山本藤光の文庫で読む500+α

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トルストイ『アンナ・カレーニナ』(全4巻、光文社古典新訳文庫、望月哲男訳)

2018-03-14 | 書評「タ行」の海外著者
トルストイ『アンナ・カレーニナ』(全4巻、光文社古典新訳文庫、望月哲男訳)

青年将校ヴロンスキーと激しい恋に落ちた美貌の人妻アンナ。だが、夫カレーニンに二人の関係を正直に打ち明けてしまう。一方、地主貴族リョーヴィンのプロポーズを断った公爵令嬢キティは、ヴロンスキーに裏切られたことを知り、傷心のまま保養先のドイツに向かう。(「BOOK」データベースより)

◎扉の文章を念頭に

新訳が出たので再読しました。その間にビデオ(主演・キーラ・ナイトレイ)を観ていましたので、アンナの顔が瞼にちらついて離れませんでした。

『アンナ・カレーニナ』(全4巻、光文社古典新訳文庫、望月哲男訳)は、主に寝床で読みつなぎました。約3カ月の長丁場でしたが、十分に堪能できました。

ビデオを観ていてよかったのは、社交界の華やかな場面がくっきりとイメージできる点でした。おそらく活字だけたどっても、たとえばダンスの場面など、鮮やかにイメージできなかったと思います。最近の電子書籍は、不明な単語を瞬時に検索できます。イメージしにくい場面が、映像で飛び出してくれればいいのにと思います。

それほど『アンナ・カレーニナ』には、きらびやかな舞台がたくさん登場します。ストーリーは意外に単純です。ただし第1巻の扉に書かれている文章を、ずっと記憶にとどめておかなければなりません。

――「復讐するは我にあり、我これを報いん」
(「ローマの信徒への手紙一二-一九」の主の言葉より)

その点についての解説があります。紹介させていただきます。

――彼女が「姦淫するなかれ」という神の掟に背いたという事実に変わりがない。最後には嫉妬やヴロンスキイへの不信によって絶望し、自らの命を絶つことになるのは、カレーニンや社交界が彼女を裁くのではなく、冒頭の題辞にもあるように神が裁くのである。(『世界文学101物語』高橋康也・編、新書館P121)

ただしまったく異なる見識もあるので、それを併記させていただきます。

――西洋近代の恋愛観の源流となったトゥルバドゥール(南欧の宮廷詩人)の詩学によれば、騎士が愛を捧げる相手は必ず既婚婦人でなければならず、結婚の枠の中に丸く収まるような愛は文学の対象とはならなかった。(沼野充義・文『世界文学のすすめ』岩波現代文庫P272)

沼野充義はこう書いたうえで、本書は並の不倫小説ではないと結びます。その理由として、

――ここには、ペテルブルグの社交界から、田舎での農作業にいたるまで、リアルなディテールに裏打ちされたロシア社会の見事なパノラマがあるし(その意味ではこれは「社会小説」である)、性愛や家庭生活の意味、そして人間の生と死に関するトルストイの苦しい思索の跡もくっきりと刻印されている(その意味では「粗相小説」と言えるだろう)。(同書P272)

と説明しています。

◎ストーリーをたどると

中沢けいの著作に『書評・時評・本の話』(河出書房新社)という分厚い一冊があります。なんと総ページ数720というものです。本書には索引がありませんので、私は自作の索引を作ったほどです。そのなかで中沢けいは、次のように書いています。

――翻訳物を読むことをそれまで苦手としていた。特にロシア文学は登場人物の名前が苦手であった。が、これを全巻読み通したことを境に翻訳を読む苦が減った。(同書P75)

私も同感です。本書は登場人物が多くなく、核となる何人かを覚えてしまえば、すいすいと先に進むことができます。物語を理解するために、登場人物を整理しておきます。

アンナ・カレーニナ:カレーニナ夫人、男の子の母親
カレーニナ:アンナの夫。ペテルブルグの大物官僚
オブロンスキー:アンナの兄
ドリー:オブロンスキーの妻
キティ:ドリーの妹

この間に入りこんでくるのが、ヴロンスキーという若い軍人です。彼はキティと婚約しています。キティはリョーヴィンという貴族から求愛を受けますが、断ります。リョーヴィンはアンナの兄(オブロンスキー)の友人です。

リョーヴィンは、トルストイ自身の仮身だといわれています。物語の半分ほども占めるリョーヴィンについて、斎藤孝は次のように書いています。

――リョーヴィンという、気の利かない、ものごとを深く考え込む質の男。(中略)彼は農村に住んでいて、都市と農村を行き来しつつ、さまざまな価値観を交錯させながら人生について考える。(斎藤孝『クライマックス名作案内2』亜紀書房P135)

物語はモスクワ駅から一気に動きはじめます。アンナは兄(オブロンスキー)の浮気事件解決のために、モスクワ駅に降り立ちます。そこでペテルブルグ近衛騎兵隊大尉・ヴロンスキーと、運命的な出会いをします。2人はペテルブルグの舞踏会で再会し、瞬く間に愛し合うようになります。2人の仲は社交界でも噂になります。

ある日競馬が催され、アンナは落馬するヴロンスキーを目の当たりにして、大いに取り乱します。夫(カレーニナ)は世間体をおもんばかって、そんなアンナをたしなめます。

キティはヴロンスキーにフラれて、傷心で療養のためにドイツへ行きます。そんなときアンナは、ヴロンスキーの子どもを身ごもります。そしてそのことを夫に告白し、離婚を求めます。
夫はそれを拒否します。アンナは家を出て、ヴロンスキーのもとに身を寄せます。2人は結婚したいのですが、アンナの離婚が成立しないために認められません。

同棲したのち、アンナは少しずつ違和感を覚えはじめます。結局アンナの選んだ最後の道は、列車への投身自殺でした。ここまでのストーリーは、多くの方がご存知のことと思います。

◎たくさんの書評

『アンナ・カレーニナ』については、たくさんの書評が発表されています。私の机上には26冊の文献が積んであります。

――『アンナ・カレニナ』が、大小説である所以は、そこに描かれたカレニナ夫人の心理が心理学者の端倪を許さぬが為ではない。(中略)そこに彼女が肉体をもって行動する一性格として見事に描かれているが為である。(小林秀雄『全文芸時評集・上巻』講談社文芸文庫P52)

『アンナ・カレニーナ』は、世間体を重んじて見ないふりを続ける夫と、激情にかられて不倫に走る妻という構図が柱です。不倫が露見して、アンナに仲裁を求めた兄のためにモスクワに降り立った彼女は、そこで同様の不倫の種を拾います。兄の家庭は大騒動が勃発していますが、アンナの不倫を夫は黙殺します。

私にはカレーニナ氏の存在が、強いインパクトで残りました。どこにでもいる小心で実直な男。本書の主人公をカレーニナ氏として読むと、また違った印象の物語になります。

最後に本書を読むときのルールについて触れた文章を紹介させていただきます。

――話の展開のスピード、という点から言えば、今の感覚からすると確かに遅い。描写はくどいし、人々の動きは、肉体的な動きも精神的な動きもずっとおっとりしている。けれどそれはつまり馬車の速度と車の速度の違いであり、手紙と電話の速度の違いであるだけで、圧縮すると同じになってしまうと思います。(池澤夏樹『世界文学を読みほどく』新潮選書P101-102)

世界的な大作は、現代社会においても色あせてはいません。今回新訳を再読してみて、やはり『アンナ・カレニーナ』はフローベール『ボヴァリー夫人』(新潮文庫、文庫で読む500+α推薦作)とともに、純愛小説の傑作だと思いました。
(山本藤光2016.04.11初稿、2018.03.14改稿)


ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(全5巻、光文社古典新訳文庫、亀山郁夫訳)

2018-03-13 | 書評「タ行」の海外著者
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(全5巻、光文社古典新訳文庫、亀山郁夫訳)

父親フョードル・カラマーゾフは、圧倒的に粗野で精力的、好色きわまりない男だ。ミーチャ、イワン、アリョーシャの3人兄弟が家に戻り、その父親とともに妖艶な美人をめぐって繰り広げる葛藤。アリョーシャは、慈愛あふれるゾシマ長老に救いを求めるが……。(アマゾン内容紹介より)

◎未踏の霊峰への最後の挑戦

 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(全5巻、光文社古典新訳文庫、亀山郁夫訳)をついに読破しました。若いころから挑みつづけて、挫折をくりかえした未踏の霊峰です。ずっと読まなければならないと思っていましたが、第1巻の先にあるベースキャンプにすらたどり着けない状態でした。

本書への挑戦は、年齢的にもこれが最後だと思っていました。大学ノートを買ってきました。徹底的にメモをとりながら読む。そう決めました。写本ではないのですが、登場人物と舞台の描写はすべて書き写す。1日に小見出しを1つ分(約20ページ)を読み進める。自分自身に2つの課題をあたえました。課題をあたえたというよりは、退路をふさいだのかもしれません。
 
 ドストエフスキーの5大小説(『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』)といわれる作品は、すべて書棚で色あせて沈黙していました。いずれも世界文学全集の端本です。最も古い蔵書は、『ドストエフスキー全集6・罪と罰』(1936年筑摩書房)でした。奥付のところにスミレの押し花があり、しおりは176ページのところにはさまれていました。全体の3分の1のところで、呼吸困難におちいったのでしょう。押し花は昔の彼女が読んだ痕跡だと思います。しかし彼女が読破したのか否かは、定かではありません。『カラマーゾフの兄弟』(「世界文学全集19」集英社)には、読んだという痕跡すらありませんでした。

◎サマセット・モームに背中を押され

どの作品から読むべきかと迷いました。そんなときに、W.S.モーム『世界の十大小説』(上下巻、岩波文庫)を読みました。『トム・ジョーンズ』『高慢と偏見』『赤と黒』『ゴリオ爺さん』『ディヴィッド・コパーフィールド』(上巻で紹介されています)と並んで、『ボヴァリー夫人』『モウビー・ディック(白鯨)』『嵐が丘』『戦争と平和』そして『カラマーゾフの兄弟』が下巻で紹介されていました。

 大好きなモームが薦めています。単純な動機で『カラマーゾフの兄弟』を選びました。第1巻には、24見出しがつけられています。予備日を入れて、ほぼ1ヶ月で読み終えることを、ささやかな目標としました。
 
『カラマーゾフの兄弟』は、難解な作品ではありませんでした。きわめて滑らかに、人間関係をとらえることができました。亀山郁夫の名訳のおかげだと思います。1日20ページのノルマを着実にこなしました。「ノルマ」で思い出しました。私たちは何気なく、「ノルマ」という言葉を使っています。これはドストエフスキーが操っている、ロシア語なのです。シベリアに抑留された日本人が、もちこんだ忌まわしい言葉というわけです。

 ドストエフスキーは空想社会主義者として官憲に逮捕され、死刑判決、特赦、シベリア流刑を体験しています。ノルマとは、「ソ連時代の制度で、労働者が一定時間内に遂行すべきものとして、わりあてられる労働基準量。賃金算定の基準となる」(「広辞苑」より)という意味です。1日20ページという私の読書法は、まさに「ノルマ」なのかもしれません。

◎登場人物の息遣いが聞こえた
 
 私は併読主義なので、ほかに4冊の本を併読していました。小説3冊とエッセイ1冊。読んでいて、作品としての格の違いを実感させられました。冷凍餃子を解凍し、フライパンで調理しただけ。併読中の著者たちには申し訳ないのですが、構成力、表現力、物語の展開、人物描写、社会背景などが貧相きわまりないと思いました。『カラマーゾフの兄弟』には、まったく別格の戦慄をおぼえました。心底「すごい」と思ったものです。
 
 ページをくくるのが楽しみでした。登場人物の息づかいが、間近に聞こえました。この時点で、これまでに読んだなかでは、ナンバーワンの小説だと思いました。ゆったりとした、それでいて研ぎ澄まされた小説です。もっと早くに読んでおけばよかった、と後悔させられました。長いことトップに鎮座していた「これまで読んだ作品のベストワン・安部公房『砂の女』の位置を、ちょっぴりと横にずらすことになりました。

『カラマーゾフの兄弟』第1巻は、ちょうど1ヶ月で読み終えました。最後のページを閉じて、ため息をつきました。巻末に翻訳者・亀山郁夫の「読書ガイド」が掲載されています。翻訳力の優劣を語る資格はないのですが、読者目線の解説には好感をもちました。愛しているのだな、この作品をとも思いました。

 あたかも食後のデザートを提供されたような、さっぱりした味わいでした。料理の味をそこなわないようなデザート。亀山郁夫はデザートにまで気配りできる、一流シェフでした。これまでに何人の翻訳家が『カラマーゾフの兄弟』に挑んできたのかはわかりません。亀山郁夫の解説も翻訳も、私には満足のゆくものでした。

◎シェルパーに励まされて

第1部に圧倒されて、第2部、第3部と読み進めました。相変わらず一気読みはしていません。1日20ページ前後のきめごとを堅実に守り、満たされた気持ちで読書を堪能しました。

大学時代に何度も挑戦した、神秘の巨峰でした。これまでは途中で滑落するか、あえぎあえぎ引き返していました。それが呼吸も乱れず、粛々と歩を進めることができました。登山計画がうまくいったのだろうと思います。これまでの読書は焦りすぎていました。読書の目的も不明瞭でした。

 ドストエフスキーを満喫したい。着実に前進する。裾野で見上げる仲間たちに、感動を伝えられるように呼吸を整える。そのために「読書ノート」を用意していました。ドストエフスキーに関する資料を読みあさりました。 

 斉藤孝『ドストエフスキーの人間力』(新潮文庫)や加賀乙彦『小説家が読むドストエフスキー』(集英社新書)が、シェルパーの役割を担ってくれました。

――フョードルは、これ以上はないというほど好色男だ。しかも光源氏のように、洗練された優男とは全く対照的なスケベ男だ。(斉藤孝『ドストエフスキーの人間力』新潮文庫、P214より)

――フョードルはどんな人物かというと、(中略)要するに、全体的に「だぶだぶ」していて、それが「いやらしい淫乱な相を与える」という。これだけでもフョードルの性格がわかります。全然しまらない、太った男。大喰らいで酒飲みなものだから太っている。フョードルはたいへんな金持ちですが、子供たちの養育については、ほったらかしです。そこで子供たちに恨まれ、疎まれている。(加賀乙彦『小説家が読むドストエフスキー』集英社新書、P159より)

自分の理解、イメージとシェルパーのものを重ねてみます。そうすることで、読書中のカラマーゾフ家の父親・フョードルの人物像がよりくっきりとすることになります。
日本の古典を読むときはかならず、「入門書」を併読することにしています。わかったつもりの読み流しを避けるためです。『カラマーゾフの兄弟』のような長編小説を読む場合は、シェルパーをつけることをお薦めしたいと思います。

◎なぜ、カラマーゾフ「の」なのか

『カラマーゾフの兄弟』は、1860年代のロシアの地方都市が舞台です。第1部ではカラマーゾフ一家について、詳しく紹介されています。

 タイトルの不思議について、ふれてみたいと思います。池澤夏樹『世界文学を読みほどく』(新潮選書)は、私の疑問に答えてくれています。なぜ「カラマーゾフの」と「の」が入っているのか? 兄弟3人について書くのなら、「の」はいらないはずです。「の」が入っているということは、「カラマーゾフ家」にウエートがおかれているからです。

 つまり主人公は3兄弟だけれども、そんじょそこらの兄弟とはちがうと、タイトルが語っているのです。これが『カラマーゾフの兄弟』のおさえどころです。カラマーゾフ家にアンテナを張っておきましょう。

 カラマーゾフ家の主は、フョードル・カラマーゾフといいます。この男は酒飲みで、女癖が悪い。ほしいものならなんでも手にいれる、旧ロシアの代表的な地主です。彼は独特の無神論者であり、自らの肉体の衰えを意識しはじめています。詳細については、前項の引用のとおりです。

 フョードルには3人の息子がいます。長男はドミトリー(ミーチャ)といい、熱しやすく冷めやすい単純なタイプです。軍隊から戻ってきたばかりの彼には、カテリーナという、知的な美人の婚約者がいます。カテリーナの父親は中佐で、横領事件のときにドミトリーに助けてもらっています。

◎カテリーナが送金した3千ルーブル
 
 カテリーナの存在が、おさえどころの第2点です。彼女とドミトリーの婚約は、足元が定まらぬふわふわした状態にあります。ドミトリーは老商人に囲われていた妖艶なグルーシェニカに、心を奪われてしまっています。グルーシェニカに対しては、父のフョードルも熱をあげています。
 
父親からの生前遺産まで遣い果たしたドミトリーは、カテリーナがモスクワへ送金しようとしていた3千ルーブルまでかすめとってしまいます。長男・ドミトリーは、金遣いが荒く、物事を自ら解決しようとする姿勢はありません。猪突猛進タイプに描かれていますが、ところどころに詩的な情緒が見え隠れしています。
 
 カラマーゾフ家の次男は、イワン(ワーニャ)といいます。彼は背信論者ですが知的な理論をもっており、父親の無神論とはまったく異なります。第1部では、イワンのあつかいは希薄でした。後述しますが、彼の追い求めている理論は、修道院のゾシマ神父とは相容れないものです。イワンは長男の婚約者・カテリーナに恋情を寄せています。
 
 第1部ではほぼ主役的な位置づけの3男・アレクセイ(アリョーシャ)は、町の修道院で修行をしています。彼は清純な性格で、父や兄を愛しています。アレクセイは修道院の長老・ゾシマを尊敬しており、ゾシマから愛されてもいます。

 ここまでが、カラマーゾフ家の、父親と3人兄弟のレビューです。本書は通勤通学電車の中で読んではいけません。じっくりとメモをとりながら、集中してもらいたいものです。

 いまは1ロシアンルーブルは、3.10円のレートです。カテリーナが送金しようとした当時の3千ルーブルとは、どのくらいの貨幣価値だったのでしょうか。当時のロシアは、どんな世のなかだったのでしょうか。時間があれば、そんなことも学んでみたいと思います。ドストエフスキーが信奉していた空想的社会主義とはなにか。シベリアでの服役を終えたドストエフスキーが熱心に学んだキリスト教人道主義とはなにか。調べてみたいことがたくさんあります。

 すでにカラマーゾフ家について、紹介させてもらっています。カラマーゾフ家には、グリゴリーという下男と、妻のマルファが同居しています。そして2人に育てられた、スメルジャコフという若者が料理人として住みこんでいます。スメルジャコフは人間嫌いですが、イワンの思想を崇拝しています。
 
 ある日、カラマーゾフ一家全員と親戚のミウーソフが、修道院のゾシマ長老を訪ねます。一家が抱える難問を、会合により解決しようというのがフョードルのねらいでした。会合は国家や教会をめぐる長い議論や父親の道化ぶり、遅れてやってきたドミトリーの狼藉などで、解決の糸口さえつかぬまま終わってしまいます。

◎ドストエフスキーはカトリック嫌い
 
 文芸評論家の多くは、ドストエフスキーの哲学に注目しています。でも素人読者は、面倒で高尚なやりとりを流してしまうしかありません。ただしおさえておきたいことがあります。これが3番目のポイントです。
 
 どの「ドストエフスキー論」を読んでも、「ドストエフスキーは大のカトリック教ぎらい」であったとあります。少しだけ宗教について、ふれておきたいと思います。この知識があれば、カラマーゾフ家の激しい議論に、少しは入りこめると思うからです。

――カトリックの思想では、「奇跡」が非常に重要な位置を占めています。足が不自由で動けない者の足に触れたら立ち上がって歩いたとか、その種のことです。(池澤夏樹『世界文学を読みほどく』新潮選書より)

――ロシア正教会の歴史で、ドストエフスキーがもっとも重大な関心を払ったのが、十七世紀半ばに起こった教会分離である。(中略)ドストエフスキーは、正教会から独立した人々を小説の中に取り込むことで、ロシアの精神生活にひそむ、本質的にラディカルな特異性を明らかにしようとした。(『カラマーゾフの兄弟1』光文社古典新訳文庫、「亀山郁夫あとがき」より)
 
 さらに当時のロシアの社会問題について、理解しておかなければなりません。ドストエフスキーという作家の特質を、語っている文章を紹介します。
 
――ドストエフスキーは時代の動きと、同時代の問題に特に敏感な作家であった。現実の問題をいかに小説にまとめあげるか、また小説の中でこの問題をどこまで掘り下げるか、それが彼にとっては問題なのである。(『ドストエフスキー全集6・罪と罰』筑摩書房・訳者小沼文彦のあとがきより)

 当時のロシアは飲酒と無軌道な少年犯罪が、社会問題となっていました。1861年農奴開放以降は、貴族たちから権限を奪い、中間階級の人々がが変革の担い手になってゆきます。社会は混沌としており、青少年はそのはざまに取り残されてしまっています。

 というわけで、感動の第1部は終わってしまいました。私のようにちゅうちょしている人がいたら、騙されたと思って第1部だけでも読んでもらいたいと思います。

 第2部(2巻)からは、これまで主役だったカラマーゾフ一家に関する記述が激減します。かわりに脇役だった人物に、スポットライトがあたります。私は第2部を読みはじめて、1日20ページという設定がわずらわしくなってしまいました。
 
 脇役のなかでもっとも中心になるのは、「スメルジャコフ」というカラマーゾフ家の召使です。24、5歳くらいで、ひどい人間嫌いです。彼はフョードルの隠し子であるともいわれています。ばらばらなカラマーゾフ一家に、寄り添うように登場する彼は、不快な臭気を散りばめます。
 
 詳しくは書きませんけれど、第2部から第3部へはいくつもの支流から、薄汚れた思惑が一気に流れこみます。特にスメルジャコフとイワンとのかかわりに、注目しておいてもらいたいと思います。この流れは他の水と混じりあうことなく、汚物を運びつづけるのです。

◎生涯読書の最高峰

 サマセット・モームは前記のように、「世界の十大小説」として、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』をあげています。W.S.モーム『世界の十大小説(下)』(岩波文庫)には、長文の論評が掲載されています。ひとつだけ引用しておきたいと思います。
 
――ドストエフスキーがしばしば用いる一つの手のあることを言っておこう。それはこうである。彼が描く人物は、それぞれが口にする言葉とは釣り合いがとれぬほど興奮する。顔を赤らめる。顔色が青ざめる。さらには恐ろしいまでに蒼白になる。そして何でもないごく普通の言葉にも、読者には容易に説明のつかない意味が付けられているので、いま言ったような常軌を逸した挙動や病的な感情の激発に接して、読者は次第に興奮をおぼえ、ついには神経が極度に高ぶってきて、そうでなければ、ほとんど心の動揺をおぼえないでしまうようなことが起こっても、容易に心底から衝撃を感じてしまうのである。(本文P225より)

 ドストエフスキーにふれた文章は、数多くあります。つぎに紹介する一文などは、その典型です。まだまだドストエフスキーの世界は、広く深いのだなと痛感させられます。ドストエフスキーがカトリック、とりわけイエズス会を嫌いました。それなら彼は、歌舞伎を絶対に評価しないだろうな。そんなことを考えてしまったほどです。
 
――イエズス会演劇は、バロック演劇の一分派。バロック演劇では、名誉とか、復讐とか、陰謀とか、裏切りとかが重要なモチーフになる。歌舞伎も同じ。(丸谷才一『思考のレッスン』文春文庫P220)

 私の生涯読書のなかで、最高傑作が『カラマーゾフの兄弟』でした。なんとしてでも、読んでいただきたいと思います。おおげさにいえば、「これを読まずして死ねるか」と結んでおきます。

 読後になおもやもやしたものがあるなら、江川卓『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』(新潮選書)をお薦めします。
(山本藤光:2014.06.04初稿、2018.02.01改稿)

ドストエフスキー『罪と罰』(上下巻、新潮文庫、工藤精一郎訳)

2018-03-13 | 書評「タ行」の海外著者
ドストエフスキー『罪と罰』(上下巻、新潮文庫、工藤精一郎訳)

鋭敏な頭脳をもつ貧しい大学生ラスコーリニコフは、一つの微細な罪悪は百の善行に償われるという理論のもとに、強欲非道な高利貸の老婆を殺害し、その財産を有効に転用しようと企てるが、偶然その場に来合せたその妹まで殺してしまう。この予期しなかった第二の殺人が、ラスコーリニコフの心に重くのしかかり、彼は罪の意識におびえるみじめな自分を発見しなければならなかった。(「BOOK」データベースより)

◎追い詰められた状況下で

保坂和志は、著書『小説の自由』(中公文庫)のなかで、『罪と罰』はドストエフスキーが新聞で見つけた小さな殺人事件の記事から生まれたと書いています。その小さな記事に、神や魂や信仰や救済という衣をつけて、つくりあげた作品だとつづけています。

ドストエフスキーが『罪と罰』を書いたころは、精神的に極端に追い詰められた状態でした。そのあたりについて、書かれている文章を紹介させていただきます。

――ドストエフスキーの三大小説の一つである『罪と罰』は、1864年の妻と兄の死、雑誌経営の失敗などで、以後数年、莫大な借金を背負い、海外逃避と波乱の生活が続き、精神的にも経済的にも困難な状況で書き上げられた、窮迫のなかで生まれた傑作である。(三浦朱門・編『読んでおきたい世界の名著』PHP文庫)

ドストエフスキーは、以降『悪霊』(1871年)、『カラマーゾフの兄弟』(1880年)へと書きつなぎます。作品を包みこむ衣に変化はありませんが、作風は次第に明るさを増してゆきます。私は
『カラマーゾフの兄弟』(全5巻、光文社古典新訳文庫、亀山郁夫訳、「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作)から入って、最後に『罪と罰』にたどりつきました。

結果的にこの順序は、正解だったようです。いきなり『罪と罰』を読んでいたら、ドストエフスキーの他の作品には手出ししなかったかもしれません。それほど『罪と罰』は重苦しい作品で、さわやかな読後感とは無縁の作品でした。

奥泉光(推薦作『シューマンの指』講談社文庫)は『私が選んだベスト3』(ハヤカワ文庫、丸谷才一・編)のなかで、ドストエフスキーの3作品をとりあげています。浪人時代の暗澹たる状況下にふさわしい作品であった、と書いているのもうなづけます。

◎ナビゲーターはこう読んでいる

ストーリーの紹介は、前掲の「BOOKデータベース」に譲ります。そのかわり何人かの『罪と罰』に寄せる言葉を紹介させていただきます。

――私たちはこの小説を読みながら、その青年(引用者注:残虐な殺人鬼・ラスコーリニコフ)を憎み嫌悪する気持ちにはなれない。むしろ彼が司直の手に追いつめられてゆくのを、ハラハラしながら見守るのである。当時のロシアの読者のほとんどがそうだったのではないか。(五木寛之『世界文学のすすめ』岩波文庫別冊、大岡信ら編)

――この小説の中心になるのは、一つの犯行の場面です。ばあさんを殺す場面。それからソーニャに告白する場面。もう一つ、実は、ボルフィーリィっていう予審判事とラスコーリニコフが丁々発止の対話をやる。刑事コロンボと犯人との対話みたいな。ああいうところは実にうまい。(加賀乙彦『小説家が読むドストエフスキー』集英社新書)

――ドストエフスキーは偉大な作家ではなくてむしろ凡庸な作家であり、時たま絶妙なユーモアの閃きはあるとしても、悲しいかな、閃き以外の場所は大部分が文学的決り文句の荒野である。『罪と罰』のラスコーリニコフは何らかの理由から質屋の老婆とその妹を殺す。情け容赦のない警察官という姿を借りて、正義は彼を徐々に追いつめ、追いつめられたラスコーリニコフは、結局、公衆の面前で罪を自白し、気高い娼婦の愛によって精神的再生へと至る。(ウラジーミル・ナボコフ『ナボコフのロシア文学講義・上巻』河出文庫)

――『罪と罰』の娼婦ソーニャは、自分の親しい友だちリザヴェータを殺したのがラスコーリニコフであることを知ったとき、すぐに、「リザヴェータは赦してくれるわ、赦してくれますとも。わたしにはわかるわ」と言います。自分の親友を殺された怒りも殺人者にたいする償いの要求もないのです。(中村健之介『ドストエフスキーのおもしろさ』岩波ジュニア新書)

――ラスコーリニコフが「復活」したかどうかの客観的な証はまったくないにもかかわらず、それについての「暗示」は小説に提示されている。(亀山郁夫『ドストエフスキー・謎とちから』文春新書)

『罪と罰』を読み終えてから、数10冊もの関連本を読みました。最後に、江川卓『謎とき罪と罰』(新潮選書)が永年の疑問に解決をあたえてくれたことを付記しておきます。

本書のタイトルですが、本来なら罰は罪にたいして課せられるものですから、「罪にたいする罰」となるべきだと思います。なぜ罪と罰が対等の関係、「と」で結ばれているのでしょうか。江川卓『謎とき罪と罰』は、「甘いなそんな読み方では」と多くのことを教えてくれました。

「山本藤光の文庫で読む500+α」は1作家1作品の紹介を原則としています。しかし『罪と罰』は絶対にはずせないので、「+α」としてリストに加えさせてもらいました。引用ばかりになりましたが、識者の声をお届けさせていただきました。
(山本藤光:2014.08.09初稿、2018.03.13改稿)

ディヴィッド・トーマス『彼が彼女になったわけ』(角川文庫、法村里絵訳)

2018-03-11 | 書評「タ行」の海外著者
ディヴィッド・トーマス『彼が彼女になったわけ』(角川文庫、法村里絵訳)

抜歯の手術で入院したブラッドリーが、麻酔から覚めると…なんと患者取り違えによって性転換手術をされていた! 25歳の平凡な男だった彼が、世界中のマスコミに追いかけられるは、男に襲われるはの大椿事。男でもなく女でもないブラッドリーに、金儲けを企む族が群がる。さらに、頼みのガールフレンドの気持ちまで、恋から好意へ…。次々に降りかかる珍事件を乗り越え、彼はプライドと愛を取りもどすことができるのか!? 彼の人生の選択と幸福の条件とは? ヨーロッパ中を哀しさとおかしさに沸かせた大逆転ストーリー。(「BOOK」データベースより)

◎注目のデビュー作 

小説の巻頭でいきなり、「事件」が明らかにされます。作品は主人公の日記形式になっています。したがって読者は、経時的に事件後の主人公の心痛を知ることになるのです。

事件の舞台は、聖スウィジン病院です。事件とは患者取りちがえ。主人公のブラットリー・バレッタは25歳の広告販売会社の営業マンです。彼は4本の親知らずを抜くために、病院へやってきます。
 
ひょんなことから、彼は性転換手術を受けにきた男性と取りちがえられ、ペニスを切断されてしまいます。病院のベッドで麻酔から覚めた主人公は、自らの信じられない境遇に度肝をぬかれます。

――目を下の方にむけてみた。腕に点滴の針がささり、股間からも管が二本出ている。包帯が巻かれた部分をエジプトのミイラよろしく、きっちりと巻いてある。(本文より)

胸にシリコンを入れられ、ペニスの代わりに膣までつくられてしまった主人公。彼(彼女)がいかにして、女になってしまったことを受け入れるのか。この小説の面白さは、この1点につきます。忌まわしい過去の患者取りちがえ事件、揺れる現在、そして見えない未来を行きつ戻りつしながら、主人公は少しずつ現実を受け入れていきます。

題名の『彼が彼女になったわけ』は、私なら『彼が彼女になってから』としたいと思います。なぜなら、彼が彼女になった「理由(わけ)」は明白です。物語はその後の葛藤に、ポイントがおかれているのですから。

◎女になることの困難さ

男が女になるというのは、なんと大変なことなのでしょうか。本書はそのことを、執拗に描きつづけます。女になるために必要な化粧品類の値段を計算する場面があります。たとえばこんな具合です。

――そして、その値段がまた信じられないほど高いのだ。ひと瓶三十八ポンドなんて言う、特別注文品のファンデーションクリームもあった。クリスチャンディオールのアイシャドウは、一色二十六ポンド。ヒップと太腿用の老化防止ジェルが二十八ポンド。/「お尻のために二十八ポンドも払うわけ? 冗談としか思えないよ!」(本文より)

――「ビックリだね」電卓の文字盤に現れた緑色の数字を見て、わたしが言った。「女になるための政府助成金制度というのがあってもいいんじゃない?」(本文より)

作品には、多くの登場人物が出てきます。ブラッドリーの元ガールフレンド。ペニスを切断した医師。騒ぎ立てるマスコミ対策を引き受けた代理人。ブラッドリーの家族。病院との補償問題を担当する弁護士。彼女になった主人公が好意を抱く男たち……極端な人物はでてきません。

もっと脇役の性格を丹念に書くべきだともいえますが、異常な事件と平凡な登場人物たちで、案外バランスがとれているのかもしれません。

後半の法廷でのやりとりは、底が浅く不満が残りました。しかしこれらのことも、本書が著者のデビュー作であることを鑑みるなら、許せる範囲でもあります。

著者のディヴィッド・トーマスは、生年も本名も不明です。わかっていることは、本書がデビュー作であることだけです。わかっている情報は、英国サセックス在住であること。雑誌の編集者を経てジャーナリストに転進し、数々の賞を受賞していることだけです。

ディヴィッド・トーマスにかんしては、これ以上の情報はありません。アマゾンで調べてみても、新たな出版は発見できませんでした。タイトルに惹かれて読んだ作品ですが、いまだに海外文学125+αに残しているほど、楽しませていただいた1冊です。
(山本藤光:2009.08.25初稿、2018.03.11改稿)


フイリップ・K・ディック・『ユービック』(ハヤカワ文庫SF、浅倉久志訳)

2018-03-09 | 書評「タ行」の海外著者
フイリップ・K・ディック・『ユービック』(ハヤカワ文庫SF、浅倉久志訳)

一九九二年、予知能力者狩りを行なうべく月に結集したジョー・チップら反予知能力者たちが、予知能力者側のテロにあった瞬間から、時間退行がはじまった。あらゆるものが一九四〇年代へと逆もどりする時間退行。だが、奇妙な現象を矯正するものがあった――それが、ユービックだ! ディックが描く白昼夢の世界。(早川書房案内)

◎PKD総選挙第1位

ハヤカワ文庫『ユービック』の帯コピーには、「PKD総選挙第1位」という文字が、でかでかと踊っています。読者が選んだ、フィリップ・K・ディックの作品の「栄光のセンター」なる文字もあります。「PKD」がフィリップ・K・ディックの頭文字だとは、思わず笑ってしまいました。

なるほど本書は、これまでに読んでいた『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』や『高い城の男』(ともにハヤカワ文庫SF)をしのいでいます。読者投票第1位なのは、十分に納得できます。

三浦雅士は『私の選んだ文庫ベスト3』(丸谷才一編、ハヤカワ文庫)のなかで、PKDを選んでいます。とりあげた作品は、『ヴァリス』(創元SF文庫)と『ユービック』『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』でした。そのなかで三浦雅士は『ユービック』について、「夢の中の夢というだけでも混乱するが、それに他人の夢までまじりこむ。夢の破片。現実の破片が散乱する世界だ」と書いています。三浦雅士は「SFが好き」で、ブラッドベリ、バラード、ヴォネガットを読んで、ディックまできた」とも書いています。

『SFマガジン』(2012年9月号)が、「この20人、この5作」という特集をしたことがあります。三浦雅士が読んできた作家に、私が選んだ作家を加えてレビューしてみます。

アイザック・アシモフ:われはロボット/銀河帝国興亡史/鋼鉄都市/永遠の終り/ミクロの決死隊
フィリップ・K・ディック:高い城の男/アンドロイドは電気羊の夢を見るか?/ユービック/スキャナー・ダークリー/アジャストメント
カート・ヴォネガット:プライヤー・ピアノ/タイタンの妖女/猫のゆりかご/スローターハウス5/国のない男
シオドア・スタージョン:夢見る宝石/人間以上/海を失った男/不思議のひと触れ/輝く断片
J・G・バラード:結晶世界/ヴァーミロオン・サンズ/クラッシュ/太陽の帝国/人生の奇跡
コニー・ウィリス:わが愛しき娘たちよ/ドゥームズディ・ブック/犬は勘定に入れません/航路/最後のウィネベーゴ

 なにやら全員を書きだしそうになります。ここでやめておきます。

◎常識思考を振り落す

『ユービック』を読むときの心がまえは、常識という雑念を振り払っておくことです。

人間は、生まれ、死ぬ。この概念のあいだに「半生」という場外があります。人間は死んだ直後に的確な冷凍保存をすると、「半生者」となります。彼らは「生者」の求めにたいして、意志を語ることが可能な領域にいます。これがおさえどころの1つ。

2つめは、時間は過去、現在、未来とは流れないということです。「時間退行現象」というものがあり、なにかの拍子に現在が過去へと転換してしまいます。

さらに世の中には、うじょうじょと「超能力者」がいて、彼らと対抗するような「反・超能力者」も存在します。

舞台は1992年。主人公のジョー・チップは、ランシター合作会社に勤めています。超能力者の予知能力を奪う「(反)超能力者」から超能力者を守るのが仕事です。本書では「不活性者派遣会社」と表現されています。この会社の社長はグレン・ランシターといい、妻のエラは半生者としてチューリッヒ安息所で冷凍保存されています。

ある日、月面でライバル社の「(反)超能力者」が集結しているとの情報がはいります。グレン・ランシター社長以下、闘いを挑むためにそこへ向かいます。それは敵の罠であり、ランシター社長は絶命します。

テロから逃れて地球に戻ると、時代は1939年にかわっていました。通貨も車も機械も古いものに戻っていました。ジョー・チップの同僚女性のひとりの肉体が、突然しなびて、やがて死んでゆきます。死んだはずのグレン・ランシターからのメッセージが、トイレの落書きやテレビコマーシャルとして現出します。この奇怪な現象を抑制するための唯一の手段は、「ユービック」と称する薬剤を手にいれることだけだと知らされます。仲間がつぎつぎとしなびて死んでゆきます。

◎フィリップ・K・ディックのこと

著者のことをまったく知らないままに、フィリップ・K・ディック作品を読んできました。今回「山本藤光の文庫で読む500+α」執筆にあたり、著者履歴を調べることにしました。

いくつかの資料からえたことを箇条書きしてみます。
・1928年2卵性双生児の兄として誕生。妹はすぐに死去。
・幼いころに両親は離婚。
・本人は5回の離婚。
・薬物中毒で入院。自殺未遂。
・晩年は神秘思想に傾倒。
・死去1982年。
・1982年死去の3か月後『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が別タイトルで映画化。名声の基盤をつくる。

ここまではおもに『SFマガジン』(2012年9月号)鈴木力氏の文章を参照させていただきました。

PKディック作品は、わずかに3冊しか読んでいません。したがってあまり語るべきことはないのですが、おもしろかったSF作品のなかの1冊として、『ユービック』を紹介させていただきます。
(山本藤光:2014.09.30初校、2018.03.09改稿)

トゥルゲーネフ『初恋』(光文社古典新訳文庫、沼野恭子訳)

2018-03-08 | 書評「タ行」の海外著者
トゥルゲーネフ『初恋』(光文社古典新訳文庫、沼野恭子訳)

16歳の少年ウラジーミルは、年上の公爵令嬢ジナイーダに、一目で魅せられる。初めての恋にとまどいながらも、思いは燃え上がる。しかしある日、彼女が恋に落ちたことを知る。だが、いったい誰に?初恋の甘く切ないときめきが、主人公の回想で綴られる。作者自身がもっとも愛した傑作。(「BOOK」データベースより)

◎『初恋』は「真実の話である」

トゥルゲーネフ『初恋』(光文社古典新訳文庫)は、ツルゲーネフという筆名の時代に読んでいます。昔は「トゥ」とか「ヴァ」などの表記は見かけませんでした。いまは逆に、ツルゲーネフ表記は消えつつあります。それはロシア語の音読みに近づけるための知恵なのですから、納得することができます。
 
しかし『はつ恋』と表記されると、翻訳者や出版社の見識が疑われます。なんだか焼肉屋のイメージがぷんぷんして、レモンの香がしてきません。新潮文庫は、なぜ「初」の字を避けたのか。購入していないので、その理由はわからないままです。
 
同じことですが、ヘッセ『車輪の下で』(光文社古典新訳文庫)を読んだときにも違和感を感じました。私たちは『車輪の下』でなじんでいます。訳者の言い訳が掲載されていましたが、そんなことで読後感がかわるはずはありません。出版社は古典文学のタイトルを、大切に考えてもらいたいと思います。簡単にいじってもらいたくないのです。
 
というわけで、10代に読んだ『初恋』に60代で触れ直してみました。いいな、と思いました。作品に気品があるのです。風化していないというか、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』(新潮文庫、「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作)とともに、後世の若者に残したい作品の代表格でありつづけていました。
 
トゥルゲーネフは『初恋』について、「真実の話である」と語っています。詳細については「文庫解説」に譲ります。初恋って、空想だけで描くと軽薄なものになります。むかしからいわれているように、切なく、ほろにがく、ちょっぴりと甘く……。そんなウソ話を書ける作家など存在しません。
 
ためしに、北上次郎編『14歳の本棚・初恋友情編』(新潮文庫)を読んでみてもらいたいと思います。逃げ腰で書いている作品ばかりですから。「初恋っぽい作品」と、編者の北上次郎も予防線を張っていたくらいです。
 
この作品集で不満なのは、伊藤左千夫『野菊の墓』(新潮文庫、「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作)が選ばれていないことでした。日本版で唯一共感できるのが、伊藤左千夫『野菊の墓』です。私の稚拙な読書経験でも、そう断言できます。
 
◎たちまちに一目惚れしてしまう

作品の構成は40歳代になった主人公が、2人の男ともだちに「初恋」時代の話を読んで聞かせる形になっています。トゥルゲーネフは読者が感情移入しやすいようにと、この形式を選んだのだと思います。私が再読した光文社古典新訳文庫について、翻訳家の鴻巣友季子は賛辞をのべています。

――古典の新訳を専門とする野心的な文庫が創刊された。一作ずつ、文体や人物造形などの点で新しい試みをとりいれているそうだ。なかでも、個人的に思い出深い『初恋』がとてもよかった。訳者の沼野恭子は、なぜ語り手が話を始めたかという点に着目し、だれかに話し聞かせる「です・ます調」で訳した。コロンブスの卵的転換で、柔らかな語り口に、少年の多感さや空回りの痛ましさが鮮明に感じられた。(鴻巣友季子『本の寄り道』河出書房新社P89より)

手記は主人公・ウラジーミルが、16歳のときの話です。1833年の夏ウラジーミルは、両親とモスクワの近郊の別荘にやってきます。彼は大学受験を控えており、勉強に明け暮れるはずでした。
 
ある日別荘の隣に、没落公爵・ザセーキナ夫人一家が引っ越してきます。ザセーキナ家には、ジナイーダという21歳の美しい娘がいました。垣根越しにジナイーダをみたウラジーミルは、たちまち一目惚れしてしまいます。
 
翌朝ウラジーミルは、引っ越してきたザセーキナ家に出向きます。歓迎の晩餐会の催しを、伝えるためです。その場でウラジーミルは、間近でジナイーダと対面します。そして彼女の部屋に誘われます。以降の進展については、ジナイーダのセリフをいくつか拾ってみます。
 
――私の顔を見てごらんなさい。どうして私のほうを見てくださらないの。(本文P27より)

――見られてもちっとも嫌じゃないの。あなたの顔、好きよ。私たち、いいお友達になれそうな気がするけれど、あなたは私のこと好きかしら?(本文P27より) 

――今日から少年侍従に取りたててあげましょう。忘れちゃだめよ。侍従っていうのは、ご主人様のそばを離れてはいけないんですからね。(本文P105より) 
 
ジナイーダには、とりまきの男が4人います。軽騎兵、詩人、医師、若い伯爵。ウラジーミルは彼らとの、恋の戦いに参戦することになります。しかしウラジーミルは、もてあそばれてしまいます。そのあたりの描写は秀逸です。
 
――ジナイーダがいないと胸がふさがり、何ひとつ頭に浮かんでもこなければ、何ひとつ手にもつかないというありさまです。明けても暮れても、ひたすらジナイーダのことばかり考えてしまいます。離れていれば身を焦がすほどなのですが、だからといって、ジナイーダのそばにいても気が休まるわけではありません。嫉妬に苦しんだり、自分のつまらなさ加減を思い知ったり、馬鹿みたいにぶんぶん膨れたり、馬鹿みたいにおもねったりするのですが、それでもなお抗いがたい力が働いて、いやおうなくジナイーダに惹かれ、彼女の部屋に足を踏み入れるたびに幸せのあまり体が震えるのでした。(本文P62より)
  
ある日ウラジーミルは、悲しみに打ちひしがれたジナイーダを発見します。彼女はだれを愛しているのか。苦悩する彼女をみて、ウラジーミルの心は、さらに乱れます。やがて彼は、その秘密を知ることになります。
 
◎父と息子のものがたり 

これ以上作品に深いりすることはよします。最近「子は父と必ず対峙する」という典型的な物語が、『初恋』であるとの解説を目にしました。小川洋子もその点に言及しています。

――これは初恋を描いた小説であるとともに、父と息子の物語です。息子が父親を仰ぎ見て、ぶつかっていって、そしてどのように乗り越えていくかを描いています。(小川洋子『心と響き合う読書案内』PHP新書より)
 
息子は父親を尊敬しています。父親の愛を欲しています。ところが父親は、少年の心をかえりみようとはしません。母親からも強い愛情は感じとれません。このような環境下で、主人公のウラジーミルは、魔性のジナイーダに恋をしたのです。

後半はすさまじい展開となります。私も主人公と同じ年代で、一度読んでいます。しかしこの作品は大人になって再読すると、印象は大きく変わります。尊敬する父が母と結婚した理由。ジナイーダが愛していた男の正体。身近な人の死。

そしてなぜトゥルゲーネフがものがたりに「語り手」を登用したのか。「です・ます調」の翻訳は、私に新たな『初恋』体験をさせてくれました。
(山本藤光:2010.04.22初稿、2018.03.08改稿)

ピート・デイヴィス『四千万人を殺した戦慄のインフルエンザの正体を追う』(文春文庫、高橋健次訳

2018-03-07 | 書評「タ行」の海外著者
ピート・デイヴィス『四千万人を殺した戦慄のインフルエンザの正体を追う』(文春文庫、高橋健次訳)

1997年3月、香港近郊の養鶏場で鶏が死ぬ。H5N1型の鳥インフルエンザが世界を騒然とさせる始まりであった。それを遡ること80年前に世界を席捲した「風邪」は、4000万人を殺した。この恐るべきインフルエンザウイルスの正体を追って、永久凍土に埋葬された遺体の胸からウイルスを採取すべく、ある調査団が極北の墓所へ向かう。(「BOOK」データベースより)

◎正体不明のスペイン風邪

1918年のスペイン風邪で、世界中で4千万人の人々が死亡したとされています。体力 のある若者たちが、発病して翌日には突然死亡してしまう凄まじい勢いでした。

私は本書を一度、単行本で読んでいます。そのときのタイトルは『四千万人を殺したインフルエンザ』(文藝春秋、1999年)でした。当時私は日本ロシュという外資系製薬会社に勤務しており、タミフルのプロダクトマネジャーから薦められて読みました。タミフルは今やインフルエンザの定番となりましたが、その市場導入を画策していたころのことです。

文庫化されて、タイトルが変わりました。この方が科学ドキュメンタリーの、感じが出ていると思います。.スペイン風邪が、人類を襲ってから80年目。スペイン風邪の正体に迫るべく研究者たちが、北極の永久凍土に眠る青年の7遺骸を掘り起こしました。引き金になったのは、1997年の香港養鶏場で鶏が大量死したできごとでした。検出されたのはH5N1型の鶏インフルエンザでした。

1933年にスペイン風邪のウイルスが、インフルエンザであることは証明されています。しかし元気な若者がなぜ簡単に死亡したのか、の原因まで究明することはできませんでした。新たなインフルエンザ菌の出現に備えるために、世界の科学者が立ち上がったのです。

本書はスペイン風邪の正体に挑む、研究者たちの壮絶な闘いの記録です。

◎まるでミステリーのよう

それまでにもアラスカで、スペイン風邪で亡くなった人の遺骸を、掘り起こしたことがあります。しかし遺骸の状態が悪く、解明することができませんでした。

1998年ウィルス採取プロジェクトが、立ち上げられます。リーダーは地理学を教える、カーティス・ダンカン女史です。プロジェクトは研究機関や製薬会社の支援を得て、ようやく発掘にこぎつけます。

プロジェクトの規模は、予想を超えて膨れ上がりました。様々な国から大物研究者が参画し、もはや一女史の手には負えなくなりました。ダンカン女史の性格も災いし、プロジェクトは収拾のつかない状態になります。筆者のピート・デイヴィスは、科学者のことを次のように書いています。

――科学者たち――ことに、どんどん財源が縮小されつつある公的資金に頼っている人びと――は、激烈な競争のなかで活動している。そこにはたらくシステムを一言でいえば、「発表するか、消えるか」である。研究助成金を獲得するためには、自分の勤勉さ、意欲、創意を示すことになる論文の数を増やしていかなければならない。さらには、成功する科学者は、好奇心と野心に駆られるという事実が加わり、環境に圧力をかけて、やる気を起こさせるという事実が加わる。(本文P313より)

すったもんだの末、遺骸は掘り起こされます。しかし状態は期待値とはかけ離れたものでした。本書はタミフルなどが誕生するところで、終えています。1999年に発行されているので、現在の騒動については触れていません。ただし新たなインフルエンザの流行には、警鐘を鳴らしています。

ひたすら圧倒されました。1918年のできごとに接して、悪寒が突き上げてきたほどです。インフルエンザ、恐るべしです。本書には科学ドキュメンタリーというよりも、ミステリーのような味わいがあります。
(山本藤光:2012.12.14初稿、2018.03.07改稿)

チャベック『ロボット』(岩波文庫,千野栄一訳)

2018-03-06 | 書評「タ行」の海外著者
チャベック『ロボット』(岩波文庫,千野栄一訳)

ロボットという言葉はこの戯曲で生まれて世界中に広まった。舞台は人造人間の製造販売を一手にまかなっている工場。人間の労働を肩代わりしていたロボットたちが団結して反乱を起こし、人類抹殺を開始する。機械文明の発達がはたして人間に幸福をもたらすか否かを問うチャペック(1890‐1938)の予言的作品。(「BOOK」データベースより)

◎ロボットという単語の創始者

手塚治虫が「鉄腕アトム」をはじめて世にだしたのは1951(昭和26)年でした。当初アトムは「アトム大使」というタイトルの連載の脇役に過ぎませんでした。主役となったのは、翌年からです。それ以降アトムは国内はもちろん、海外でも人格を有したロボットの代名詞となりました。最近では二足歩行ロボット・アシモなどが話題となるほど、「ロボット」は人間に近いものになっています。

「ウィキペディア」で「二足歩行ロボット」を検索すると、つぎのような説明があります。
――ロボットの語源はチェコの作家カレル・チャペックの『RUR』という1921年に出版されたSF小説に出てきたロボットという名の人造人間である。この小説ではロボットは奴隷として描かれており、ある日人間に反抗し人間の殺戮を開始する、というストーリーである。原典での描写に従えば、ロボットとは人間に危害を加える人造人間の奴隷ということになる。ハリウッド映画に出てくるロボットの多くが、この原典でのイメージを引き継いでいるのは理解できるだろう。

チャベックは幅広いジャンルで、作品を発表しているチェコの作家です。私の書棚にならんでいる文庫本を並べてみます。

・SF小説『山椒魚戦争』(岩波文庫)
・戯曲『ロボット』(岩波文庫)
・エッセイ『園芸家12カ月』(中公文庫)
・童話『ダーシェンカ』『ダーシェンカ・子犬の生活』(いずれも
新潮文庫)
・旅行記「チャベック旅行記コレクション」(ちくま文庫)

文庫化されていませんが、このほかに哲学3部作として『ホルドゥバル』『流れ星』『平凡な人生』(成文社「チャベック小説選集第3.4.5巻」)などもあります。

できるならすべてについて紹介したいのですが、チャベックの入門書として『ロボット』を選ぶことにしました。私たちが日常的に表現する「ロボット」という単語は、チャベックとその兄による造語です。『新明解国語辞典』(三省堂第6版)の説明ではこうなっています。

――チェコの作家カレル・チャベックの造語に基づく。もと、働くの意で、アルバイトと同原。

最近ではSF小説を執筆する際に、SF作家アイザック・アシモフの提唱する「ロボット工学三原則」(ロボットが従うべきとして示された原則)が本流になっています。ロボット三原則ともいわれますが、人間への安全性、命令への服従、自己防衛を目的とする3つの原則を順守すべきとするものです。

アイザック・アシモフのロボット関係の著作は、つぎのとおりです。
・われはロボット(ハヤカワ文庫SF)
・ロボットの時代(ハヤカワ文庫SF)

『われはロボット』に「ロボット三原則」の詳細が掲載されています。チャベックとならべて、読んでみることをお薦めします。

◎幅広いジャンルをこなす

『ロボット』は序幕と3幕で構成された戯曲です。登場人物(ロボットも含む)の動きは、きわめて抑制されています。短い会話の羅列。それゆえ簡単に読み進めることができます。訳者・千野栄一の言葉を借りれば、こんな物語です。

――長い間人間の夢であった人間が人間を作り出し、人間にとってふさわしくない仕事をその作りだされた人間――ロボット――に代行させるという筋書きの作品である。(千野栄一のあとがきより)

本書のロボットは外見上は人間とそっくりで、すべて人体のパーツと同じもので作られています。ただし人間のような感情はもたず、生殖能力もありません。人間の命令に絶対服従し、労働のみが使命とされています。

ロボットは、ヨーロッパの孤島にあるR.U.R.社(ロッサム・ユニバーサル・ロボット社)で製造販売されています。評判が評判を呼び、ロボットはたちまち世界を圧巻してしまいます。社長のドミンは笑いが止まりません。

ある日「人権連盟」会長の娘・ヘレナが訪ねてきます。ヘレナはロボットの人道的問題を、ドミンや幹部たちに訴えます。しかしロボットの献身的な奉仕に合い、しだいにその魅力のとりこになりはじめます。やがてヘレナはドミンと結婚します。ロボットたちに支えられた、優雅な毎日がつづきます。

第2幕からについての詳細は書きません。世界中のロボットが人間に反旗を翻しはじめます。世界中の人間たちが殺害され、たった一人残ったのはR.U.R.社の幹部だけでした。

ロボットたちは、生き残ったたった一人に、何を求めたのでしょうか。人間社会のおごりに、一石を投じた元祖ロボット物語は、驚くべきエンディングで幕がおろされます。

チャベックの著作では、他に『山椒魚戦争』(岩波文庫)をお薦めします。チャベックは、ジュール・ヴェルヌ、マーク・トゥエイン、レイ・ブラッドベリーとともに、ルンルン気分にさせてくれる作家のひとりです。

国内のロボット作品を集めた、井上雅彦監修『ロボットの夜』(光文社文庫)を読むと、ロボット小説の変遷が理解できるのでこれもお薦めです。
(山本藤光:2012.12.05初稿、2018.03.06改稿)

ロアルド・ダール『オズワルド叔父さん』(新潮文庫、田村隆一訳)

2018-03-05 | 書評「タ行」の海外著者
ロアルド・ダール『オズワルド叔父さん』(新潮文庫、田村隆一訳)

その昔、とてつもなく破天荒な大儲けを企てた男がいた。その名をオズワルド・ヘンドリクス・コーネリアス―スーダン産ブリスター・ビートルな甲虫の粉が信じられないほどの強力な媚薬であることを知った彼は、それを各国大使に売りつけ、ひと財産築いた。ばかりか、次には、それを使って世の天才ピカソやフロイトなどの精液を奪取し、売りさばこうと考えたのだ。壮大なホラ話の楽しさが全篇に横溢する大人の童話。(「BOOK」データベースより)

◎諷刺とブラックユーモア

ロアルド・ダールは児童文学作家であり、探偵小説短編の名手です。これがダールを語るときの、一般的な冠だと思います。私は代表作『チョコレート工場の秘密』をはじめ、たくさんのダール作品を「ロアルド・ダール・コレクション」(評論社)で読んでいます。このシリーズは児童書のコーナに置かれているので、あまり見かけることはないと思います。全20巻+別巻2巻が勢ぞろいしています。

本シリーズは、きれいに書棚にならべてありました。しかし小学校高学年になる孫が、おもしろいと持ち去り歯抜け状態になっています。ダールについて翻訳者が書いている文章があります。

――空想の作品が現実の観察に裏打ちされている。それが諷刺というブラックユーモアというか、そこが面白い。(柳瀬尚紀、訳者あとがき『チョコレート工場の秘密』より)

柳瀬尚紀が書いているように、ダール作品は豊富な体験と観察により堅牢なものになっています。ダールは第2次世界大戦で、イギリス空軍のパイロットとして従軍しています。その体験を書いたのが、1946年のデビュー作『飛行士たちの話』(ハヤカワ・ミステリー文庫、永井淳訳)となります。ダールはその後、大人向けの短編としては『あなたに似た人』(上下巻、ハヤカワ文庫、田口俊樹訳)や『キス・キス』(ハヤカワ文庫、田口俊樹訳)などを発表しています。

特に『あなたに似た人』に所収されている「南から来た男」は世界中で絶賛されています。また『キス・キス』に所収されている「女主人」もアメリカの探険小説クラブ短編賞を受賞しています。

児童書にかぎらず、ダール作品には諷刺とブラックユーモアに満ち満ちています。しかし私にとっては、大人向けに書かれた唯一の長編『オズワルド叔父さん』(新潮文庫、田村隆一訳)を、推薦させていただくことにします。

◎誇大妄想的事業へ進む

『オズワルド叔父さん』は、奇想天外のホラ話です。それもとんでもない下ネタの話です。オズワルド叔父さんは若いころ、巨万の富を築きました。若きオズワルドはある日、スーダン産甲虫(ブリスター・ビートル)から、強力な媚薬を製造できることを知ります。彼はスーダンに出向き、ブリスター・ビートルを入手します。

実際に試してみると、その効果は絶大でした。彼はブリスター・ビートルの粉末をピルとして製造します。今度はそれをいかに販売するかを考えます。オズワルドはイギリス大使館が主催する各国の大使が集まるパーティにもぐりこみます。そこで各国の大使に、試供品としてピルを配布します。

翌日大使の使いの者たちが、大金をもって押し寄せてきます。ピルは飛ぶように売れました。オズワルドはたちまち大金持ちになります。ピルを服用した男性は、いかにたくましい状態になるのか、ここではあえて触れません。とにかくロアルド・ダールは、たくさんの比喩を用いてそれを説明してくれます。

大金を手にしたオズワルドの事業は、第2の段階に入ります。17歳のオズワルドは、指導教官・ウォレスリーの精子凍結技術を入手しようと企てます。老いたウォレスリーは、容易にオズワルドの企てに加担しようとはしません。そこでオズワルドは、自分があなたの精子を獲得したら、協力してもらうという約束を結びます。ウォレスリーは、もちろんそんな約束が成就するはずはないと確信しています。

オズワルドはヤズミンという、誰もが魅せられる美人の学生に支援を依頼します。ヤズミンはチョコレートにピルを含ませ、ウォレスリーにあたえます。オズワルドはその様子を、こっそりと観察します。

――九分! まさにその瞬間、チョークを持って黒板にむかっていた手が、突然、書くのをやめた。A・R・ウォレスリーのからだは硬直した。/「ウォレスリー先生」ヤズミンは間髪を入れず、明るい調子で言った、「サインをいただけませんか?」(中略)つのりくる欲情に心は千々に乱れながら、A・R・ウォレスリーは署名した。(本文P152-153)

その後ドタンバタンと、醜悪な場面がつづきます。こうしてオズワルドは精子凍結技術を手にいれます。ここからは第3の段階となります。著名人の精子を集めて、有能な遺伝子をほしがっている裕福な貴婦人にあたえようと考えるのです。集める役目はヤズミンが担います。ヨーロッパ主要国の国王、モネ、ルノアール、フロイト、ブルースト、アインシュタイン、ストラヴィンスキー、バーナード・ショーなどが、世界著名人事典のごとく登場します。それぞれが媚薬を飲まされ、ヤズミンの餌食となってしまいます。

事業は大成功でした。ところがとんでもない結末を迎えることになります。その様子を書いてみたいのですが、ぐっと我慢して嚥下することにしました。決してエロくない、少しだけお下劣なホラ話をどうかご堪能ください。本書を読んでから、ぜひ『あなたに似た人』『キス・キス』『チョコレート工場の秘密』などを、味わっていただきたいと思います。

ロアルド・ダール作品は、茶色の苦みのあるチョコレートです。必ず大笑いされることでしょう。癖になりますので服用注意ですぞ。
(山本藤光:2013.04.15初稿、2018.03.05改稿)


コリン・デクスター『ウッドストック行最終バス』(ハヤカワ文庫HM、大庭忠男訳)

2018-03-04 | 書評「タ行」の海外著者
コリン・デクスター『ウッドストック行最終バス』(ハヤカワ文庫HM、大庭忠男訳)

夕闇のせまるオックスフォード。なかなか来ないウッドストック行きのバスにしびれを切らして、二人の娘がヒッチハイクを始めた。「明日の朝には笑い話になるわ」と言いながら。―その晩、ウッドストツクの酒場の中庭で、ヒッチハイクをした娘の一人が死体となって発見された。もう一人の娘はどこに消えたのか、なぜ乗名り出ないのか? 次々と生じる謎にとりくむテレズ・バレイ警察のモース主任警部の推理が導き出した解答とは…。魅力的な謎、天才肌の探偵、論理のアクロバットが華麗な謎解きの世界を構築する、現代本格ミステリの最高傑作。(「BOOK」データベースより)

◎「モース警部シリーズ」の第1作

コリン・デクスターの処女作『ウッドストック行最終バス』(ハヤカワ文庫、大庭忠男訳)を本格ミステリーとして推薦します。本作は1957年に発表されており、著者27歳のときの作品となります。デクスターはイギリスの本格派ミステリー作家として、不動の地位をしめています。本書は「モース警部シリーズ」の記念すべき第1作となります。

その後デクスターは『キドリントンから消えた娘』(ハヤカワ文庫)を発表し、シリーズは長編13冊を数えます。本シリーズの特徴は文庫解説で新保博久が書いていますが、再読できる本格ミステリーという点にあります。最近のミステリーは、ネタバレされると、読む気力が失せてしまうものばかりです。ところが「モース警部シリーズ」は、現に私自身も再読しています。

同じイギリスのミステリ作家・ウィングフィールド(「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作『クリスマスのフロスト』創元推理文庫)の「フロストシリーズ」も再読しています。両者の共通点は、型破りな刑事のキャラクターにあります。

「モース警部シリーズ」で描かれているのは、現代のように科学捜査が発達していない時代です。したがって、主人公のモース主任警部は仮説を立て、その検証を足でおこなう活動が中心となります。モース警部の趣味は、クロスワードパズルを解くこととクラッシク音楽を聴くことです。彼の捜査はまさに、その世界(閃き、熟考、古風)と重なるような手順でおこなわれます。

モースは部下でもある、ルイス部長刑事と捜査をともにします。本書の読みどころは、モースとルイスの絶妙な掛け合いにあります。2人の仮説、推理、論理の展開が、実に細やかに描かれています。

◎消えた片割れ

深夜オックスフォードで2人の女性が、ウッドストック行きの最終バスを待っています。バスはなかなかやってきません。しびれを切らした2人は、ヒッチハイクをすることにしました。

翌日、ウッドストックのパブ「ブラック・プリンス」の中庭で、若い美しい女性の死体が発見されます。死体は乳房があらわになっていることから、強姦されたと推理されます。

事件を担当するのは、モースとルイスのコンビです。被害者の身元はオックスフォードからやってきた、シルビア・ケイであることが判明します。

シルビアは何の目的で、どうやってウッドストックへやってきたのかが、第1の謎になります。目撃証言もなく、事件は暗礁にのりあげます。

モースは被害女性の母親から、事情聴取をします。次にバス会社やタクシー会社にも問い合わせます。ヒッチハイクをしてウッドストックにきたのか否かは、この時点では定かではありません。モースはテレビ出演して、目撃情報を求めます。強姦死亡事件は、大々的に報道されます。

オックスフォートのバス停で、シルビアを見たという目撃証言が得られます。メーベル・ジャーマン夫人はシルビアには連れの女性がいて、2人はヒッチハイクをしたと証言します。しかしいっしょにヒッチハイクをした、もう一人の女性は名乗り出てきません。また2人を拾ったであろう運転手も、名乗り出てきません。

モースは懸命に、仮説を立てます。モースの捜査は変わった手法でなされます。

――ある証拠を切り口に推論を広げ、常人では思い付かないような仮説を立てていくのである。おまけにその仮説は間違っている事が多く、間違えたら再びゼロから推理を組み立てる、というパターンが作中、幾度となく繰り返されるのだ。謎解きミステリの論理性を突き詰めた究極の存在が、モース警部というキャラクターなのである。(早川書房編集部編『海外ミステリハンドブック』ハヤカワ文庫P78)

両警部はシルビアが勤めていた、生命保険会社の同僚から聞き取りをおこないます。ジャーマン夫人に、同僚女性らの面通しを依頼します。しかしバス停で見かけた、もう一人の女性は判明しません。

捜査は少しずつ進展します。シルビアと会う約束だったという、ジョニー・サンダースを突きとめます。大学勤務のバーナード・クローサーから、2人のヒッチハイク女性を乗せたとの手紙が届きます。同僚のジェニファー・コルビーには、ヒッチハイクの片割れ女性だとの嫌疑をふくらませます。

モースは仮説を組み立て、それがことごとく崩れ去る日々を過ごします。そんなときモースは、ジェニファー・コルビーと共同生活をしている、スウ・ウィドウスンの魅力のとりこになります。彼女はモースが足の治療で通う、病院の看護師です。スウには婚約者がいます。しかしモースとスウは、ひと時の逢瀬を楽しみます。

◎伏線がたくさん

新たな事件がおきます。バーナード・クローサー夫人が、遺書を残して自殺するのです。バーナード・クローサーは大学勤務で、2人のヒッチハイク女性を拾った人です。夫人はシルビアを殺害したのは自分である、との遺書を残していました。妻を追いかけるように、夫のバーナードも病死します。彼は私がシルビア殺しの犯人である、とのメッセージを残します。

ここから先は、触れない方がいいと思います。唐突に浮上した2人の犯人。2人とも死んでしまいました。

本書にはたくさんの伏線がはられています。じっくりと読み進めてください。最初のページから、油断なりません。種明かしは最後のページでなされます。

重厚な本格ものとして、自信をもって推薦させていただきます。
(山本藤光:2011.06.22初稿、2018.03.04改稿)