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山本藤光の文庫で読む500+α

著書「仕事と日常を磨く人間力マネジメント」の読書ナビ

クリスチアナ・ブランド『ジェミニー・クリケット事件』(『招かれざる客たちのビュッフェ』創元推理文庫所収)

2022-04-09 | 書評「ハ行」の海外著者
クリスチアナ・ブランド『ジェミニー・クリケット事件』(『招かれざる客たちのビュッフェ』創元推理文庫所収)

英国ミステリ界の重鎮ブランド。本書にはその独特の調理法にもとづく16の逸品を収めた。コックリル警部登場の重厚な本格物「婚姻飛翔」、スリルに満ちた謎解きゲームの顛末を描く名作「ジェミニー・クリケット事件」、あまりにもブラックなクリスマス・ストーリー「この家に祝福あれ」など、ミステリの真髄を示す傑作短編集(Amazon)

◎アメリカ版とイギリス版

実は当初、『招かれざる客たちのビュッフェ』(創元推理文庫)の全16作品について書評を書くつもりでいました。ところが『北村薫の本格ミステり・ライブラリー』(角川文庫)を読んでいて私の知らない、もうひとつの『ジェミニー・クリケット事件』の存在を知りました。

北村薫は「アメリカ版」と明記して、同作品を『北村薫の本格ミステリ・ライブラリー』に所収したのです。北村薫は本作をアンソロジーの1作品として入れてくれる条件で、編集を引き受けたと書いています。
――これ(補:『ジェミニー・クリケット事件』)を入れてもらえるなら、アンソロジーをやりましょう。(『北村薫の本格ミステリ・ライブラリー』P331より)

というわけで、私が読んだ作品は「イギリス版」だったようです。さっそく「アメリカ版」も読んでみました。大筋は変わりませんが、結末部分に明かな違いがありました。どっちが優れているかの評価はネット民におまかせして、入手しやしい「イギリス版」を紹介することにします。

本作は、『短編ミステリの二百年6』(創元推理文庫)と『51番目の密室・世界短篇傑作集』(ハヤカワポケットミステリ)にも所収されています。

最初に明記しておきたいのは、本書は密室ミステリとして世界的に評価が高いという点です。老人と青年が語り合いながら、謎解きを行うという風変わりな仕掛になっています。舞台はほとんど動きません。紹介しようと思っていた他の15作品を傍らにおいて、『ジェミニー・クリケット事件』にのみ集中して紹介させていただきます。

これまでに、たくさんの密室殺人事件を読んできました。高評価してきた作品を押しのけて、本書を密室殺人事件のナンバーワンとして、推挙させていただきます。

◎クリスチアナ・ブランドについて

クリスチアナ・ブランドのプロフィールを、紹介しておきます。
――マレーシア生まれの英国作家で、こども時代はインドに滞在していた。帰国後、十七歳のときに父親が破産したため、進学を諦めて就職することを余儀なくされる。モデルや販売業などさまざまな職業に就いたが、その経験がデビュー長編『ハイヒールの死』(ハヤカワ・ミステリ文庫)には活かされた。(杉江松恋・編『ミステリマガジン700海外篇』ハヤカワ文庫P176)

『ハイヒールの死』は調理器具の売り子として働きながら書き始めたもので、嫌な同僚と接する中からアイデアが生まれたといわれています。

クリスチアナ・ブランドは、クリスティやクイーンとならんで世界的に評価の高い女流作家です。ただし日本での評価は最近のものです。
――1990年に短篇集『招かれざる客たちのビュッフェ』(1983)が深町真理子訳(創元推理文庫)で紹介されると一躍脚光を浴び、それ以前に出ていた旧訳作品も見直されることになった。「いい作品はいつか評価される」という見本のようなケースである。(郷原宏『このミステリーを読め・海外篇』王様文庫P98)

ブランドには他に、『緑は危険』(ハヤカワ文庫)や『ジェゼベルの死』(ハヤカワ文庫)などの優れた作品があります。しかし、いずれも入手困難本になっています。

◎「なんでここへきたんだね?」

ジェイルズ青年は20年ぶりに、謎解きの大好きな老人を訪ねます。彼が老人に語り始めたのは、弁護士トマス・ジェミニーが殺害された密室殺人のてんまつでした。トマス・ジェミニーには、三人の養子がいました。ジェイルズ青年はそのなかの一人です。他の二人は、ルーパート青年とヘレンという若い女性です。この三人は、いずれも死んだトマス・ジェミニーの近くで生活しています。したがって、当然容疑者として扱われます。

ジェイルズは、当時を思い出しながら語り出します。死の直前にトマス・ジェミニーは、警察に助けを求める電話をしています。しかしその言葉は、不可解なものでした。「どこへともなく消えていく」「長い腕が……」

この電話を受けて、警察はトマス・ジェミニーの事務所に駆けつけます。
――ドアには内側からかんぬきがかってあり、窓が割れていた。割れたガラスのふちが、いまだに小刻みにふるえていましたよ。ところが部屋は四階なんです。被害者は首を絞められ、そのうえ椅子に縛り付けられて、刺されていた。(本文P199)

完全な密室殺人事件。老人はジェイルズの話に耳を傾け、ときには質問したり考えこんだりします。ところがこの事件は、まったく別の展開をみせます。パトロールに出ていた巡査から、本署に電話が入ります。電話口で巡査は、「どこへともなく消えていく」「長い腕が……」と、恐怖の叫びをあげます。巡査が電話をかけてきた、公衆電話がつきとめられます。そして工場跡地の水槽のなかから、巡査の死体が発見されます。二つの殺人事件は、当然同一犯によるものと断定されます。

本書を読むときに、心に留めておいてもらいたいことがあります。老人とジェイルズのやりとりが間延びする場面では、活字から目をあげて考えてみてください。もうひとつは、二人が会話をしている場所の正体です。細心の注意を払って、活字を拾わなければなりません。ここを一刻も早く発見したら、一挙にエンディングの謎が解けます。

私は一回目の読書では最終ページになって、やっと謎が解けました。匍匐前進の再読で、二人のやりとりの裂け目を発見しました。二人がやりとりしている場所に、もっと早く気づくべきだったと恥じ入りました。エンディングの謎がわからなかった人は、答えは『短編ミステリの二百年6』(創元推理文庫)の576ページにあります。書店で立ち読みでもして、確認してください。

ヒントは『招かれざる客たちのビュッフェ』所収『ジェミニー・クリケット事件』の冒頭ページにあります。立ち働いている男たちの存在。老人が青年に尋ねる言葉の意味。この箇所で本書の構図をつかまえていたら、と悔しい思いをしました。
――かなたの色とりどりの花壇では、鍬や鋤を手にした男たちが立ち働いている。「ところでなんでここへきたんだね?」(本文P198)

私はこの描写で、老人は豪邸に住んでいると思いこんでしまいました。とんだ早とちりでした。

最後にミステリ界の重鎮たちの、本書に対する評価をご紹介しておきます。
――森英俊は『世界ミステリ作家事典(本格派篇)』(補:図書刊行会)のブランドの項で、本作を「古今の密室テーマの短編で三本の指にはいる傑作」としているが、わたしも同感だ。トリックがよくできているだけでなく、その演出が抜群にうまい。
(『有栖川有栖の密室大図鑑』(創元推理文庫、P157)

本書を知らずして、ミステリを、ましてや密室殺人事件を語るなかれ。

山本藤光2022.04.05

ロバート・A・ハインライ『夏への扉』(ハヤカワ文庫、福島正実訳)

2020-05-13 | 書評「ハ行」の海外著者
ロバート・A・ハインライ『夏への扉』(ハヤカワ文庫、福島正実訳)

ぼくの飼っている猫のピートは、冬になるときまって夏への扉を探しはじめる。
家にあるいくつものドアのどれかひとつが、夏に通じていると固く信じて
いるのだ。1970年12月3日、かくいうぼくも、夏への扉を探していた。
最愛の恋人に裏切られ、生命から二番目に大切な発明まで
だましとられたぼくの心は、12月の空同様に凍てついていたのだ。
そんな時、「冷凍睡眠保険」のネオンサインにひきよせられて…
永遠の名作。(「BOOK」データベースより)

◎1970年夏への扉を探して

SF界の御三家アシモフ、クラークにつづいて、やっとハインラインを紹介することができます。個人的に好きな順序で並べると、ハインライン、クラーク、アシモフの順序になります。どういう根拠かというと、ストーンと作品のなかに入り込みやすいか否かを物差しとしています。
ハインラインのことを、ライトノベルのようなSFと評する人もいます。ハインラインの世界は、わかりやすさが特長です。ロバート・A・ハインライ『夏への扉』(ハヤカワ文庫、福島正実訳)は、『新・SFハンドブック』(ハヤカワ文庫)の「オールタイム・ベスト」で海外長編部門の第1位に選ばれています。いまだに多くの読者から、親しまれているSFの代表格なのです。

ハインラインは1907年にアメリカで生まれ、32歳のときに作家デビューしています。最初海軍兵学校を出て士官生活を送るが病気のため退役。次にロスのUCLA大学院に入るが再び病気で中退。以後様々職業につくが、やがて、子供の頃からの夢だったSFを書き始める。(プロフィールは『新・SFハンドブック』を引用しました)

主人公の「ぼく」の名前はダニエル・ブーン・デイヴィス(愛称はダン、またはダニー)。ピートという猫と暮らす独身男性です。「ぼく」は技師でささやかな発明をしながら、アルコールに依存した退廃的な毎日を過ごしています。ダンは愛猫ピートといっしょに冷凍されて、30年後の世界でよみがえることを決めています。この方法は「冷凍睡眠」と表記されており、ダンは30年後の世界(2000年)に蘇生される保険契約を締結します。

ダンがなぜこうした選択をしたかについては、1970年の冬に辟易していたからです。ダンは自らの発明品で、親友のマイルズとともに会社を立ち上げていました。ダンの発明品については、本文を引いておきます。

――文化女中器は(もちろん、これはのちにぼくが改良を加え完成したセミ・ロボット型でなく、市販第一号の時代のである)どんな床でも、二十四時間、人間の手をわずらわせずに掃除する能力を持っていた。(本文P46)

「文化女中器」には、「ハイヤード・ガール」とルビがふられています。この部分で私は立ち止まってしまいました。まったくイメージできないのです。
ロバート・A・ハインライ『夏への扉』が発表されたのは、1956年のことです。もちろん今のように、ルンバなどの掃除ロボットなど存在しない時代です。原文は仰々しくても、訳文はもっとしゃれたものであってほしいと思いました。

この「文化女中器」は、思わず大ヒットします。ダンは秘書として雇ったベルという美しい女性と婚約します。しかしベルはマイルズとつるんで、会社からダンを追放してしまいます。婚約者を奪われ、会社まで乗っ取られたダンは、ある騒動に巻き込まれます。
契約を交わしていた冷凍睡眠を中止しようと考えていたのですが、その騒動の結果ダンは強引に冷凍睡眠にかけられてしまいます。

ここまでが1970年の展開です。そして2000年、ダンは長い眠りから目覚めます。

◎2度の冷凍睡眠とタイムカプセル

冷凍睡眠から覚醒したダンは、自分を裏切ったベルとマイルズへの復讐を思い描きます。そしてダンにはもっと気がかりな女の子がいます。裏切り者マイルズの養女・リッキイです。30年前の彼女は10歳で、ダンや愛猫ピートと大の仲良しでした。ダンは冷凍睡眠に入る前に、信頼できるリッキイに株券を渡しています。万が一の事故で帰らぬ人になった場合を考えてのことです。

地球に生還したダンは、自分の発明品「文化女中器」をベースに改良された、働くロボットを随所で見かけます。そのいずれもが、自ら思い描いていたものと、酷似していることに驚きます。そしてダンは、それらが自ら設計したものであるとの確証を得ます。しかしダンには、設計した記憶がありません。

ダンは30年前の世界に戻って、その真偽を確かめたくなります、ダンはトウイッチ博士が完成させているタイムマシンで、1970年の冷凍睡眠に入る直前の世界に戻ることに成功します。

ここからのめまぐるしい展開については、あえて触れないでおきます。ベルやマイルドについても言及しません。そして読者は10歳のリッキイのことに、驚かされることでしょう。1970年に戻ったダンは、忌まわしい騒動をみごとに修復してしまいます。現実に起こったことを、過去に戻って改変することはできない。SF好きの読者は、この場面でいまだに論争をつづけています。

物語はこれで終わってもよかったのですが、ダンは再度冷凍睡眠を受けて、2000年の世界へと舞い戻ります。舞い戻ったダンは少し時間をおいて、冷凍睡眠から解凍される人を待ちます。「夏への扉」は開かれたのです。

あまりにもおもしろかったので、文庫版のあとに新訳版(新書サイズのソフトカバー)をよみかえしたほどです。ちなみに本書の新訳版(早川書房、小尾美佐訳、初出2009年)では、私が引っかかっていた「文化女中器」は、「おそうじガール」と訳されていました。

本書はSF嫌いの読者に捧げます。1970年から2000年への時間移動。2000年から1970年への時間移動。そして再び2000年へと舞い戻る。この仕掛に驚かされました。とにかく本書を読まずして読書家を名乗るなかれ、とお伝えさせていただきます。
山本藤光2020.05.11

ラ・フォンテーヌ『ラ・フォンテーヌ寓話』(洋洋社、大澤千加訳)

2019-09-15 | 書評「ハ行」の海外著者
ラ・フォンテーヌ『ラ・フォンテーヌ寓話』(洋洋社、大澤千加訳)

ルイ14世王太子も愛した 人生が変わる、ちょっとスパイシーな全26話のフレンチ・フルコース! 風味豊かなフォンテーヌ仕立て。美しくユーモラスな挿画を添えて。 17世紀のフランスの詩人ラ・フォンテーヌは、皇帝ルイ14世の王太子に、 「人生の教訓を学んでもらいたい」との思いで、 動物たちを主人公にしたこの寓話集を著しました。 ユーモラスで可愛らしく、生き生きとした動物たちが、 この寓話の魅力を一層引き立ててくれています。(アマゾン内容紹介)

◎フランス人なら誰でも知っている

『ラ・フォンテーヌ寓話』(洋洋社、大澤千加訳)は書斎の特等席に置いてあります。パソコンの前で疲れたときに、時々引っ張り出してイラストを眺めます。何度も読んでいますので、ストーリーは頭に入っています。ブーテ・ド・モンヴェルの絵は、シンプルで美しいものです。大いに癒やされます。画像のネット検索をすると、様々なイラストを楽しむことができます。

ラ・フォンテーヌは1621年フランス生まれの詩人です。『イソップ寓話集』をベースにして、詩の形式でまとめたのが本書です。本書には26の寓話が所収されています。『イソップ寓話集』のように押しつけがましいところがなく、詩ですのでリズム感があります。したがってフランスでは小学校の教科書に採択されており、朗読用に活用されています。

ほとんどのフランス人は、本書の何編かをそらんじることができます。昔外資系の会社で同僚だったフランス系スイス人が、得意そうに「ウサギとカメ」の一部をフランス語で披露してくれました。これをきっかけに、私は本書の存在を知りました。それほど今の時代でもフランス人にとっては、かけがえのない一冊なのです。

ところが哲学者のルソーは、本書について詩情を認めながらも、次のように語っています。
――教育の面から、こどもにはわからないので無意味である。(『面白いほどよくわかる世界の文学』日本文芸社)

どうやらルソーの見識は、間違っていたようですね。

◎「ウサギとカメ」の比較

「ウサギとカメ」について、『イソップ寓話集』と『ラ・フォンテーヌ寓話』とを比較してみます。ちなみに『イソップ寓話集』のタイトルは、「亀と兎」となっています。

――亀と兎が足の速さのことで言い争い、勝負の日時と場所を決めて別れた。さて、兎は生まれつき足が速いので、真剣に走らず、道から逸(そ)れて眠りこんだが、亀は自分が遅いのを知っているので、弛(たゆ)まず走り続け、兎が横になっている所を通り過ぎて、勝利のゴールに到達した。(『イソップ寓話集』(岩波文庫P174)

――ある時、カメがウサギの若造に言った。/「ねえ、賭けしない?/あそこのゴールまでどっちが早いか、/もちろん私が勝つけどさ/「俺に勝つ? 正気かよ?」

ウサギはヘラヘラ言い返した/「おばちゃんさ、ヘレボルス(山本補:精神錯乱の薬)四錠飲んで、/頭の中洗浄した方がいいんじゃない?/「正気かどうか勝負といこうじゃない」
(『ラ・フォンテーヌ寓話』(洋洋社、P16)

いかがでしょうか。ラ・フォンテーヌは、みごとに『イソップ寓話集』を詩として再構築していることがわかると思います。本書は岩波文庫『寓話』(上下巻)にも入っています。私は所蔵していませんので、イラストがどうなっているかはわかりません。おそらくイラストがあっても白黒だと思います。今回紹介させていただいた単行本は、淡いパステルカラーになっています。

◎ラ・フォンテーヌの名言

本書以外にラ・フォンテーヌは、私たちがよく知っている有名な言葉も数多く残しています。

――すべての道はローマに通ず

――火中の栗を拾う

――ラ・フォンテーヌは別の寓話(『振り分け頭陀(ずだ)袋』で人間というのは「自分にはすべて宥(ゆる)し、他人にはなにひとつ容赦せぬ」存在であると述べている。(鹿島茂『悪の引用句辞典』中公新書)

鹿島茂には『「悪知恵」のすすめ』(清流出版)という著作があります。副題に「ラ・フォンテーヌの寓話に学ぶ処世訓」とあります。

◎創作意欲に火がついて

『ラ・フォンテーヌ寓話』を読んで、猛烈に自分でも書いてみたくなりました。本書はお薦めです。

【ウサギとカメ】(山本藤光の創作寓話)
ウサギとカメが駆けっこをすることになりました。ウサギは「駆けっこの会場はキミが選んでもいいよ」といいました。思案したカメは、小さな池があり、周囲にうっそうと雑草が茂っている場所を選びました。勝ち誇ったようにウサギは「ゴールは向こう岸だ」といいました。号令とともにカメは池に飛び込み泳ぎ始めました。ウサギは草藪に飛び込みましたが、走ることはままなりません。こうしてカメは圧倒的な差をつけて、ゴールインしました。

【蟻と梨の木】(山本藤光の創作寓話)
 木枯らしの吹く季節になりました。蟻はせっせと、巣穴に食料を運んでいます。蟻の巣穴は、梨の木の根元にあります。

忙しく働く蟻を見下ろし、梨の木はじっと冬将軍の到来を待つしかすべがありません。

 勢いの弱まった太陽は、そんな蟻と梨の木に尋ねました。
「ごめん。夏のような豪華な日射しを届けられなくなった。こんな貧弱な日射しだけど、雪の降る時期にもわしの恵みは必要かな?」

 蟻は雪に巣穴がふさがれる情景を思い浮かべ、すばやく「なし」と答えました。梨の木は太陽の恵みがなくなったら枯れてしまうので、「あり」と天に向かって、枝を揺すりました。
山本藤光2018.09.15



アンソニー・ホロヴィッツ『カササギ殺人事件』(上下巻、創元推理文庫、山田蘭訳)

2019-01-20 | 書評「ハ行」の海外著者
アンソニー・ホロヴィッツ『カササギ殺人事件』(上下巻、創元推理文庫、山田蘭訳)

1955年7月、サマセット州にあるパイ屋敷の家政婦の葬儀が、しめやかに執りおこなわれた。鍵のかかった屋敷の階段の下で倒れていた彼女は、掃除機のコードに足を引っかけたのか、あるいは…。その死は、小さな村の人間関係に少しずつひびを入れていく。余命わずかな名探偵アティカス・ピュントの推理は―。アガサ・クリスティへの愛に満ちた完璧なるオマージュ・ミステリ! (「BOOK」データベースより)

◎「愕然、絶句、感動」

アンソニー・ホロヴィッツという作家は、知りませんでした。評判がいいので買ってみようか、というノリで『カササギ殺人事件』(上下巻、創元推理文庫、山田蘭訳)をレジに持っていきました。上下巻とも初版ですので、その後の勢いはまだ知るよしもありません。

上巻を読み始めたころに、雑誌や新聞の書評欄に好意的な書評があるのを知りました。上巻を読み終えた私は、「すごい!」という外野の声の意味がわかりません。第一印象はアガサ・クリスティを尊敬している若手作家の、平凡なミステリーくらいにしか思えませんでした。

ところが下巻を読み始めて、いきなりガツンとやられました。『カササギ殺人事件』の出版を目指す出版社の物語が展開されているのです。上巻はアラン・コンウェイという作家が書いた『カササギ殺人事件』が描かれています。それゆえ、下巻での突然の展開には驚かされました。

年末恒例のミステリ小説ランキングが発表になりました。そして下巻を読み終え「愕然、絶句、感動」の嵐が体内を吹き抜けたとき、次のようなコピーに触れました。半信半疑で読み始めた本書には、輝く4つのメダルが授与されていたのです。

【年末ミステリランキングを全制覇して4冠達成! ミステリを愛するすべての人々に捧げる驚異の傑作】
『このミステリーがすごい! 2019年版』第1位
『週刊文春ミステリーベスト10 2018』第1位
『ミステリが読みたい! 2019年版』第1位
『2019本格ミステリ・ベスト10』第1位

これだけでも、本書のすごさは理解いただけると思います。本書の解説で川出正樹は「一読唖然、二読感嘆。精緻かつ隙のないダブル・フーダニット」との見出しを躍らせています。
それに習うなら私の読後感は、前記のように「愕然、絶句、感動」と書かざるをえません。

文句なしに、これまで読んできたミステリのなかでは最高峰の作品でした。訳者の山田蘭は次のように書いています。訳文はすばらしかったので、敬意をこめて紹介させていただきます。

――ミステリに対するまっすぐな賛歌というだけではなく、読む側、そして書く側の、けっして交わることのない一方通行の苦い恋情のようなものさえ描かれている、この特異な作品をよんだときの胸の震えを、できるだけそのままの形で日本語の読者のかたに届けなくてはと、いつにない重圧をひしひしと感じもしました。(「ミステリマガジン」2019年1月号)

◎終わったところから始まる

上巻を開くと、アンソニー・ホロヴィッツからの献辞があります。そこには『カササギ殺人事件』の簡単な概要がしめされ、次のように結ばれています。

――病を得て、余命幾許(いくばく)もない名探偵アティカス・ピュントの推理は――。現代ミステリのトップ・ランナーによる巨匠クリスティへの愛に満ちた完璧なオマージュ・ミステリ!

著者自身が書いているんですから、本書に対する手応えは大いにあったようです。さらに扉のこの文章以外にも、クリスティにたいする愛は作品のいたるところで認められます。

この献辞のあとに「ロンドン、クラウチ・エンド」という章になります。読者はここを熟読してください。「わたし」ことスーザン・ライラントという編集者の語り場面は、下巻の最終ページにつながっています。ここを読み落とすと、アンソニー・ホロヴィッツの仕掛けた大胆な構造を見失うことになります。「わたし」は『カササギ殺人事件』を出版するために、編集の仕事をしています。しかしこの章は、下巻の結末につながっているのです。

――わたしはこの作品を読みはじめた。さて、読者であるあなたも、これからこの作品を読むことになる。でも、その前にひとつだけ、あなたに忠告をしておこう。この本は、わたしの人生を変えた。(本文より)

この章が終わって初めて、『カササギ殺人事件』(著者)アラン・コンウェイのページになります。つまり本書は「作中作」のスタイルをとっています。アラン・コンウェイについて「わたし」は、「虫の好かない男」とばっさりと切り捨てています。前述したとおり本書はメビウスの輪のように、終わったところから始まっています。

本書をしっかりと理解するために、絶対に抑えておきたいのが以上のポイントです。さらにホロヴィッツは、いたるところにクルスティへの敬愛をちりばめています。『カササギ殺人事件』の名探偵アティカス・ピュントはエルキュール・ポアロと酷似していますし。クリスティに似た物語も展開しています。またこんな指摘もあります。

――クリスティは嘘つきの証人を複数登場させることで、物語の道行きを不透明にさせる技法が得意だったが、ホロヴィッツもそれを見事に継承している。(杉江松恋、朝日新聞2019年1月12日)

◎作中作・メビウスの輪・クルスティ

『カササギ殺人事件』の本稿(上巻)は、奇をてらうことのないオーソドックスなミステリーです。1955年、イギリスの片田舎のパイ邸の家政婦が階段から転落死します。物語はその葬儀場面から始まります。家政婦の死は小さな村にさまざまの憶測を呼び、その息子にも疑惑の目を向けられます。
家政婦の息子の婚約者は渦巻く噂に困って、名探偵アティカス・ピュントに相談します。ピュントは医師から余命数ヶ月との宣告を受けたばかりで、依頼には応じません
 その後、今度はパイ邸の当主が惨殺されます。重い腰を上げてピュントが村へ行くと……。上巻は二つの殺人事件を追うピュントと村人とのやりとりが、延々と展開されています。

そして下巻を開くと、上巻とまったく同じタイトル(「ロンドン、クラウチ・エンド」)の章から始まります。ところ『カササギ殺人事件』の原稿を受け取る場面から、始まっているのです。しかもその原稿は、結末部分が欠けています。「わたし」はその原稿を求めて、著者アラン・コンウェイに迫ります。

これ以上、物語には触れません。こんなにすごい作品に巡りあって、読書人として最高の幸せを感じています。上巻から下巻への切り替え。上巻と下巻が寄り添うように走り出すストーリー。そして下巻の結末が上巻の冒頭につながる構成。みごととしか言いようがありません。自信を持って、あなたにお勧めさせていただきます。
 本書は、「山本藤光の文庫で読む500+α」のランキング(海外文学ジャンル)では、アガサ・クリスティ『ABC殺人事件』(創元推理文庫)の真下におくことにしました。
山本藤光2019.01.20


G・バタイユ『マダム・エドワルダ』(光文社古典新訳文庫、中条省平訳)

2018-03-10 | 書評「ハ行」の海外著者
G・バタイユ『マダム・エドワルダ』(光文社古典新訳文庫、中条省平訳)

生田耕作氏の名訳で知られ、’60年代末の日本文学界を震撼させたバタイユ。三島由紀夫らが絶賛した一連のエロティックな作品群は、その後いくつかの新訳が試みられた。今回の新訳は、バタイユ本来の愚直なまでの論理性を回復し、日常語と哲学的表現とが溶けあう原作の味を生かした決定訳といえる。それぞれの作品世界にあわせた文体が、スキャンダラスな原作の世界をすみずみまで再現する。(アマゾン内容紹介)

◎一人称を削いだ新訳

ジョルジュ・バタイユは、1897年生まれのフランスの思想家であり哲学者です。生田耕作訳(角川文庫)を紹介するつもりでおりましたが、最近新訳が出たので、そちらを推薦作にしました。
理由は訳文の新しさにあります。生田訳は10回以上読み返しており、ほとんど細部まで覚えていました。それゆえ、光文社古典新訳文庫(中条省平訳)は、別の作品の感じがしたほどです。「おれ」という一人称を極力削いだためだと思います。

ちょっと2つの訳の違いをみておきます。主人公が酒場を出て、
娼館のある街へと向かう場面です。

――孤独と暗闇とがおれをすっかり酔っぱらわせた。人気のない通りで夜は裸になっていた。おれも夜のように裸になりたかった。ズボンを脱いで、腕にひっかけた。おれの股間と夜の冷気とを結びつけたかったのだ。しびれるような自由の境地にひたっていた、しろものが大きくなるのが感じられた。屹立した器官をおれは片手に握りしめていた。(生田耕作訳P11―12)

――ひとりぽっちで、猥褻な気分も高まり、酔いはきわまった。ひと気のない通りで、夜が裸になっていた。私も夜とおなじように裸になりたくなった。ズボンを脱いで、腕にひっかけた。夜の冷気に馬乗りになりたかったのだ。目もくらむような自由が私を包んだ。自分が大きくなったように感じる。手は硬直した性器をつかんでいた。(中条省平訳P8)

バタイユは、ニーチェの継承者といわれています。大学時代に先輩に勧められて『青空』(昌文社)を読みました。正直にいうと、難解で読んでいても、ハテナマークが点滅し続けていました。しかしえぐられるような、言葉の重みは感じられました。『青空』は文庫化されていません。
G・バタイユ『マダム・エドワルダ』(光文社古典新訳文庫、中条省平訳)は短い作品です。ただし『マダム・エドワルダ』には、長い「序文」が存在しています。これは光文社古典新訳文庫にも角川文庫にも収載されていません。唯一所収しているのは、ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』(ちくま文庫、酒井健訳)です。章のタイトルは、「第七論文『マダム・エドワルダ』序文」となっています。このなかでバタイユは、次のように書いています。

――この短編小説では、エロティシズムはざっくばらんに描かれていて、ある裂け目を意識することへ読者を開かせているのだが、それだから私にとってその序文は、悲壮な呼びかけ(私はそう欲している)の機会になっている。(同書P453)

◎文章が混乱している

 バタイユ研究の日本の第一人者・酒井健は、著作『バタイユ入門』(ちくま新書)のなかで、バタイユの難解さについて次のように書いています。

――当時、仏文学者の間で、バタイユは難解な現代の書き手三傑のなかに、そのトップに位置づけられていた。(名前が皆Bで始まるところから3Bと呼ばれていた――残り二人はブランショとベケット)。バタイユ思想の理解が困難であった理由は、三つある。まず第一に、彼の著作がきわめて多くの分野に渡っていること、第二にヘーゲル、ニーチェといった哲学者との影響関係がかなり複雑であること。そして彼自身の文章が混乱している三点だ。(同書P013)

 バタイユを読むには、酒井健が指摘する3点目を心したいものです。わからなくて当然なのです。なにしろ筆者が混乱しているのですから。
『マダム・エドワルダ』は、30ページほどの短い作品です。
私はいつも言葉の威力に圧倒されながら読んでいます。

『マダム・エドワルダ』のストーリーについて、三島由紀夫が触れている文章があります。引用させてもらいます。

――バタイユの『マダム・エドワルダ』は、神の顕現を証明した小説であるが、同時に猥褻をきわめた作品である。娼家「鏡楼(レ・グラース)」で、自ら神と名乗る娼婦マダム・エドワルダを買った「おれ」はそのあと、裸体の上から黒いドミノを直に着て、黒い仮面をつけてさまよい出るエドワルダのあとを尾行(つ)け、その発作を目撃し、これをたすけて共に乗ったタクシーの中で、運転手に馬乗りになって交接するエドワルダの姿に、真の神の顕現を見るという物語である。(『三島由紀夫のフランス文学講座』ちくま文庫P212)

 三島由紀夫はバタイユを高く評価しています。また岡本太郎、花田清輝が中心になって、椎名鱗三、埴谷雄高、野間宏、佐々木基一、安部公房らが会員として参加していた「夜の会」の勉強テキストとされてもいました。特に岡本太郎はパリでバタイユと接触しており、思想的に大きな影響を受けています。

◎奇妙な追いかけっこ

少しだけバタイユに触れている日本の作家の論文を紹介しておきたいと思います。いずれの引用文も難解ですが、バタイユを理解するうえでは貴重なものです。

――かって、バタイユは、存在における死、暴力、暗黒への願望の表出としてのみとらえられている頃があった。バタイユが実存主義の列に加えられ、反倫理主義の一翼を担う者として、短絡的に理解されていた時代である。/ついては、吉本隆明が論じたように、行為を実体ではなく関係の世界において認知することを強調し、エロティシズムもまた広義の幻想の所産であることに気付いていた思想家としてとらえられた。(栗本慎一郎『反文学論』光文社文庫P109)

――彼(バタイユ)は外科医がゴム手袋をはめて患者の臓腑の中へ手をつっこむように、きわめて手際のよい認識で、底なし沼の中へちょっと手をつっこんで見せたにすぎない。しかし深層心理学の方法とはちがって、バタイユの長所は、エロチシズムが、現在ばらばら分裂して破片になって四散した世界像を、なお大根(おおね)のところで統一原理として保持している。(三島由紀夫『文学論集2』講談社文芸文庫P218)。

――マダム・エドワルダとは、本来なら「おれ」の心の空虚を埋めるはずのセクシャリティーが、一種のエクトプラズマとなって、外側に飛び出し、そこで、女という形をとったものだと、いいかえれば、「おれ」は「おれ」自身の空虚のあとを追っているのです。ですから、(中略)奇妙な追いかけっこは永遠に終わることはあリません。(鹿島茂『悪女入門』講談社現代新書P231)

 このほか吉本隆明『書物の解体学』(講談社文芸文庫)にもバタイユに関する論文があります。岡本太郎にもバタイユに関する著述があります。残念ながら手もとにありません。もしも『マダム・エドワルダ』が面白いと感じたら、読書の範囲を広げて見てください。
山本藤光2017.07.01初稿、2018.03.10改稿

リチャード・バック『かもめのジョナサン・完成版』(新潮文庫、五木寛之訳)

2018-03-08 | 書評「ハ行」の海外著者
リチャード・バック『かもめのジョナサン・完成版』(新潮文庫、五木寛之訳)

「飛ぶ歓び」「生きる歓び」を追い求め、自分の限界を突破しようとした、かもめのジョナサン。群れから追放された彼は、精神世界の重要さに気づき、見出した真実を仲間に伝える。しかし、ジョナサンが姿を消した後、残された弟子のかもめたちは、彼の神格化を始め、教えは形骸化していく…。新たに加えられた奇跡の最終章。帰ってきた伝説のかもめが自由への扉を開き、あなたを変える! (「BOOK」データベースより)

◎新たに最終章が加わった

リチャード・バック『かもめのジョナサン』(新潮文庫、五木寛之訳)の完成版が出たので、久しぶりに読み直してみました。五木寛之が巻末の「ゾーンからのメッセージ」に書いていますが、本書はモーリス・メーテルリンク『青い鳥』(新潮文庫)やサン=テグジュペリ『星の王子さま』(新潮文庫)と肩をならべる寓話物語の代表格だと思います。

完成版には最終章として、Part Fourが追加されています。この章が実に味わい深く、『かもめのジョナサン』はさらに高いところに飛翔した感があります。

五木寛之のいう「ゾーン」(ZONE)は、まさに完成版を象徴していると思います。「ゾーン」とは、野球の好打者がよく打てる理由を「ボールが止まって見える」などと表現する境地をしめします。心と体が完全に一体になった状態のことです。

――「飛ぶ」「よりよく飛ぶ」ことのフィジカルな追求が、おのずと精神世界に彼(補:ジョナサン)をみちびいたのである。(五木寛之「ゾーンからのメッセージ」)

かもめのジョナサンは、ひたすら「よりよく飛ぶ」ことを追求します。仲間と群れて、漁船のまき餌を求めたりはしません。朝から晩まで、自らの肉体を「よりよく飛ぶ」ための訓練にささげます。そうしたことで、群れの掟を破ったとして追放されてしまいます。

それでもジョナサンは、さまざまな飛翔の形を追い求めます。そのうちにジョナサンの姿を見た、若いかもめがやってきます。群れを追われた、かもめもやってきます。ジョナサンは彼らを受け入れ、熱心に指導します。

やがてジョナサンは先生と呼ばれ、さらに神格化されるようになります。五木寛之はそのことを、阿川佐和子・大竹まことの司会するテレビで、「法然みたいな乞食ぼうずが、どんどん祭られていったような状態」と語っていました。ジョナサンにとって、そんなことはどうでもいいことでした。ひたすら美しく飛びたい、という思いしかなかったのです。

◎ジョナサンのひたむきさ

世界4000万人の人を魅了しているのは、ジョナサンのひたむきさだと思います。追加された最終章では、やけになって自殺を敢行するかもめを、ジョナサンは救います。この章は原作者が追記したものといわれていますが、五木寛之は最初から書かれていたものだと推察しています。なぜ今さら新たな章を加えたのかは謎ですが、ジョナサンの愛を際立たせるものとして、私は必要な章だったと感じました。

原作者のリチャード・バックは、元アメリカの戦闘機パイロットです。このあたりも、サン=テグジュベリと同じです。サン=テグジュベリは飛行機操縦中に、地中海上空で行方不明となっています。いっぽうリチャード・バックは、2012年自家用飛行機の事故で瀕死の重傷を負っています。

『かもめのジョナサン・完成版』のあとがきのなかで、五木寛之は本書に対する批判的な意見を書いています。旧版のときにも物議を呼びましたが、完成版にも同じ文章が掲載されています。

――この物語が体質的に持っている一種独特の雰囲気がどうも肌に合わないのだ。ここにはうまく言えないけれども、高い場所から人々に何かを呼びかけるような響きがある、(あとがきより)

旧版でこの文章を読んだとき、「パイロットなのだから上から目線は仕方がないんじゃない」と突っこみを入れた記憶があります。しかし今回最終章を加えたことで、この目線はずいぶん和らぎました。それは飛行機の墜落事故と、無縁ではないはずです。墜落しているときに死を覚悟した心境が、この章を書かせたのだと思います。

ジョナサンについても、さまざまな意見があります。ひとつだけ紹介させていただきます。

――ジョナサンのいかがわしさは、汲々とエサを追いかける仲間を、まるで駄目な生物のように見なす独善の愚かしさにある。虫酢が走った。(岡野宏文の話、豊崎由美との対談集『着年の誤読』ぴあP273)

私はそんな受け止め方はしませんでした。ジョナサンの頑固さや向上心や愛情の深さに、むしろ心をひかれました。追加された最終章を読んで私のなかのジョナサンは、一層魅力的になったとお伝えします。
(山本藤光:2016.06.25初稿、2018.03.08改稿)



ボードレール『悪の華』(集英社文庫、安藤元雄訳)

2018-03-07 | 書評「ハ行」の海外著者
ボードレール『悪の華』(集英社文庫、安藤元雄訳)

1857年6月、発売と同時に検閲にあい、風俗壊乱の罪に問われた『悪の華』は、「きみは新しい戦慄を創造した」とのユゴーの絶賛をはじめ、フローベルなど多くの知友から賞賛された。第二帝政時代のブルジョア社会から忌避され危険視されたボードレールだが、彼の投じた「近代詩」への波紋はヴェルレーヌ、マラルメ、ランボーに、そしてロートレアモンへと拡がり、その後の世界の詩の流れを決定した(「BOOK」データベースより)

◎読者は共犯者

のちに一部を引用させていただきますが、冒頭の「読者に」について、次のような解説を引いておきます。

――のっけから詩人は、詩集全体を貫く最大のテーマである「悪」を、その具体的諸相のうちに列挙、提示しようとする。しかも、その中でもっともたちの悪い「倦怠」の共有を契機に、読者を、有無をいわせずこれらすべての「悪」の共犯者にしたてあげる。(『世界文学101物語』高橋康也・編、新書館P104)

詩を読むのは得意ではない、と思っているかたは多いことと思います。私もそのなかのひとりです。しかしボードレールの詩をはじめて読んだとき、一字一句が心に突き刺さるのを感じました。すさまじい言葉の棘。

――恐らく十九世紀文学の最大の情熱の一つである自意識というものをもって実現し、又これによって斃死したボオドレエルは、まさにリボオの言を敢行した天才であった。(小林秀雄「様々なる意匠」、『Xへの手紙』新潮文庫所収P123)

引用文中の「リボオの言」とは、次のことをさします。
――人体の内部感覚というものは、明瞭には、局部麻酔によって逆説的に知り得るのみだ。(アルマン・リボオ:フランスの心理学者。)

松本侑子は、私と同様に詩集を最後まで読んだのは、はじめての体験と書いています。そのうえで、次のようにつづけています。

――私に限らず全ての読者は、彼の子供じみた甘えを自分の内にも見出し、彼を赦さずにはおれない。共犯者めいた気分を分かち合わずにはいられない。だからこそ読者は、この詩人に親しみ、彼の耽美的な退廃や物憂い甘さに酔い、おののきながら悪魔的な禁断の楽園に足をふみいれ、つい帰りそびれてしまう。(松本侑子『読書の時間』講談社文庫P209)

ボードレール『悪の華』は、物語として読むべきだとの論評もあります。たしかに悪ではじまり、悪でむすばれていますので、そこに何らかの意図があるのかもしれません。本書は醜悪なものの見本市です。しかし並べ方が、なんとも説得力があります。

――この詩集には社会通念としての美しいものはなにひとつありません。登場するのは、それこそ煤煙にまみれた労働者であったり、あるいは路上をさ迷うせむしの老婆だったり、売春婦であったり、あるいは外見の華やかさとは裏腹に内面はぶよぶよの、精神が潰瘍状態になったような貴婦人であったり、要するにわたしたちが普通、美しいと思うものの対極にあるような、退廃した、醜悪なものばかりです。

◎まったく異なる訳文

大学時代に新潮文庫(堀口大學訳)で読んでいました。「山本藤光の文庫で読む500+α」の推薦作としましたので、今回は集英社文庫(安藤元雄訳)で読み直しました。驚きました。まったく訳調がちがっていたのです。

冒頭の「読者に」は、最初の数行は諳んじていました。2つの訳文は、出発点からちがっているのです。

われらが心を占めるのは、われらが肉を苛むは、
暗愚と、過誤と、罪と吝嗇(けち)
乞食が虱を飼うように
だからわれらは飼いならす、忘れがたない悔恨を。
(新潮文庫、堀口大學訳)

愚行、あやまち、罪、出し惜しみ、
われらの心を占拠し われらの体をさいなむはこれ
そこでわれらはおなじみの悔恨どもをかいふとらせる
乞食が虱を養っているのと同じこと。
(集英社文庫、安藤元雄訳)

愚癡(ぐち)、過失、罪業、吝嗇は
われらの精神(こころ)を占領し 肉體を苦しめ、
乞食どもが 虱を飼ふごとく、
われらは 愛しき悔恨に餌食を興ふ。
(岩波文庫、鈴木信太郎訳)

愚かさ、誤り、罪、吝嗇は、
われらの精神を領し、肉体を苦しめ、
われら、身に巣食う愛しい悔恨どもを養うさまは、
乞食たち蚤や虱をはぐくむにも似る。
(ちくま文庫『ボードレース全詩集1悪の華』阿部良雄訳)

もうひとつ紹介させていただきます。ネットに「フランス文学と詩の世界」というサイトがあります。訳者は明らかにされていませんが、こんな訳文が公開されています。

愚行と錯誤、罪業と貪欲とが
我らを捕らえ 我らの心を虜にする
乞食が虱を飼うように
我らは悔恨を養い育てる

ボードレールの詩は、自分の好みの訳文で読まなければなりません。今回は新しい訳文というだけの理由で、集英社文庫を紹介させていただいています。

◎ボードレールの「悪」

多田道太郎は、朝日新聞社学芸部編『読みなおす一冊』(朝日選書)で『悪の華』を取り上げています。そして第108詩を「ふたり酒」とタイトルをつけて、自ら訳文を掲載しています。

「ふたり酒」(多田道太郎訳)
きょう、空間は輝きわたる。
轡(くつわ)もなく 拍車もなく 鐙(あぶみ)もなく
さあ行こうよ 、ワインに 馬のりになって
妖精と神の住む大空に向かって

「愛し合う二人の酒」(集英社文庫、安藤元雄訳)
今日はあたり一面きらきらしている!
轡もない、拍車もない、手綱もないが、
さあ出発だ 葡萄酒の背にまたがって
夢のような神々しい空へ向かって!

「愛し合う男女の酒」(新潮文庫、堀口大學訳)
今日大空は素晴らしい!  
轡(くつわ)も拍車も手綱もなしで
酒に跨って出かけよう
夢幻と聖(きよ)さの空めざし!
(註:本文の「轡」の字は、「行」という漢字のなかに「金」という字がはいります。変換できません)

ちなみに他の訳書は、「恋人たちの葡萄酒」(ちくま文庫、阿部良雄訳)、「恋する男女の酒」(岩波文庫、鈴木信太郎訳、註「恋」は旧字で表記)となっています。

吉田健一は古さが取り柄のパリと、ボードレールの詩を重ねてみせます。私はボードレールの詩のなかに、「若い狂気」を見ました。それゆえに吉田健一が古いパリの光景を発見したのは、すぐれた眼力だと思いました。

――春というのがその人間的で歴史的な意味を具体的に持っているのはパリのような町でマロニエの並木が芽を吹く時である。ボオドレエルの詩の魅力がそこにあり、それがその詩の魅力であることを解るまでには随分掛かった。(吉田健一『書架記』中公文庫P78)

最後にボードレールの「悪」について、触れた文章を紹介させていただきます。笑ってしまいました。若いころの宮本輝と父親との会話場面です。

――父は、その詩を正確に覚えていたらしいが、<田舎ホテルの窓硝子に 悪魔は 全て灯を消した>のところまで暗礁すると、箸を折り、「日本にいんちき詩人をぎょうさんのさばらせたのは、このボードレールや」と怒ったように言った。そして、どんな分野でも、中途半端が一番良くないといった。「真似事は、結局どれも中途半端なものを生む」と父は言いたかったらしい。(宮本輝『本をつんだ小舟』文春文庫P43)

引用ばかりになってしまいましたが、ボードレールは書評家泣かせです。ストーリーや登場人物の紹介が、できないからです。しかし外国の古い骨董市にいるような心境になりました。ページを進めるにつれ、私の心は弾んでいました。
山本藤光:2013.06.21初稿、2018.03.07改稿

パトリシア・ハイスミス『太陽がいっぱい』(河出文庫、佐宗鈴夫訳)

2018-03-05 | 書評「ハ行」の海外著者
パトリシア・ハイスミス『太陽がいっぱい』(河出文庫、佐宗鈴夫訳)

イタリアに行ったまま帰らない息子ディッキーを連れ戻してほしいと富豪に頼まれ、トム・リプリーは旅立つ。その地でディッキーは、絵を描きながら女友達マージとともに自由な生活をおくっていた。ディッキーに心惹かれたトムは、そのすべてを手に入れることを求め、殺人を犯す…巨匠ハイスミスの代表作。(「BOOK」データベースより)

◎巧みな登場人物の心理描写

 最初にパトリシア・ハイスミスについて触れておきたいと思います。ハイスミスは1921年生まれのアメリカの女性作家です。彼女のデビュー作は交換殺人事件を扱った『見知らぬ乗客』(初出1950年)です。これがヒッチコック監督により映画化されて大ヒットし、ハイスミスを一躍有名作家にしました。本書は最近、河出文庫(白石朗訳)から復刊されています。

今回紹介させていただく『太陽がいっぱい』(河出文庫、佐宗鈴夫訳)の紹介の前に、パトリシア・ハイスミスについて事典で確認しておきます。

――ハイスミスは「小説と推理物語との総合を行って成功した完全な作家」であり、登場人物の心理描写にかけては、文学の世界を見渡しても、おそらく彼女の右に出る者はいない。ハイスミスの作品に充満している密度の高いサスペンスは、登場人物たちが抱く追い詰められた心理状態から生まれるものであり、それが読者をいわれなき不安感へと陥れるのである。(『海外ミステリー事典』新潮社)

ハイスミスの「巧みな心理描写」を映像で表現するのは至難の業になります。のちに触れますが、原作と映画はまったく別物になっています。

◎映画とはまったく別物

パトリシア・ハイスミス『太陽がいっぱい』(河出文庫、佐宗鈴夫訳)は、アラン・ドロン主演映画で話題になりました。映画を観た人が、本書を読むと間の抜けたものになります。私は本書を読んだあとに、ビデオを観ました。この順序が逆でなかったことに、安堵しました。本と映画とは、まったく別物だったのです。そのことについて、丸谷才一は怒りのタッチで次のように書いています。

――映画と長編小説とでは登場人物名も違ふ。筋も違ふ。殊にエンディングが大きく違ふ。仕方がないから『才能あるリプリー氏』と書くことにしよう。以下、もう映画のことには触れない。(丸谷才一『快楽としてのミステリー』ちくま文庫P159)

丸谷才一が突き放したとおり、本書では完全犯罪が成就されます。しかし映画の方は、それが露見されてしまうのです。本書の原題「才能ある」とは、悪事の才能があるリプリー氏という意味です。それゆえ、映画のような終わり方になってはならないわけです。
小説の邦題は、映画の大ヒットにあやかってつけられたものです。小説の方には海面に輝く、まぶしい太陽は登場しません。

◎綱渡りの末に

 本書の三分の一までは、犯罪に関係のないやや間延びした展開です。ところが、そこから一気にスリリングなストーリーに変貌します。主人公のトム・リプリーは25歳の盗人です。
 ある日、トムの前に一人の紳士が現れます。彼は2年前に家を出た息子(ディック・グリンリーフ)を、ヨーロッパから連れ戻してもらいたいと依頼します。トムはその依頼を引き受けます。
 たくさんの資金をもらい、トムはディックの住んでいるモンジベロへと向かいます。モンジベロは、ナポリの南に位置する海辺の村です。

 その村でトムは、ディックと再会します。彼は稚拙な絵を描き、女ともだちのマージと遊びふけっていました。マージはディックに夢中でしたが、ディックの態度はつれないものです。
 やがてトムはディックと親交を深め、彼の豪邸に居候させてもらうことになります。

 マージはトムが同性愛者であるとの疑惑をもちます。ディックを奪われてしまう、と不安になります。ディッキーとトムは、同道を拒んだマージを残して、二人でサンレモへ行きます。
 トムはディッキーの優雅な生活をうらやましく思っていました。しかしその羨望は、しだいに憎しみに変化していきます。

二人はモーターボートを借りて、沖へと出ます。そしてトムはディッキーを殺害します。死骸は重しをつけて、海底に沈めます。そして血痕のついたボートも沈めます。

 その後トムは、ディッキーになりすまし、アリバイ工作をします。このあたりから読者はトムに寄り添い、ハラハラドキドキさせられることになります。

倉橋由美子は著作のなかで、エンディングをこんな具合に紹介しています。
――トムは息詰まるような綱渡りの末に、何とか逃げ切って、その犯罪を成功させてしまうのです。トムはディッキーの遺書を偽造してその財産の一部を頂戴し、それまでのうだつのあがらない生活におさらばするのです。(倉橋由美子『偏愛文学館』講談社文庫P153)

◎自らを開放する

主人公トム・リブリーについて書かれた文章があります。紹介させていただきます。

――リブリーは犯罪という手段を用いて、一般人の世界から逸脱することで自らを開放することに成功したコズモポリタンである。しかし同時に、元いた場所には決して戻ることができない故郷喪失者としての悲しみも背負っている。(杉江松恋『読み出したら止まらない!海外ミステリー』日経文芸文庫P75)

私には故郷喪失者とは読みませんでした。むしろ一般社会からの落伍者として位置づけました。

その後、トム・リブリーを主人公とした作品がシリーズ化されています。『贋作』『アメリカの友人』(いずれも河出文庫)などです。タイトルと原作とのギャップは別にして、引きずりこまれる傑作でした。
山本藤光2017.12.15初稿、2018.03.05改稿

スティーヴ・ハミルトン『解錠師』(ハヤカワ文庫、越前敏弥訳)

2018-03-04 | 書評「ハ行」の海外著者
スティーヴ・ハミルトン『解錠師』(ハヤカワ文庫、越前敏弥訳)

八歳の時にある出来事から言葉を失ってしまったマイク。だが彼には才能があった。絵を描くこと、そしてどんな錠も開くことが出来る才能だ。孤独な彼は錠前を友に成長する。やがて高校生となったある日、ひょんなことからプロの金庫破りの弟子となり、芸術的腕前を持つ解錠師に……
非情な犯罪の世界に生きる少年の光と影を描き、MWA賞最優秀長篇賞、CWA賞スティール・ダガー賞など世界のミステリ賞を獲得した話題作。(内容紹介より)

◎2つの物語を交互に

スティーヴ・ハミルトン『解錠師』(ハヤカワ文庫、越前敏弥訳)の帯には、「このミス第1位」「週刊文春第1位」のコピーが胸を張っています。一度ポケットミステリーで読んでいましたが、文庫となったので再読しました。

本書は2重構造になっています。最初に読んだときは、その予備知識がなかったので、ちょっと戸惑いました。今回はスムーズに、読み進めることができました。2重構造について、説明しておきます。

主人公「ぼく」(マイクル)は留置所にいます。「ぼく」は読者に向かって、8歳のときに「奇跡の少年」と呼ばれた事件のことを「覚えているだろう」と問いかけます。

2重構造の1つは、「ぼく」が被害者となった事件から書き起こされます。そして解錠師となるまでの、少年時代の回想です。2つめは、解錠師となってからの話です。2つのストーリは交互に語り進められ、ある時点でそれが交わることになります。

「ぼく」(マイクル)は、言葉を発することができません。それは8歳のときに受けた、事件のトラウマによるものです。また成長したマイクが解錠師の道を進むのも、その事件と無関係ではありません。少年マイクルは、鍵を開けることと絵を描くことに、特別な才能をもっています。

◎美しい少女アメリアとの出会い

8歳の事件のことは、伏せられたまま物語は進行します。8歳の事件後、マイクルは伯父の家に引き取られます。マイクルは周囲に心を閉ざしたまま、言葉を発しない孤独な少年として成長していきます。

そして高校2年の夏、美しい少女アメリアに出会います。マイクルは自分の愛情を、特異な絵にたくして伝えます。絵心のあるアメリアからも、絵によってメッセージが戻ってきます。こうして2人のコミュニケーションは、しだいに深まっていきます。このプロセスが読みどころのひとつです。

このあたりの展開について、佐々木敦は次のように書いています。

――高校生になったマイクはゴーストと呼ばれる伝説の金庫破りに弟子入りし、プロの「ロック・アーティスト(本書の原題)」として仕事を始める。泥棒に手を貸し、時には凄惨な現場に立ち会いながらも、彼の脳裡にはいつも愛する少女アメリアの姿があった……。(BOOK .Asahi.com.2013.01.13)

佐々木敦の指摘どおり、アメリアの存在は作品の中核となっています。アメリアはマイクルに向かって、「あなたはしゃべれないのではなく、しゃべらないのだ」といいます。マイクル自身もそう思っています。マイクルはどんなきっかけで言葉を発するのでしょうか。その瞬間を求めて、私は『解錠師』と向き合いつづけました。

◎8歳のトラウマの鍵を解く

2つめの読みどころは、金庫を開けるマイクルの技術と心の動きの描写場面です。ハミルトンは実にリアルに、金庫に挑むマイクルを描きあげています。

そして3つめの読みどころは、8歳のときの事件のトラウマで生じた心の扉を、いつ開くかという点にあります。

金庫破りという主人公をすえた本書ですが、私はミステリーというよりも不思議な恋愛小説という感触を味わいました。金庫破りは女を落とすときと同じこと。そんなやさしい主人公の息遣いが、金庫に対してもアメリアに対しても感じ取ることができました。

マイクルを取り巻く数多い犯罪者との対比として、本書はアメリアなくしては存在しません。聞こえるけれども、話すことができない。主人公マイクルのいら立ちは、あまり感じられないのも、著者ハミルトンが施したテクニックだったと思います。
(山本藤光:2013.01.24初稿、2018.03.04改稿)


O・ヘンリー『1ドルの価値/賢者の贈り物』(光文社古典新訳文庫、芹澤恵訳)

2018-03-02 | 書評「ハ行」の海外著者
O・ヘンリー『1ドルの価値/賢者の贈り物』(光文社古典新訳文庫、芹澤恵訳)

ユーモア、犯罪、皮肉な結末。アメリカの原風景とも呼べるかつての南部から、開拓期の荒々しさが残る西部、そして大都会ニューヨークへ―さまざまに物語の舞台を移しながら描かれた多彩な作品群。20世紀初頭、アメリカ大衆社会が勃興し、急激な変化を遂げていく姿を活写した、短編傑作選。O・ヘンリーの意外かつ豊かな世界が新訳でよみがえる。(「BOOK」データベースより)

◎短篇小説の名手

O・ヘンリーといえば、ポーやサキと並んで短編、掌編小説の名手として名が知れています。新潮文庫(大久保康雄訳)から、『O・.ヘンリー短編集』全3巻が出ています。O・ヘンリー作品集は、アメリカでは500万部超のロングセラーになっています。O・ヘンリー作品の魅力について、書かれた文章があります。

――O・ヘンリー作品の描く作品の人物たちが、根っからの庶民だからである。彼は平凡な人たちの生活や感情のよくわかる作家で、庶民たちの生活の中の小さなドラマを巧みにとらえて描いている。(『国文学解釈と鑑賞・短編小説の魅力』(1978年4月号)

残念なことに引用した雑誌は、休刊になってしまいました。

今回私の好きな短篇を、タイトルにした新訳が出ました。『1ドルの価値/賢者の贈り物』(光文社古典新訳文庫、芹澤恵訳)です。久しぶりに読み直してみました。今回も悲しいドラマを、笑いにかえる妙技に舌を巻きました。ちなみに新潮文庫(小川高義訳)からも、新訳がでています。
『賢者の贈りもの・O・ヘンリー傑作選1』(新潮文庫)
『最後のひと葉・O・ヘンリー傑作選2』(新潮文庫)

O・ヘンリーの物語は、巧みな構成力で縁どられています。そしてなにより秀逸なのが、エンディングです。しかも情景描写と人物造形が優れています。紙面の関係で、今回紹介させていただくのは「賢者の贈り物」だけになります。

いずれも短い物語ですので、「賢者の贈り物」を読んでおもしろければ、「最後の一葉」「1ドルの価値」と読み進めてください。

◎「賢者の贈り物」こそ代表作

「賢者の贈り物」は、多くの評論家が、O・ヘンリーの代表作にあげています。

「賢者の贈り物」は、若い夫婦の話です。2人は毎日を辛うじて生活するほど貧しいのですが、深い愛情で結ばれています。夫ジムのもっている金時計と、妻デラの長いみごとな髪の毛だけが2人の財産でした。金時計は祖父の代から受け継いだ、貴重なものです。金の鎖のかわりに、皮ひもでとめられています。

クリスマスがやってきます。デラは思い悩んだすえに、夫へのプレゼントを買い求めるために、自らの髪の毛を売る決心をしました。その代金でデラは、夫の金時計につける金の鎖を買いました。2人は愛情を証明するために、プレゼントは必須だと信じています。のちほど触れますが、「愛があればプレゼントなどいらない」という考えなら、本書は成立しなくなります。

夫が仕事から戻ってきます。デラの髪の毛を見て、夫は驚愕します。夫が妻に用意したのは、長い髪の毛を飾る櫛だったのです。しかも夫ジムは高価な櫛を買うために、金の時計を売ってしまったのでした。

わずか10ページの物語ですが、2人の揺れる気持ちがヒシヒシと伝わってきます。2人の愛情の深さが手に取るようにわかります。そして予想もしなかった結末。デラの最後のセリフにふれたとき、シンミリとした気持ちが、一気に弾けました。すばらしい短篇です。

阿刀田高の分析がおもしろいので、紹介させていただきます。阿刀田は「賢者の贈り物」を成り立たせている要素として、「夫婦が深く愛し合っていること」「愛は贈り物を交換することで実証されると考えていること」「2人は貧乏していること」の3点をあげています。そのうえで、次のように書きます。

――作者が注意深くこの三つを描いて無理のない設定を構築していることに留意していただきたい。このあたりのそつのなさがトリッキーな作品の優劣を分ける分岐点となることが多いのも本当だ。ストーリーの進展の中で、さりげなく示されていることが、その実、作者の周到な用意の結果であるという事実を銘記していただきたい。(阿刀田高『海外短編のテクニック』集英社新書P122)

『1ドルの価値/賢者の贈り物』には、表題作以外に21編が収載されています。個人的には、「1ドルの価値」と「最後の一葉」が、O・ヘンリーらしい「どんでん返し」の短篇で好ましく感じます。
本稿は愚者から、あなたへの贈り物です。「つまらないものですが」とは、間違ってもいいません。
山本藤光:2012.07.14初稿、2018.03.02改稿