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山本藤光の文庫で読む500+α

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A・C・クラーク『幼年期の終わり』(ハヤカワ文庫、福島正実訳)

2020-04-17 | 書評「カ行」の海外著者
A・C・クラーク『幼年期の終わり』(ハヤカワ文庫、福島正実訳)

異星人の宇宙船が地球の主要都市上空に停滞してから五十年。その間、
異星人は人類にその姿を見せることなく、見事に地球管理を行なった。
だが、多くの謎があった。宇宙人の真の目的は? 人類の未来は?
――巨匠が異星人とのファースト・コンタクトによって新たな道を歩みはじめる
人類の姿を描きあげた傑作!(内容紹介)


◎巨大な宇宙船の来襲

アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』(ハヤカワ文庫)は、
1952年に刊行されたSF史上の最高傑作と評価されています。
発表から半世紀以上たった今も、
その斬新さはまったく色あせていません。
ミステリー風SF小説しか知らなかった私は、
本格的な科学を駆使した
本書に打ちのめされました。
本書の時代は20世紀後半。全世界の上空に
巨大な円盤状の宇宙船が鎮座しています。
米ソが宇宙開発競争を展開しているさなか、
人々が「オーバーロード」と呼んでいる宇宙船はなんら動きを
みせません。地球人たちは気がつかないのですが、
「オーバーロード」の出現で
地球上から少しずつ戦争や飢餓が減ってゆきます。

「オーバーロード」に立ち入ることが許されているのは、
国際連合事務総長のストルムグレンだけです。
彼は自称カレルレンという宇宙人とのみ、電波を介して
会話ができます。しかしその姿はみることができません。
カレルレンは、地球は自分たちに支配されており、
国も国境もない世界を構築すると伝えます。
ストルムグレンは「オーバーロード」の真の目的と
宇宙人の正体を探ろうと努力します。
しかしそれが実現しないまま、彼は退官の日を迎えます。

――彼らの動機は誰一人知らなかった。誰一人、
オーバーロードが人類を導いていこうとしている未来を、
知らなかったのである。(本文P47)

カレルレンは姿を見たいと画策するストルムグレンに、
「正体は50年後にさらす」と伝えます。
ここまでが第1部のあらすじとなります。

第2部は、それから50年後が舞台となります。
世界の首都の上空にあった宇宙船は、
ニューヨークのものだけを残して消えています。

◎ゴーン容疑者のように

ニューヨーク郊外に着陸したオーバーロードは、ついに人類のまえに
姿をあらわします。

――皮に似た強靱な翼、短い角、さかとげのある尻尾――
すべてがそこにあった。ありとあらゆる伝説に巣食うもっとも
怖ろしい存在が――知られざる過去の暗闇から、明るい日光
のもとにその巨体をぬめぬめとひからせ、(中略)黒檀さながらの
威厳をもってそこに立っているのであった。(本文P123)

参考のために同じ箇所について、光文社古典新訳文庫(池田真紀子訳)
を並べてみます。

――硬い革でできたような翼、小さな角、矢印の形をした尾――
すべて揃っていた。あらゆる伝説のなかでももっとも怖ろしい一つが、
未知の過去から命を持って現れたのだ。ただし、それはいま、
微笑をたたえて立っていた――黒檀を思わせる厳かさを
放ち、巨体をまばゆい陽射しにつやつやと輝かせ(後略)(P132)

こうして姿を明らかにした宇宙人たちは、人類と共生して平和を
目指すことになります。人類の多くは彼らが自分たちに牙を
むいてこないことを悟っています。
しかし彼らを受け入れない人たちも存在します。
その代表格が、天文学者のジャン・ロドリックスで、
第2部では彼が主人公となります。彼はオーバーロードの出現で、
宇宙探険の夢を削がれたことを怨みに思っています。
彼はオーバーロードが地球を離れるときをねらって、
密かに密航をくわだてます。ゴーン容疑者が日本を脱出したとき
のように、鯨の剥製にもぐりこむのです。

第2部まではあいまいにされていた「オーバーロード」の
上部機関である「オーバーマインド」の存在は第3部で知る
ことになります。謎であった「オーバーロード」は、
この「オーバーマインド」の指示を受けていました。
読者は第3部で、「オーバーロード」の地球上での怖ろしい
役割を知らされます。

密航を企てたジャン・ロドリックスは、80年後に地球への
帰還を果たします。彼は浦島太郎のように、
若いままの姿です。地球にはすでに「オーバーロード」の
姿はありません。役割を終えた宇宙人は、地球を去ってゆきます。

そしてジャン・ロドリックスが戻った地球は……。

これ以上ストーリーは追いません。とにかく驚愕のラストシーンを
味わっていただきたいと思います。本書は『SFマガジン』の特集
「この20人、この5冊」(2012年9月号)で、次のようにラストシーン
の美しさを称えられています。

――黙示録的想像力の比類なき結晶というべき
ラストシーンの美しさは、いまなお色褪せないSF文学の
至高の到達点である。

『幼年期の終わり』は、2007年に光文社古典新訳文庫(池田真紀子訳)
になっています。新訳で久しぶりに本書を読んだ大森望も
ラストに触れています。

――こんな話だったのか。意外と面白いじゃん。でもやっぱり
世の中が単純だった時代のSFだよな……などと思いつつ
読み進めていたところ、結末でふい打ちを食らい、不覚にも
ちょっと感動。お見それしました。オールタイムベストSF投票で
『ソラリス』(補:スタニスワフ・レム作)に次いで2位に入るだけある。
(大森望『21世紀のSF1000』ハヤカワ文庫)

◎未来の記憶

A・C・クラークは1917年生まれのイギリスのSF作家です。
ロバート・A・ハインライン(500+α紹介予定作『夏への扉』ハヤカワ文庫)、
アイザック・アシモフ(500+α紹介作『ミクロの決死圏』ハヤカワ文庫)
と並びSF御三家と称されています。

――クラーク作品の特徴は、少年時代に彼を虜にした英国と米国の
ふたつのSFの系譜を統合する、文明論的な思弁と冒険小説的な
ストーリィテリングを兼ね備えた明快かつ壮大なイメージの豊饒さである。
(『SFマガジン』2012年9月号)

『10代のうちに本当に読んでほしい「この一冊」』(河出文庫)という
本があります。そのなかで森達也は、10代の若者に向けて本書を
紹介しています。呼びかけの一部を引用しておきます。

――ロードには神という意味もある。つまり彼らは人類にとっての
新しい神なのだ。オーバーロードたちは優しく、根気強く、そして
的確な指示を下し続けた。戦争や紛争は終わり、飢餓や差別や経済格差
などの問題も解消された。(同書P20)

最後に本書の読みどころを紹介している文章があります。引用しておきます。

――宇宙人である「上空」と、人々のあいだで何世代にもわたって
語り継がれてきた悪魔の姿が一致するのは、人類の過去の記憶に
よるのではなく、未来の記憶であったというプロットは極めて
効果的といえる。(『たのしく読めるイギリス文学』ミネルヴァ書房)

この文章の意味を、ずっとわからずにいました。本書を読み終わったあとに、
『100分de名著・アーサー・C・クラーク・スペシャル』のテキストを
購読しました。番組はみていませんが、テキストのなかで「未来の記憶」
の解説がなされていました。

――人類の守護神だと思っていた存在が、実は悪魔だった。そして、
人類の歴史で悪魔として語り継がれ、記憶されてきた存在が、
実は宇宙からの知的生命体だった。――『守護天使』は「未来の
記憶」というオチで終焉します。(同書)

この引用文の前段に、『幼年期の終わり』の種明かしがなされています。
A・C・クラークは、以前に書いた中編『守護天使』がもとに『幼年期の終わり』
を執筆していました。

カレルレンの登場で、『守護天使』は終わっているようです。翻訳本が
ないので証明することはできません。
つまり旧作の終わったところからはじめたのが、本書だったわけです。
しかし現状の私には「未来の記憶」がイメージできません。近いうちに、
新訳で再挑戦してみます。

いずれにせよ、本書は傑作でした。未読のかたには、「もったいない」
とつたえさせていただきます。
山本藤光2020.04.17

ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』(ハヤカワ文庫、加賀山卓朗訳)

2019-01-12 | 書評「カ行」の海外著者
ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』(ハヤカワ文庫、加賀山卓朗訳)

オールタイム不可能犯罪ミステリ・ランキング第1位! ロンドンの町に静かに雪が降り積もる夜、グリモー教授のもとを、コートと帽子で身を包み、仮面をつけた長身の謎の男が訪れる。やがて二人が入った書斎から、銃声が響く。居合わせたフェル博士たちがドアを破ると、絨毯の上には胸を撃たれて瀕死の教授が倒れていた!  しかも密室状態の部屋から謎の男の姿は完全に消え失せていたのだ!  名高い〈密室講義〉を含み、数ある密室ミステリの中でも最高峰と評される不朽の名作が最新訳で登場!(アマゾン内容紹介)

◎密室ミステリーの最高峰

ジョン・ディクスン・カーを読まずしてミステリーを語るな。というわけでカーの代表作であり、密室ミステリーの最高峰といわれる『三つの棺』(ハヤカワ文庫、加賀山卓朗訳)を紹介させていただきます。
私の手元に文藝春秋編『東西ミステリーベスト100』(文春文庫)があります。それも1985年版と2013年版の2冊です。これを見比べると、評価の推移がわかります。『三つの棺』は26位だったのに、2013年版では16位に急上昇しています。これは近年、古典的ミステリーが見直されていることの証になります。

ジョン・ディクスン・カーは1906年にアメリカで生まれ、1977年に没しています。したがって死後40年になるのですが、その人気は衰えていません。『三つの棺』は「サンデー・タイムズ・ベスト100」に取り上げられています。私はそれを、丸谷才一監修『探偵たちよスパイたちよ』(文春文庫)で読んでいます。なぜ『三つの棺』を選んだのかについて、次のような説明がなされています。

――ここに描かれている怖しい雰囲気には常軌を逸するほどの迫力があること、謎ときそのものがカーのいつもの手腕さえ超える力量で構成されていること、そして密室トリックのさまざまなパターンについての「講義」が含まれていることである(同書P232、中野香織訳)

本書のなかでは、長々と「密室講義」(第一七章)がなされています。フェル博士という探偵役が講義をする形になっています。この章だけを抜粋して、さまざまな作家の密室談義に用いられているほどです。

『三つの棺』には、たくさんの伏線があります。しかし私はひとつも、謎解きの役には立てられませんでした。本書には巧みな、想像を超える仕掛けがあります。カーの作品には、賛否両論があります。私からすれば、謎解きは破綻のないものです。しかしあまりにもトリッキーな展開に、着いてこられない読者がいるためだといわれています。
 
カー作品は本書から入り、自分と波長があったら他に手を伸ばす方がいいかもしれません。「密室の総帥」と呼ばれるカーは、多くのミステリ作家に影響を与えています。それを探るのも、カー作品を読む魅力となります。

◎2つの不可能殺人事件

グリモー教授は仲間と、吸血鬼の話をしながら酒場で飲んでいます。そこに一人の男が割り込んできて、「三つの棺」という言葉を投げかけます。そしてグリモー教授に「近いうちに自分か弟が訪問することになる。弟はあなたの命をほしがっている」と続けます。男はグリモー教授にだけ顔を見せ、「奇術師・ピエール・フレイ」と書かれた名刺を渡します。

『三つの棺』はこの場面から、幕が上がります。グリモー教授は動揺し身を守るために、なぜか大きな絵を買い求めます。その絵には荒涼とした風景のなかに、三つの墓が描かれていました。

これらのいきさつを耳にしたフェル博士は、心配になってグリモー邸を訪れます。しかしグリモーの部屋から銃声が響き、そこには瀕死の状態でグリモー教授が転がっています。犯人は見あたりません。雪の降っていた夜ですが、どこにも人の足跡は見つかりません。グリモーが撃たれた部屋にあった絵は、荒々しく切り裂かれていました。病院に搬送されたグリモー教授は死に、こうして密室殺人事件が勃発します。グリモー教授がいまわの際に残した言葉を、著者はこう書いています。

――彼はたんに「煙突」と「花火」についてうわ言を言うばかりで、あとは何もしゃべりませんでした。(本文P313)

 前記のように、このような仕掛けがちりばめられています。しかし翻訳された単語は原語とはちがうので、深読みしても意味はないと思います。

 後段では、もう一つの不可能殺人事件が起きます。グリモー教授殺害の首謀者と目されていた、奇術師・ピエール・フレイが通りで殺害されます。目撃者が三人いますが、誰一人犯人を見ていません。また雪道には、フレイの足跡しかありません。しかも落ちていた拳銃は、グリモー殺害に使われたものだったのです。グリモー教授を殺害したのは誰なのか。フレイを殺害したのは誰なのか。フェル博士の怒濤の推理が始まります。

本書のストーリーは、あまり追わないことにします。なぜなら不可能な二つの殺害事件が、微妙に絡め合っている細部を説明したくないからです。多くの読者は結末部分の種明かしで、驚愕することでしょう。

『三つの棺』については、多くの作家が書評を書いています。それらを承知のうえで、キーティングは次のようにまとめています。

――ミステリ名作一〇〇選に、〈密室・不可能犯罪〉として知られる特別コーナーから作品を選ばなければ、完全なものとはいえないだろう。ほとんどあらゆる解説者によって、その分野における最高傑作と認められている作品がある。ジョン・ディクスン・カーの手になる『三つの棺』がそれだ。(キーティング『海外ミステリ名作100選』早川書房)

密室殺人の総帥・カーのひねくりまくった『三つの棺』は、考えつつじっくりと読み進めてください。どこかの時点で二つの不可能殺人事件を結びつけたなら、あなたは名人級の読者といえましょう。
山本藤光2019.01.12

ケント・ギルバート『日本人だけが知らない 世界から尊敬される日本人』(SB新書)

2018-09-20 | 書評「カ行」の海外著者
ケント・ギルバート『日本人だけが知らない 世界から尊敬される日本人』(SB新書)

発売たちまち5万部突破のベストセラー! 日本人よりも、日本と日本人を深く愛する著者がおくる、本気の日本人論!(アマゾン内容紹介)

◎偉大な先人がたくさん

ケント・ギルバートは、1952年生まれのアメリカ人弁護士です。日本ではタレントとして活動していますが、非常に博識の人です。それは2015年、アパ日本再興財団による『「真の近現代史観」懸賞論文』の最優秀藤誠志賞を受賞していることでも明かです。どんな論文だったのか、以下引用させていただきます。

――日本人の国民性が外交・国防に及ぼす悪影響について』と題した論文では、日本人の誠実さや他者への思いやりなどを「世界標準を圧倒する高いレベル」と評価する一方、その国民性が同時に「軍事を含む外交の分野では、最大の障害になる」と論じている。(ウィキペディア)

『日本人だけが知らない 世界から尊敬される日本人』(SB新書)には、学校教育で教わらなかったたくさんの偉大な日本人が紹介されています。本書を書いた動機について、著者はそのことをわきまえて、次のように書いています。

――自分の所属する国と民族に対して誇りを持つためには、祖国の歴史や、偉大な先人への敬意が必要不可欠です。(P5)

 著者が指摘するように、日本人の愛国心は他の国に比べて、圧倒的に低いという統計があります。中韓は愛国心を育てる手段として、「反日」教育を徹底しています。著者は愛国心を育てない日本人に、母国に誇りを持ちなさいと説き続けます。そのために本書には、偉大な先人がたくさん登場していました。取り上げられている人物については、興ざめになるのであえて触れません。乾電池の発明者など、知らない人の逸話が多いのに驚かされました。

――戦争は「情報戦」としての側面もあります。乾電池のおかげで、無線を用いた情報戦において、日本は中国・ロシアなどの強国に決定的な差をつけることができたのです。(P94)

 随所に上記のような、鋭い切り口が開示されています。歴史の本をあまり読まない私にとって、こうした解説は斬新なものでした。

◎Maid in Japanの開拓者

日本の思想を世界に広めたのは、新渡戸稲造である。著者はそう前置きし、日本の製品を世界に広めたのは、盛田昭夫であると続けます。いまでは「メイド・イン・ジャパン」は高品質の代名詞として世界の共通認識になっています。盛田には崇高な経営哲学がありました。

――彼(盛田昭夫)は、「企業はただ儲かればいい」という見地には立たず、「企業は地元の文化にも貢献すべきだ」と主張しました。

優れた製品とあいまって、この哲学こそ消費者の心に突き刺さったことは、容易にわかります。

ケント・ギルバートは様々な先達を、世界的な視野で解き明かしてくれました。本書は人物列伝というよりも、日本論であり日本人論です。

『源氏物語』の翻訳者として名高いサイデンステッカーについては、こんなエピソードが紹介されています。彼は川端康成の小説も手がけています。

――ノーベル賞の半分はサイデンステッカー教授のものだ。(P131)

川端のこのセリフのあとに、こんな記述が続きます。

――受け取った賞金の半分を渡したそうです。(P131)

 これも初耳の逸話です。本書は日本人の私が知らないことを、数多く教えてくれました。

ケント・ギルバートの著作はたくさんあります。いちばん紹介したかったのは、『中韓がむさぼり続ける「反日」という名の毒饅頭』(悟空出版)です。しかし本書は単行本のため、「文庫で読む500+α」の趣旨と違います。したがって『日本人だけが知らない 世界から尊敬される日本人』に共感した方、および中韓の「反日」教育に興味がある方には、お勧めします。
山本藤光2018.09.20

O・S・カード『消えた少年たち』(上下巻、ハヤカワ文庫SF、小尾扶佐訳)

2018-03-10 | 書評「カ行」の海外著者
O・S・カード『消えた少年たち』(上下巻、ハヤカワ文庫SF、小尾扶佐訳)

フリーのゲームデザイナー、ステップ・フレッチャーは、かつてはベストセラーのゲームをデザインして金まわりもよく、大学で博士号を取得する余裕もあった。だが、不景気の到来とともに印税収入は激減し、職探しをはじめた。ようやく見つかったのは、コンピュータ・ソフト会社のマニュアル作成の仕事だけ。やむをえず、会社のあるノースカロライナ州のストゥベンに家族で引っ越すが、そこで驚くべき運命がまちうけていた。ローカス賞受賞。(「BOOK」データベースより)

◎1998年第1位

オースン・スコット・カードは、『エンダーのゲーム』(ハヤカワ文庫SF)と『死者の代弁者』(上下巻、ハヤカワ文庫SF)が高い評価をうけています。しかし私は『消えた少年たち』(上下巻、ハヤカワ文庫SF、小尾扶佐訳)の世界がいちばん好きです。

本書は同名の短編として、『新潮』(1990年9月号)に掲載されていました。しかし倫理的な内容に批判があり、大幅に改稿がなされました。それが上下巻という圧倒的なボリュームの作品に生まれかわったのです。さまがわりした作品は、「『本の雑誌』が選ぶ1998年度ベスト10」の第1位となりました。大森望や北上次郎が激賞していましたので、購入して読んでみました。

ところがいくら読み進めても、SFの匂いがしてきません。なんと下巻の296ページまでは、家族小説、あるいは宗教小説の展開でした。しかしO・S・カードはたぐいまれなる筆力で、ぐいぐいとひっぱってゆきます。短気な読者なら、おそらく途中でなげだしてしまっているかもしれません。

◎家族小説からミステリーに

普通の作家なら絶対に用いない手法で、O・S・カードは物語を進めます。

「……」が言った。/「……」が訊く。/「……」が言った。/[……」が言った。/「……」が言った。/「……」が言った。/「……」声がとんだ。(上巻27ページより)

それが一気に、ミステリー小説として変貌します。総ページ882のなかで、80%までは田植えに似た苦しい作業でした。読む足が泥にとられて、前へと進まない感じだったのです。ダムが開門されます。スピーディで、リアルなすばらしい流れが生まれます。

過保護な両親。奇天烈な人間関係。祈りと現実。そんな夫婦が迎えるエンディングには、驚かされました。

ずっとタイトルの意味がわからず食傷気味でしたけれど、やっと得心することができました。こんなミステリーが、あってもよいのかもしれないと納得しました。お疲れさまと自分に伝え、分厚いページを閉じました。

◎家族のこと、夫婦のこと

フレッチャー家族は父・ステップの転職の関係で、ノースカロライナ州のストゥベンに引っ越してきます。ステップは有名なプログラマーで、ヒットゲームを作成したこともあります。しかし不景気の影響で、転職を余儀なくされました。

ところが新しい職場は、新参者を温かく迎えてくれません。あたえられた仕事も、これまでの経験をいかせるものではありません。職場環境も、古参を優遇する封建的なものでした。いっぽう小学校へ転入した長男スティーヴィーも、新しい環境になじめません。平穏だった家族の変調に、妻は困惑してしまいます。

仕事のこと。家族のこと。宗教のこと。長い長いストーリが、すこしずつ動きだします。O・S・カードは熱心なモルモン教徒なのですが、それを美化して読者に押しつけるようなことはありません。典型的なアメリカの家族を描くとき、なんらかの宗教が日常にはいりこむのは、あたりまえのことです。

やがてステップは、天才的なプログラマーの少年と友人になります。ステップのやる気に火がつきます。近所に住むモルモン教信者の家族と親しくなります。すこしだけ家族に、明るいきざしがうまれます。

そんななかで長男スティーヴィーにだけは、新たな変化が生まれません。学校になじめず、友人もできず、いつしかスティーヴィーは、空想の友人とたわむれるようになります。

家族とはなにか。夫婦とはなにか。O・S・カードは実に繊細な描写で、それらを描いてみせます。むかし日本のテレビにアメリカの家族ドラマが、はいりこんできたときの戸惑いに似たものを感じました。夫婦の会話やケンカ、親子の会話などは、日本の常識とは相入れないものです。ただただO・S・カードのリアルすぎる描写に、したがわなければなりません。

やがてすべての混沌は、エンディングに向かって収束することになります。圧倒的なエンディングまでの展開に、多くの読者は呆然となることでしょう。『本の雑誌』でナンバーワンの評価をうけた『消えた少年たち』は、O・S・カードの代表作だと思います。
(山本藤光:2011.06.16初稿、2018.03.10改稿)

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』(角川ソフィア文庫、山川紘矢・山川亜希子・訳)

2018-03-08 | 書評「カ行」の海外著者
パウロ・コエーリョ『アルケミスト』(角川ソフィア文庫、山川紘矢・山川亜希子・訳)

羊飼いの少年サンチャゴは、アンダルシアの平原からエジプトのピラミッドに向けて旅に出た。そこに、彼を待つ宝物が隠されているという夢を信じて。長い時間を共に過ごした羊たちを売り、アフリカの砂漠を越えて少年はピラミッドを目指す。「何かを強く望めば宇宙のすべてが協力して実現するように助けてくれる」「前兆に従うこと」少年は、錬金術師の導きと旅のさまざまな出会いと別れのなかで、人生の知恵を学んで行く。欧米をはじめ世界中でベストセラーとなった夢と勇気の物語。(「BOOK」データベースより)

◎少年の成長物語

パウロ・コエーリョは、1947年生まれのブラジル人作家です。デビュー作は、『星の巡礼』(角川ソフィア文庫、初出1987年)です。本書はほとんど話題になりませんでした。私も読んでみて、途中で投げ出してしまったほどです。

その翌年発表された『アルケミスト』(角川ソフィア文庫)は、一転爆発的な売り上げを記録しました。パウロ・コエーリョは、世界を旅する作家です。1年間の半分は世界を旅しています。日本にもきており、熊野の修験道に感激しています。この体験は、後述する『11分間』に活用されます。

『アルケミスト』は、小説というよりも詩のような作品です。羊飼いの少年サンチャゴは、夢でお告げを受けます。「ピラミッドのそばに宝物が隠されている」というものです。少年は宝物を目指して旅に出ます。

少年は旅を通じて、さまざまな人との出会いと別れを経験します。さらに泥棒の被害を受け、戦争の渦中で困難と向き合います。少年は旅の途中で出会った、1人の少女を愛します。少年は砂漠を案内してくれる、錬金術師(アルケミスト)から多くのことを学びます。

『アルケミスト』は、1人の少年の成長物語です。読んでいて『星の王子さま』と重なってしまいました。少年は幾多の困難を、希望を捨てずに突き進みます。

少年と対比する形で、パウロ・コエーリョは実に巧みに羊の本質と、クリスタル店の主人を描いてみせます。羊は毎日を食べることだけを目的に、少年にしたがいます。クリスタル店の主人は、今を生きることだけに満足しています。

少年は困難の道を選びます。太陽を風を、懐柔してみせます。少年には「前兆」を感じ取る、特殊な能力があります。そして彼を導いてくれる神の存在があります。

『アルケミスト』は神と自然と少年の成長を描いた、スケールの大きな詩的な世界です。

◎熊野での感動を作品に

パウロ・コエーリョにはほかに、『11分間』(角川書店、現角川文庫、初出2003年)という素晴らしい野心作があります。雑誌「ダ・ヴィンチ」に寄せた著者の声に打たれて、買い求めました。

――キリスト文化圏の中でタブーとされる、性の重要性、魂と肉体の融合を真っ向から書いてみたい。

本書はブラジル人娼婦の実体験をもとに、パウロ・コエーリョがセックスに挑んだ大作です。「愛とセックスは人間には避けて通ることができない真摯な課題である」との認識から発したものです。

――わたしは2001年に日本を訪れた時、初めて修験道の里、熊野を訪ねました。日本の俳人が教えてくれたのです。修験道の自然に対する愛、敬意、自然との直接交流に感動しました、(中略)マリーア(註:主人公)に石の道を歩かせたのは熊野の経験が素晴らしかったからです。(「ダ・ヴィンチ」掲載号不明)

『11分間』の意味についてはふれません。アーヴィング・ウォレス『7分間』(邦題『七分間 ポルノグラフィー裁判』ハヤカワノヴェルズ)を意識してつけられたタイトルだということだけ書いておきます。

それにしても、7分間でもすごいと思うのに、パウロ・コエーリョはさらに4分間を加えたのだから、すさまじいパワーの持ち主のようです。『アルケミスト』を読み終えたら、ぜひ手にしていただきたいと思います。
(山本藤光:2012.09.14初稿、2018.03.08改稿)

ゲーテ『若きウェルテルの悩み』(新潮文庫、高橋義孝訳)

2018-03-08 | 書評「カ行」の海外著者
ゲーテ『若きウェルテルの悩み』(新潮文庫、高橋義孝訳)

ゲーテ自身の絶望的な恋の体験を作品化した書簡体小説で、ウェルテルの名が、恋する純情多感な青年の代名詞となっている古典的名作である。許婚者のいる美貌の女性ロッテを恋したウェルテルは、遂げられぬ恋であることを知って苦悩の果てに自殺する……。多くの人々が通過する青春の危機を心理的に深く追究し、人間の生き方そのものを描いた点で時代の制約をこえる普遍性をもつ。(文庫案内より)

◎もっとも有名な恋愛小説

知っていることは、「ギョーテとはおれのことかとゲーテ言い」という川柳(明治時代の諷刺評論家・斎藤緑雨作のようです。塩澤実信『文豪おもしろ事典』北辰堂出版を参照しました)があるくらいです。ゲーテの呼称は、「ゴエテ」「ギューテ」「ギョーテ」など30種類くらいあるといいます。
 
ゲーテは、読んだことがありませんでした。ものがたりも、知りませんでした。「若きウェルテル」は、きっと男性なのだろうな。年齢は17歳か18歳くらいかな。「ウェルテルの悩み」はきっと、恋か性のことなのだろうな、と漠然と思っていました。そんな状態で、読みはじめました。

「序文」でいきなり、ものがたりのなかに引きずりこまれました。序文とは書かれていないのですが、第1部の前にあるのですから「序文」なのでしょう。

――哀れなウェルテルの身の上についてさがせるだけのものは熱心にさがしあつめ、ここにこうしてお目にかけてみる。(「序文」らしきものより引用)

結末が冒頭にあるような、衝撃をうけました。ウェルテルは死んでいるのです。失恋くらいなら、こんな大げさなことにはなりません。そのとおり、本書にはさまざまな資料が寄せ集められていました。このあたりのことまでは、「序文」らしきものから推察できます。

私を除いて、知らない人がいないくらい有名な恋愛小説『若きウェルテルの悩み』は、「ぼく」から「君」に宛てた書簡で幕開けとなります。タイトルから推察して、語り手の「ぼく」は主人公・ウェルテルと理解できます。ただし「君」がだれなのかは、5通目の書簡までは知らされません。「君」が男性か女性かもわかりません。
 
――ひと思いに出かけてしまって、ほんとによかったと思っている。人間の心なんて、へんなものだね、君。ぼくがこれほどにも愛していて離れがたく思っていた君とわかれて、しかも朗らかにしていられるんだから。むろん君にはゆるしてもらえるだろうね。(第1部冒頭より)
 
ウェルテルがやってきたのは、小さな田舎町です。死亡した伯父の、遺産相続にかんする相談が目的でした。ウェルテルは「町そのものは不快でしたが、まわりの自然はまったくいいようのない美しさだ」と感じます。そして滞在することになる伯父の家は、やがて自分のものになると思っています。

◎キーワードは「泉」
 
ウェルテルには、生活臭がありません。豊かな育ちで、生活にも困っていません。春。「ぼく」から「君」への便りは、自然の美しさをみごとに活写しています。キーワードは「泉」です。引用してみたいと思います。


――町を出たすぐのところに泉が一つある。ぼくはまるでメルジーネ(訳注:フランス伝説の水の精。人の妻となったが、もとの人魚の姿となって姉妹とたわむれ遊んだ)とその姉妹みたいに、この泉にひどくひきつけられているんだ。(本文P9より)

読者はあとから知ることになるのですが、「泉」の最初の描写ですでにメルジーネがロッテと重ねられています。「メルジーネ」を調べてみると、蛇女という説などさまざまな話が存在しているようです。この話をオペラにしたのが、ドイツの作曲家・クロイツァーです。それをみて感激したメンデルスゾーンは、「真夏の夜の夢」(序曲「美しいメルジーネの物語」を作曲しています。
 
――遠い祖先の人たちは、みんな泉のほとりで知り合いになったり結婚を申し込んだりしたものなんだ。そうして、噴水や泉のまわりには恵み深い精霊がすんでいたんだね。そういうことに思いの及ばないのは、つらい夏の日の旅をおえて、泉の冷気にほっと息をつくという味を知らない人間だけだろう。(本文P9より)

ウェルテルはこのあと、「もう顔馴染みができた身分の低い人たちだが、みんなぼくを好いてくれる。ことに子供たちはね」と書簡で伝えています。小さな田舎町で、新たな出会いの予感を抱いているのです。

――この間、泉のところへ行ってみると若い女中さんが一人いて、水桶を一番下の段に置いて、仲間のくるのを待っているというふうなんだ。誰かきたら手伝ってもらって桶を頭に載せようというのさ。下へ降りて行って、その女の顔を見て、「手伝いましょうか、ねえさん」といってやった。――そうすると真っ赤になってしまってね、「まあ、とんでもない」というんだ。――「遠慮はご無用さ」とぼくがいうと、桶の下敷を頭の上でちゃんと置き直したから手伝ってやった。(本文P11より)

前記のようにウェルテルは、裕福な家庭に育っています。「身分の低い人」とか「若い女中さん」という表現からも、小さな田舎町においてウェルテルの存在は異質なものであったのでしょう。

――町から小一時間のところにワールハイム(原注・読者はここにしるされている土地のどこであるかをせんさくせられぬがよい。編者はやむをえず原文中の本当の名前を変更しておいたから)っていうところがある。その丘沿いの位置がはなはだ面白い。上手の小道を通って村を出ると不意に谷全体が見渡せる。料亭のおかみさんは若くはないんだが愛嬌があってきびきびしていてね、酒もある、ビールもある、コーヒーもある。しかし傑作はニ本の菩提樹だ。教会前の小さな広場はその葉蔭になっているんだ。(本文P17より)

ここでは「原注」に、注目してもらいたいと思います。ゲーテは小さな田舎町を、ワールハイムのどことは特定していません。読んでいて、どうしても特定したくなりました。こんなときに便利なのが、朝日新聞社編『世界名作文学の旅』(上下巻、朝日文庫)です。調べてみました。ウェツラールという町だったのです。取材記を読みました。建物には「この家にゲーテ住めり」と記念の板が張られているようです。
 
◎自らがおかれた運命をさとる

ウェルテルは、8人の弟妹をもつロッテと出会います。ロッテには婚約者がいます。それでもウェルテルはロッテを愛し、子供たちとも戯れ遊びます。
 
――昨夕、ロッテはマリアンネと小さいマールヒェンとをつれて散歩に出た。ぼくはそれを知っていたので、道で行き会い一緒に歩いた。一時間半ほど歩いてから、町の方へ引き返し、ぼくの大好きな、今では前よりももっともっと大好きな泉のところへきた。(中略)あたりを見まわすと、ぼくがひとりぽっちで淋しかった。ついこの間のことがありありと思い出された。――ぼくは心の中でいったのだ、愛する泉よ、あれからもうお前の冷気に浴してここに足を休めたことはなかったね。いつもいそぎ足で通り過ぎながら振り返っても見なかった。(本文P46-47より)

「泉」に関する記載は、この一文で止まってしまいます。第2部からのウェルテルは、「前よりももっともっと大好きな泉」のある町にはいません。遠く離れた町で気のすすまない書記官の仕事をしています。冬。ロッテと婚約者・アルベルトは結婚式をあげました。一方ウェルテルは、貴族の社交界から身分差別を受けます。ウェルテルは少しずつ、精神的に落ちこんでいきます。

やがてウェルテルは、ロッテの暮らしている町に戻っています。季節は夏が終わり、秋を迎えようとしています。ロッテも泉のある町も、ウェルテルを歓迎してくれません。ウェルテルは、自らがおかれた運命をさとります。
 
『若きウェルテルの悩み』の最後は、「編者から読者」へという長い文章で閉められています。これまでウェルテルの書簡でつづられていた物語は、突然大きくトーンを変えます。とんでもない結末が待ち受けていました。

◎『ファウスト』と『カラマーゾフの兄弟』

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(2)』の巻末「読書ガイド」に、興味深い解説があります。亀山郁夫の文章なのですが、ゲーテ『ファウスト』を意識して書かれた部分があるというのです。

カラマーゾフの兄弟・次男イワンが、3男アリョーシャに向かって、ゾシマ長老を念頭において「ゼラフィクッス神父」という名前を口にします。この場面について、亀山郁夫はつぎのように書いています。

――アリョーシャは、この「ゼラフィクス神父」が、ゲーテの最高傑作『ファウスト』第2部のフィナーレに出てくる「天使に似た教父」を典拠としていることがつかめていない。
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(2)』光文社古典新訳文庫、亀山郁夫「読書ガイド」P488より)

――料理屋を出たアリョーシャが、イワンのうしろ姿を見守るうち、彼がなぜかしら体を揺らしながら歩き、右肩が左肩よりも下がっていることに気づく場面がある。(中略)ここも読者のみなさんには、実際に『ファウスト』をひもとき、ご確認いただくしかない右肩の下がり、体の揺れ……。おそらく、衝撃的な発見に遭遇できるはずである。(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(2)』光文社古典新訳文庫、亀山郁夫「読書ガイド」P489より)

このようにゲーテは、ドストエフスキーにまで影響を与えていたのです。私はまだ、ゲーテ『ファウスト』を読んでいません。読んでいる人は、ぜひ確認しなおしてもらいたいと思います。
 
最後におもしろい見解を、紹介しておきたいと思います。マユツバで読んでもらいたいのですが。
 
――ひとつのテーマを長年にわたって蒸し返すのは、ゲーテの基本的な心性で、『ファウスト』『ウィルヘルム・マイスター』など、数十年のときをへて第二部、続編が書かれた作品は数多く、余り絶大な成功を収めてしまったために、続編を書くことができなかった『若きウェルテルの悩み』にさえ、ウェルテルが自殺に失敗して、ロッテと結ばれるというパロディを書き残している。(福田和也『大作家〈ろくでなし〉列伝』(ワニブックス新書より)
(山本藤光:2010.02.20初稿、2018.03.08改稿)

カミュ『異邦人』(新潮文庫・窪田啓作訳)

2018-03-07 | 書評「カ行」の海外著者
カミュ『異邦人』(新潮文庫・窪田啓作訳)

母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、理性や人間性の不合理を追求したカミュの代表作。(「BOOK」データベースより)

◎不条理という哲学

 カミュの作品を読むとき、「不条理」について理解しておかなければなりません。解説を引用させていただきます。
――実存的な用語で、人生に意義を見出す望みがないことをいい、絶望的な状況、限界状況を指す。特にフランスの作家カミュの不条理の哲学によって知られる。(「広辞苑」第五版) 

 カミュは文学辞典だけではなく、「広辞苑」にまで掲載されています。それゆえ小難しい作家だなどと食わず嫌いをせずに、肩の力を抜いて読んでいただきたいと思います。私は向こう見ずにも、「広辞苑」に異議ありと主張させてもらいます。
 
『異邦人』の主人公・ムルソーは、けっして人生に絶望していません。限界状態でもありません。ヤボな芸人のように、「そんなの関係ない」と思っているだけなのです。養老院から母の死亡を知らせる、電報を受け取ります。ムルソーは勤め先の主人に、休暇を申し込みます。不満そうな主人にムルソーは、「私のせいではないのです」といいます。

『異邦人』の冒頭の一文は、あまりにも有名です。「きょう、ママンが死んだ」。なぜか私は、「きのう」だとばかり思っていました。それは冒頭の一句を、あまり重視せずに読んでいたことによるものです。この一文のあとに続く「もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない」の叙述に、まぎらわされてしまっていたのでしょう。

 ムルソーにとって母の死は、今日でも昨日でも、どうでもいいことなのです。バスに揺られて養老院に着いたムルソーは、母の顔を見ようともしません。涙を流すこともありません。平気で煙草を吸い続けています。しかも葬式から戻り、喜劇映画を見て、女と情交までしているのです。
 
 著者カミュは、これでもかといわんばかりに、ムルソーを非人間的に描き抜きます。多くの読者は腹立たしく思いながら、ムルソーの無軌道ぶりに唖然とすることになります。
 
 そして第1部の結末を迎えます。ムルソーは友人の海辺の別荘に行き、アラビア人とケンカとなります。ムルソーは友人から預かった拳銃で、5発の銃弾を撃ち放ちます。

◎なぜ「無関係思想」が生まれたのか

 呼称はどうでもいいのですが、私はムルソーを「無関係思想者」と表現したいと思います。ずっと「不条理」という哲学に呪縛されてきましたが、再読してみてひらめいたのです。
 
 電車のなかで、若い女性が化粧をしていました。平気で携帯で会話をしている若者がいました。これらの場面には何度も遭遇しています。そのつど私は「非常識なやつだ」と心のなかで吐き捨てています。ところが当人は、いたって平気なのです。車内の冷たい視線は、まったく意に介していません。
 
 殺人のたとえとして化粧では、あまりにも迫力不足かもしれません。化粧女は明らかに、批判的な視線は意識しているはずです。でも「そんなの関係ない」のです。時間がないから、電車のなかで化粧をする。その行為に、常識などという論理が入り込む余地はありません。
 
 ムルソーの葬式前後の行為も殺人も、世間の常識などとは無関係なのです。殺人の理由を明快に答えられないために、ムルソーは単に太陽を持ち出したに過ぎません。ではなぜ、カミュはムルソーなる主人公を描いたのでしょうか。それはカミュ自身の生い立ちが影響しています。このあたりは、専門家のいうとおりだと思います。
 
 カミュはフランス領アルジェリアで生まれました。第1次世界大戦で父を失い、カミュは貧困生活を余儀なくされました。私は作品と作者の生い立ちを、極端な形で結びつけて書かないようにしています。これは意図的なことなのですが、結婚興信所みたいな展開を好まないからです。
 
 しかしカミュだけは別です。カミュが生まれたとき、アルジェリアはフランスの植民地でした。亡くなった父はフランス系であり、母はスペイン系でした。つまりカミュは、フランスというよりどころを失った状態で育っています。
 
 カミュは、地中海のきらめく光景を好みました。なにかに「私の怨恨のすべてを漂白してくれた」と書いているほどです。カミュの履歴に関しては、詳細はあえて書きません。『異邦人』(新潮文庫)には、白井浩司の懇切丁寧な解説が掲載されています。それを読んでもらいたいと思います。
 
◎自由になるということ

 私の「無関係思想」は、どうでもいいことです。単なる思いつきで、薄っぺらなものです。だからもう少し本家の「不条理」について学んでおきたいと思います。愛用している辞典から引用してみます。
 
――不条理:人間が存在の根元から切り離されて、自分とも、周りの環境とも意味のある関係を結ぶことができずに、阻害状況にあるという意味。フランスの作家アルベール・カミュの『シシュポスの神話』に盛られた哲学である。(後略)
(『最新文学批評用語辞典』研究社出版)

 この辞典には「不条理」を作品に実践したのは、T.ビンチョン(推薦作『スローラーナー』ちくま文庫)、K.ヴォネガット(推薦作『タイタンの妖女』ハヤカワ文庫SF)などと書かれています。また、S.ピンター、S.ベケットなどの作品も「不条理」と向き合ったものだと書かれています。
 
 人は阻害状況にあるか否かと問われたら、だれもが「はい」と答えるのではないでしょうか。もしも「いいえ」なる人がいたら、よほどノー天気だと思います。問題は阻害状況を脱出または克服する意思があるか否かだと思うのです。
 
 サルトルのいう、「自由であるということは、なにごとも自分で決め、選び、自分についての全責任を一身に背負うということだ」(白鳥春彦監修『哲学は図でよくわかる』青春出版社新書)に注目したいと思います。
 
 虐げられている。阻害されている。そう感じたら、脱出や克服などは考えられません。これらの対象物である組織や人などは、完全に無視してしまうのが関の山です。そこに「自由」が生まれます。つまり「不条理」なる人は、闘わないのです。自由」を手に入れるということは、組織や他人の存在を消し去ることなのです。
 
『異邦人』の第2部は、裁判の場面が延々と続きます。第1部のできごとが、くりかえし陳述されます。ムルソーの葬儀前後について、必要に問い詰められます。「なぜアラビア人を殺したのか。動機はなんだ」「なぜ5発も打ち込んだのか」。執拗な問いかけに、ムルソーは「太陽のせいだ」と答えます。

 この答弁が簡単な事件を、複雑なものに変えてしまいます。神を冒涜している。人間性のカケラもない。検事側の態度が、しだいに頑ななものになってゆきます。ムルソーは、いかなる対応をするのでしょうか。第2部はあなたも化粧女となって、読んでみてもらいたいと思います。
(山本藤光:2009.08.11初稿、2018.03.07改稿)

コレット『青い麦』(光文社古典新訳文庫、河野万里子訳)

2018-03-05 | 書評「カ行」の海外著者
コレット『青い麦』(光文社古典新訳文庫、河野万里子訳)

コレットは14歳年上から16歳年下までの相手と、生涯に三度結婚した。ミュージック・ホールの踊り子時代には同性愛も経験した。恋愛の機微を知り尽くした作家コレットが、残酷なまでに切ない恋心を鮮烈に描く。(「BOOK」データベースより)

◎若い男女の恋愛などなかった時代

『青い麦』は大学時代に、新潮文庫(堀口大学訳)で読んでいます。そのときは翻訳がごつごつしていて、あまり好感を持てませんでした。古い翻訳なので仕方がないかと諦めていました。今回光文社古典新訳文庫(河野万里子訳)で読み直す機会がありました。

読んでみて、『青い麦』はまったく別の物語になっていると感激しました。翻訳もリズミカルで、少女の心のひだも繊細に描かれていました。そして何より、空咳みたいだった会話に余韻が生まれていたのです。そのあたりについては、のちほど紹介させていただきます。

 本稿を書くにあたって最初に、これから読む読者に大切なことを伝えさせていただきます。読み終わって解説文を読んで、この文章は冒頭にあるべきだと感じたからです。

―― 一九二三年にコレットが発表した『青い麦』は、今日の視点からフランス文学史を振り返ってみるとき、非常に画期的な作品であるということができます。というのも、この小説においては、「若い男女の恋」が語られているからです。(本書解説、鹿島茂)

鹿島茂はこう前置きしたうえで、この時代の恋愛について次のように続けます。

――若い男女の恋、少なくともブルジョワ階級以上の若い男女の恋というものは、コレットが『青い麦』を執筆する一九二〇年代までは、「なかった」と見なしてもかまわないのです。

つまり若い男女の恋は、常道ではなかった時代の作品だったのです。この前提を抑えて本書を読んでいただくと、その斬新さに驚かれることでしょう。

◎互いを異性として意識

本書の主役は16歳のフィリップ少年(愛称フィル)と15歳のヴァンカ少女です。2人はブルジュワ家庭のこどもで、毎年夏にヴルターニュ海岸に避暑にきています。これまでは単なる遊びともだちだった2人は、お互いを異性として意識するような年齢になりました。しかしそれを素直に表現できないまま、いつものように口ゲンカをしたり避けあったりを繰り返します。

そんなフィリップに、避暑地にきていた30歳ほどの貴婦人から誘惑の手が伸びます。フィリップは成熟した女に夢中になり、彼女の別荘へ足繁く通いはじめます。そんなフィリップの行動を、ヴァンカは知ってしまいます。ヴァンカの心は千路に乱れ、失意の底に沈んでしまいます。

ある日、女から別荘を発つとの連絡が入ります。それを知り、追いかけようとしたフィリップをヴァンカが殴ります。そして、大切なことを叫びます。この言葉の引用は控えます。このあたりの少女心理の微妙さを、みごとに解説している文章があります。

――フィリップと彼女(補:30歳ほどの貴婦人)の仲に勘づいたヴァンカのなかでは、急速に「女」が成長し、悲しみ、諦め、怒り、そして嫉妬とめまぐるしく感情が移り変わり、その嫉妬がスプリングボードとなってフィリップに体をゆだねることになるのである。(『明快案内シリーズ・フランス文学』自由国民社、品田一良・文、P183)

松本侑子は著作『読書の時間』(講談社文庫)のなかで、次のように書いています。少し長くなりますが、紹介させていただきます。

――本書の魅力は、やはり次の二つだろうか。/一つは、フランスの田舎の海辺の描写の確かさ。描写から海の匂い、強い陽射しが感じられ、海水浴や岩場の景色が浮かぶ。(中略)もう一つは、思春期の男女の感じやすい心の揺れであり、しかもそれが立派に大人の恋人たちの嫉妬であり、鞘当てであり。絶望であるところだ。(同書P151-152)

松本侑子は同書のなかで、堀口大学訳を絶賛しています。彼女にはぜひ、河野万里子訳に触れていただきたいと思います。いっぽう中沢けいは、あえて訳者名を伏せていますが、集英社文庫(手塚伸一訳)を読んで、「訳者によってこんなに違うのか」と初めて実感したと書いています。その著作のなかにおもしろい見識がありますので、紹介させていただきます。

――少年と少女を描いたこの小説をまさか今一度読みたくなることがあるとは五年前には想像がつかなかった。ある日ある時、それがコレット五十歳の作品であることを思い出し、彼女がほんとうに描きたかったのはヴァンカでもないフィルでもない、女盛りの例の貴婦人ではないかと予断が走った。(中沢けい『書評・時評・本の話』河出書房新社P83)

◎息子に「小僧」はないと思います

私が違和感を覚えた訳文と、読み終えた新訳とを比較してみます。

■新潮文庫(堀口大学訳)
「もう帰るのかい?」
彼女は、被り物を、一皮むくような具合に引っぺがした。そして固いブロンドの髪を揺すぶりながら言った。
「昼食(おひる)にお客様が一人あるのよ! 着替えをするようにとパパが言ってたわ」
 彼女は駆けていた。全身濡れたままで、大柄で男の子みたいな身体つきながら、がっちりとした骨組みと伸びやかな目立たない筋肉のために、さすがにほっそり見えた。(P11)

■光文社古典新訳文庫(河野万里子訳)
「もう帰るの?」
ヴァンカはまるで頭から一皮むくみたいにスカーフを取り、硬いまっすぐな金髪を振った。
「お昼にお客さんが来るでしょ! それなりの格好をしろって、パパが言ってたから」
 全身濡れたまま、彼女は走りだした。背が高くて男の子のようだが、のびやかで目立たない筋肉のおかげで、ほっそりとしたシルエットだ。(P16)

もうひとつ、父とフィリップの会話場面です。ここがいちばん引っかかった箇所です。

■新潮文庫(堀口大学訳)
「ここにいたのかい、小僧?」/「そうです、パパ」/「あんたひとりなのかい? ヴァンカは?」「僕、知りません」(P102)

■光文社古典新訳文庫(河野万里子訳)
「おう、ここにいたのか」/「はい、お父さん」/「ひとり? ヴァンカは?」「いや、知らないです」(P148-149)

どうですか? ぎくしゃくしていた親子の会話が、みごとに弾んでいます。それにしても、息子に「小僧」はないと思います。フィリップの愛称はフィルですから、私は小僧をフィルに置き換えて読みました。

最後にコレット大好きな、作家の熱い文章で結びます。

――ところが、コレットはちがう。これはどういうのだろう? 何年をへだてて読んでも、刺激され、ゆすぶりたてられ、老いて硬ばり、冷えて青ざめた心が熱を持ってしまう。コレットの本のページが好ましい熱気を帯び、いつか私の心も、ポッと引火するのである。(田辺聖子・文『私を変えたこの一冊』集英社文庫P72)

コレット『青い麦』は、「海外小説100+α」のリスト外においていました。(以前は4ジャンルで400+αでしたので)それで紹介できなかったのですが、今回4つのジャンルを「125+-α」に増やしましたので、胸を張って推薦させていただきます。できれば、光文社古典新訳文庫で読んでください。この作品は、kindleでも読むことができます。

山本藤光2017.05.03初稿、2018.03.05改稿

ダニエル・ゴールマン『EQ・こころの知能指数』(講談社α文庫、土屋京子訳)

2018-03-04 | 書評「カ行」の海外著者
ダニエル・ゴールマン『EQ・こころの知能指数』(講談社α文庫、土屋京子訳)

人の能力はIQでは測れない。人生に成功するかどうかを決めるのはEQ(こころの知能指数)だ。心理学博士ゴールマンの提唱した「EQ」はまたたく間に全世界に広がり、各国で大ベストセラーになった。IQ偏重で歪んだ社会の病理をあばき出し、本当の頭のよさとは何かをわかりやすく説く現代人必読の名著。(「BOOK」データベースより)

◎EQは日本人の価値観と共通している

小学1年生の通信簿に、担任が「管内トップのIQでした」と書いてくれました。両親は大喜びでしたし、私も鼻高々だった記憶があります。大学受験のころに、ときどき通信簿のコメントが頭をよぎりました。末は博士か大臣か、と担任も両親も思っていたようです。ところが学力テストのたびに、志望校が遠のいていくのです。

ふととんでもないことが、浮かびあがってきました。知能検査のとき「はい、止め」の声に、最後までできなかったページの端を折り曲げている、幼い自分の姿です。早くすんだページがあったら、私は折り曲げたところにもどっていたのではないか。まったく記憶にはありませんが、そうでなければ知能検査と学力テストの結果のかい離が説明できなかったのです。

最近の小学校では「IQ・知能検査」は、実施されていないと聞いています。IQが高いのは、その人の潜在能力の高さを示すなどとは考えられません。ましてやIQが高いのに、社会的に適合できない人はザラにいるはずです。そうした自身のトラウマや疑問に、明確な答えをあたえてくれたのが、ダニエル・ゴールマン『EQ・こころの知能指数』(講談社α文庫、土屋京子訳)でした。

「こころの知能指数」というタイトルには、これまでのもやもやを払しょくしてくれるほどの、インパクトがありました。著者のダニエル・ゴールマンは、私と同じ1946年生まれであることにも親近感をおぼえました。

――EQすなわち「こころの知能指数」とは何でしょう? それは、知能テストで測定されるIQとは質の異なる頭の良さだ。自分の本当の気持ちを自覚し尊重して、心から納得できる決断を下す能力。衝動を自制し、不安や怒りのようなストレスのもとになる感情を制御する能力。目標の追求に挫折したときでも楽観を捨てず、自分自身を励ます能力。他人の気持ちを感じ取る共感能力。集団の中で調和を保ち、協力しあう社会的能力。(本書「まえがき」より)

本書のすべては引用させていただいた、「日本の読者のみなさんへ」という「まえがき」のなかにあります。そしてゴールマンは、「思いやり、自制、協力、調和を重んじる価値観は日本人の本質だ」と付記しています。

◎「自制心」と「共感力」

「自制心」と「共感力」が、EQと呼ばれる能力です。根底にあるのは、頭がよい人の不可思議な行動です。私の上司は一流大学を卒業していました。確かに頭は良いのですが、自己顕示欲が強く、いつも上から目線で接してきました。私はその上司に、まったく人間的な魅力を感じませんでした。

異動があり、後任の上司は2流大学出身でした。ところがこちらの上司は、話をよく聞いてくれ、タイミングよくほめてくれ、仕事の指示も的確でした。私は後任の上司から仕事以外に、「人間力」の大切さを学びました。

『EQ・こころの知能指数』を読みながら、何度もIQトラウマと頭の良い上司のことが浮かんできました。EQは、成長する過程の環境が大きく作用する、後天的な要素を多く含んでいると書かれています。本書にはこどもの成長にEQを活用する例も紹介されています。

私はおそらく後任の上司に、EQを鍛えられたのだと思います。EQ=感じる知性は、チームリーダーには絶対に身につけていただきたい能力です。

ダニエル・ゴールマンには、『EQリーダーシップ』(日本経済新聞社、リチャード・ボヤツィス/アニー・マッキー共著、土屋京子訳)という著作もあります。実践書としては、こちらを薦めたいと思います。

――リーダーの基本的な役割は、良い雰囲気を醸成して集団を導くことである。そのためには、集団に共鳴現象を起こし、最善の資質を引き出してやることが肝要だ。リーダーシップとは、気持ちに訴える仕事なのである。(ダニエル・ゴールマンほか『EQリーダーシップ』日本経済新聞社の序文より)

まだ読んでいませんが、「IQ(知能)とEQ(心)」の時代は終わった」と高らかに宣言する著作が出ています。キム・ムゴン『NQ・人間を幸福にする「思いやり」指数』(ソフトバンク、久保直子訳)という本です。また「アンガーマネジメント」なる新たなモデルも話題になっています。

しかし私はとことん「人間力マネジメント」にこだわります。拙著『仕事と日常を磨く「人間力」マネジメント』でも触れていますが、私は「共感力」をいちばん大事に思っています。
(山本藤光:2014.03.17初稿、2018.03.04改稿)


コクトー『恐るべき子供たち』(岩波文庫、鈴木力衛訳)

2018-03-04 | 書評「カ行」の海外著者
コクトー『恐るべき子供たち』(岩波文庫、鈴木力衛訳)

詩人コクトー(1889‐1963)の手にかかると、子供の世界も、ギリシア悲劇を思わせる格調の高さをもって、妖しく輝きだす。白い雪の玉で傷ついた少年ポールが、黒い丸薬で自殺するという幻想的な雰囲気のなかに登場する少年少女は、愛し、憎み、夢のように美しく、しかも悲痛な宿命をになって死んでゆく。(「BOOK」データベースより)

◎三島由紀夫が敬愛するラディゲとコクトー

三島由紀夫に、『ラディゲの死』(新潮文庫)という著作があります。20歳の若さで亡くなったレイモン・ラディゲは、ジャン・コクトーにあこがれていました。『ラディゲの死』には、ラディゲがコクトーと出会い、彼に見守られながら息を引きとった様子が書かれています。
ラディゲは、三島由紀夫が敬愛する作家のひとりでした。三島由紀夫は亡くなる3年前にラディゲと会っています。その体験については、「ドルヂェル伯の舞踏会」(新潮文庫『裸体と衣装』所収)に詳しく書かれています。

コクトーはよく変人呼ばわりされていますが、情の深い人だったと思います。コクトーは早熟で、はちゃめちゃな人でした。前衛芸術家とだけ書かれているプロフィールもありますが、活動の範囲は詩人、小説家、劇作家、画家、脚本家、映画監督など幅広いものです。そして彼は、あらゆる領域で天才的な力量を発揮しています。もうひとつ忘れてはならない才能がありました。人を育てる力です。

コクトーは14歳下のラディゲの才能を見抜き、その死まで看取りました。彼は友人と触発し合ながら、仕事をするのを好みました。

ピカソ、サティ、シャネルは、コクトーによって表舞台に引っぱりだされています。さらに写真家として有名になったマン・レイや、画家のハンス・ベルメールなどの作品を、自らの著作に用いています。

愛人関係にあった俳優のジャン・マレーのためには、戯曲を書き映画も作りました。またジュネの『ブレストの乱暴者』(河出文庫、絵は掲載されていません)に水平の絵を描き、サルトルの『汚れた手』(『サルトル全集・第7巻』人文書院所収)の演出にも力を貸しました。(この段落の文章は、『解体全書2』リクルートを参考にまとめています)

さらにコクトーは、『源氏物語』まで知っている稀有な読書家でもありました。彼が俳優で愛人のマレーのために「これは読んでおくべき本のリスト」を提供しています。世界の名作がならんでいます。『源氏物語』はそのなかの1冊です。

コクトーは35歳のとき、アヘン中毒の治療を受けています。そのときに書いたのが、『恐るべき子供たち』なのです。三島由紀夫は著書のなかで、コクトーについてつぎのように書いています。

――コクトーが日本でもてはやされるのは、フランスのものが何でも日本人に受けるというのとは少し違うと思う。一例がコクトーの散文の文体は、これ以上痩せようがないほど簡潔な文体であるが、それはスタンダアルのような論理的な文体ではなく、むしろわが西鶴に似た、イメージのいっぱい詰まった砂金の袋を目にもとまらね早さで打ちつづけるボクサーのような運動と、それによってあたりへ撒き散らされる砂金とから成る文体だ。(三島由紀夫『三島由紀夫文学論集3』講談社文芸文庫より)

◎『恐るべき子供たち』は大人社会の縮小版

『恐るべき子供たち』(岩波文庫、鈴木力衛訳)は、子供たちの雪合戦の場面からはじまります。ガキ大将のダルジュロスの投げた雪球が、病弱で華奢なポールに直撃します。ポールは胸を打って昏倒します。ポールは自動車でアパルトマンに運ばれます。そこには母親の看病で疲れた姉・エリザベートがいました。やがて母親は死に、アパルトマンには2人の姉弟がとり残されます。

姉のエリザベートは16歳、弟のポールは14歳。金持ちの叔父に生活の面倒をみてもらっています。2人はモンマルトルのアパルトマンを拠点として、勝手気ままな生活をしています。2人はいがみあいつつも離れず、まるで一心同体であるかのように暮らします。2人ついては、わかりやすい解説があります。引用させていただきます。
 
――二人は「幼い時代を生きるために生まれてきて、つながった揺籠(ゆりかご)に並んでいるかのようにいきつづけ」、しかも生きることを芝居のように演技して、お伽噺の世界に逃避し、閉じこもり、その硬質な美しさで人を打つが、結局はもろいガラス細工のように、自分自身を傷つけ、こわれてしまうのである。(加藤民男編『フランス文学・名作と主人公』自由国民社より)
 
友人であるジェラールと、孤児のアガートが同居するようになります。姉弟の間に、愛憎のもつれがおきはじめます。ジェラールは当初、同性であるポーに密かな愛情を抱いていました。同居するようになってから、姉のエリザベートを恋しく思うようになります。アガートは洋品店の店員で孤児ですが、ポーが密かに恋心をもちはじめます。ひとつの屋根の下で、子供たちの葛藤劇がくりひろげられます。
 
外部の侵入を許さぬアパルトマンでのてんまつは、とんでもない結果を迎えます。ギリシア悲劇を模した展開に、読者は打ちのめされるでしょう。愛憎、同性愛、窃盗、偽善、虚偽、毒薬、巨万の富……。この作品は、大人社会の縮小版でもあります。

『恐るべき子供たち』は、ストーリー性のない難解な文章です。最初は角川文庫(東郷青児訳)で読みました。ちょっと難しかったので、岩波文庫を購入して読み直してみました。印象に変化はありませんでした。

角川文庫の訳者は、有名な画家の東郷青児です。彼は「あとがき」で、白と灰色と黒だけの世界とこの作品を称しています。冒頭部分に登場する鮮血が、悲劇への警鐘だったのかもしれません。

倉橋由美子は『恐るべき子供たち』について、つぎのように書いています。
――ここに描かれている少年少女の行動には、一九二〇年代という第一次大戦の「戦後の時代」(アプレ・ゲール)の、一切のタガが外れたような時代の風俗や若者の犯行が反映しているのかもしれません。それも、神とか、道徳観念とか、制度とか、外から人間を制約するものがあらかたなくなった時、人間は何をするのも自由であるかわりに、何をしていいかわからず、何をしても手応えを感じないという状態に陥ります。(倉橋由美子『偏愛文学館』講談社文庫より)

こうして物語は終局へと向かいます。あえてストーリーにはふれませんが、津島佑子の文章によって結びとさせていただきます。

――「子どもたち」の純粋培養された王国は、三年も続いた。そうして、その王国を危ういものにしようとするひとつの邪魔ものが現れる。つまり、成長である。特にエリザベートにとって、弟の成長が不安に感じられる。いくらおとなっぽくなっても、弟は自分にとって無力な存在のままでいてくれなくては困る。弟にこの姉を乗り越えさせてはいけないのだ。今まで保ち続けてきた子どもの王国を守るために。(津島佑子『本のなかの少女たち』中公文庫より)

『恐るべき子供たち』は、中条省平訳(光文社古典新訳文庫)でも読むことができます。また青空文庫でも、岸田国士訳で読むことが可能です。まだ2人の訳本は読んでいませんが、研ぎ澄まされたコクトーの文章をどう翻訳しているのか、楽しみでもあります。
(山本藤光:2009.11.01初稿、2018.03.04改稿)