谷は、たすきをかけてやってきた。
「生徒会長に立候補しました、菅谷幸史郎です。四年ばかり、土木作業員をやっていました。理由は高校へ進学する、お金がなかったからです。やっと資金が貯まったので、標茶高校を受験しました。無試験でしたが、合格しました。私は標茶中学の卒業生ですが、日本一雄大な標茶高校に憧れていました。
今回生徒会長に立候補させていただいたのは、標茶高校を名実ともに日本一の高校にしたいからです。そのためには、勉強もクラブ活動も、そして何より標茶高校のみなさんが、町の活性化に貢献できるような学園を目指さなければなりません。どうか、みなさんの清き一票を、おっさん、菅谷幸史郎へとお願いします。私なら、できます」

 大きな拍手が、巻き起こった。恭二は彩乃さんのことを、思い出していた。働きながら、定時制高校に通っている。彼女も、兄も、何と強い自分を持っているのだろう。
菅谷は標茶町の活性化のために、といった。恭二の心のなかで、また新たなうねりが起こった。標茶町のために、自分ができる何か。まだ磨りガラス越しにしか見えないが、おぼろげながらやるべきことが、見えてきたような気がする。

一気読み「町おこしの賦」011-020

2018-02-19 | 一気読み「町おこしの賦」
一気読み「町おこしの賦」011-020
011:借りていた消しゴム
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!

 温泉から出ると、フロント前のソファに詩織と理佐の姿があった。髪の毛が濡れて黒光りしている。湯上がりの詩織の顔は赤く染まり、いつもより美しく見える。恭二はくるくる回る、詩織の大きな目を見つめる。
「お客さん、ぼやいていたでしょう。女湯まで、大声は筒抜けだった」
「手つかずの自然が一番なのに。変なものを建ててしまって、これでは逆効果だわ」
 理佐は立ち上がり、ポツリといった。
「町おこしのはずのプロジェクトなのに、あんな評価では最悪だよな」
 理佐の言葉を引き取って、勇太が重ねる。町おこし。恭二は勇太の言葉を、胸のなかで転がす。そのとき恭二は、長田・野球部監督の言葉を思い出す。長田は何度も恭二に、標高野球部にきてほしいと懇願している。
――故郷の活性化のために、きみが必要だ。
恭二は標茶町の活性化のために、自分でできることがあるのだろうか、とちょっとだけ考えてみる。

 手を振って帰りかけたとき、詩織に呼ばれた。
「恭二、きて!」
 手のひらを、差し出している。角が欠けた消しゴムだった。
「小学校のときに、恭二から借りたものよ。昨日机の整理をしていたら、出てきたの」
 恭二に記憶はなかった。何だかうれしくなって、恭二は詩織の手にゆっくりと触れてから、消しゴムをつまみ上げた。そしてポケットに入れた。
「確かに貸したものは、返してもらった」
 詩織はクスッと笑った。左頬にえくぼが生まれた。湯上がりの身体は、カイロを抱いているみたいに、ポカポカしていた。詩織が温泉に入っている姿を、想像してみる。湯気のなかから、真っ白な裸体が浮かび上がった。胸の膨らみは、想像できない。恭二は大きく息を吐き出し、勇太たちの後を追った。

012:標高新聞の特別号
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!

高校受験日は、間近に迫っていた。恭二たちの受験塾は、相変わらず続いている。しかし標茶高校普通科の入試はない、というのがもっぱらの定説になっていた。完全に定員割れ状態らしい。
 そんな折りに恭二のもとに、標高新聞が送られてきた。タブロイド版で、「標茶高校志願者特別号」と名打ってある。
噴水のある正面玄関の写真のほかに、牛舎やサイロや乳製品加工工場の写真が添えられていた。校長のあいさつがあり、あとは部活の紹介が延々と続く。野球部の写真には、長田監督のメッセージが重ねられている。
――野球を通じて、健康な体と心をはぐくみましょう。
ケッと思う。まるで陳腐なカタログを、読んでいるような気になる。恭二はうさんくさそうに、新聞を放り投げる。高校へ入って、おれは何をすべきなのだろうか。ふとそんな考えが、頭をよぎる。

翌日の下校路、恭二と詩織は肩を並べて歩いている。詩織は恭二の右側を歩きながら、自分よりも二十センチばかり背の高い恭二を見上げる。
「標高新聞きていたでしょう。恭二、部活決めたの? あのね、理佐のお姉さんが新聞部にいるんだって。私、新聞部へ入ろうかと思う」
 あんなカタログみたいなものを作って、何がおもしろい。恭二はそういってみたかったが、その言葉を飲みこむ。

「ちょっと、お茶して行こうか」
喫茶むらさきの前で立ち止まり、恭二は詩織の背中を押す。中へ入ると、タバコの煙が充満していた。あわてて出ようとしたとき、中から呼び止められた。
「瀬口じゃないか。かわいいスケと一緒か」
 兄の恭一の同級生で、標茶高校へ通っている前島豊だった。学生服の胸をはだけ、堂々とタバコを吸っている。幼いころは、兄と一緒に遊んだ仲間である。

無視して店を出ようとすると、背後から抱きとめられた。左肩に激痛が走った。振りほどこうとした瞬間、右のひじが前島にあたった。彼はもんどり打って倒れ、恭二もその上に後ろ向きに乗った。
 仲間の学生たちは、椅子を蹴り倒して迫ってきた。恭二は詩織を外に押しやり、彼らと対峙した。背筋に、冷たいものが走った。相手は三人。
「止めなさい、前島くんたち。未成年がタバコを吸っているって、通報するよ」
 前島くんという固有名詞をつけたのが、効果的だったようだ。秋山可穂の母・昭子の仲裁で、難は逃れた。恭二は会釈をして、外に出た。

「怪我はない?」
 詩織は、涙目になっている。
「うん、秋山さんのお母さん、すごいね。助かったよ」
 二人は肩を寄せ合い、並んで歩く。あんなに親しく遊んでいた前島は、どんな理由でぐれてしまったのだろうか。自暴自棄にさせた何かが、きっとあるはずだと思う。そして、おれは野球ができなくなっても、ぐれていないもんね、と自らをたたえる。
野球のかわりに、おれには詩織がいる。口のなかにキャンデーを放りこんだときみたいに、恭二の心に甘いものが広がる。

「恭二、きて!」
 写真店の前で、手を引っ張られる。詩織はショーウインドーに飾られた写真を指差し、「これ七歳のときの私」と照れたように告げた。ピンクの着物に、赤い帯を締めている。おかっぱ頭だった。
「このころから、かわいかったのよ」
 離れていた手を結び直し、詩織は屈託なく笑っている。詩織はどんなきっかけで、黄色が好きになったのだろうか。詩織はどんな本を読み、どんな音楽を聴いているのだろうか。詩織について、もっとたくさんのことを知りたい。
ピンクの着物の詩織は今と同じ大きな瞳で、恭二に微笑みかけていた。左の頬にはちゃんと、マッチの頭のような小さなえくぼもあった。恭二は幼い写真を、スマホで撮った。

012-2:新たな共通の世界
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!

十月になって猪熊勇太は、標茶高校野球部の練習に参加するようになった。彼は恭二と同様に、札幌F高へ入学辞退届を出している。それを知った標高野球部の長田監督から、練習に参加するよう求められたのである。
勇太はそのことを、恭二には告げなかった。恭二の心中をおもんばかってのことである。

普通科の入試がないことが決まり、恭二の毎日は弾力を失ったゴムボールみたいになった。下校途中、そんな恭二を心配した詩織は、彼を図書館へと誘った。
「おもしろかった本があるから、恭二、借りて読みなさい」
「おれ、読書は苦手だ」
 詩織はカバンから一冊のノートを取り出し、恭二に差し出す。表紙には「恭二のための読書なび」と書いてある。
「これ、私から恭二へのメッセージ。野球時代は体力が勝負だったけど、これからは頭脳の勝負なのよ。だから私が読んだ本の感想を書いているの。それを読んで恭二は、興味のある本を選ぶの」
 ノートを受け取った恭二は、パラパラとページをくくり、びっしりと書きこまれた文字に圧倒された。
「これ、全部詩織が読んだ本の感想文。すごいな」
「恭二のため。授業でも感想文は大嫌いだけど、恭二のためならエンヤコーラってとこかな」
 恭二は詩織の思いやりに、深く感動している。そして日常のこと以外に、二人が語り合うべき新たな共通の世界が生まれたことを悟った。

012-3:新たな楽しみ
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!

恭二は図書館で、ストウ『アンクル・トムの小屋』を借りた。詩織ノートの最初のページにあった本である。
詩織は「残酷な運命の後日談に、胸が詰まった。トムは恭二の性格に似ていると思った。丸谷才一の訳文に感動した」と書いていた。
 
恭二はその本を一週間かけて、なんとか読みこなした。そして詩織の文章の下に、自らの感想を記入した。

――トムの自己犠牲は、いただけない。おれは、他人のために自らを滅ぼす道は選ばない。でも感動したよ。何だか生まれて初めて、読書ってやつを体験した。詩織、ありがとう。

 恭二はノートを閉じて、まだ感動に酔いしれている。活字の世界に没頭していた自分を思い出し、ささやかだけど新たな楽しみを見つけたと感じていた。

013:お祝いのホットケーキ
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!

 ちょっと身構えて、恭二は喫茶「むらさき」のドアを開けた。前島たちの姿はない。安堵の息が白く染まった。店内は暖かかった。すでに三人はテーブルについていた。
「ごめん、一番乗りのつもりだったのに」
 弁解した恭二に、詩織は隣の椅子を指差した。
「モーニングセット四つお願いします」
 勇太が大きな声で注文した。厨房から「はい」という声が響いた。コップが触れ合う音がして、秋山可穂が姿を見せた。喫茶むらさきの一人娘で、四人とは同級生である。
「みんな合格おめでとう。今朝の道新に名前が載っていたね」
「可穂も合格おめでとう」
 詩織は笑いながら、受け取ったコップを掲げてみせる。
「無試験だったから、うれしさも半分だな」
 勇太がいった。
「母さんがね、今日は合格のお祝いだからサービスするって。お金はいらない」

 そのときドアが開いて、大柄な中年の男が入ってきた。
「昭子さん、おはよう。いつものやつ、お願い」
姿の見えない主に向かって声をかけると、男はおもむろに持参してきた新聞を開いた。
「おじさん、地方欄に私たちの名前が出ているの」
 可穂は、おじさんと呼んだ宮瀬哲伸の席に水を置いて、照れくさそうに告げた。
「そうか、可穂ちゃんの高校合格発表の日だったのか……えーと、秋山可穂。あった。可穂ちゃん、合格おめでとう」
 宮瀬は鼻眼鏡を指先で上げて、厨房に向かって大声を発した。

「誰? あの人?」
 理佐は小声で、詩織にたずねる。
「宮瀬建設の社長で、観光協会の会長さんよ」
 詩織はさらに声を低くして、理佐に説明した。
「例の評判の悪い建物の責任者でもある」
 恭二も声を抑えて、続けた。
「あの博物館の、館長でもあるの」
 詩織は内緒話をするように、声をくぐもらせた。厨房から昭子が、ホットケーキを運んできた。
「今日は特別サービス。だからトーストではないの。みんな合格おめでとう」
「ありがとうございます」

「おー、ホットケーキか、楽しみだな」
 奥の席から声が上がった。
「あなたはおめでたくないんだから、いつものトーストだよ」
 昭子は笑いながら、奥の席に声を放った。

喫茶「むらさき」で、話がまとまった。四人で卒業旅行に、行こうというのである。北海道の二月は、真冬のど真ん中である。春の気配は、みじんも感じられない。
「暖かいところに行きたいね」
 詩織のひょんな一言が、みんなの気持ちに火をつけた格好である。
「暖かいところっていうと、沖縄とかグアムになるよ。そんなのムリ」 
理佐は自らの提案を否定し、「札幌におじいちゃんとおばあちゃんがいるんだけど、札幌なんてどうかしら。地下街なら暖かいし、泊まり賃がいらない。卒業旅行と説明したら、うちの親は許してくれると思う」といった。
「卒業旅行か。何とか実現したいな」
 恭二の言葉を受けて、勇太はつないだ。
「うちは固いから、恭二と二人で卒業旅行に行くということにする。それならオーケーだと思う」
「おれのところは大丈夫だ。四人で行くって、ちゃんとお願いするよ」
 恭二の話を聞いて、詩織は考えこんでいる。大きな瞳が、宙を見上げている。上向きの長いまつげが揺れた。
「私は理佐と旅行に行く、っていう。恭二の名前を出すと、反対されそうな気がするの」
「おい、おい。おれはそんなに危険人物かよ」
「そうじゃないけど、思春期の男女って、親の心配の種なんだから」
 理佐は深い二重の瞳を詩織に向けて、「私はどうせばれちゃうんだから、正攻法でお願いするわ」といった。いいな、このグループは。恭二はそう思ってから、このカップルは、と頭のなかで訂正を加える。

014:でめんとり
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!

店の配達を手伝った帰路、恭二はばったりと亀井正輝と顔を合わせた。亀井は恭二と同級生で、野球部でいっしょだった。青い厚手のジャンパーを着て、肩からは黒いバッグを提げている。空には福笑いの眉のような、黄色い月があった。
「壮行試合のときは驚いたよ。その後、どうなんだ?」
 あのとき亀井は、セカンドを守っていた。
「もう野球はできない」
「そうか、残念だな。北海道では指折りの大エースだったのに」
「カメはどうするんだ?」
「おれは麻工場へ就職が決まっている。正社員じゃなく、出面とりだけどな」
亀井は口もとをゆがめて、ずり落ちそうになったショルダーバッグを引上げた。
「正社員にはなれるのか? いつまでも日雇いじゃ心もとないよな」
「うちの死んだおやじは、ずっと出面とりのままだった。だからサラリーマンに憧れていたんだけど、役場も消防も落ちちゃった」
「野球はどうするんだ?」
「麻工場にはソフトボール部しかない。それも男女ミックスのチームだ」
「みんなバラバラになっちゃったな」
「おれ、強がりじゃなくて、学校から解放されたのをほっとしている。おまえはあと三年、勉強がんばれよな」

 そういって、亀井は片手を上げた。同級生の四分の一は進学しない。しないというよりは、進学できない。恭二は亀井のいった「でめんとり」という単語を胸のなかで転がす。枯葉を踏んだときのような音が聞こえる。
亀井の鼻の下には、無精ひげがあった。恭二はふだん寡黙な亀井が、饒舌だったことに気がつく。世の中って残酷だな、と思う。中学からの進路は本人の意思ではなく、親の資産で決まってしまう。肩を壊して野球を断たれてしまった自分と、野球ができなくなった亀井を比べて、胸が痛くなった。
もうすぐ卒業旅行だ。恭二は胸のわだかまりに、そっと砂をかける。くすぶった火種は、なかなか消えそうもない。

015:卒業旅行
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 

 卒業旅行の日がきた。南川理佐は朝一番の電車に間に合うバスがないので、前夜から詩織の家に泊まっていた。二人は申し合わせたように、赤い大きなかばんを持って、恭二が待つ標茶駅に現れた。理佐の首にはピンクのマフラーがあったが、詩織の首には何もない。首筋が寒そうだな、と恭二は思う。
朝一の電車が動き出す。車両はほぼ、貸し切り状態だった。勇太は茅沼駅から、乗りこんできた。オレンジ色のダウンを着て、大きなリュックを背負っている。「おはよう」とあいさつを交わすと、理佐のいる隣りのボックスに座る。理佐は勇太の背に手を回し、リュックを下ろすのを手伝う。
「恭二と二人っきりっていってきたので、何だか後ろめたい気がする」
 荷物を網棚に乗せながら、通路越しに勇太は照れたように笑った。

塘路駅で赤いアノラック姿の女性が、乗車してきた。通路をやってきた彼女は、恭二と詩織の座るボックス席で足を止めた。
「失礼だけど、瀬口くんかしら?」
 突然声をかけられてどぎまぎしながら、恭二はうなずいてみせる。
「やっぱり、恭一さんとそっくりなんで、思わず声をかけてしまった。ごめんなさいね」
菅谷彩乃(あやの)さんだ、と恭二は確信した。中学時代の兄貴の彼女。彩乃は恭二の一年先輩で、みんなからは「クレオパトラ」と呼ばれていた。
「私、菅谷彩乃といいます。あなたは弟の恭二さんね。ずいぶん立派になったね」
 恭二は兄の部屋にいる、セーラー服姿の彩乃を何回か見ていた。しかし口紅を塗りイヤリングをつけた彼女とは、なかなか重ならなかった。彩乃は会釈して、向いの席に腰を下ろす。かすかに化粧の香りが、漂ってきた。
「恭一さんは、今どうしているの?」
彫りの深いエキゾチックな顔が、目の前に迫ってくる。
「元気に標茶高校へ通っています」
「お兄さんに、伝えてくれない? 私ね、釧路湖陵高校の定時制に通っているの。お仕事も勉強もちゃんと両立させているから、安心してって」
「はい、ちゃんと伝えます」
「あなたは今度、高校一年になるのよね。うちの兄さんは、四年間お仕事をしていたんだけど、どうしても勉強したいって、標茶高校へ進学することになったの。きっと同級生だわ」
「お兄さんは、普通科ですか、農業科ですか?」
「普通科。無試験だったって、喜んでいた。じゃあね、おじゃましちゃって、ごめんなさいね」

彩乃は立ち上がり、後部座席へと歩み去った。それを見届けてから、詩織が感嘆の声をもらす。
「すごい美人だね。ドキドキしちゃった」
「兄貴がいっていたんだけど、アイヌの血が混じっているそうだよ。家が貧しいので、高校へは進学しないって聞いていた。でも偉いね。働きながら定時制で、勉強しているんだ」
「あの人のお兄さんが、私たちと同級生になるのね。きっと彫りが深くて、イケメンだろうな」
「おいおい、浮気はご法度(はっと)だぞ」
 賑やかな笑いが弾けた。電車は乗換駅の釧路を目指して、ひた走る。電車は何度も警笛を鳴らしながら、スピードを緩める。キタキツネが、朝の散歩中らしい。

「詩織、この前返してもらった消しゴムだけど、あれで印鑑を作っている」
 小学校のときに、おれの手から詩織の手に渡った消しゴム。貸した消しゴムのことは忘れていたし、詩織の存在もその他大勢のなかに埋没していた。詩織はお下げ髪だっただろうか、とふと思う。
「何を彫っているの?」
「詩織という、大切な人の名前。できあがったら、プレゼントするね」
「うれしい。楽しみにしている」
 車内放送が、「間もなく釧路」と告げた。恭二は網棚から、詩織の赤いかばんを下ろす。ずっしりと重かった。
  
016:打ちこむべきもの
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!

釧路から札幌までは、特急電車で四時間半。前後になっている指定席を回して、四人は向かい合わせに座っている。電車が発車する前に、詩織は赤いかばんからおにぎりを取り出し、みんなに配った。塩鮭の入ったおにぎりをほおばりながら、勇太は思い出したようにいう。
「おれたちの名前が載ったあの新聞、切り取ってお袋が神棚に置いた。無試験だったから、照れくさかったよ」
「あら、勇太は試験があった方がよかったの?」
 理佐がまぜかえす。猪熊くんの呼称は勇太くんになり、いつの間にか勇太に変わっている。呼称の進化は恋の進度と、併走しているのかもしれない。恭二は、そんなことを考えていた。

「さっき塘路から乗った、あの美人は誰?」
ペットボトルのお茶を飲んでから、勇太は尋ねた。
「うちの兄貴の元カノ。今は働きながら、湖陵の定時制に通っているんだって」
「あの人のお兄さんは、今度標茶高校の一年になるんだよ。四年間働いて、高校進学を実現させたんだって」
「すごい人がいるんだね、何て名前?」
「お兄さんの名前は、聞かなかった。彼女の名前は、菅谷彩乃さん。うちの兄貴によろしく伝えてくれっていわれた」

車掌が検札にやってきた。一度途切れた話を、恭二はふたたび引き戻す。
「兄貴がいってたけど、ここ十年ほど北大へは誰も入っていない。だからうちの兄貴や理佐のお姉さんは、学校の希望の星なんだそうだ」
「理佐のお姉さん、顔がよくて、頭もいいって評判だよね」
 詩織の言葉に理佐は一瞬笑みを浮かべ、すぐに眉間にしわを寄せた。
「そこまでは間違いないんだけど、一本気で猪突猛進タイプだから、いつもハラハラさせられている」
「理佐のお姉さんは新聞部だよね。私、新聞部に入ろうと思っている」
「新学期からは、部長になるっていっていた」
「わあ、すごい。恭二もやっぱり新聞部だね」
「おれはごめんだ。なんだか湿っぽくて暗い感じがするから、詩織一人で入ればいい」
「野球に代わるものを、早く見つけろよな。何か打ちこむべきものがなけりゃ、恭二は腐り果ててしまうから」
 勇太がいった。これは本音である。恭二の怠け癖については、勇太がいちばんよく知っている。車内放送が、「間もなく札幌」と告げた。四人の気持ちを映したのか、車窓の風景が急に華やいだものになった。

町おこし017:ラーメンとジンギスカン
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!
 
札幌に着いたのは、昼過ぎだった。恭二と詩織は、修学旅行で一度きている。大勢の人波に翻弄されながら、四人は改札口を出る。
「お昼はラーメンだよね。ではラーメン横丁に向かって、出発進行だ」
 詩織は張り切って、音頭を取った。
「その前に、本物の時計台を、拝んでおかない?」
 理佐の提案に、みんながうなずく。札幌の舗道には、まったく雪がない。時計台の前は、記念写真を撮っている集団であふれている。
「いっしょだ」と、詩織が甲高い声を上げる。藤野温泉ホテルで耳にしたような、酷評は聞こえてこないか、と恭二は耳をそばだてている。
「ここからいったん地下にもぐろう。外はやっぱり寒いから」

大通公園から、地下街へと入る。さっきまで頬を刺していた、冷たい風が消えた。二組ともしっかりと、手を握り合っている。
ラーメンを堪能し、喫茶店で一休みすることにする。店内は暖房がきいており、暑いくらいだった。外で電話をしていた、理佐が戻ってくる。
「おばあちゃんに連絡したら、夜はジンギスカンだって」
 歓声がわく。さっきラーメンを食べたばかりなのに、恭二の腹は歓迎の音を立てている。

「卒業、おめでとう」
 配られた水を持ち上げて、詩織はおどけたようにみんなを見回す。恭二たちもグラスを持ち上げる。合わせたグラスから、勇太は金属バットが球をとらえる音を聞いた。恭二が立ち直ってくれてよかった。勇太は恭二の隣りの詩織に目をやり、そっと理佐の横顔をうかがった。頬が赤く染まっていた。電話をかけに行った外は、寒かったんだろうなと思う。
 
店内の暑さに耐えかねて、申し合わせたように一斉に上着を脱ぐ。理佐は二重に巻いていた、マフラーを外した。雪のように白くて細い、首筋が現れた。赤いセーターによく映えた色だった。
恭二はそっと、詩織の首筋に目をやる。黄色いハイネックセーターを着ている、詩織の首筋は見えなかった。
 
018:クラーク博士の像
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!

 四人は、別行動をとることにした。集合時間は午後五時、テレビ塔の下と決めた。詩織は羊ヶ丘に行ってみたい、といった。修学旅行で行っているはずだったが、恭二の記憶にはクラーク像しか残っていない。
バス時間を調べて、二人は羊ヶ丘へ行った。駐車場には、大型バスが五台停まっていた。売店に入り、小さな展望台に上がる。眼下に、広大な空間が広がっている。どんよりとした空の下の風景は、ちょっとかすんでいた。

 展望台から下りて、クラーク博士像を眺める、なじみのポーズで、はるかかなたを差し示していた。傍らでは中国語の観光客が、同じポーズをしてカメラに収まっていた。石原裕次郎の「恋の町札幌」の碑があった。曲が流れていた。柵の中には、羊の姿は見あたらない。

「たったこれだけ?」
 失望した表情を浮かべて、詩織がいった。恭二も同感だった。こんな風景は、標茶で見飽きている。恭二はコートの襟を立てながら、標茶町にある三大がっかり名所を思い出している。
羊ヶ丘にこんなに観光客が集るのは、ひとえにクラーク像のお陰ではないか。それを取り除けば、標茶の風景の方がずっと雄大だと思った。

 恭二は観光客誘致の、ヒントを得たと思った。
「がっかりだな。何にもない」
 建物に戻ると、強烈なジンギスカンの臭いがした。
「こんなにすごい臭いをたてるから、羊は怖がって逃げちゃったんだね」と詩織がいった。恭二は詩織の背中をそっと押し、「帰ろう」と告げた。

019:多和平の再評価
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!

 大通り公園まで戻ってきた二人は、地下街で時間をつぶすことにした。
「恭二あれなら、標茶の多和平(たわだいら)の方がずっといいよね。何といっても、三百六十度の地平線が見られるんだから」
 たくさんの人波を避けるために、詩織は恭二の右腕にしがみついている。胸の膨らみが、ひじにあたる。
「多和平にクラーク像があれば、絶対に羊ヶ丘に勝っている」
「クラーク像もついでだから、標茶に持ってきたらどうかしら?」
「がっかり名所を、まだ増やしたいのか」
 二人は声に出して、笑い合った。ひじに感じる膨らみは、遠いのいたり密着したりを繰り返していた。恭二は詩織の裸体を見たい、と強烈に思う。
「恭二、高校でも同じクラスになれればいいね」
「普通科は二クラスなんだろう? 確率五割だ」
「しっかり勉強して、札幌の大学へいっしょに行こうね」
「おれ、勉強嫌いだ」
「ダメよ。恭二は瀬口薬局を継がなければならないの。だから北海道薬科大をねらうのよ」
「それだけは勘弁してもらいたい。おれは標茶みたいなド田舎で暮らしたくない。見ろよ、札幌の熱気を」
「私は一人っ子だから、ホテルを継がなければならない」
 一本道が突然、Y字路になってしまった。おれたちはこの先、どうなるのだろうか。恭二は軽く頭を振って、浮かび上がった考えを振り払った。

「恭二、ダイソーがある。ずっと憧れてたんだ」
 入ろうとしたが、店内は籠をいっぱいにした人群れで、通路を進めないほどだった。荒々しい中国語が、飛び交っている。
「諦めたわ、恭二」
 残念そうに、詩織はため息をついている。

020:入れ替わり
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 

理佐の祖父母の家は、藻岩山の麓にあった。四人は理佐の祖父母から、熱烈な歓迎を受けた。食卓には、大きな毛ガニが並んでいた。今朝二条市場で、買い求めてきたという。
「カニはね、食べはじめるとみんな寡黙になるから、最後にだすことにしているの。だからカニの存在を意識しながら、ジンギスカンを召し上がれ」
 理佐の祖母はそう説明して、カニを補助テーブルに移した。
「うちもそうしています。温泉ホテルをやっているんですが、カニはいつも宴会の最後です」

 食卓の上に新聞を敷きつめ、窓を全開にして鉄カブト型の鉄鍋が置かれた。火力を最高にして、祖母は脂肉で表面をなでつける。それからていねいに野菜を敷きつめる。開放された窓からは、冷たい風が吹きつけてくる。
「あれ、理佐のところは、野菜が先なんですね」
 恭二は祖母にいった。
「こうすると、お肉が焦げないでしょう。家によってはお鍋の周りに、お野菜を並べるところもありますよね」
「うちはそうです」と恭二は応じた。

ジンギスカンとカニで満腹になった恭二と勇太は、先に指定された二階の部屋で足を投げ出している。布団は少し離して、二組が用意されていた。恭二は詩織と一緒の部屋がよかったのに、と少しだけ寂しく思う。
 詩織と理佐は階下で、洗いものの手伝いをしている。水音が絶え間なく、響いてくる。天井を見ていた勇太は、反転して恭二にささやく。
「寝る段階になったら、おれがコンビニへ行こうといって、理佐を外へ連れ出す。だからおまえは、すかさず隣りの部屋に移れ」
 大胆な勇太の提案だった。男同士の部屋を、カップル用に模様変えしようというのである。恭二もずっと、そんなことを考えていた。すかさず同意した。

一気読み「町おこしの賦」001-010

2018-02-15 | 一気読み「町おこしの賦」
町おこし001:九月の雪虫
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!
釧路発網走行き電車の朝は、華やいでいる。塘路(とうろ)や茅沼(かやぬま)、五十石(ごじっこく)といった沿線の駅から、多くの学生が乗ってくるからである。電車は釧路湿原を縫うようにして走り、標茶(しべちゃ)駅で通学生をまとめて吐き出す。
標茶町は北海道の東に位置し、釧路と網走の中間あたりに存在している。広さは、東京都のほぼ半分。全国では、六番目の敷地面積を誇る。国立公園に指定されている釧路湿原の半分は、標茶町をしなやかな曲線を描いて流れている。世帯数は約三千七百。人口は約七千九百人と、過疎化が深刻な町である。

 瀬口恭二はいつものように、駅前商店街の入口で友人を待っていた。恭二は標茶中学三年。本日は、二学期の始業式である。
標茶駅からは、百人ほどの通学生が出てきた。そのなかの一人が、猪熊勇太(ゆうた)だった。彼は二つ先の、茅沼駅からの通学生である。駅から中学校までは、徒歩で三十分ほどを要する。
勇太は「おはよう」とあいさつして、恭二と肩を並べる。恭二と勇太の背丈は、百七十五センチとほぼ等しい。しかしやせ形の恭二に対して、勇太はがっちりとした体格である。

 駅前の通りは、閑散としている。通学時間に開いているのは、豆腐店と新聞配達所くらいである。九月になると空気はたちまち、ひんやりと張り詰めてくる。二人は制服の上に、コートを羽織っている。
「F高から入学までの、自主トレ・メニューがきていだだろう。毎日十キロのランニング、五百本の素振り、それに腹筋百回。たまらないね。学校へ行く前から、ヘトヘトだよ」
「ランニングと腹筋は一緒だけど、おれには素振りではなく、シャドーピッチング五百回が課せられていた。濡れタオルでやること、と書いてあった」
「恭二、ちゃんとやっているんだろうな?」
「やっていない」
「一流の野球選手になるためには、とことん自分自身をいじめる必要がある。中学までは、才能で何とかなるかもしれない。高校になったら、基礎体力が大切になる。だから恭二、悪いことはいわない。ちゃんと、トレーニングしなきゃダメだ」
「わかった。努力するよ」
二人は、野球部のバッテリーである。標茶中学を北海道大会の、ベストエイトに導いた立役者であった。そのため二人は、札幌のF高校への推薦入学が決まっていた。

川のない舗道に置かれた、朱色の派手な橋を渡る。しばらく行くと、とってつけたような石畳の急な坂道に行きあたる。さらに進むと今度は、時計のついた白亜の建物が現れる。すべてが最近建造されたものである。標茶中学校は、それらの先にある。

坂の上に藤野詩織の姿を認めて、勇太は肘で恭二の脇腹を突く。
「彼女のお出ましだ。おはようのキスでもしてやれよ」
「ばか」
 恭二は勇太から離れて、詩織と肩を並べる。セーラー服は、ベストに替わっていた。二学期からは、冬の制服になったのである。
「セーラー服もかわいかったけど、ベストも似合っている」
 恭二がそういうと、詩織は持っていたコートを着こんだ。
「恭二に見せようと思って、寒いのに我慢してたんだ。かわいいでしょう」

「食べちゃいたいほど、かわいい。ところで、日曜日の壮行試合は、応援にきてくれるよね」
「理佐もきてくれるって。彼女、勇太に気があるみたい」
 突然耳元で、勇太の野太い声がした。
「リサって、転校生の南川理佐ちゃんのこと? おれも好きだって、伝えておいて」
 後ろを歩いているとばかり思っていた勇太は、いつの間にか並んで歩いていた。
「何だ、おまえ、聞いていたのか。油断も隙もない」
「キャッチャーっていうのは、研ぎ澄まされた神経の持ち主でなければ務まらないの。理佐ちゃんか、おれにもついに春がきた」
 コートの襟を立てながら、勇太は屈託なく笑ってみせる。こいつがいるから、おれの投げるボールが活かされていた。恭二は全道大会で、投げ抜いた日のことを思い浮かべる。

「恭二、ほら雪虫」
 目の前を、白い綿毛のようなものが舞っている。
「勇太には春がきて、おれたちには冬の使者がやってきた、ってところかな」
 詩織は笑った。大きな瞳が細くなり、左の頬にえくぼができた。中学校の玄関脇の噴水は、凍結防止のために、荒縄が巻かれて止まっていた。もうすぐ本物の冬がくる。
 
町おこし002:空気も死んでいる
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!
南川理佐が標茶中学校へ転校したのは、三年一学期の後半、先々月のことである。父が標茶町虹別小学校の校長に赴任したため、札幌北高進学を断念している。
虹別から標茶町への交通手段は、一日四往復のバスしかない。住民のほとんどは、酪農か農業に従事している。虹別小学校の児童数は三十八人。虹別は歴史の古い開拓村であるが、過疎化に直面している。

南川理佐には、愛華という姉がいる。姉は札幌北高校から、標茶高校一年生に編入してきた。二人は見た目も性格も異なるが、仲のよい姉妹である。理佐は、百五十センチにちょっと足りない小柄。いっぽう愛華は、百六十五センチと大柄である。成績も理佐は学年の平均であるが、愛華はいつもトップクラスにいた。二人は毎日バスで三十分かけて、標茶町まで通学している。
「学校慣れた?」
バスの震動で、問いかける姉の声が跳ね上がる。車窓には延々と、牧草地が広がっている。理佐はあくびをかみ殺し、放牧されている牛の群れに目をとめる。白黒のまだら模様の牛の乳は、搾乳(さくにゅう)がすんでいるらしく張りがない。
「うん、学校には慣れたけど、この田舎の空気にはなじめない」
「私も。田舎の空気には酸味があって、張りつめたものがないの。人の吐息や車の排気ガスが、少ないせいかもしれないね」

「お姉ちゃん、高校生活は楽しい?」
「標茶高校は、受験生にとっては地獄よ。英語と数学の授業は、まだ一学期のところが終わっていない。この前、大学進学希望者への説明会があったんだけど、参加したのはたったの十八人。同級生の九割以上は、就職希望なんだから」

道端で手を上げている詰襟を認めて、バスは停まる。手を上げると、どこからでも乗せてくれるのである。酪農家の息子・穴吹兄弟が乗りこんでくる。「おはよう」といつものようにあいさつをして、指定席になっている後部座席に座る。穴吹健一は愛華と同学年だが、農業科の生徒である。彼はかばんから分厚い少年漫画を取り出し、あっという間に周囲を遮断してしまう。
弟の健二は、標茶中学の三年生である。理佐とは同学年であるが、クラスが違うために話をしたことはない。

「この前『標茶町だより』で読んだんだけど、ついに町民の人口は、牛の数に抜かれたんだって」
 愛華は鼻を手のひらで覆い、くぐもった小声で理佐に語りかける。穴吹兄弟が運んでくる、サイロの臭いが嫌いなのだ。
「何だか、活気がないよね。学校もそうだし、町の空気も死んでいる」
「お父さんはいつも、空気がおいしいっていっているけど」
 理佐の言葉に、姉は少しだけ笑ってみせてから、「こんなところにいると、だらけちゃうよね」と相槌を求めた。

「お父さんの学校の児童たち、弁当はほとんどが麦ごはんに生味噌だけなんだって。みんな貧乏なんだ。でも……」
「でも、何?」
理佐が飲みこんだ言葉を、愛華は問い正す。
「でも誰一人、貧乏だなんて思っていない。きっと、おおらかなんだろうね」
「ほんと。おおらかの代表格が、見えてきた」
「ばかだね。あんなもので観光客を誘致できる、と思っているんだから。私、札幌でも、見たことがなかったのに」
理佐は白々とした気持ちで、白いまがい物の建造物を眺める。いつものように時計の針は、七時四十分ぴったりだった。

「標茶高校って、日本一敷地面積が広いんだよ。校内には牛舎や牛乳の加工工場があって、トラクターの練習コースまであるの。高校を観光客に開放すれば、受けると思うんだけど」
「中学校には、何にもない。誇れるのは野球部が、道内でベストエイトになったことくらいかな。今度の日曜日に、そのバッテリーの壮行試合があるんだ。詩織から、応援に誘われている」
「薬局の次男坊が、エースでしょう。そのお兄さんが私と同じクラスで、成績はいつも一番。ただし私が入ったので、うかうかできないようよ」
「瀬口恭二はイケメンだけど、お兄さんもそうなの?」
「ちょっとイケてる」
 理佐は姉に猪熊勇太の存在を、教えてあげたいと思った。勇太の日焼けした顔とたくましい体を思い出すと、胸が自然に脈打ってくる。

高校前で愛華は下車し、理佐は次の中学校前でバスを降りる。角を曲がるときに、恭二たちと歩いてくる勇太の姿が見えた。理佐は足早に、校門をくぐる。理佐は自分の臆病さを、情けなく思う。背後から、勇太の笑い声が聞こえた。理佐はもっと近くで、その声を聞いてみたいと思う。

町おこし003:遠距離交際になる
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!
二学期の始業式を終えた瀬口恭二と藤野詩織は、藤野温泉ホテルのレストランにいる。詩織はこのホテルの一人娘である。
「あと半年で卒業だね。そうしたら、恭二と別れ別れになってしまう」
 詩織はコーヒーカップをおいて、悲しそうな表情を浮かべた。まずい展開になってきた、と恭二は警戒する。普段楽天的な詩織は、何かを考えこむと深刻な話を突きつけてくる。中学を卒業すると同時に、恭二は札幌のF高への進学が決まっている。
「夏休みには帰ってくるんだし、いつだってスマホで話はできる」
「遠距離交際は必ず破綻するって聞いたわ」
「標茶と札幌は遠距離じゃないよ」
「遠いわ」
 詩織の大きな瞳に、涙の玉が盛り上がった。恭二はそんな詩織を、愛おしく思う。
「おれ、絶対に甲子園に行く。詩織はおれの夢を応援する、っていってくれていた」
「そうだけど、現実が近づいてくると、つらくて」
 止まっていた涙が、頬を伝った。恭二はテーブルのナプキンを抜いて、詩織に渡す。
「ごめんなさい。私ね、札幌の私立に行きたいってお母さんに頼んだんだけど、一蹴されちゃった。私も華やいだところで、高校生活をしてみたい。こんなダサい田舎で、大切な青春を埋没させたくないの」
「高校を卒業したら、二人とも札幌の大学へ通って……」
「一緒に暮らすんだったわね」
「だから、それまでの辛抱」
「恭二のユニフォーム姿は、今度で見納めだね」
 浴衣姿の集団が入ってきた。詩織はそれを見て、立ち上がり腕時計に目をやった。
「いけない。こんな時間だ。お手伝いがあるから、今日はこれまでだね。恭二、日曜日は応援に行くからね。私に恥をかかせないように、しっかりと投げるんだよ」
「わかってる」
 恭二も立ち上がり、詩織の後ろ姿を目で追う。そして、詩織のいない半年後を想像する。寂しいけど、おれには野球がある。

町おこし004:耳慣れない診断名
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!
恭二と勇太の壮行試合は、標茶中学校の野球グラウンドで開催された。対戦相手は、隣町の磯分内(いそぶんない)中学校である。ネット裏には、詩織がいて理佐がいた。恭二の父・恭平の姿もあった。恭平は息子の中学最後の勇姿を見たくて、店番を妻・園子に託してきていた。
底冷えのする、日曜日だった。校庭のナナカマドの木は、赤い実をつけていた。詩織は黄色いセーター姿、理佐は緑のハーフコートを着て、同色のマフラーをしていた。勇太は目ざとく、理佐の存在を認めていた。
「理佐ちゃんが、きてくれている。気合いが入るな」
 勇太は快活にいって、拳で強くミットを叩いた。乾いた音が、朝靄のなかに響いた。
「色気は試合がすんでからだ」
恭二にたしなめられても、勇太はまだでれでれしている。恭二は中学最後の野球とあって、意気ごんで試合に臨んだ。勇太を相手にマウンドで何球か投げているとき、肩に違和感を覚えた。寒いせいだろうと思って、恭二は構わずに投げた。
捕手の勇太も、いち早く恭二の変調に気づいていた。何度もマウンドに足を運び、「大丈夫か?」と肩の調子を質問している。そのたびに恭二は、「大丈夫」と答えていた。
 
九回、最後の打者への初球を投げたとき、恭二の肩に激痛が走った。恭二はそのままマウンドに、しゃがみこんでしまった。マスクを外して、勇太は素早く駆け寄った。
「肩が動かない」
 額から脂汗がしたたり落ち、左手はしびれたままだった。父の恭平は、マウンドに駆けつけた。
「病院へ行くぞ」
 父は恭二を抱えて、病院に向かった。

さっきからうつろな目は、活字の波を泳いでいるだけである。上方肩関節唇損傷。初めて耳にする診断名は、両手を広げて行く手をふさいでいる。もうボールを投げてはいけない。手術で完治する可能性もあるが、一年間はリハビリに費やす必要がある。ただし手術には、大きなリスクが伴う。頭のなかで医師の言葉を、何度も並べ変えてみる。

医師の言葉を耳にしたとき、恭二は何かが折れる音を聞いた。生まれて初めて味わう挫折感。震える肩に置かれた、父の手がうっとうしかった。恭二は天を仰ぎ、「誤診に違いない」という言葉を飲みこむ。
目の前の医師の姿が、急に遠くなる。損傷のない方の肩に置かれた、父の手に力が入ったのを感じた。とたんに、意識が遠のいた。気がついたときは、病院のベッドで点滴を受けていた。

家のベッドで仰向けになり、恭二は何度も医師の最後通牒(つうちょう)を思い浮かべる。
――手術をしても完治する確率は低い。
――野球を断念することだね。
 誤診に決まっている。恭二は浮かんでくる医師の言葉を、そのたびに拒絶する。しかしその言葉は、水に浮かべたコルクように、いくら押してもすぐに浮かび上がってくる。突然しゃっくりが出る。恭二はそれで、自分が泣いていたのだと気がつく。

野球を失っては、F高へ行く意味はない。肩への不安の少ない、野手へのコンバートはどうだろうか。絶望の泥沼のなかに手を突っこみ、恭二は野球への未練をつまみ出す。そしてすぐに、それを放り投げる。打つのはからっきしダメなのは、自分が一番よく知っていた。

ただ持っていただけの新聞を放り投げ、恭二はスマートフォンを開く。着信はない。階下からは、魚の煮物の匂いが漂ってくる。母はおれの好物を、用意しているらしい。恭二はそれが母の心からの激励なのか、願いがかなってのお祝いなのかと、ひねくれた思いを脳内天秤にのせてみる。

――大好きな詩織。応援ありがとう。無様な姿を見せて、心配かけた。もう野球はダメらしい。恭二。
一通を送信した後、恭二はもう一通の入力をはじめる。
――勇太。投げてはいけないといわれた。ディエンドだよ。おまえとは、もうバッテリーを組むことができない。おれの分まで、F高で頑張ってくれ。恭二。

町おこし005:月夜の散歩
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!
「恭二、詩織ちゃんだよ」
 店舗から、父の声が聞こえた。スマホを胸に抱いたまま、うとうとしていたらしい。恭二はベッドから飛び起き、階段を駆け下りる。恭二の家は、小さな調剤薬局を経営している。両親は恭二に薬剤師の資格を取らせて、店を継いでもらいたいと切望している。
兄の恭一は成績が優秀で、北大医学部を受験する予定だ。それゆえ、恭二に寄せる親の期待は大きい。

 詩織は薬局カウンター前の、ソファに座っていた。昼間見たのと同じ、黄色いセーターを着ている。
「やあ」
恭二は、並んで腰を下ろす。
「びっくりしちゃって、返信しないで飛んできちゃった」
 走ってきたのだろう。詩織の声はくぐもっており、肩が激しく上下に揺れている。
「ごめん、心配かけた。歩きながら話そう」
 恭二は詩織をうながして立ち上がると、調剤室の父に告げた。
「ちょっと出かけてくる」
「もうすぐ、夕ご飯だぞ」
「わかってる」

 九月の戸外は冷凍庫の扉を開けたときのように、冷たい風を身体に浴びせかけてくる。満月だった。足下のおぼろな影を踏みながら、二人は黙って歩いた。歩みに合わせるように、二人の口からは白い吐息がこぼれた。
駅前の商店街を抜けたところに、「藤野温泉ホテル」の案内看板があった。
「おれ、めちゃくちゃ混乱している」
「もうピッチャーはできないの?」
「完治するには、時間がかかるようだ。重度の損傷だっていわれた」
「恭二、ぐずぐず未練を持ってちゃダメ。野球をどうするのか、はっきりといいなさい」
 立ち止まって問いつめる詩織の目に、涙がたままった。
「おれ、断念する。F高へも行かない」
「恭二、かわいそう」
 詩織は恭二を見上げて、深いため息をついた。そして独り言のようにつぶやいた。
「野球がなくなる恭二は、想像できない」
「小学生のときから、野球ばっかりだったからな」
詩織の指が遠慮がちに、恭二の右手に触れた。恭二はそれを握りしめる。そのとき恭二は手をつないだのは、初めてだったことに気がつく。詩織の手は、温かかった。痛んだ自分の心を、包みこんでくれるような確かさがあった。

「恭二と一緒に、標高(しべこう)へ通えるの?」
「もう迷っていない。標高にも入学願書を出してあるから、明日から受験勉強をしなければならないな」
「安心した。恭二はぐずだとばかり思っていたけど、見直しちゃった。野球に代わる何かを、探すお手伝いしてあげるね」
「まずは受験だ。おれ、受験勉強はしたことがない。大丈夫かな?」
「私が特訓してあげる。農業科は競争率が高くて難関だけど、普通科は楽勝だよ」

 目の前に、藤野温泉ホテルのネオンが見えてきた。玄関前には、マイクロバスが停まっている。詩織の父・敏光が、応対に出ていた。詩織はあわてて、恭二の手を離す。
「恭二、『月夜の散歩』をプレゼントするわ」
 そういうなり、詩織は歌い始めた。

――落葉のじゅうたん敷き詰められた/月夜の小道を散歩する/ムーンライトに照らされて/黙って黙って寂しく歩く/頬に涙がきらりと光り/リリリリ、リーリーとコオロギ鳴いた

「これ恭二のお兄さんが、作った曲だよね。去年の文化祭で一緒に聴いた。ちょっと寂しいけど、すてきな曲。私から、今の恭二へのプレゼント。落ちこんじゃダメよ」
 詩織の姿が見えなくなるまで、恭二は立ちつくしていた。手のひらに、詩織の温もりが残っていた。メールでは平気で「大好き」と書いていたが、それを形にすることができないでいた。初めて手をつないだ。そう思うと、心臓がピクっと跳ね上がった。

町おこし006:穴吹家の決断
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!
 穴吹貞雄の家は、虹別で酪農業を営んでいる。長男の健一は、工面して高校へ入れた。健一の下には、標茶中学三年の弟・健二と双子の姉妹の茜(あかね)と萌(もえ)がいる。姉妹は、虹別小学校の四年生である。
 貧しい夕食を終えて、健二は父・貞雄に食い下がっている。
「兄ちゃんは高校へ行かせたのに、おれはなぜ行かせてもらえないんだ」
「兄ちゃんはうちの跡継ぎだから、酪農や農業の勉強をしてもらわなければならない。おまえは、学校で就職先を探してもらえ」
「高校へ行きたい!」
「うちには、もうそんな余裕はない」

 二人のやり取りに耐えかねて、健一が口をはさんだ。
「おれ、高校を中退して、ここを手伝う。だから、健二は高校へやってもらいたい。健二はおれよりも、ずっと優秀だ。どこかに就職するにしても、中卒では肩身が狭い。なあ、父さん。おれがバリバリ働いて、健二の入学資金は稼ぐから」
 健二は泣き出した。おろおろしていた母の美津子は、泣きながら貞雄に訴えた。
「私が毎日、卵の行商に行く。だから、健二を高校に行かせて。健一も、せっかく入った高校を辞めたらダメだ」
「おれ、定時制に編入する。そうしたら、昼間はここで働ける。だから、健二を高校に行かせて」「健一がそうしてくれれば、母さんは標茶町へ働きに行ける。健一、本当にそうしてくれるのかい?」
「高校を中退しないで、この問題を解決するには、それしか方法はないさ」
 
貞雄は腕組みを解き、咳払いをしてからいった。
「母さんも健一も、よくいってくれた。おれがふがいないばかりに、みんなに迷惑をかける。すまん。健一は定時制への編入。母さんは標茶で仕事を探す。おれはもっともっと働く。だから、健二、標高へ行け。金はみんなでなんとかする」
 健二は、しゃくり上げて泣いている。美津子は健二の肩を抱き、「健二、よかったね。しっかりと勉強しなさいね」と泣きながら告げた。
 健一は大好きな、漫画の定期購読を止める決心をした。一円でもムダにはできない。何としてでも、弟を高校へ行かせたい。健一はまだ泣き止まない弟に視線を向け、貧乏の底にわずかな光を見出している。

町おこし007:夢と妄想
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!
瀬口家の夕食は、店番の関係で二組に別れる。
「キンキじゃないか、今日は豪華な夕食だな」
 食卓についた兄の恭一は、ことさら明るくいった。恭二のことは、すでに母親から聞かされている。店にお客さんらしく、父の大きな声が聞こえてくる。恭二は父の声に覆い被せるように、きっぱりと告げた。
「母さん、おれ、F高へ行かない」
「野球を諦めることにしたの?」
「辞める」
「おいおい恭二、そんなに簡単に夢を諦めてしまっていいのか?」
 口をはさんだ兄に向かって、恭二は自分にいい聞かせるように告げる。
「いつまでもかなわない夢に、しがみついていたくないんだ」
「恭二、おまえは強いよ」
「今は空っぽだけど、野球以外の夢を探してみる」

 恭二は兄の言葉を、胸のなかで転がしてみる。そしてかなわぬ夢を追いかけるのは、単なる妄想だろうなと思う。夢って努力すれば、届くところにあるものだろう、とも思う。さっき開いた猪熊勇太からのメールを思い出す。
――恭二。ずいぶんあっさりとした決断だな。おまえが行かないのなら、おれもF高へは行かない。おまえがどんな新しい夢を拾うかを、見届けなければならないからな。勇太。

 母と交代に、父が食卓につく。そして悲しげな声を出した。
「恭二、母さんに聞いたけど、野球と決別するんだな。未練を断ち切るのは難しいけど、おまえの決断を尊重しよう」
「おれ標(しべ)高へ行く。そこで夢中になれる、何かを探す」
「久しぶりで見たけど、詩織ちゃんきれいになったな」
 胸がチクリとした。恭二は黙って、脂がのったキンキの身を口に運ぶ。そして夢中になれる何か、の存在を意識しはじめている。今のところそれは、詩織の存在なのかもしれない。

町おこし008:2つのプロジェクト
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!
 喫茶の看板を、「居酒屋むらさき」に変えたと同時に、二人の男が入ってきた。店の主は秋山昭子、四十五歳。早くに夫を亡くして、女手ひとつで店を切り盛りしている。一人娘の可穂は、標茶中学の三年生である。
昭子は二つのグラスに、ビールを注ぐ。二人とも無言で、一気にあおった。背の高い方の男は、ポケットから紙片を取り出す。そして小柄で太った男の眼前に、ひらひらさせている。
「町民の数は、牛の数に抜かれた。何でこんな記事を、広報に載せたのですか?」
 標茶町町長の越川常太郎を詰問しているのは、標茶町観光協会長の肩書きを持つ宮瀬哲伸である。彼は『標茶町だより』の記事に、腹を立てている。

「ショック療法っていうやつだよ。町民に対する一種の、カンフル剤のつもりだ」
「これは逆療法ですよ。ますます町民の士気は、低下してしまいます」
「流出人口を抑えるためには、ショック療法が必要になる」
「観光客の誘致に全力をあげているとき、それを迎える町民に、情けない思いをさせてはまずいですよ」
「相変わらず手厳しいな。ところで、きみの方の建物は、町おこしのカンフル剤になっていないのかい?」

越川町長は地方再生予算の半分を、宮瀬哲伸の経営する宮瀬建設に投資している。もう半分は弟・多衣良(たいら)が社長を務める、越川工務店へ配分している。
「オープンして半年ですので、まだまだ認知度が低いのが現状です。釧路管内はもとより、札幌の企業にまでダイレクトメールを配信しています。そろそろ効果が表れるころです」
「頼むぞ。あれがコケたら、おれの首が危なくなる」

標茶町は地方再生予算で、二つの大きなプロジェクトを実行した。町議会では一部の反対があったものの、すんなりと予算は承認されている。しかし住人の減少を、観光客の誘致で補おうとする企画は、大きな成果を上げていない。

 居酒屋むらさきに、新たな客が顔を出す。町長の弟・越川多衣良だった。
「噂をすれば何とかというやつだ」
 軽く手を上げて、宮瀬は笑いかけた。
「どうせ、悪いウワサ話だべさ」
 多衣良は、コートを脱ぎながら笑い返す。標茶町には、越川工務店と宮瀬建設の二つの建設会社がある。標茶町の土木工事の入札は、この二つの会社が交互に落札している。
「ところで、兄貴、いや町長。例の三大スポットに、四つ目を追加しようと考えている。川上神社の鳥居が朽ちかけているので、建て直したいとのことだ。それで、無償でやってあげるから、朱色にさせてもらいたいとお願いしてきた」
「神主は了承したのか?」
 越川常太郎は弟のグラスに、ビールを注いで尋ねた。
「ばっちりだよ。これでうちのプロジェクトに弾みがつく」

越川工務店と宮瀬建設は、表面的には仲がよい。しかし宮瀬は、多衣良にだけは負けたくなかった。宮瀬は四十五歳、多衣良よりも十七歳も若い。ただし双方ともに、二代目という共通点がある。父親から受け継いだ汗まみれのバトンは、次へつながなければならない。
ところが宮瀬には、渡すべき相手がいない。妻と死に別れ、子どももいないのである。宮瀬哲伸は孤独であった。仕事以外に、生きがいを見出せないでいる。
 
町おこし009:ハートのストラップ
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 
標茶から釧路までは、電車で一時間ほどかかる。ボックス席には、瀬口恭二と藤野詩織が並んでいる。向かいの席には、南川理佐が座っている。電車が動き出し、座席からきしんだ音が響いた。高校受験の参考書を、買いに行く約束になっていた。 
恭二が詩織と一緒に、釧路へ行くのは初めてだった。並んで座っていると、詩織の臀部(でんぶ)の温もりが伝わってくる。それだけで恭二の心は、電車が鉄路を刻む音に共鳴してくる。

電車は茅沼駅に停まる。猪熊勇太が乗りこんできた。「おはよう」とあいさつを交わし、勇太は理佐の隣りに腰を下ろす。外は冷えているとみえて、勇太の頬は真っ赤になっている。
「寒かったよ、理佐ちゃん。抱いて温めておくれ」
「いやね、勇太くん。通路を走ってくれば、温かくなるわよ」
じゃれあっている二人を見て、詩織はうらやましく思う。どうも私たちは、感情を素直に発露できない。電車は、塘路駅に停まった。乗降客はいない。

「あれが寺田徹の家」
 勇太が指差す先には、粗末な平屋と赤いサイロが見える。
「寺田は農業科を、受験するんだって」
 転校して間もない理佐には、寺田のことはわからない。寺田は中学二年のときに、詩織にラブレターを渡している。恭二は誇らしげな詩織から、それを見せてもらった。きみのことが大好きです。そう書かれた文章を見て、恭二は初めて詩織が好きだったことに気がつく。そして自分の胸のうちを告げたのだった。
――おれの方が何倍も、きみのことが好きだよ。

 それが二人の、交際のはじまりだった。甘酸っぱい思い出が、よみがえってきた。恭二はそれを、嚥下(えんげ)してからいった。
「農業科の受験倍率は高いらしいから、あいつ猛勉強しているのと違うか?」
「あいつは大丈夫だよ。寺田が落ちたら、誰も残らない」

 釧路駅からは、二組に別れた。昼にフィッシャーマンズワーフで待ち合わせることを決めて、恭二と詩織は駅ビル内へ入る。スマートフォンのストラップを、プレゼントし合う約束になっていた。
恭二は詩織の好きな、黄色を選ぶことに決めていた。あれこれ品定めをしているとき、詩織は恭二に一本のストラップを見せた。黄色いバンドに、真っ赤なハートが二つついている。
「これ、恭二のストラップに決めた」
「ハートなんて、恥ずかしいよ」
「これにしなさい」
 
ベンチに座って、買ったばかりのストラップを、スマートフォンに結んだ。
「恭二、すてきよ」
 赤いハートがついたスマートフォンをのぞいて、詩織は快活に笑った。店を出ると、肌を刺すような寒風に迎えられた。釧路の風には、魚の匂いが混じっている。
信号が青に変わるのを待っていると、詩織は突然立ち位置を右に移した。そして詩織は、恭二の手を握った。つないだ手をリズミカルに揺すりながら、詩織はいった。
「恭二、私がなぜ並ぶ位置を変えたのか、気がついている?」
「わからない」
「私はいつも、恭二の左側を歩いていたんだ。でも今日から、右側にすることにしたの。だからつながっているのは、私の左手と恭二の右手」
 詩織の左手に、力が加わった。恭二もそれを、強く握り返す。恭二は詩織の、細やかな心配りをうれしく思う。おれの左腕は、もうボールを投げられない。恭二はポケットのストラップを、左手でまさぐる。

 受験参考書を買い求め、フィッシャーマンズワーフへ着くと、勇太と理佐は並んでベンチに座っていた。勇太の上気した表情を認めて、恭二は二人の初デートが順調だったことを悟る。
「幣舞(ぬさまい)橋をバックに、写真を撮ろう」
 恭二は二人を促して、ハートのついたストラップを、ポケットから引き抜く。理佐はこぼれるような笑顔を、カメラに向けている。肩までの長い髪は、風に揺れている。
二組の写真撮影がすむのを待ち構えていたかのように、その場は中国語の集団に飲みこまれてしまった。

「おれたち何だか、よそ者みたいだな」
 勇太は中国人のグループに一瞥をくれ、理佐の背中に手を回した。詩織は目ざとくその様子を眺め、またうらやましく思った。
 カモメの群れが、釧路川の上を舞っている。遠くから、引きずるような汽笛が聞こえた。それは四人の新たなステージへの、出発の合図だったのかもしれない。

町おこし010:にわか受験塾 
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!
釧路から戻ってから、瀬口恭二、藤野詩織、猪熊勇太、南川理佐の四人は、詩織の家で受験勉強を開始した。受験勉強とは無縁の世界にいた恭二と勇太には、野球の練習よりもつらい時間となった。
藤野温泉ホテルの玄関脇の会議室が、にわかの受験塾である。温泉特有の硫黄の匂いが、室内にも流れこんでくる。
「普通科は、無試験かもしれないって。農業科は試験があるようだけど、普通科は募集人数に満たないようよ」
「ということは、受験勉強はいらないということだ。理佐ちゃん、トランプしよう」
 持っていた鉛筆を放り出し、勇太は笑っている。玄関ホールが、騒がしくなった。団体を乗せた、マイクロバスが、到着したようだ。
 受験勉強は、あっという間に打ち切られた。トランプが用意され、恭二・詩織対勇太・理佐組の神経衰弱大会になった。恭二組は、あっけなく負けてしまった。

 コーヒーを運んできた詩織の母・菜々子は、トランプを見てあきれたような表情を浮かべた。
「もう休憩しているの。お勉強がすんだら、温泉に入ってから帰りなさいね。タオルはフロントに置いておくから」
「いいな、温泉か。詩織は毎日温泉に入っているから、肌がきれいだよね」
 理佐はうらやましそうに、詩織の顔に視線を向ける。そして続ける。
「詩織のお母さんも、肌がつやつや。そして目が大きくて、詩織とそっくりだね。美人だしとっても若いわ」
 詩織は母がほめられたのを、自分のことのようにうれしく思う。父・敏光と母・菜々子は標茶高校バレーボール部の先輩後輩で、大恋愛のすえ結ばれた。

 恭二と勇太が男湯に入ると、湯船には三人の先客がいた。
「何だい、あれは。お笑いだよ。ガラクタばかり並べて、五百円だぜ。こいつは詐欺だな」
頭にタオルを乗せた男の大声は、浴室に響き渡っている。恭二はすぐに、さっき到着したお客さんだと思った。そして話題は、例の建物に違いないと思う。恭二と勇太は、並んで浴槽に入る。真っ黒な、ぬるぬるした温泉だった。
「ここの水質は、モール温泉っていうんだ。植物性の温泉は、珍しいらしい」
 恭二が勇太に解説していると、頭タオルの男が口をはさんできた。
「きみたち、地元の人? この温泉は入っているときはぬるぬるしているけど、出るとさっぱりしている。いい湯だよ」
 恭二は温泉をほめられ、少し照れながら満足げにほほ笑む。

「細岡展望台からの、釧路湿原は絶景だった。道中、丹頂鶴もキタキツネもエゾシカも見た。それが最後にあの博物館だ。すっかり興ざめしてしまったよ」
 タオル男は、またぐちりはじめた。よほど腹が立ったらしい。体を洗っていたもう一人も、負けないほどの大声でいう。
「三大がっかりスポットは、笑えたよな。あんなばかばかしいものを、いっぺんに拝むことができたんだから」
 今度はもう一つの、観光目玉のことのようだ。恭二は湯のなかに身を沈めたいほど、恥ずかしくなった。