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山本藤光の文庫で読む500+α

著書「仕事と日常を磨く人間力マネジメント」の読書ナビ

シェイクスピア『ハムレット』(角川文庫、河合祥一郎訳)

2018-03-12 | 書評「サ行」の海外著者
シェイクスピア『ハムレット』(角川文庫、河合祥一郎訳)

「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。―」王子ハムレットは父王を毒殺された。犯人である叔父は、現在王位につき、殺人を共謀した母は、その妻におさまった。ハムレットは父の亡霊に導かれ、復讐をとげるため、気の触れたふりをしてその時をうかがうが…。四大悲劇のひとつである、シェイクスピアの不朽の名作。ハムレット研究の若き気鋭が、古典の持つリズムと日本語にこだわり抜いた、読み易く、かつ格調高い、画期的新訳完全版。(「BOOK」データベースより)

◎7つの訳文のどれを選ぶか

これまでにたくさんの訳者による『ハムレット』を読んできました。そのなかで一番古い訳文は、坪内逍遥のものだと思います。

国立国会図書館の常設案内(平成8年8月27日から9月21日)によると、初めて翻訳劇「ハムレット」が上演されたのは坪内逍遥訳のようです。これはkindleで読むことができます。ただし本の写真版なので文字を拡大できず、ひどく読みにくいものでした。

――明治40年11月22日、坪内逍遥訳・指導によって初めて翻訳劇『ハムレット』が上演された(それまでは翻案のみ)。逍遥はシェイクスピアの中に歌舞伎との同質性を見て、シェイクスピアをモデルに歌舞伎を改良しようとした。そのため七五調の古風な文体になっている。(「国立国会図書館」の第73回常設案内より)

私の手元にある『ハムレット』のなかから、有名なセリフ(第3幕第1場)「To be, or not to be, that is the question」の訳文を比べてみたいと思います。

■kindle本(坪内逍遥訳)
――存(ながら)ふるか……存へぬか……それが疑問ぢゃ、残忍な運命の矢石と只管堪(ひたさらた)へ忍ふでをるが大丈夫の志か、或は海なす艱難を逆(むか)へ撃って、戦うて根を絶つが大丈夫か? 死は……ねむり……に過ぎぬ。

■新潮文庫(福田恒存訳)
――生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生きかたか、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪えるのと、それとも剣をとって、押しよせる苦難に立ち向かい、とどめを刺すまであとには引かぬのと、いったいどちらが。いっそ死んでしまったほうが。(本文P84)

■角川文庫(河合祥一郎訳)
――生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。/どちらが気高い心にふさわしいのか。非道な運命の矢弾をじっと耐え忍ぶか、それとも/怒濤の苦難に斬りかかり、/戦って相果てるか。死ぬことは――眠ること、それだけだ。(本文P98)

■岩波文庫(野島秀勝訳)
――生きるか、死ぬか、それが問題だ。/どちらが立派な生き方か、/気まぐれな運命が放つ矢弾にじっと耐え忍ぶのと、/怒濤のように打ち寄せる苦難に刃向い/勇敢に戦って相共に果てるのと。死ぬとは……眠ること、それだけだ。(本文P142)

■ちくま文庫(松岡和子訳)
――生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ。/どちらが雄々しい態度だろう、/やみくもな運命の矢弾を心の内でひたすら耐え忍ぶか、/艱難の海に刃を向け/それにとどめを刺すか。死ぬ、眠る――/それだけのことだ。(本文P128-129)

■光文社古典新訳文庫(安西徹雄訳)
――生か死か、問題はそれだ。死ぬ、眠る。それで終わりか? そう、それで終わり。いや、眠れば夢を見る。(本文P60)。

■白水Uブックス(小田島雄志訳)
――このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。/どちらがりっぱな生き方か、このまま心のうちに/暴虐な運命の矢弾をじっと耐えしのぶことか、/それとも寄せくる怒濤の苦難に敢然と立ちむかい、/闘ってそれに終止符をうつことか。死ぬ、眠る、/それだけだ。(本文P110)

どの訳文を選ぶかは、好みの問題です。私の場合は、大好きな番組「NHK100分de名著」の『ハムレット』(4回シリーズ)を観たので、角川文庫を選びました。。訳者の河合祥一郎が、コメンテイターとして出演していたのです。すばらしい解説でした。

シェイクスピアの訳文を選ぶとき、時代背景について理解しておかなければなりません。井上ひさしは次のように語っています。

――先生(補:シェイクスピア)ご活躍のころのエリザベス朝の劇場は本邦における能舞台のようなもの、舞台装置はないにも等しく、豪華な衣装を別にすれば、作品の効果は戯曲の台詞の迫力と役者の演技力にまつよりほかはありませんでした。おまけに女優はおらず、女の役は少年が勤めておりました。(中略)一にも言葉、二にも言葉、ひたすら言葉を練り上げて、泣かせる台詞、いい台詞、おかしな台詞で、観客を唸らせることに命を懸けておいでになった。(井上ひさしのベスト3。丸谷才一編『私の選んだ文庫ベスト3』ハヤカワ文庫P28-29)

◎熱情と知性のはざまで

ハムレットは、将来を嘱望された王子でした。父の急死とあわただしい母の再婚に、心を痛めます。ハムレットは王である父を愛し、尊敬をしていました。しかし母が再婚した父の弟は、受け入れられる存在ではありませんでした。

そんなとき、父の幽霊が出現します。幽霊は自分を殺害したのは弟であることを告げ、復讐せよと命じます。しかしハムレットは幽霊の本性が見抜けず、逡巡してしまいます。そして父の死の真相を調べようと思います。

ハムレットを優柔不断な若者と思っている方は多いと思います。しかし「100分de名著」のなかで、河合祥一郎は次のように語っています。ハムレットは熱情と理性の人。気高く生きるためにどうしたらよいかを追求している人。この解説に触れて、私は新たなハムレット像を見つめなおしました。

河合祥一郎は、シェイクスピアがハムレットの分身を登場させているとも語っていました。その部分を意識して再読しますと、なるほど合点がいきました。詳細についてはあとから触れます。

・ホレイシオ(ハムレットの腹心の友):「理性」の象徴。
・レアーティーズ(ポローニアスの息子):「熱情」の象徴。
・フォーティンブラス(ノルウェー王子):「理性と熱情」を兼ね備えた人の象徴。

『ハムレット』の物語構造については、木下順二の著書から引かせていただきます。ハムレットが優柔不断に見えてしまうのは、。次の引用文で理解できます。

――ハムレットにとっては、自分の願望――叔父が犯人であることを確かめること――その願望へ着々と近づいて行く行為は、同時に最も願わしくないこと――復讐――へ着々と近づいて行くという行為だった。つまり願望を持てば持つほど願望から遠ざかるという、劇『オイディップス王』にわれわれが見たあの構造は、このようにして劇『ハムレット』に当てはまるわけです。(木下順二『劇的とは』岩波新書P68)

ソポクレス『オイディプス王』(岩波文庫、藤沢令夫訳)については、「山本藤光の文庫で読む500+α」で紹介済みです。そちらをご覧ください。ハムレットの心の葛藤について、もうひとつの論評を引かせていただきます。

――これ以上に、人間が生きて行く為に経験する苦しみとか、その終りを意味している筈の死とかいうものの性質が、実は我々に少しも解っていないということを的確に描写したものはない。それ故に、ハムレットは迷っているのではなくて、我々人間が置かれている立場を自分に確認させ、そして自分が発した問に対して答はないから、答えずにいるのである。(吉田健一『文学人生案内』講談社文芸文庫P107)

悩むハムレット以外に、ハムレットの行動に着目している文章もあります。

――ハムレットは確かに迷い、悩む。同時に、果敢に行動する。愛するオフィーリアに対して、「尼寺へゆきやがれ」と絶縁の言葉を突きつけ、その父親の侍従長ポローニアスを、間違えたとはいえ瞬時に刺殺し、己の母親を鋭い言葉でずたずたに切り裂く。(轡田隆史『名著の読み方・人生の見かたを変える』中経文庫P30)

このあたりは優柔不断どころか、直情径行のハムレットになっています。もうひとつ引用させていただきます。

――ハムレットの最大の行動は演技をすることである。周囲は敵ばかり。常に誰かに見張られている。見るものを観客だと考えれば、そのただなかに立つハムレットは彼らの視線を意識して演技をせざるをえない。(松岡和子『「もの」で読む入門シェイクスピア』ちくま文庫P39)

◎意味深な結末

2014年は、シェイクスピア生誕450年でした。この年は日本の永禄7年にあたり、5回目の川中島の戦いをしていました。シェイクスピアが『ハムレット』を書いたのは1600年ころといわれています。、40歳の手前あたりに、今なお色あせることのない戯曲を発表したのです。

『ハムレット』の結末(第5幕第2場)について、斉藤美奈子がユニークな文章を書いています。

――劇中に二度しか登場しない(なんだか上手くやったように見える)もうひとりの王子(補:フォーティンブラス)。非業の死をとげた王子(補:ハムレット)との差をどう考えるべきか。それが問題だ。(斎藤美奈子『名作うしろ読み』中央公論新社P47)

フォーティンブラス(ノルウェー王子)については、先に「理性の熱情」を兼ね備えた人の象徴と紹介しました。斉藤美奈子の文章を読んで、物語の完結にふさわしい人だったのだと認識させられました。

ホレイシオ(ハムレットの腹心の友。「理性」の象徴)の役割についても、引用しておきたいと思います。河合隼雄と松岡和子との対談のなかで、河合は次のように語っています。

――ハムレットは初めからまっしぐらに死の世界に向かって行く主人公ですね。まわりもほとんど全員が死ぬ。その中で、ホレイショーだけは非常に大事な役だと思いました。最初から最後まで見届け、それを語る役目、言ってみればシェイクスピア自身ですよ。(河合隼雄×松岡和子『シェイクスピア』新潮文庫P173)

最後に私がなぜ数ある訳書のなかから、角川文庫を選んだのかについて、その理由をもうひとつだけ書かせていただきます。それは角川文庫の巻末の野村萬斉(狂言師)の「後口上」に書かれたことに感動したからです。野村萬斉は自らが演ずるために、河合祥一郎に新訳を依頼したのです。

――私は口承の日本語文化を受け継ぐ狂言師ということに起因しますが、英文学翻訳読物劇ではなく、聞いて実感が持てる日本語戯曲音読劇としてのシェイクスピアを上演したかったのです。(野村萬斉)

そんなわけで、私は角川文庫を再読して、この原稿の改稿作業をしました。何度読んでも、『ハムレット』は新しく感じます。私の蔵書のなかには、まだまだ数多い『ハムレット』の書評があります。おそらく本書の数十倍のボリュームだと思います。
(山本藤光:2012.09.25初稿、2018.03.12改稿)


ジュネ『泥棒日記』(新潮文庫、朝吹三吉訳)

2018-03-05 | 書評「サ行」の海外著者
ジュネ『泥棒日記』(新潮文庫、朝吹三吉訳)

言語の力によって現実世界の価値をことごとく転倒させ、幻想と夢魔のイメージで描き出される壮麗な倒錯の世界。――裏切り、盗み、乞食、男色。父なし子として生れ、母にも捨てられ、泥棒をしながらヨーロッパ各地を放浪し、前半生のほとんどを牢獄におくったジュネ。終身禁固となるところをサルトルらの運動によって特赦を受けた怪物作家の、もっとも自伝的な色彩の濃い代表作。(内容紹介より)

◎正真正銘の泥棒

ジャン・ジュネは正真正銘の泥棒であり、大作家です。本物が書いたのですから、『泥棒日記』(新潮文庫、朝吹三吉訳)がおもしろくないはずはありません。

ジュネは捨て子でした。両親の顔すら知りません。友人をつくらず、書物だけを友として成長しました。そんなジュネですので、書物のなかの悪人だけに偏った愛情を感じるようになりました。そして盗みを働き、感化院へと送られます。

感化院は「おかま」と「暴力」と「裏切り」の巣窟でした。ジュネはそこで、親分格の少年の恋人になります。そして自由の身になると、軍隊を志願します。ジュネは軍隊でも重い犯罪を犯し、脱走を余儀なくされます。

脱走後の逃亡のてんまつについては、『泥棒日記』にくわしく書かれています。冒頭でふれたように、ジャン・ジュネ『泥棒日記』は、本物の泥棒の日記なのです。

入獄、出獄を繰り返しながら、ジュネはセーヌ河岸で古書店を営みます。このころジュネは自分の文才に気がつき、『死刑囚』という詩集を自費出版します。その詩集に目をとめたのが、ジャン・コクトー(「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作『恐るべき子供たち』岩波文庫、鈴木力衛訳)でした。コクトーはラディゲを世に送り出したことでも有名です。

ジュネはコクトーの要請で、書いたばかりの『花のノートルダム』(光文社古典新訳文庫)を披露します。一読したコクトーはあまりの過激な内容に、まともな形での出版はできないと判断します。そして地下出版に踏み切るのです。(ここまでのプロフィールは、『解体全書』リクルートを参照しました)

◎泥棒と男色と裏切り

『泥棒日記』は自伝的な、詩のような小説です。舞台はスペインのバルセロナにある貧民窟。そこにはスペイン人以上に、外国人がたむろしています。主人公のジャンは孤児で、物乞いや盗みや男娼で生計をたてています。彼は乞食の醜男サルヴァドールと生活しています。

しかしジャンは、片手を失った美男の女衒スティリターノと出会います。スティリターノは、冷酷で平気で人を裏切ります。それでもジャンは、それが彼の美徳と思います。ジャンはスティリターノと同棲して、献身的につくします。

やがてジャンはスペインを追われ、放浪の旅をはじめます。『泥棒日記』には、そこでの体験が生々しくつづられています。

このあとの展開については触れません。ジャンは次々と男の関係を繰り返します。途中で吐き気をもよおすほど、男同士の情交の模様をさらけ出します。

サルトルには『聖ジュネ・殉教と反抗』(上下巻、新潮文庫)といつ著作があります。読んでみたいのですが、古書価格があまりにも高く手がでません。

ジャン・ジュネについては、三島由紀夫もたくさんの論評をのこしています。その一部を紹介させていただきます。

――ジュネは、泥棒と男色と裏切りにその半生を費やし、自らこの三つのものを聖三位一体と称して、自分の送った過去と、自分の本能と運命に対するおどろくべき情熱的な自己肯定によって、この小説を書いたのであるが、かくも執拗な悪徳の主張は、反対概念としての神をもたない日本人には、歯の立たないところであろう、(鹿島茂編『三島由紀夫のフランス文学講座』ちくま文庫P225)

そして三島由紀夫はこんな文章で結んでいます。
――私はこの世にも崇高で、豪華で、痛切な小説が、全くの偏見なしに読まれることを祈ってやまない、『泥棒日記』は一流の小説なのである。(鹿島茂編『三島由紀夫のフランス文学講座』ちくま文庫P225)

三島やサルトルが絶賛する小説を、ぜひ読んでみてください。
(山本藤光:2013.09.22初稿、2018.03.04改稿)

B.シュリンク『朗読者』(新潮文庫、松永美穂訳)

2018-03-04 | 書評「サ行」の海外著者
B.シュリンク『朗読者』(新潮文庫、松永美穂訳)

15歳のぼくは、母親といってもおかしくないほど年上の女性と恋に落ちた。「なにか朗読してよ、坊や!」―ハンナは、なぜかいつも本を朗読して聞かせて欲しいと求める。人知れず逢瀬を重ねる二人。だが、ハンナは突然失踪してしまう。彼女の隠していた秘密とは何か。二人の愛に、終わったはずの戦争が影を落していた。現代ドイツ文学の旗手による、世界中を感動させた大ベストセラー。(「BOOK」データベースより)

◎あんたが読むのを聞きたいわ

ベルンハルト・シュリンクは、ドイツで法学部教授をしています。これまでに3冊ほどの、ミステリー作品を発表しました。いずれも、彼を有名にするほどには売れていません。『朗読者』は2000年に、新潮クレスト・ブックの1冊として発売されています。しかし評判にはなりませんでした。

そんな作品が、2003年に新潮文庫に入りました。評判が評判を呼び、あっという間にベストセラーの階段を駆け上がりました。映画になるという話題性も、売上に影響があったかもしれません。新潮社の広報活動が、みごとに功を奏したのです。

新潮新書に、『関川夏央・新潮文庫20世紀の100冊』があります。2000年の代表作として、堂々と『朗読者』がリストアップされています。関川夏央は、私が信頼をよせている書評家です。話題にもなっているし、彼が太鼓判をおしているのだからと読んでみました。

読んでみて、前半でつまずきました。いまを語っているのか、過去を語っているのかがわかりにくかったのです。しかしものがたりの骨格は、私には馴染みやすいものでした。本書は3部構成になっています。わかりにくいのは第1章だけで、第2章以降はしっかりと舞台を読むことができました。

著者のシュリンクは、1944年にドイツ西部で生まれています。詳細はわかりませんが、シュリンクは戦争の陰の部分を知っている世代です。著者はものがたりの中心に、戦争の陰をすえました。ナチス時代、アウシュヴィッツ、収容所、戦後裁判……。

15歳の少年が道端で吐いて、屈みこんでいます。通りかかった女性・ハンナが介抱します。少年の名前はミヒャエル。父は教鞭をとる哲学者。母親は陰が薄く、兄と姉は口うるさい。少年にとって家庭は、あまり居心地のよいところではありません。

少年は母親ほどの年齢である、ハンナに恋をします。ハンナの小さいけれどよく整頓された部屋が、「ぼく」(ミヒャエル)の安住の場となってゆきます。いっしょにシャワーを浴び、セックスをし、いつしか「ぼく」はアンナに本の朗読をするようになっています。

「ぼく」は病気のために、学業に遅れをとっていました。ハンナはもっと勉強することを薦めます。「ぼく」の成績は、驚くほど上向いてきます。昨日読んだ本の話を、「ぼく」はハンナに聞かせるようになってゆきます。そんなある日の2人の会話で、印象的な箇所があります。引用してみたいと思います。

(引用はじめ)
「読んでみて!」
「自分で読んでみなよ。持ってきてあげるから」
「あんたはとってもいい声をしてるじゃないの、坊や、あたしは自分で読むよりあんたが読むのを聞きたいわ」(本文より)
(引用おわり)

ハンナは路面電車の車掌をしています。生活は質素で、得体の知れない陰があります。彼女の過去について、「ぼく」は一切知りません。ハンナも語ろうとはしません。種明かしになるので、詳細は書きません。引用した会話は、ものがたり全般を覆う頑強な伏線になっています。

やがてハンナは、忽然と「ぼく」の前から姿を消します。再会したのは、過去のできごとを裁く法廷でした。長い裁判を終え、ハンナは刑務所に収容されます。

淡い恋。悲惨な過去。過去を裁く現実。別離と再会。一人の少年が成長するはざまで、重くハンナの過去が覆いつくしはじめます。この作品は、ミステリーとは呼べません。過去はだれにも修復できません。それぞれが引きずる過去は、現実を侵食するものなのです。

私は迷うことなく、「山本藤光の文庫で読む500+α」の海外文学(125+α)の1冊に入れました。その代襲王として名作といわれる1作を、葬ってしまいましたが。

B.シュリンクの作品で、邦訳されている文庫は、『逃げてゆく愛』(新潮文庫)だけです。これは『朗読者』のあとから書かれていると思われます。7つの短編集ですが、私はまだ読んでいません。

◎ 山本藤光の動物園

ちょっと遊んでみたくなりました。読み終わった本をどの檻にいれるかを考えてみました。

亀(じっくりと作品の余韻を楽しんでみたい)
猪(話題になっているので読んでみた)
蟹(この著者の作品をもっと読んでみたい)
兎(似たような作品を読んでみたい)
モグラ(作品の背景など深く掘り下げてみたい)

『朗読者』は「亀」の檻にいれてあります。
(山本藤光:2009.05.24初稿、2018.03.04改稿)

ボブ・シャーウィン『ICHIROメジャーを震撼させた男』(朝日文庫清水由貴子・寺尾まち子訳)

2018-03-03 | 書評「サ行」の海外著者
ボブ・シャーウィン『ICHIROメジャーを震撼させた男』(朝日文庫清水由貴子・寺尾まち子訳)

アメリカ人を驚愕させ、熱狂させた驚異のルーキー、ICHIRO。衝撃のデビュー、オールスターゲーム、そして新人王、MVPの獲得。マリナーズ番記者歴16年、ベテラン米国人記者だからこそ知りえた証言で綴る大リーガーICHIROのインサイド・ストーリー。(「BOOK」データベースより)

◎これは番記者の懺悔録でもある

いまでこそ「イチロー」本は、珍しくなくなりました。イチローの言葉を列記した本は、数多く書店で見かけます。ボブ・シャーウィン『ICHIROメジャーを震撼させた男』(朝日文庫)は、『ICHIRO〈2〉ジョージ・シスラーを越えて』(朝日新聞社2005年)も発刊されています。

こちらは文庫化されていません。しかし内容が充実しているので、あわせて読んでいただければ、メジャーリーガー・イチローのすべてが理解できると思います。『ICHIRO・2』は、84年前のシスラーの記録を超えた2004年にフォーカスをあてた著作です。

本書のすべては、「はじめに」に網羅されています。少し長くなりますが、ポイントを紹介したいと思います。筆者はアメリカ人の番記者ボブ・シャーウィンです。
 
――メジャーリーグに挑戦した最初の1年で、イチローは不朽の名声を得た。この愛知県出身の27歳の青年、1年前には大半のアメリカ人がその存在すら知らなかった若者が、「ichiro」というファーストネームを偉大な野球選手としてアメリカ中に浸透させたのである。(「はじめに」P10より)

――日本人野球選手として、イチローは新しい次元への道標をつけた。その重圧は想像するにあまりあるが、イチローがおさめた成績は予想をはるかに超えるものだった。その独特の打撃スタイル、俊足、強肩、冷静沈着ぶりでアメリカ人を納得させ、味方に引き入れた。(「はじめに」P11より)

――「ICHIRO」というファーストネームをひっさげたこの青年は、日本球団からマリナーズに移籍し、メジャーリーグで初の日本人野手になれると考えているらしい。そりゃ無理な話だ。正直なところ、私はそう思った。(「はじめに」P12より)

――アメリカ人はパワーを好む。バリー・ボンズ、マーク・マグワイアといった特大ホームランをかっとばす選手が好きなのだ。アメリカ人にとっては、何をおいても、ホームラン、ホームランである。そこへ、安打と内野安打を得意とする青年が来るという。アメリカの野球ファンがイチローに慣れるには、だいぶ時間がかかると思われた。(「はじめに」P13より)

――この若者にマリナーズが総額2710万ドルもの契約金を支払ったのは、カネばかりかけた愚行であり、ただの無駄遣いにすぎないとも言われた。(「はじめに」P13より)

――そろそろ懺悔しなければならない。この日本から来た未知の選手、この「たたき打ち」タイプの細身の打者を信用していたアメリカ人が、いったいどれだけいただろう。そのうえ、これほどの短期間でアメリカの野球界に衝撃を与える選手になることを、いったい誰が予想しただろう。(「はじめに」P15より)

ボブ・シャーウィンは、常に間近でイチローを見てきました。アメリカのファンの驚愕を体感してきました。そんな人にしか書けないのが、『ICHIRO』(朝日文庫)です。ぜひ読んでいただきたいと思います。 

◎ヘミングウェイ『老人と海』にシスラーが登場

本書のサブタイトルには、「メジャーを震撼させた男」とあります。攻走守の3拍子がそろったイチローの活躍は、確かにメジャーに一石を投じました。本書はそんなイチローを、暖かい視点でみごとに描きあげています。

日本人野手として、はじめてのメジャー挑戦。当初イチローには、大きな期待を寄せられていませんでした。あのヤンキースが高い金を提示していないことからも、そのことは歴然としています。のちにヤンキースのオーナーが、地団太を踏むことになります。そしてやがてイチローはヤンキースに迎えられました。

著者はアメリカ人の目で、海を渡ってきたクールな野球選手を見つめています。本書には、日本人では書けないいくつもの視点があります。特にマリナーズの同僚へのインタビューは、番記者でなければ拾えないもので斬新です。

いとも簡単に、ヒットを量産するイチロー。風のように、つぎのベースを奪うイチロー。エリア51と呼ばれた広範囲な守り。そして矢のような球を投げて、走者を封殺する肩。本書にはさまざまなイチローが登場します。賞賛と驚愕の言葉が満ちあふれています。
 
興味深い記述がありました。

――ブーン(補:内野手)が言いたかったのは、3人のスター選手がいなくなり、かえってロッカールームの雰囲気が良くなったということではないだろうか。雰囲気は良くしようと思ってもそうはならない。自然と変わるものなのだ。(本文より)

3人のスター選手が移籍し、そこに言葉も通じないイチローがはいってきます。言葉は通じなくても、練習態度や試合での一挙手一投足をみれば、だれにでも情熱は伝わります。イチローはぽっかりとあいた3つの穴を、みごと埋めてみせたのです。

ヘミングウェイ『老人と海』(新潮文庫)に、メジャーリーガー・シスラーが登場しています。イチローが84年ぶりに記録を更新した、安打製造機として名高いのがシスラーです。漁に出た老人が孤独な船上でメジャーリーグ中継を聞いています。そんな場面に登場するシスラーの記録を塗り替えた男がイチローです。

その1年間については、ボブ・シャーウィン『ICHIRO・2』を読んでいただきたいと思います。こちらもお薦めです。朝日新聞社は、どうして文庫化してくれないのでしょうか
(山本藤光:2010.02.05初稿、2018.03.03改稿)

サルトル『水いらず』(新潮文庫、伊吹武彦訳)

2018-03-03 | 書評「サ行」の海外著者
サルトル『水いらず』(新潮文庫、伊吹武彦訳)

性の問題をはなはだ不気味な粘液的なものとして描いて、実存主義文学の出発点に位する表題作、スペイン内乱を舞台に実存哲学のいわゆる限界状況を捉えた『壁』、実存を真正面から眺めようとしない人々の悲喜劇をテーマにした『部屋』、犯罪による人間的条件の拒否を扱った『エロストラート』、無限の可能性を秘めて生れた人間の宿命を描いた『一指導者の幼年時代』を収録。(「BOOK」データベースより)

◎サルトルは難しくない

「実存主義」などといわれると、なんだなんだと思ってしまいます。私もそうでした。大学時代に背伸びをして、哲学者の本を読みました。『嘔吐』(人文書院)も『存在と無』(全3巻、ちくま学芸文庫)も、ちんぷんかんぷんでした。サルトル『水いらず』(新潮文庫)を読む前に、大学時代の読書の記憶を呼び覚ましてみました。なにも思いだせませんでした。

偉そうに「山本藤光の文庫で読む500+α」を執筆している手前、サルトルを除外することはできません。再読する前に、「実存主義」を勉強しておこうと思いました。図書館へ行って、分厚い本をめくりました。図書館の書棚で仮死状態になっていた、『存在と無』をたたきおこしました。活字を追っても、理解中枢まで届いてきません。
 
そんなときに手にしたのが、白鳥春彦『図解でスッキリ!超入門・哲学は図でわかる』(青春出版社新書)でした。頭のなかで、右往左往していた、もやもやが氷解しました。この本は、お薦めです。マルクスもニーチェもフロイトも、わかりやすく紹介してくれています。
 
わかったつもりになって、『水いらず』に挑みました。難しくはありませんでした。読みながら私は、江國香織『きらきらひかる』(新潮文庫)を思い出したほどです。この作品に登場する夫婦は夫がホモで、妻とベッドをともにしていません。私は江國香織を、「実存主義」作品として読んではいません。同じようなものがたりなのだ、と吹っきれました。
 
◎フムフムという感じで読んで

主人公のリュリュ(妻)は、アンリーと結婚しています。アンリーは性的不能者で、夫婦に夜の営みはありません。リュリュは、全裸で寝るのを好みます。そのことを夫のアンリーは抗議するのですが、リュリュはいうことをききません。
 
通常なら肉体的なつながりがないのですから、作家は精神的な密着(離反)を描くことになります。ところが「実存主義」というやつは、そうはなりません。私には説明が難しいので、開高健の文章に頼りたいと思います。
 
――人が解体してゼロになれば、そして他者との関係という関係が一切断たれてしまえば、事物だけがのこされる。しかし、人が事物を使うという関係も消えれば、事物はそれ自体の生となって呼吸をはじめることになる。人がドアのノブをにぎってひねってドアをあけるのではなく、ノブが人にそれをにぎらせ、ひねらせるように強制したかと感じられることになる。(開高健「嘔吐」:朝日新聞学芸部編『読みなおす一冊』朝日選書所収)

リュリュは、「ぐったりとした人のそばに溌剌を感じるのは楽しい」と思っています。リュリュには、肉体関係を持っている男・ピエールがいます。おせっかいな女ともだち・リレットも、身近に存在しています。
 
『水いらず』には、年齢、性、社会的な地位などの細かな描写は一切でてきません。私は単純なものがたりとしてこの作品を読み、好感をもちました。リュリュは一度はアンリーを捨て、ピエールとの生活を決心します。

しかし最後には、不能の夫のところに戻ります。これだけの話のどこから、実存主義の匂いを嗅ぎとれるのでしょうか。私は速射砲のようにくりだされるリュリュの妄想を、巧いなと思いながら読みました。

力不足のようです。松岡正剛のように、流れる筆致でサルトルは語れません。私は実存主義作品を、選んだのではありません。本当は『嘔吐』をリストアップしていました。でも文庫化されていないので、見送ることにしました。
 
◎ちょっと寄り道

坂口安吾がサルトルについて、語っている文章を紹介したいと思います。「青空文庫」作品ファイルから、「坂口安吾全集04」(筑摩書房、1998年)に掲載されたものです。私はこの文章で、すべてのもやもやが氷解しました。
 
――織田作之助君なども、明確に思考する肉体自体といふことを狙つてゐるやうに思はれる。だから、そこにはモラルがない。一見、知性がない。モラルといふものは、この後に来なければならないのだから、それ自体にモラルがないのは当然で、背徳だの、悪徳だのといふ自意識もいらない。思考する肉体自体に、さういふものはないからだ。一見知性的でないといふことほど、この場合、知的な意味はない。知性の後のものだから。(上記資料から抜粋引用させてもらいました)

安部公房は「サルトルによれば」という前提で、つぎのように語っています。

――技術者のアンガージェ※と、インテリゲンチャのアンガージェの問題とは、次元の違う問題になるわけだろう。(安部公房・大江健三郎・白井浩司の対談「サルトルの知識人論」より。『安部公房全集020』に所収)

※アンガージュマン
(約束・契約・関与の意)第2次大戦後、サルトルにより政治的態度表明に基づく社会的参加の意として使われ、現在一般的に意志的実践的参加を指す。(「広辞苑」より)

前記の『哲学は図でよくわかる』の例では、つぎのように解説しています。たとえば戦争がおきます。状況の変化にたいして、いかにかかわるかを選択することになります。「積極的に参加する」「戦争から逃避する」のいずれを選びますか。

いま思いだしました。チャタレー夫人の夫・クリフォードも性的不能者でした。調べてみました。ロレンス『チャタレー夫人の恋人』(新潮文庫)は1928年、サルトル『水いらず』は1938年の執筆でした。まあ無関係でしょうが、こんな邪推をするのも読書の楽しみなのです。
(山本藤光:2009.07.31初稿、2018.03.03改稿)

マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー『刑事マルティン・ベック 笑う警官』(角川文庫、柳沢由実子訳)

2018-03-03 | 書評「サ行」の海外著者
マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー『刑事マルティン・ベック 笑う警官』(角川文庫、柳沢由実子訳)

反米デモの夜、ストックホルムの市バスで八人が銃殺された。大量殺人事件。被害者の中には、右手に拳銃を握りしめた殺人捜査課の刑事が。警察本庁殺人捜査課主任捜査官マルティン・ベックは、後輩の死に衝撃を受けた。若き刑事はなぜバスに乗っていたのか? デスクに残された写真は何を意味するのか? 唯一の生き証人は、謎の言葉を残し亡くなった。捜査官による被害者一人一人をめぐる、地道な聞き込み捜査が始まる―。アメリカ探偵作家クラブ賞受賞。警察小説の金字塔、待望の新訳! (「BOOK」データベースより)

◎原書からの直接翻訳

マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー『刑事マルティン・ベック 笑う警官』(角川文庫、柳沢由実子訳)は、以前に『笑う警官』(角川文庫、高見浩訳)で読んでいます。
インドリダソン『湿地』(創元推理文庫、柳沢由実子訳、山本藤光「文庫で読む500+α」で紹介)がおもしろかったので、柳沢訳で再読しました。柳沢由実子は、スウェーデン語訳の第一人者といわれています。原書からの直接翻訳ですので、著者の鼓動が聞こえてきます。

『笑う警官』という不思議なタイトルの本作は、高見浩の英語からの二次訳とはちがった発見があるはず、と期待して読みました。
タイトルの意味は最後に明らかにされます。しかしそれ以前のこんな部分に、新訳の的確さを認めました。
ちなみに佐々木譲『笑う警官』(ハルキ文庫、山本藤光「文庫で読む500+α」で紹介)のタイトルは、本書に習ったものです。

――クリスマス・イヴが訪れた。/マルティン・ベックがもらったクリスマス・プレゼントは彼を笑わせるためのものだったのに、彼は笑う気になれなかった。(高見浩訳、28章の冒頭P359)

――クリスマスイヴになった。/マルティン・ベックはクリスマスプレゼントをもらったが、家族の予想を裏切って、笑いはしなかった。(柳沢由実子訳、28章の冒頭,kindle)

柳沢由実子訳の「家族の予想を裏切って」は、すてきな訳文だと思います。ただし高見浩訳の功績を、否定しているわけではありません。何しろ高見訳は、いま話題の北欧ミステリーの先駆けとなった作品です。

本書はマルティン・ベック・シリーズの全10作のうちの4番目にあたります。そして『笑う警官』は、なかでも最も評価の高い作品です。

◎意味不明のメッセージ

ストックホルム警察署殺人捜査課は、大きな事件もなく暇な毎日でした。そんなとき、前代未聞の大量殺人事件が起きます。ストックホルム市を走る二階建ての路線バスで、マシンガンが乱射されたのです。運転手と乗客八人が死亡。一人が意識不明のまま,病院に搬送されます。死亡者のなかには、若手のステンストルムという殺人課の刑事が含まれていました。
バスのなかには犯人を特定できる、一切の痕跡は残されていませんでした。マルティン・ベック殺人課主任警視率いるメンバーは、にわかに色めき立ちます。ストックホルム警察署においては、初体験の大事件でした。

被害者の割り出しとともに、ステンストルムがなぜバスに乗っていたのかの究明がはじまります。犯人にたどり着くには、この二つの道しかありませんでした。地道な捜査が展開されます。本書の醍醐味は、捜査にあたる殺人課メンバーの際だった個性に触れることにあります。
捜査は進みます。しかし顔を吹き飛ばされた男だけが身元を特定できません。いっぽう意識不明だった男は、短い言葉を残して息を引き取ります。その箇所を拾ってみます。

ルン(殺人課刑事):撃ったのは誰だ?
被害者:ドゥンルク
ルン:そいつはどんな顔をしていた?
被害者:コールソン(本書P134)

 この謎に満ちたやり取りは、テープに記録されます。しかしまったく意味不明でした。
 やがて凶器も特定されます。旧式のフィンランド製マシンガン。

◎雨音を突き破る高笑い

雨の日が続きます。捜査は一向に進展しません。しかしステンストルムの恋人オーサ・トーレルから得た情報で、彼は迷宮入りした事件を単独で追っていたのではないか、との推測が成り立ちます。マルティン・ベックたちは、彼の足跡をただるとともに、迷宮入りした事件を洗い直すことになります。
お蔵入りしていた過去の事件は、ふたたび白日の下にさらされます。当時容疑者だった人たちの、今を総点検することになります。ステンストルは、迷宮入りした事件の犯人に迫っていた。マルティン・ベックは、そう確信するようになります。迷宮入り事件が、バス大量殺人事件に関係しているのかもしれない、と。

クリスマスの夜、マルティン・ベックは娘から「笑う警官」というコミックソングをプレゼントされます。家族は爆笑して曲を聞きますが、彼は笑いません。それが先ほど引用した箇所です。笑わないマルティン・ベックは、本書の最後に、豪快に笑います。
読者は最後になって、タイトルの意味を理解することになります。マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー『刑事マルティン・ベック 笑う警官』(角川文庫、柳沢由実子訳)は、人物造形がしっかりとした超一級品の警察小説です。
ネタバレになるので、これ以上ストーリーを追うことはひかえます。全編を通じて聞こえる雨音を突き破るような、マルティン・ベックの高笑いを最後に確認してください。
山本藤光2017.07.26初稿、2018.03.03改稿


ソポクレス『オイディプス王』(岩波文庫、藤沢令夫訳)

2018-02-27 | 書評「サ行」の海外著者
ソポクレス『オイディプス王』(岩波文庫、藤沢令夫訳)

オイディプスが先王殺害犯人の探索を烈しい呪いの言葉とともに命ずる発端から恐るべき真相発見の破局へとすべてを集中させてゆく緊密な劇的構成。発端の自信に満ちた誇り高い王オイディプスと運命の運転に打ちひしがれた弱い人間オイディプスとの鮮やかな対比。数多いギリシア悲劇のなかでも、古来傑作の誉れ高い作品である。(「BOOK」データベースより)

◎ギリシア悲劇の最高傑作

ソポクレスは、ギリシア悲劇の代表的な作家です。そしてソポクレス『オイディプス王』(岩波文庫、藤沢令夫訳)は、ギリシア悲劇の最高傑作といわれています。私の手元に14冊の『オイディプス王』にかんする評論があります。すべてを紹介できませんが、いくつかを選んでみたいと思います。

ソポクレス『オイディプス王』を読む前に世界地図を広げて、ぜひ物語の舞台となる「テーバイ」の市を確認していただきたいと思います。岩波文庫では、巻頭に地図が挿入されています。テーバイは、古代ギリシアにあった都市国家のひとつです。現在の中央ギリシャ地方ヴィオティア県の県都ティーヴァにあたります。

テーバイを支配しているのは、オイディプス王です。テーバイが疫病と飢饉に見舞われます。オイディプス王はその救済のため、アポロン神殿の神託を求めます。オイディプス王は王妃の弟クレオンを出向させます。神託を受けて戻ったクレオンは、オイディプス王に次のように告げます。

――王よ、あなたがこの国を導くようになる以前、かってこの地を支配していたのは、ライオスであった。(中略)そのライオスは殺害されました。そして神がいま命じたもうのは明らかに、その知られざる下手人どもを、罰せよとのこと。(本文P23)

いよいよ悲劇の幕開けです。ここからはまるで、ミステリー小説を読んでいるような展開となります。ライオスを殺害したのはだれなのか、オイディプス王はその謎に迫ります。

テーバイ王のオイディプスは、スフインクスの謎かけに答えて退治した人として『ギリシア神話』のなかに、たびたび登場しています。「山本藤光の文庫で読む500+α」では、串田孫一『ギリシア神話』(ちくま文庫)を紹介しています。

◎殺人者はあなただ

オイディプス王は、盲目の予言者・テイレシアスを呼んで、犯人はだれかとたずねます。テイレシアスはいいよどみますが、執拗に答えを求められ、ついに次のように答えます。

――あなたのたずね求める先王の殺害者はあなた自身だ(本文P38、本文ではすべての文字に傍点「、」がつけられています)

自分が殺害者? オイディプス王は当惑し、おおいに悩みます。しかし少しずつ自分の出生の秘密が明らかになっていきます。このあたりの展開については、読んでのお楽しみということにしておきます。

読者は驚くべき物語の展開に、ウームとうなり声をあげることになります。そしてもっと早くに、この物語を読んでおくべきだったと後悔することになります。みごとな悲劇は、とんでもないエンディングを迎えます。

清水義範は著作のなかで、エンディングについて次のように書いています。

――目が見えていた時には何も見えず、真実が見えた時には盲目になるというアイロニーだ。すべては神意のままにころがる、ということではあるが、その中でオイディプスは自分の意思で悲劇を身に受けるのだ。(清水義範『世界文学必勝法』筑摩書房P22) 

アイロニーについて、別の文献を紹介いたします。

――オイディプスは決して受動的に運命のなすがまに流されているのではない。かれは渾身の力をふるって運命に立ちむかいこれと闘うのだが、アイロニー作用によって、ついには運命に打ち倒されるのである。しかしそこには、運命にからめとられながらも、これに抗し苦悩する偉大さがあり、これが悲劇の眼目なのだ。(高橋康也編『世界文学101物語』新書館P19)

※アイロニー:文芸用語。表現技法として用いる、事実に反する言い方(三省堂『新明解国語辞典』)

◎著名人のメッセージ

『オイディプス王』に寄せられた、いくつかのメッセージを紹介させていただきます。

――『オイディプス王』は傑作! なにしろ、かのフロイトがこの物語になぞらえて、男児が無意識のうちに母を愛し父に敬意を抱く複雑な感情を「エディップス(=オイディプス)コンプレックス」と名づけて提唱したほどですから、古典的な価値が非常に高い作品と言えます。(斎藤孝『50歳からの名著入門』海竜社P142)

本書は屋外の円形劇場で、演じられることを意図して書かれています。そんな観点から劇作家の木下順二は、次のように書いています。

――ギリシア演劇の、ことに悲劇のあの堂々とした細緻なせりふの書かれかたは、野外劇場で朗々と誦せられることで初めて効果的である要素を多分に含んでいる。(中略)そのことを念頭に置いて、読者がこの戯曲を読まれることを願う。(木下順二『劇的とは』岩波新書)

ソポクレスの悲劇の偉大さに、言及している文章があります。

――ソポクレースの劇の示す、人間にはどうにもならない神の道が存在する。詩人は冷厳に、怖ろしいまでの明確な輪郭の中に、劇を展開してみせる。彼の劇は人に何かぞっとするものを感じさせる。これはホメーロスやアイスキュロスとは全く別種のものである。(大岡信ほか『世界文学のすすめ』岩波文庫別冊P67)

最後にオイディプス王の出生の秘密を、ちょっとだけ開示しておきたいと思います。

――テーベの王ライオスは、「将来生まれる自分の子に殺されるだろう」という託宣をアポロン神から受けていたので、日ごろから妃のイオカステと交わらないように謹んでいたのだが、ある夜、酒に酔って交わり、イオカステは懐妊、月満ちて男子が生まれると、赤子を山中でころすように家臣に命じた。(阿刀田高『私のギリシャ神話』集英社文庫P188)

その後のことは、読んでのお楽しみとします。『オイディプス王』は短い物語なので、簡単に読むことができます。ただし木下順二がいうように、せりふ回しを味わってください。
(山本藤光:2013.12.14初稿、2018.02.27改稿)

P・D・ジェイムス『女には向かない職業』(ハヤカワ文庫、小泉貴美子訳)

2018-02-25 | 書評「サ行」の海外著者
P・D・ジェイムス『女には向かない職業』(ハヤカワ文庫、小泉貴美子訳)

偵稼業は女には向かない。ましてや、22歳の世間知らずの娘には―誰もが言ったけれど、コーデリアの決意はかたかった。自殺した共同経営者の不幸だった魂のために、一人で探偵事務所を続けるのだ。最初の依頼は、突然大学を中退しみずから命を断った青年の自殺の理由を調べてほしいというものだった。コーデリアはさっそく調査にかかったが、やがて自殺の状況に不審な事実が浮かび上がってきた…可憐な女探偵コーデリア・グレイ登場。イギリス女流本格派の第一人者が、ケンブリッジ郊外の田舎町を舞台に新米探偵のひたむきな活躍を描く。(「BOOK」データベースより)

◎まずは処女作のダルグリッシュ警視を

フィリップ・ドロシイ・ジェイムス『女には向かない職業』(ハヤカワ文庫、小泉貴美子訳)の主人公コーデリア・グレイは、22歳の駆け出し探偵です。タイトルから類推できるとおり、探偵は女性です。物語は後見人であり共同経営者でもある、バーニー・プライドの自殺で幕があがります。この設定が『女には向かない職業』全体を、やわらかに包みこみます。コーデリアに残されたのは、ブライド探偵事務所と彼の教えと一丁の拳銃でした。

失意のコーデリアのところに、著名な学者のロナルド・カレンダー卿から依頼が舞いこみます。息子が自殺した原因を調べてほしい、というものでした。探偵としては素人に近い彼女は、引き受けるべきかどうかを悩みます。しかしバーニー・プライドを失った心のすきまを埋めるために、初めての依頼を引き受けることにします。

自殺したマーク・カレンダーはケンブリッジ大学の学生でした。それが突然退学して、住み込みの庭師として働いていました。コーデリアは邸を訪れ、首つり自殺をした現場を見ます。そして調査のために、現場で寝起きをすることをきめます。若い女性が自殺現場で寝起きをするという設定は、主人公の勇敢さや一途さをきわだたせています。

コーデリアはそこをベースキャンプとして、マークの大学時代の友人たちとの接触を試みます。マークの死は自殺ではない。コーデリアがそう確信するようになると、彼女の身につぎつぎと危険が迫ってきます。大きな枕で首つりを偽装される。尾行される。井戸に投げこまれる。そうした困難に立ち向かい、コーデリアは次第にマーク殺害の犯人に迫ります。

コーデリアの推理には、必ずバーニー・プライドの教えが入りこみます。そして物語にはいつしか、アダム・ダルグリッシュ警視の存在が垣間見られるようになります。ダルグリッシュ警視は、亡きブライドの元上司でした。

P・D・ジェイムズは42歳(1962年)のときに、『女の顔を覆え』(ハヤカワ文庫)でデビューしました。本書はアダム・ダルグリッシュ警視シリーズとして、書きつながれることになります。今回ご紹介する『女には向かない職業』(初出1972年)は、コーデリア・グレイシリーズとくくられています。しかしこちらのシリーズはその10年後に発表された、『皮膚の下の頭蓋骨』(ハヤカワ文庫HM)の2作しかありません。P・D・ジェイムズは寡作として名高く、長編の発表はほぼ2年に1作というペースでした。しかし発表した作品は、いずれも高い評価を受けていました。

P・D・ジェイムズを読む順序としては、『女の顔を覆え』にまず触れていただきたいと思います。作家の原点は処女作にありといいますが、本書は完成された作品です。コーデリアがバーニー・プライドから教わった探偵業のノウハウは、元々はダルグリッシュ警視の推理法でした。そんな意味で、『女には向かない職業』を読む前に、処女作にあたっていただきたいのです。

――本書のミステリーとしてのおもしろさは、新米探偵のコーデリアの背景にダルグリッシュ警視が控えることで二重の視線が担保されている点にある。コーデリアは若々しく活動的だが、経験がない分やはり軽率だ。そこをダルグリッシュが補完する形になっているのである。そうした構造が、ジェイムズの巧みさを感じさせる。ヒロインの可憐さだだけではなく、そういう点にも注目して読みたい。(杉江松恋『読み出したら止まらない!海外ミステリー』日経文芸文庫P135-136)

◎エンディングの余韻

コーデリアの執拗な聞きこみは、少しずつマークの素顔に近づきます。マークは幼いころに、母を亡くしていること。マークはまじめな学生だったこと。父親のロナルド・カレンダー卿は、マークに冷淡だったこと。

本書にはさまざまな人物が登場します。いずれも個性がきちんと書きこまれており、混乱することはありませんでした。またいくつもの小道具が出てきますが、これらも一陣の風とともに、きちんとエンディングに集約されます。手つかずのシチュー鍋、ヌード週刊誌の1ページ、マークが首つりに使ったベルト、マークの実母が死に際に託した祈祷書、ロナルド・カレンダー卿のポケット、そしてブライドが遺した一丁の拳銃。

『女には向かない職業』を読みながら、読み終わるのが惜しいと感じました。本書の読みどころについて、丸谷才一はつぎのように書いています。

――嬉しいことに、翻訳がすこぶる優れてゐる。あの『弁護側の証人』(補:集英社文庫)の小泉喜美子が惚れこんで訳しただけあって、文章のはしはしに至るまで探偵小説らしい生きのよさがあり、あるいはわれわれを興奮させ、あるいはわれわれを怯えさせるのだ。(丸谷才一『快楽としての読書・海外篇』ちくま文庫P230)

ネタバレになるので、ストーリーには深入りしません。丸谷才一が書いているように、女性作家ならではの細やかさが随所に出てきます。そしてなんといっても終盤の、コーデリアとダルグリッシュ警視の対峙場面は圧巻です。さらに堅牢な砂の塔がゆるやかに崩れるようなエンディングは、P・D・ジェイムズならではのみごとなものです。探偵小説のきわめつけの余韻を、ぜひ堪能してください。
(山本藤光:2016.06.13初稿、2018.02.24改稿)

スタインベック『怒りの葡萄』(上下巻、ハヤカワepi文庫、黒塚敏行訳)

2018-02-23 | 書評「サ行」の海外著者
スタインベック『怒りの葡萄』(上下巻、ハヤカワepi文庫、黒塚敏行訳)

一九三〇年代、アメリカ中西部の広大な農地は厳しい日照りと砂嵐に見舞われた。作物は甚大な被害を受け、折からの大恐慌に疲弊していた多くの農民たちが、土地を失い貧しい流浪の民となった。オクラホマの小作農ジョード一家もまた、新天地カリフォルニアをめざし改造トラックに家財をつめこんで旅の途につく―苛烈な運命を逞しく生きぬく人びとの姿を描き米文学史上に力強く輝く、ノーベル賞作家の代表作、完全新訳版。(「BOOK」データベースより)

◎夢の楽園を目指して

スタインベック『怒りの葡萄』(上下巻、ハヤカワepi文庫、黒塚敏行訳)を新訳で再読しました。以前に。新潮文庫(上下巻、大久保康雄訳)で読んでいました。記憶力が悪いせいでしょうか。それとも新訳がなじみやすかったせいでしょうか。ジョード一家に新鮮な感動をおぼえつつ、スムースに伴走できました。

1930年代、アメリカ中西部のオクラホマは、大かんばつに見舞われました。しかも地主は小作人を追い出し、収穫の望めない畑地を銀行の抵当に入れたのです。生活の糧を奪われたジョード一家は家財道具を運び、一時身内のところに身を寄せます。

そこへ殺人罪で服役していた次男トム・ジョードが、仮釈放になって戻ってきます。道中いっしょになった元説教師ケイシーをともなっています。

トムを含めたジョード一家は、職を求めて新天地カリフォルニアへ向かうことを決めます。家財道具を売り払い、何とか中古のトラックを買い求めました。

上巻は悪戦苦闘の道中を、繊細な筆運びで描いています。途中で祖父が亡くなります。カリフォルニアに向かう道は、同じような人群れで満ちあふれています。そして楽園・カリフォルニアに到着します。そこで初めて、祖母も途中で亡くなっていたことを知らされます。カリフォルニアは、思い描いていたような楽園ではありませんでした。

◎飢餓と病気と虐待

新天地カリフォルニアは、仕事を求めて集まった人たちで埋め尽くされていました。ところが仕事はほとんどなく、あったとしてもそこに大勢が押し寄せるので、労賃は不当に安くされてしまいます。家族総出で働いても、やっと1日の糧を得るだけでした。

難民たちは「オーキー」と侮蔑され、道端で身を寄せ合ってキャンプ生活を余儀なくされます。そこは飢えと病気と絶望のるつぼと化していました。カリフォルニアは一部の地主が権力を握り、保安官補たちは彼らの手先となっていました。

祖父母を衰弱死で失ったジョード一家は、道端でのキャンプ生活をしながら職を求めつづけます。次兄のトムと弟のアル。身重の妹のロザシャーンとその婿のコニー。幼い弟ウィンフィールドと妹ルーシー、伯父のジョン。そして元説教師のケイシー。持ち金が底をつきはじめ、一行はひもじさと闘いながら、疲労してゆきます。ジョード家には長兄ノアがいましたが、彼は早々とキャンプ場から逃走しています。

そしてコニーも、身重の妻ロザシャーンを置いて失踪してしまいます。ジョード一家はお互いに支え合いながら、仕事を探してキャンプ地を転々とします。キャンプ地では、同様の難民家族と助け合います。しかし難民たちの暴動を恐れる保安官たちは、キャンプを焼き払い、不平不満を説く主導者を逮捕します。

トムとともに一家に合流したケイシーは、難民たちの指導者となってゆきます。そんなケイシーは、保安官補に襲撃され撲殺されます。トムはケイシーを救うために争いの中に入り、保安官補の一人を殴り殺します。

トムは一家と離れて身を隠します。最終章では、家族が住むキャンプ地が水害に襲われます。ロザシャーンは死産をします。水かさが増してくるなか、母とロザシャーンは幼い弟妹を連れて、安全な場所へと避難します。一軒の納屋を見つけ、4人はそこに身をおきます。

先客がいました。餓死しかけている父親に、寄り添う少年でした。少年は父親が6日間、何も食べていないと訴えます。しかし施すべき食料は、持ち合わせていません。ラストの場面には触れません。感動的な結末が待ち構えています。

◎石川達三『蒼氓』と重なる

石川達三『蒼氓』(新潮文庫、「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作)も、『怒りのぶどう』と同じ1930年を描いた作品です。こちらはブラジルという新天地を目指す日本人移民の物語です。『蒼氓』は1935年に発表され、第1回芥川賞を受賞しています。『怒りのぶどう』の発表はそれから4年後の1939年でした。

2つの作品に類似点はありませんが、タイトルの意味については最後まで理解できませんでした。『蒼氓』(そうぼう)は辞書を片手に、石川達三が一ひねりしたものです。いっぽう『怒りのぶどう』には、次のような意味がありました。

――題名の「怒りの葡萄」は、アメリカの女流詩人ジューリア・ウォード・ハウの詩「共和国の戦い讃歌」からとられ、「人々の魂の中に怒りのぶどうが満ち満ちて、たわわに実っていく」ことを表わしている。(『明快案内シリーズ:アメリカ文学』自由国民社)

『怒りの葡萄』は残酷な物語です。一家を支える強い母を中心にすえた、家族愛の物語でもあります。社会の底辺を生きる農民の物語でもあります。

私は終始、本書を『蒼氓』と重ねて読みました。

朝日新聞社編『世界名作文学の旅(下)』(朝日文庫)では、ジョード一家がたどったすさまじい長旅を描いています。

――ここから太平洋まではおよそ二千キロ。テレビでおなじみの「ルート66」が走っている。百年前には西部劇でご存知のポニー。エクスプレス(早馬)が走りぬけ、三十年前は、土地を奪われた農民たちが、ボロ自動車に家族と家財道具をつんで通った道である。(朝日新聞社編『世界名作文学の旅(下)』朝日文庫)

『怒りの葡萄』は、最近新潮文庫(上下巻、伏見威蕃訳)でも新訳が上梓されました。お好みの訳書で、ぜひお読みください。
(山本藤光:2012.06.22初稿、2018.02.23改稿)

ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(光文社古典新訳文庫、土屋政雄訳)

2018-02-22 | 書評「サ行」の海外著者
ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(光文社古典新訳文庫、土屋政雄訳)

両親を亡くし、英国エセックスの伯父の屋敷に身を寄せる美しい兄妹。奇妙な条件のもと、その家庭教師として雇われた「わたし」は、邪悪な亡霊を目撃する。子供たちを守るべく勇気を振り絞ってその正体を探ろうとするが――登場人物の複雑な心理描写、巧緻きわまる構造から紡ぎ出される戦慄の物語。ラストの怖さに息を呑む、文学史上もっとも恐ろしい小説、新訳で登場。(内容紹介より)

◎2人のこどもと2人の幽霊

心理小説は、ラファイアット夫人『クレーヴの奥方』(「500+α」推薦作)が先鞭をつけたフランス文学の1ジャンルといえます。その後ラクロ『危険な関係』(「500+α」推薦作)へと流れが継承されます。ヘンリー・ジェイムズはアメリカ生まれで、イギリスやフランスで活躍した作家です。ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(光文社古典新訳文庫、土屋政雄訳)は、パリでの生活から学んだ、心理小説といえます。

主人公の「わたし」は20歳。家庭教師の経験はありませんでしたが、面接を受けました。面倒を見るのは、幼い兄と妹。2人は両親を亡くし、叔父さんの別荘で生活しています。面接者の叔父さんは、何があっても連絡をして寄越さないことを条件に、高給で「わたし」を採用することにしました。

赴任したエセックス邸は広大で、すこぶる立派なところでした。「わたし」はそこで、10歳の兄マイルズと7歳の妹フローラとと出会います。2人は天使のように美しく、素直なこどもでした。しかしマイルズの通っていた学校から、退学通知が届きます。理由は書かれていませんでした。「わたし」は困惑しますが、約束ですのでそれを雇い主である叔父さんには、連絡することができません。

そして「わたし」は邸のなかで、男と女の亡霊を見ます。ずっと住みこんでいる、家政婦のグロース婦人にそのことを告げます。グロース婦人は、男は元馭者のピーター・クイントであり、女は元家庭教師のジェスル先生だと知らされます。2人とも、とうに死んでいます。かっていかがわしい関係だった、とも知らされます。

こどもたちにも幽霊の存在は見えているようですが、彼らは見えないふりをします。家政婦のグロース婦人には、幽霊が見えません。「わたし」は2人を、幽霊の侵略から守ろうとします。そのうちにフローラは錯乱状態になり、マイルズも幽霊に取り憑かれて死んでしまいます。このあたりについて、書かれている文章があります。

――子供たちは二つの圧力のもとに滅ぼされます。一つは、子供たちが受けている目に見えないものからの圧力です。もう一つは、「わたし」(家庭教師)が無理やり白状させようとする圧力です。この二つによって子供たちは滅んでいきます。(辻原登『東京大学で世界文学を読む』集英社P342)

◎乱れ飛ぶ憶測

物語をなぞると、簡単な展開です。ただし読後には、頭のなかにたくさんのハテナマークが点灯します。その理由を清水義範は、文章の構造にあると説明しています。

――この小説はある視点から語られているのだ。徹頭徹尾、この人の視点からはこう見えた、という語り方なのである。/その書き方こそが、文学的な大事件であった。古い文学の、神の如く何でも知っている話者が、すべてを解説してくれる語り方とはまるで違うのだ。(清水義範『世界文学必勝法』筑摩書房P139)

つまりこの構造が、読者に疑心暗鬼を起こさせているのです。私は清水義範の指摘を受けて、そのことに初めて気がつきました。この構造を念頭に、少しだけストーリーを振り返ってみます。

雇い主の叔父さんは、なぜ何がおこっても連絡はしないようにと、念押ししたのでしょうか。ヘンリー・ジェイムズは冒頭でいきなり、主人公の「わたし」を不可思議な物語のなかに放り投げました。20歳のうぶな家庭教師は、叔父さんにほのかな恋情を覚えます。そしていかなる過酷な環境であろうと、叔父さんのためにこどもたちを教育しようと決心します。

「わたし」は天使のように見えていた2人のこどものなかに、邪悪なものが潜んでいることを知ります。彼らは幽霊から、何らかの指令を受けていると想像します。そして幼い2人がみだらな性の洗礼を受け始めているとも考えます。何としてでも、こどもたちを幽霊から隔絶しなければなりません。ところが「わたし」の熱い思いをあざ笑うかのように、こどもたちの異常なふるまいがエスカレートしていきます。

本書に関しては、さまざまな評論があります。たとえば本当は幽霊など存在していなかった、という説。雇い主から「何があっても」と強調されたことにより、「わたし」は邸に何かが潜んでいると妄想をたくましくした結果である。あるいは幼い兄妹は、死んだ元馭者と家庭教師の現し身である、という説。さらに「わたし」には性的コンプレックスがあり、児童に対して異常な関心があるという説。

乱れ飛ぶ憶測に、ヘンリー・ジェイムズはしてやったりと思っていることでしょう。上滑りな会話。曖昧模糊とした心理描写。唐突なエンディング。これらのすべては、ヘンリー・ジェイムズが意図的に仕掛けた罠です。家庭教師は善であったり、悪であったりと評価は両極端にわかれます。

――難解を極めるジェイムズの作品の中でも、この中編ほど多様な読み方、というか、基本的なレヴェルで両極端の読み方を可能にするものは他にはなく、それがこの作品の魅力である。(知っ得『幻想文学の手帖』学燈社P122)

「ねじの回転」というタイトルの意味は、本文中に説明がなされています。しかし私にはヘンリー・ジェイムズが読者に、「ねじをあとひとひねりしてごらん。そうすると物語の深部に届くから」とささやいているように聞こえます。
(山本藤光:2012.09.04初稿、2018.02.22改稿)