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山本藤光の文庫で読む500+α

著書「仕事と日常を磨く人間力マネジメント」の読書ナビ

リルケ『マルテの手記』(新潮文庫、大山定一訳)

2018-03-07 | 書評「ラ・ワ行」の海外著者
リルケ『マルテの手記』(新潮文庫、大山定一訳)

青年作家マルテをパリの町の厳しい孤独と貧しさのどん底におき、生と死の不安に苦しむその精神体験を綴る詩人リルケの魂の告白。(内容紹介より)

◎純粋な空間しか映らない

卒論に安部公房を選んだ関係で、彼が影響を受けた作家はほとんど読んでいました。リルケもそのなかの一人ですが、あまり深く影響されていないと安部公房本人が書いています。ずっと安部公房が書いている、次の文章が気になっていました。

――リルケの世界は、時間の停止だったのである。停止というよりも、遮断といったほうが、もっと正確かもしれない。リルケはほとんど時間を歌わない。彼の眼には、純粋な空間しか映らないかのようだ。彼にとって、存在とは、「もの」の形のことだったらしいのだ。(『安部公房全集第21巻』新潮社P437。註:本文中の「もの」は傍点です)

そして今回再読してみて、『マルテの手記』(新潮文庫、大山定一訳)は安部公房の指摘どおりであることを実感しました。

掘辰雄に『マルテの手記』と題する短文があります。青空文庫で読むことができます。そのなかでリルケ自身が友人に語ったとするエピソードが紹介されています。

――リルケは「生」の問題を最後まで考へ、最後まで見究めんとして彼の分身マルテをその「生」の最もぎりぎりのところ――殆ど「死」の傍――に終始立たしめた。あまりに弱い神經の持主マルテにはこれ以上殆ど生きがたいやうにさへ見える。しかしリルケは「生きることの不可能なことを殆ど證明するに了つたかに見えるこの本は、この本自身の流れに逆ひつつ讀まれなければならない」と友人への手紙にいふ。(青空文庫)

◎セザンヌの絵画のよう

リルケ『マルテの手記』(新潮文庫、大山定一訳)は、日記を連ねただけの断片で物語性はありません。主人公の「僕」は28歳で、詩や戯曲を書いています。ただし、満足できるものは書けません。僕は孤独と死の恐怖にさいなまれています。

ぼくが移り住んできたパリには、あらゆる種類の刺激があります。さまざまな人が暮らしています。僕はまずしっかりとそれらを見据えようと考えます。少しだけ僕が出会った人群れを引いてみます。

――僕は一人の男がよろめいて、ぶっ倒れたのを見た。(本文P8)
――僕はしばらくして一人の妊婦と出会った。(本文P8)
――今日、このほかに僕が見たのは、置きっぱなしの乳母車に乗せてあった子供である。(本文P8)

引用のような事物のスケッチの後、僕は幼年期の回想をします。死を目前にした祖父の人格の変化。幽霊を見たこと。壁から手が突きでてきたこと。回想は際限なくつづきます。こんな具合です。

――どんな不思議なことが起こっても驚かないつもりだった。しかも、突然壁の中から別なもう一つの手が出て来ようとは、僕は夢にも思わなかった。それは僕の見たこともない、大きな、ひどく痩せ細った手だった。(本文P114)

僕は「見ることを学んでいる」はずなのですが、実際にみているのは引用例のように彼にとって不可思議なものです。僕は質感のないものを見て、瞬時にそれをイメージとして構築します。そしてすぐにそれを壊してしまいます。僕はみているものには形がありますが、壊されたあとには何も残りません。

ふたたび孤独や死にかんする、エピソードが語られます。そして詩人たちが描いた女性の愛についての所感が述べられます。

僕の孤独な心のなかには、神が同居しています。僕は何度も神に問いかけます。リルケは心象風景を、抽象画のようにつまみだします。大学時代に難儀しながら読んだのは、岩波文庫(望月市恵訳)でした。今回新潮文庫で再読してみて、すらすらと読めることに驚きました。私は「抽象画のように」とたとえました。しかし、石光泰夫の文章を読んで、なるほどと思いました。引用させていただきます。

――イメージの輪郭はみえすぎるくらい鮮明にみえているのに、そのイメージがいわば音楽のようにざわめきたって、揺らぐ水面の映像のようにもなってしまうのは、あの動的にせめぎ合いながらそれでも一定の輪郭へと納まってゆくセザンヌの絵画のタッチと同じ現象であろうか。(『世界文学101物語』高橋康也・編、石光泰夫・文、新書館P141)

◎視覚。聴覚・嗅覚を総動員

主人公マルテは「見ることを学ぶ」決心をしたのですが、彼は「味覚」以外の五感(視覚、聴覚、触覚、嗅覚)を総動員させています。妊婦に出会ってからの、文章で検証してみます。妊婦は市立参院へと行くのですが。僕は今度は陸軍病院にたどりつきます。

――街路がいっせいに匂いはじめた。ヨードホルムと馬鈴薯をいためる油脂と精神的な不安と、僕はどうやらこの三種の匂いをかぎ分けることが出来た。(本文P8)

パリを彷徨したのち、僕は部屋へ戻ります。今度は匂いから音の世界が描写されます。

――窓をあけたまま眠るのが、僕にはどうしてもやめられぬ。電車がベルをならして僕の部屋を走りぬける。自動車が僕を轢いて疾駆する。どこかでドアの締まる音がする。(本文P9)

12歳のときの回想場面では。触覚が登場します。僕は食事の席の不気味さに耐えられず、向いの席の父の膝に自分の足を乗せます。

――長い食事時間をよく我慢できたのは、このかすかな接触が与えてくれた力づけのお陰であった。(本文P35)

リルケは感性豊かな詩人です。私は「味覚」の描写を3度も探しました。しかし発見できませんでした。また「触覚」に触れたのも1か所だけでした。つまり主人公マルテは、「視覚」をベースに、外部から感じられる「聴覚」と「嗅覚」を重んじたのだと思います。パッチワークのような詩片を、織りなしてシュールな散文に仕上げた手腕は、まさに天才のなせる技なのでしょう。
(山本藤光:2014.04.23初稿、2018.03.07改稿)


魯迅『阿Q正伝・狂人日記』(岩波文庫、竹内好訳)

2018-03-06 | 書評「ラ・ワ行」の海外著者
魯迅『阿Q正伝・狂人日記』(岩波文庫、竹内好訳)

魯迅が中国社会の救い難い病根と感じたもの、それは儒教を媒介とする封建社会であった。狂人の異常心理を通してその力を描く「狂人日記」。阿Qはその病根を作りまたその中で殺される人間である。こうしたやりきれない暗さの自覚から中国の新しい歩みは始まった。(「BOOK」データベースより)

◎物語の背景に辛亥革命

魯迅『阿Q正伝』は高校国語の教科書に、載っていました。「阿Q」という風変わりなタイトルを知って、T(禎)子、U(裕)子、K(啓)子などと書いて、楽しんだ記憶があります。また著者の魯迅は中国人で、医学を学ぶために日本に留学していたことも覚えています。

今回、魯迅『阿Q正伝・狂人日記』(岩波文庫、竹内好訳)を再読してみて、物語の背景に辛亥革命があることを知りました。高校時代は、不思議な主人公の小説、という印象しかありませんでした。

――阿Qには、家がなく、未荘の土地廟に住んでいた。決まった職もなく。日傭いとして、やれ麦を刈れ、やれ米をつけ、やれ船をこげ、と言われるとおりの仕事をした。(本文P105)

物語の冒頭を引用しましたが、革命が背景にある割には、何とも頼りない主人公のお出ましです。辛亥革命と明治維新を並べて、高橋和巳は著作の中でユニークな見解を述べています。

――日本の明治維新が西郷隆盛、坂本龍馬、高杉晋作や久坂玄端、吉田松陰や勝海舟、敵味方ともに、英雄豪傑を通じて語られ考察されるように、そういう視点を採用することもできたし、その方があるいは小説としては波乱万丈、より面白くなったかもしれない。(『高橋和巳作品集8』(河出書房新社P371)

ところが魯迅はあえて、一風変わった庶民を主人公に仕立てました。『阿Q正伝』は、魯迅の意欲的な挑戦作です。魯迅がなぜひ弱な主人公を選んだかについては、阿部昭は魯迅のエッセイ(『どうして私は小説を書くようになったか』)から、次のような考察をしています。

――何のために小説を書くのかといえば、必ず「人生のため」、しかもこの人生を改良するためでなければならぬ。そこで、自分はなるべく病んだ社会の不幸な人々を題材にしたかったからだ。(阿部昭『短編小説礼賛』岩波新書P191)

◎阿Qの精神的勝利法

『阿Q正伝』が誕生した、時代背景をおさえておきたいと思います。
――阿Qの生きた清朝末期から民国初期の革命時期は、中国では価値観が大きく転換する激動期でした。昨日までの社会の秩序を維持していたと考えられた規範や伝統文化などが、一転して足枷とされて否定されてゆく。(津野田興一『世界史読書案内』岩波ジュニア新書P49)

そして津野田興一は、つぎのように結びます。
――魯迅は文学作品という「武器」を手に、中国人が自分自身の姿を見ることができるような鏡を提示したのです。(津野田興一『世界史読書案内』岩波ジュニア新書P49)

このように魯迅は、中国の民衆に向けて、時代を映す鏡を提供しました。

阿Qは自尊心が強く、いつも周囲から馬鹿にされていました。しかし阿Qには、独特な精神的勝利法がありました。それは自分に都合のよい解釈をして、怒りを鎮める技術でした。

――ところが阿Qはものの十秒とたたずに、やはり満足して意気揚々と引きあげる。われこそ自分を軽蔑できる第一人者なりとかれは考えるのだ。(本文P108)

以前に『阿Q正伝』をベースに、「自己抑制」というテーマで文章を書いたことがあります。

阿Qはケンカをしても、常に負けます。賭博をして有り金をすべて巻き上げられます。そんなときに阿Qは、ささいなことだと笑いとばす気持ちに切りかえます。

私が書いたコラムは、不愉快なときに「不愉快だ」を10回唱えれば、やがて「愉快だ」といっている自分に出会う、という類の文章です。不愉快を引きずらない自己抑制については、阿Qの精神的勝利法がヒントとなりました。

◎時代が生んだ滑稽な男の物語

そんな阿Qに女性がらみの、屈辱的な事件が連続します。通りがかりの尼さんの頬をつねって、大騒ぎとなります。趙旦那に雇われた阿Qは、そこの女中に言いよって問題となります。阿Qは村から追放されます。

追放された阿Qは盗人の片棒をかつぎ、大金を手にして村に戻ってきます。それまで阿Qをないがしろにしていた村人たちは、手のひらを返したように接します。自尊心がむくむくと頭をもたげてきます。

ある夜、趙家が略奪にあいます。阿Qは事件の関連で逮捕されます。役人の尋問を受けた阿Qは、弁明することはないといいます。翌日、役人が筆と紙をもってきて、署名しろといいます。阿Qは筆をもったことがありませんでした。

――このときの阿Qの驚きは、文字どおり「魂が消えた」に等しかった。なにしろかれの手が筆と関係をもつのは、これが最初だったから。どう握ったものやら、わからないでいると、男は紙の一カ所を指して、署名しろと言った。
阿Qは渾身の力をこめて、マルを書きます。

ちなみに上記引用文の「魂が消えた」は、「たまげる(魂消る)」の意味です。「たまげる」を漢字で表記できる人は、多くはないと思います。

この先のストーリーにはふれません。抑圧された時代を生きる阿Qのしたたかさや智恵は、魯迅が庶民に発したメッセージでした。魯迅『阿Q正伝・狂人日記』(岩波文庫、竹内好訳)は時代が生んだ、滑稽な一人の男の物語です。
(山本藤光:2011.08.07初稿、2018.03.06改稿)

ロフティング『ドリトル先生航海記』(岩波少年文庫、井伏鱒二訳)

2018-03-05 | 書評「ラ・ワ行」の海外著者
ロフティング『ドリトル先生航海記』(岩波少年文庫、井伏鱒二訳)

靴屋のむすこのトミー少年は,大博物学者ロング・アローをさがしに,尊敬するドリトル先生と冒険の航海に出ることになって大はりきり.行先は海上をさまようクモサル島.島ではロング・アローを救い出し,ついに先生が王さまに選ばれ活躍しますが,やがてみんなは大カタツムリに乗ってなつかしい家に帰ります。(アマゾン内容紹介)

◎優れた井伏鱒二の訳

『ドリトル先生航海記』が単行本(新潮モダン・クラッシッス、福岡伸一訳、初出2014年)になっていたので、懐かしくなって手にとりました。本書は小学生のときに、図書館で借りて読んでいます。医学博士であり博物学者であるドリトル先生は、犬や鳥や魚と話すことができます。覚えていたのはそれだけで、まったく新鮮な物語として堪能しました。

その後、小学生の孫たちに読ませようと、岩波少年文庫『ドリトル先生航海記』を買い求めました。訳者の井伏鱒二は「山本藤光の文庫で読む500+α」で『山椒魚』(新潮文庫)を紹介しています。

単行本(福岡伸一訳)のあとがきには、次のような文章があります。
――スタビング君がはじめてドリトル先生と出会い、ドリトル先生の家を訪ねることになるシーンは、何度読んでも心温まる。とても美しい一節です。ドリトル先生の物語のエッセンスがすべてここに凝縮されているといってもいい。(福岡伸一あとがき)

というわけで、2つの本のこの場面を再現してみたいと思います。引用文は大雨に遭遇したスタビング少年が、駆けだしているシーンです。

――ところが、かけ出してからすぐに、私はなにかやわらかいものに、どんと頭をうちつけました。私は道にしりもちをつきました。私は、だれにつきあたったのだろうと顔をあげました。すると、私の目の前に、しんせつそうな顔の、ふとった小柄な人が、これも私と同じように、ぬれた道の上に、しりもちをついているのです。その人は、古ぼけたシルクハットをかぶって、小さな黒いカバンを手に持っていました。(井伏鱒二訳P27)

――いくらも行かないうちに、やわらかいものに頭をぶつけて、気づいたときには尻もちをついていました。いったい何にぶつかったのだろうと、顔をあげました。目のまえでやはり尻もちをついているのは、見るからにやさしそうな顔をした小太りの小柄な男の人でした。古ぼけたシルクハットをかぶって、手には小さな黒い鞄を持っています。(福岡伸一訳P25)

2つの訳文には、大きな差異は認められません。福岡伸一は井伏訳を尊重し、大きな手入れは避けました。そのうえで、原文に忠実に手入れをしたのです。それだけ先達の井伏鱒二の訳文が優れていたのでしょう。もちろん、井伏訳には現代にふさわしくない用語がたくさん出てきます。そのことは巻末で編集部の説明があります。どちらの訳文を選んでいただいても構いませんが、井伏鱒二訳を推薦作とさせていただきました。

◎浮島の王様 

ヒュー・ロフティングの「ドリトル先生」シリーズは、全部で12巻あります。そのなかで『ドリトル先生航海記』(岩波少年文庫、井伏鱒二訳)は2作目となります。

第1作『ドリトル先生アフリカゆき』(岩波少年文庫)では、医者だったドリトル先生がオウムのポリネシアから動物言葉を学び、獣医として活躍するにいたる経緯が書かれています。アフリカのサルの国で疫病が大流行し、ドリトル先生はサルの救助のためにアフリカに渡ります。

今回紹介する『ドリトル先生航海記』は、先に引用した少年トミー・スタビンズが語り手になっています。少年の視点からとらえていますので、ドリトル先生の表情や心の動きが手にとるようにわかります。そうした意味で、本書はシリーズを代表する作品といっても過言ではないと思います。

ドリトル先生はオウムのポリネシア、犬のジップ、猿のチーチー、アヒルのダブダブを助手にしていました。そこに9歳の少年スタビンズが加わったわけです。小学生のとき初めて本書を読んで、「桃太郎」の世界を重ねていた記憶があります。猿、鳥、犬を引き連れた桃太郎とドリトル先生が二重写しになったのだと思います。

ドリトル先生が一目置いているロング・アローが消息不明になったとの知らせが舞いこんできます。ドリトル先生一行は、偉大なる博物学者ロング・アローを探す目的で、南大西洋の浮島(クモサル島)へ向けて航海に出ます。船は途中で難破してしまいますが、一行はなんとかクモサル島へとたどり着きます。そして洞窟に閉じこめられていたロング・アローを救出します。

やがてドリトル先生は、浮島の王様に推挙されます。住人を乗せたまま、島はどんどん押し流されています。これ以上、ものがたりに触れることは控えます。楽しんでください。

◎殺処分される馬

前記のように、本書にはたくさんの差別用語が出てきます。その点について、ロフティングが本書を執筆した時代を理解しておかなければなりません。

――ロフティングが生まれた一九八六年は、大英帝国の最盛期、イギリスは世界中に植民地をたくさんもっていた。その時代の常識の多くは、今となっては非常識になっている。(神宮輝夫『監修:ほんとうはこんな本が読みたかった』原書房P89)

『ドリトル先生航海記』の誕生秘話について、書かれている文章があります。

――第一次世界大戦中に従軍していたロフティングは、兵士らが傷ついたときに手厚く看護されるのに、同じ危険を冒している馬はケガをすれば処分されること知った。馬も同じように看病すべきだ、そのためには馬の言葉を話す医者がいなければ……と考えたのがドリトル先生誕生のきっかけとなった。(定松正編『イギリス・アメリカ児童文学ガイド』荒地出版社P73)

本書を堪能できたら、ぜひ読んでいただきたい一冊があります。ドリトル先生が活躍した時代のイギリスが、よく理解できます。南條竹則『ドリトル先生の英国』(文春新書130)がそれです。
山本藤光2017.05.21初稿、2018.03.05改稿

オスカー・ワイルド『幸福の王子』(バジリコ、曾野綾子訳)

2018-03-03 | 書評「ラ・ワ行」の海外著者
オスカー・ワイルド『幸福の王子』(バジリコ、曾野綾子訳)

現在だからこそ、多くの人に読んでもらいたい不朽の名作。王子とつばめが紡ぐ愛と自己犠牲の物語。曽野綾子、入魂の新訳でお贈りする決定版。(「BOOK」データベースより)

◎曾野綾子の訳

オスカー・ワイルド『幸福の王子』(バジリコ、曾野綾子訳)が出たので、『幸福な王子』(新潮文庫、西村孝次訳)から紹介作を切り替えます。私は本作をkindle(結城浩訳)でも読んでいます。3つの訳文に大きな違いはありません。
しかし大好きな作品を曾野綾子が手がけてくれたことに、感激させられました。

曾野綾子訳を読み、巻末の「あとがき」を読んだとき、私は思わず最後のページに戻らざるをえませんでした。曾野綾子は「ただ一行だけ私が意図的に変えたところがある」と書いていたのです。その文章について、他の訳文とのちがいを、のちほど比較してみます。写真はバジリコ版の挿絵(建石修志)です。

ざっとストーリーを、追っておきたいと思います。

町に金色に輝く幸福の王子の像があります。身体は金箔にまとわれ、両眼にはサファイアがはめこまれています。剣にはルビーが光っています。
その王子の像に一羽のツバメが、羽を休めるためにとまります。王子はツバメに、協力を要請します。
町に困っている人がいるので、自分の眼のサフィアを届けてあげてもらいたい。仲間のツバメたちは群れて、エジプトへ向かっています。ツバメは一回だけの条件で、王子の要請に応えます。
しかし王子は次の日も、そしてその次の日も、ツバメに自分の身体をまとっているルビーや金箔を、貧しい人に届けるようにお願いします。
こうして王子の像からは、一切の宝飾類がなくなりました。
王子は鉛の心臓だけを残して、崩壊してしまいます。王子のやさしい気持ちを支えた、ツバミも死んでしまいます。銅像の台座のところには、王子の鉛の心臓と一羽のツバメの死骸が残っています。

そんなときに、神さまが天使に次のように命じます。

――神さまが天使たちの一人に「町の中で最も貴いものを二つ持ってきなさい」とおっしゃいました。 その天使は、神さまのところに鉛の心臓と死んだ鳥の亡骸を持ってきました。(結城浩訳)

その場面は、本書のラストのページになります。次項で3つの訳文を比較してみます。

◎神とともにいる

3つの訳文のラストを並べてみます。
引用文の前提は、次のとおりです。

【kindle(結城浩訳)】
――神さまは「よく選んできた」とおっしゃいました。 「天国の庭園でこの小さな鳥は永遠に歌い、 黄金の都でこの幸福の王子は私を賛美するだろう」

【新潮文庫(西村孝次訳)】
――「おまえの選択は正しかった」と神さまは言われました。「天国のわたしの庭で、この小鳥が永遠に歌いつづけるようにし、わたしの黄金の町で幸福な王子が私を賞(ほ)めたたえるようにするつもりだから。

【バジリコ(曾野綾子訳)】
――「お前はいいものを選んだ。私の天国の庭では、このつばめは永遠に歌い続けるだろうし、私の黄金の町で『幸福の王子』は、ずっと私と共にいるだろう。

「神とともにいる」。曾野綾子のこだわりは、この一語にあります。聖書の世界はよく知りませんが、他訳の「神をほめる」は、「神と共に生きる」という前提で成り立っています。そこで曾野は、わかりやすく大前提の「ともにいる」を選んだわけです。素敵なわかりやすい選択だったと感心しました。

◎「幸福な」と「幸福の」と2つのタイトル

大人向け『The Happy Prince』(原書名)には、2つタイトルが存在しています。私は『幸福の王子』の方がふさわしいと考えています。
「幸福な王子」の方は、銅像になるまえに市民から呼ばれていた尊称です。王子は「無憂宮」といわれる貧しさや悲しみとは無縁の天国のようなところに住んでいました。王子自身も自分は幸福だと思っています。
「幸福な王子」は、そんな背景から用いられているタイトルです。
しかし物語は、幸福を提供する銅像である王子が描かれています。それゆえ、「幸福の王子」の方が、物語に適していると思います。

王子は銅像になって初めて、人々の貧しい生活を知ります。

◎少年少女小説の第14位

文春文庫ビジュアル版『少年少女小説ベスト100』で、本書は第14位に選ばれています。今なお根強い支持がある作品なのです。同書のなかで、ワイルド自身が『幸福の王子』について語った言葉が紹介されています。

――ワイルドの童話は息子のために書かれたものが基になっている。(中略)半ば子供のため、半ばは子供のように驚いたり喜んだりする能力を失っていない大人のために、書いたという。(『少年少女小説ベスト100』文春文庫ビジュアル版P135)

ラストの方では、すっかり変わり果てた王子の像を見て、市長や市議が新たな像を建てる相談をする場面があります。

――市長が言うには、「もちろん、新しい像を作らなきゃならないが、それだったら私の像がいいと思うが」「いや、私のがいいですぞ」と市会議員たちが口々に言い、喧嘩が始まった。(本文P42-43)

この箇所に着目した小川洋子は、次のように書いています。子どものときは気づかなかったが、大人になって再読して感じたとのことです。

――高貴な心を持った王子とは対照的な、世俗にとらわれた人々。こういった描写に思わずニヤリとしてしまう感覚は、子どもの頃はなかったものでした。(小川洋子『みんなの図書室2』PHP文庫P175)

子どもの本だとすませないで、ぜひ大人の感覚で堪能していただきたいと思います。
山本藤光2017.11.30


ラディゲ『肉体の悪魔』(光文社古典新訳文庫、中条省平訳)

2018-03-01 | 書評「ラ・ワ行」の海外著者
ラディゲ『肉体の悪魔』(光文社古典新訳文庫、中条省平訳)

第一次大戦下のフランス。パリの学校に通う15歳の「僕」は、ある日、19歳の美しい人妻マルトと出会う。二人は年齢の差を超えて愛し合い、マルトの新居でともに過ごすようになる。やがてマルトの妊娠が判明したことから、二人の愛は破滅に向かって進んでいく…。(「BOOK」データベースより)

◎夭折した天才作家

20歳で夭折した天才作家レイモン・ラディゲは、17歳のときに『肉体の悪魔』を発表しています。ラディゲが文壇に登場したのは、それ以前に発表した詩集『燃える頬』(初出1920年、17歳)によってでした。そのころからラディゲは、創作に意欲を燃やして「肉体の悪魔」を執筆しています。

『燃える頬』は『完本ラディゲ全集』(雪華社、江口清訳)に所収されていますが、他の訳書はみあたりませんでした。その後『肉体の悪魔』(初出1923年、20歳)を発表すると大きな反響をよび、ラディゲはフランス文壇の寵児となります。そして第2作『ドルジェル伯の舞踏会』(新潮文庫)の執筆に没頭します。本書はラディゲの死後に刊行されました。

若きラディゲの背中を押したのは、ジャン・コクトー(「500+α」推薦作『恐るべき子供たち』岩波文庫)でした。コクトーはラディゲの詩を高く評価し、出版への道を拓きます。その後2人は親密になり、いっしょに旅行へ行ったりしています。

ラディゲの臨終を看取ったジャン・コクトーのエピソードについては、三島由紀夫が『ラディゲの死』(新潮文庫、初出1953年)という作品を発表しています。三島由紀夫は少年の時より、ラディゲに心酔しつづけてきました。

しかしラディゲの葬儀にコクトーは現れません。彼は絶望の底にあり、ヘロインに走るようになります。

◎クライマックス場面へ

『肉体の悪魔』(光文社古典新訳文庫、中条省平訳)の時代は、第1次世界大戦のさなかです。15歳の少年「僕」は、父の知り合いの娘マルト(19歳)と知り合います。マルトには婚約者がいて、現在戦地にいます。やがてマルトは婚約者と結婚して、少年の家の近くに住みます。マルトの夫ジャックは、ふたたび戦場へと送られます。

少年は新妻マルトから誘われて、新居を訪れます。その後少年は、両親の目を盗んで毎晩、ジャック不在のマルトの家を訪れます。
しばらくは何もない関係がつづきます。そのうちに2人の関係は、次第に深まっていきます。

マルトが妊娠します。少年はマルトが身ごもったのは、ジャックの子であろうと都合よく思いこもうとします。やがてジャックが除隊し、マルトは男の子を早産します。マルトは赤ん坊に少年の名前をつけ、あなたの子どもだと知らせます。産後のひだちが悪く、マルトは衰弱してゆきます。

そしてジャックの前で子どもの名前を呼びながら、マルトは死んでしまいます。

◎初めての触れ合いの場面

ラディゲ『肉体の悪魔』は大学時代に、新潮文庫(新庄嘉章訳)で読みました。その後『完本ラディゲ全集』(雪華社)で江口清訳を読みました。そして今回、新訳(光文社古典新訳文庫、中条省平訳)が出たので、久しぶりに読み直しました。少年とマルトの初キスシーンを3つの訳で比較してみます。

――僕は彼女に接吻して、自分の大胆さにわれながら驚いたが、僕が彼女の顔に近づいたとき、僕の顔を自分の唇に引き寄せたのは、実は彼女だった。彼女の両の腕は、僕の首にしがみついていた。難破にあった場合でも、これほど激しくしがみつくことはあるまい。そして、彼女は僕に助けてもらいたいと思っているのか、それとも僕も一緒におぼらせようとしているのか、僕には全く見当がつかなかった。(新潮文庫、新庄嘉章訳P62)

――ぼくは、自分の大胆さに驚きながらも、マルトに接吻したのだ。しかし、ぼくが顔を近づけたとき、ぼくの顔を唇へと引き寄せたのは、じつは彼女だったのだ。彼女の両手は、ぼくの襟首を抱き締めていた。難船のときだって、あんなに強く抱き締めることはあるまい。とすると彼女はぼくに助けられるのを願っていたのか、それとも、彼女といっしょにぼくまでが溺れるのを望んでいたのか、ぼくにはさっぱりわからなかった。(全集、江口清訳P36)

――僕はマルトにキスをした自分の大胆さに呆然としていたが、本当は、僕が彼女に顔を寄せたとき、僕の頭を抱いて唇にひきよせたのはマルトのほうだった。彼女の両手が僕の首に絡みついていた。遭難者の手だってこれほど激しく絡みつくことはないだろう。彼女は僕に救助してもらいたいのか、それとも一緒に溺れてほしいのか、僕には分らなかった。(光文社古典新訳文庫、中条省平訳P65)

どの訳文を選ぶかは、読者の好みの問題です。単純に解釈するなら、新訳を選ぶのが無難でしょう。なぜなら既存の訳文を読みこなしたうえでの、新訳なのですから。

◎この人はこう読んだ

何人かの作家のラディゲ評または『肉体の悪魔』の書評を、紹介させていただきます。

――ラディゲの夭折、あの小説を書いた年齢も、私にファイトを燃やさせた。私は嫉妬に狂い、ラディゲの向うを張らねばと思って熱狂した。小説の反古作りに一段と熱が入ったのは、ラディゲのおかげである。私はしばらくラディゲの熱からさめなかった。ただ、だんだんに、ラディゲの小説の源を探りたい気がしはじめた。『クレエヴの奥方』を読み、『アドルフ』を読み、ラシイヌを読み、ギリシア神話を読んだ。(『三島由紀夫のフランス文学講座』ちくま文庫、鹿島茂編P17-18)

――いつでも手に入ると思ったオモチャが、人のものになりそうになると、力づくで奪おうとするのが子どもである。が、女というのはこれをしばしば男の愛情と勘違いするから始末に悪い。いっぺんに女の方がのめり込んでしまう。けれども男の目は時々醒めて女を見つめる。そして大層意地の悪いことを仕向けて女を苦しめる。(林真理子『名作読本』文春文庫P121-122)

――この小説が十七歳くらいの少年によって書かれたことは信じ難い事実なのだ。感傷を取り払ったメタファ、生硬な心理描写は、この不道徳な小説にひとつの底深い謎を与えている。(宮本輝『本をつんだ小舟』文春文庫P293)

『ドルジェル伯の舞踏会』(新潮文庫、牛島遼一訳)は、三島由紀夫が絶賛する作品です。本書は、講談社文芸文庫(堀口大學訳)、岩波文庫(鈴木力爾訳)からも出ています。お好きな訳書を選んで、ぜひ読んでみてください。
(山本藤光:2013.06.21初稿、2015.11.06改稿)

ラクロ『危険な関係』(角川文庫、竹村猛訳)

2018-02-25 | 書評「ラ・ワ行」の海外著者
ラクロ『危険な関係』(角川文庫、竹村猛訳)

十八世紀、頽廃のパリ。名うてのプレイボーイの子爵が、貞淑な夫人に仕掛けたのは、巧妙な愛と性の遊戯。一途な想いか、一夜の愉悦か―。子爵を慕う清純な美少女と妖艶な貴婦人、幾つもの思惑と密約が潜み、幾重にもからまった運命の糸が、やがてすべてを悲劇の結末へと導いていく。華麗な社交界を舞台に繰り広げられる駆け引きを、卓抜した心理描写と息詰まるほどの緊張感で描ききる永遠の名作。(「BOOK」データベースより)

◎最初に主な人物を理解する

ラクロ『危険な関係』(角川文庫、竹村猛訳)は、全編書簡だけでつながっています。まずは登場人物をしっかりと掌握しておかなければ、訳が分からなくなってしまいます。私は電子書籍で読みましたので、次のようなプロフィールを貼っておきました。最初に物語を単純化するために、次の一文を紹介させていただきます。

――誰と誰がって、このいっぱい男と女が出てくる詐謀と退廃と悪徳に満ちた小説は、〈社交界きっての女たらし〉ヴァルモン子爵VS〈悪の華〉メルトイユ侯爵夫人の、ガチンコ一騎打ちの恋愛小説なのだ。(佐藤真由美『恋する世界文学』集英社文庫P74)

物語の中核を占めるのは、佐藤真由美の指摘どおり、次表の(A)と(B)の2人の男女です。

1. ヴァルモン子爵(A)とメルトイユ侯爵夫人(B)は、元愛人関係にありました。
2. ヴァルモン子爵(A)は、現在、地方長官夫人(C)と恋仲にあります。社交界きってのプレイボーイとして、特に若い男性の崇拝を受けています。彼はあらゆる手練手管を用いて、狙った女性を陥落させます。しかし手に入れるとすぐに、残酷な形で縁をきってしまいます。
3. メルトイユ侯爵夫人(B)は、現在、ジェルクール伯爵(D)と恋仲にあります。男性経験は豊富な女性ですが、なぜか女性からは一目おかれています。彼女はモリエールの小説「タルチュフ」の主人公と同じ、ペテン師だと評されています。
4. ところがジェルクール伯爵(D)は地方長官夫人(C)と恋仲になってしまいます。
5. ジェルクール伯爵(D)は、メルトイユ公爵夫人(B)を棄てます。
6. 地方長官夫人(C)は、ヴァルモン子爵(A)を棄てます。
7. そんな折り、ジェルクール伯爵(D)は、15歳のセシル・ヴォランジュ嬢(E)と婚約をします。
8. メルトイユ侯爵夫人(B)は復讐のために、セシル・ヴォランジュ嬢(E)を汚す計画を立てます。そしてヴァルモン子爵(A)に協力を要請します。
9. ヴァルモン子爵(A)は、長官夫人(C)を奪ったジェルクール伯爵(D)への復讐を考えます。と同時に彼はツールヴェル法院長夫人(F)を愛し始めます。
10. セシル・ヴォランジュ嬢(E)は、ダンスニー騎士(G)に愛され、次第に心を動かされます。


これだけを抑えておくと、混乱することなく登場人物の心理のヒダを読み解くことができます。舞台は18世紀のフランス上流社交界。当時の男女関係は、信じられないほど自由奔放なものでした。
おびただしい書簡のやりとりだけで、どろどろとした人間関係が浮き彫りにされます。私は全体の4分の1までは、上記相関図のお世話になりました。その後は登場人物の理解ができて、快調に読み進めるようになりました。

◎書簡小説のこと

ラクロ『危険な関係』は、書簡小説の代表格です。ほかにもリチャードソン『パミラ』(研究社)などがあります。このジャンルに先鞭をつけた作品について、触れている文章があります。

――17世紀に出た『ぽるとがる文』(補:角川文庫、著者はマリアンヌ・アルコフォラード 、水野忠敏訳、タイトルは「ポルトガル文他一篇」となっています)という、ポルトガルの尼僧が自分の愛人のフランス青年士官にあてたラブレターを五通集めたものが最初で、佐藤春夫による英訳からの日本語訳もあります。(中条省平『小説の解剖』ちくま文庫P50)

本書はアマゾンで入手しました。中条省平の解説によると、激しい愛の告白→死ぬほど苦しい→なぜ手紙をもっとくれないのか→気が狂いそうとなり、やがて諦め→断念するプロセスが書かれているようです。まだ読んでいませんので。

上記プロセスから分かるように、書簡小説は心理小説として区分されることもあります。

◎他人の心理と情念を操作

本書の立役者である、ヴァルモン子爵(A)とメルトイユ侯爵夫人(B)は、ジェルクール伯爵(D)への復讐という共通の目標をもちます。この時点では焼けぼっくいに火がついた状態にあります。ところがドン・ファンと称せられるヴァルモン子爵(A)は、ツールヴェル法院長夫人(F)に熱をあげます。

ツールヴェル法院長夫人(F)について、書かれている文章を引用させていただきます。

――彼女は信仰があつく、みずからの美しさを知らず、恋愛感情を蔑んでさえいた。狙った獲物を逃がさないヴァルモンにとって、これは願ってもない獲物となる。(明快案内シリーズ『フランス文学』自由国民社P55)

このことを知ったメルトイユ侯爵夫人(B)は嫉妬し、ヴァルモン子爵(A)を激しく非難します。そして2人の共闘は、亀裂に向かってエスカレートしてゆきます。

物語の顛末については、あえて触れません。本書の終盤では、ツールヴェル法院長夫人(F)とダンスニー騎士(G)が中核を占めます。ヴァルモン子爵(A)とメルトイユ侯爵夫人(B)はどうなるのか、ご堪能いただきたいと思います。本書は人間関係を掌握するまでは、一気読みしてはいけません。

――支配欲を政治経済軍事など一切の物理的な強制力から切り離して、他人の心理と情念を外から精神的な術策のみにより操作する最も技巧的な悦楽として抽出したのがこの小説である。(谷沢永一『人間通になる読書術』PHP新書P215)

最後に手紙の質に関する、見識を紹介させていただきます。なるほどと思って、特に若いセシル・ヴォランジュ嬢(E)とダンスニー騎士(G)のものを読み直したほどです。

――セシルやダンスニーのように手紙を書くことは、心情を吐露することを意味します。いっぽうヴァルモンとメルトイユ夫人のように手紙を書こうとするならば、戦略的な演技をする、つまり架空の人格を偽装し創造することが必要です。本来の自分をさらけだすのか、それとも自分以外の人間になるか。(工藤庸子『フランス恋愛小説論』岩波新書P80)
山本藤光:2016.07.29初稿、2018.02.25改稿


ラファイエット夫人『クレーヴの奥方』(岩波文庫、生島遼一訳)

2018-02-24 | 書評「ラ・ワ行」の海外著者
ラファイエット夫人『クレーヴの奥方』(岩波文庫、生島遼一訳)

道ならぬつらいしかし清い恋に悩んでいるクレーヴ公の奥方が、夫君にそれを打開けて庇護を求めたために、心に悩むものを二人生じる結果になった、悲しい純潔な恋の物語である。フランス心理小説の古く輝かしい伝統の最初の礎石ともいうべき名作で、他に『モンパンシエ公爵夫人』『タンド伯爵夫人』を収める。(内容紹介より)

◎人妻の「清い」恋物語

まるで生娘の切ない恋愛小説を読んでいるような、奇妙な錯覚を覚えました。しかし、ラファイエット夫人『クレーヴの奥方』(岩波文庫、生島遼一訳)はタイトルどおり、人妻の「清い」恋物語です。本書を読むにあたっては、宮廷生活なるものを理解しておかなければなりません。

――野心と恋愛とは宮廷生活の心髄のごときもので、男も女もひとしくそれに憂き身をやつしているのである。(本文)

これは独身者にかぎっての、話ではありません。結婚していても、恋愛は自由なのです。このおおらかさを理解しておかなければ、ずっと違和感に襲われ続けることになります。

クレーヴ夫人は、若くして結婚しています。父・シャルトルは早くに亡くなり、母親に厳格に育てられました。彼女はクレーヴ公に結婚を申しこまれ、母親の勧めもあり、乗り気ではない結婚に合意したのです。

結婚して間もなくクレーヴ夫人は、舞踏会でヌムール公を見初めます。2人はたちまち、恋の虜になってしまいます。しかしお互いに心中をあかすことはありません。クレーヴ夫人はシャルトル嬢として、16歳のときから宮中に出ています。クレーヴ公との結婚は母の強い勧めがあったからで、恋愛感情はありませんでした。

それゆえヌムール公との出会いは、クレーヴ夫人にとって初めて経験する高揚感でした。クレーヴ夫人は抑えがたい胸中を病床の母に告白します。母は貞節であることの大切さを説いて、亡くなります。母を失ったクレーヴ夫人は悶々としつつも、母の教えにしたがいヌムール公を遠ざけます。

◎好きな人がいると夫に告白

そんなある日クレーヴ夫人は、自分の自画像をヌムール公が盗むのを目撃します。彼女はそれを見逃します。またヌムール公がある女性に宛てた恋文を、偶然読んでしまいます。クレーヴ夫人は激しい嫉妬にさいなまれます。しかし彼女は極度の絶望感や喪失感を嫉妬だとは理解できません。

彼女はやがてその恋文の発信者が、ヌムール公ではないことを知ります。ヌムール公は恋文の真の発信者である、シャルトル伯父の窮地を救います。わだかまりがとけて、2人の恋情は一気に加熱します。

夫のクレーヴ公は、妻を信じ愛していました。しかしクレーヴ夫人とヌムール公とのことを、しばしば耳にするようになります。夫は妻を問い詰めます。妻は相手の名前を伏せて、好きな男がいることを夫に告げます。この夫婦の会話を、クレーヴ夫人に会いたくて廷内に忍びこんだ、ヌムール公が聞いてしまいます。彼は恋の相手が自分のことだと確信し有頂天になり、その話を友人に漏らしてしまいます。

夫のクレーヴ公は、相手がヌムール公であることを確信しています。そして猛烈な嫉妬に苦しみます。本書の山場である妻の告白について、触れている文章があります。

――言葉は抑制されていますけれど、これは並の女にはできない告白であり、すべては夫に対する「友情」と「尊敬」から出たこと、という奥方の主張には、悪びれたところがまったくありません。(工藤庸子『フランス恋愛小説論』岩波新書P5)

◎真実と誠実

サマセット・モームは『世界文学・読書案内』(岩波文庫)のなかで、次のように書いています。

――『クレーヴの奥方』は、読者の心を深くゆり動かす物語である。話の主要人物は、それぞれ自分の義務であると考えることを、はたしたいと望んでおりながら、自分の力ではいかんともしがたい事情のために敗れ去るからである。ひとに何かを求めるときには、そのひとにできないものまで望むようなことがあってはならない、というのがこの小説の教訓であるだろう。(同書P88)

もうひとつだけ、『クレーヴの奥方』に関する解説を紹介させていただきます。

――貞淑な美しい人妻が、恋の苦悩をほかでもない夫に告白する――当時の読者はそれをあってはならない行為だと非難した。一見異様に思えるこの告白も、真実と誠実をとうとぶ作者の精神の表れと理解できよう。「真実のみが人を煩瑣(はんさ)な問題の渦中から救いだしてくれる」と作者は書いている。(明快案内シリーズ『フランス文学・名作と主人公』自由国民社P42)

本書の醍醐味は、妻が自らの恋情を夫に告白する点にあります。夫のクレーヴ公は瞬間的に妻の誠実さに感激します。しかしそれもつかの間で、たちまち激しい嫉妬に苦悩します。クレーヴ公は心労のあまり命を失います。

ここから先については、触れないでおきます。独り身になったクレーヴ夫人の身の処し方やヌムール公のその後については、深追いしないでおくほうが懸命だと思います。
山本藤光:2016.07.21初稿、2018.02.24改稿

ピエール・ルメートル『その女アレックス』(文春文庫、橘明美訳)

2018-02-22 | 書評「ラ・ワ行」の海外著者
ピエール・ルメートル『その女アレックス』(文春文庫、橘明美訳)

おまえが死ぬのを見たい―男はそう言ってアレックスを監禁した。檻に幽閉され、衰弱した彼女は、死を目前に脱出を図るが…しかし、ここまでは序章にすぎない。孤独な女アレックスの壮絶なる秘密が明かされるや、物語は大逆転を繰り返し、最後に待ち受ける慟哭と驚愕へと突進するのだ。イギリス推理作家協会賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

◎こんなすごいミステリは初めて

ピエール・ルメートル『その女アレックス』(文春文庫、橘明美訳)の帯コピーが、どんどん誇らしげになっています。私の文春文庫は2014年9月10日第1刷で、橙色地に「あなたの予想はすべて裏切られる!」とあります。

やがて書店に平積みされている帯は、赤地で「第1位!」と大書されたものにかわりました。そして最近では「1位・6冠」のコピーが踊っています。破竹の快進撃といってよいと思います。

私が本書を買い求めたのは、『このミステリがすごい!2015年版』(宝島社)で「海外部門第1位」になっていたからです。当時はひっそりと、書店の棚に背表紙だけを向けて、1冊あっただけでした。ところがあっというまに、赤い帯にかわって平積みされていました。6冠の内訳はつぎのとおりです。

――『この女アレックス』が海外ミステリ史上初の6冠を達成! 「このミステリーがすごい!」や「週刊文春ミステリーベスト10」など、日本のミステリ・ランキング4つを全制覇。本国フランスでも、英訳刊行されたイギリスでも高く評価され、賞を受けています。(『本の話WEB』より)

読んでみました。圧倒されました。納得の第1位です。著者のピエール・ルメートルは、もちろん知りませんでした。前記の『本の話WEB』の記事で紹介させていただきます。このサイトは充実しています。6冠達成を祝って、三橋暁、大矢博子、千街晶之、瀧井朝世が書評をならべています。ただし書評のプロたちだけあって、ネタバレにならないような自制した文章になっています。

――作者紹介によれば、この作品はパリ警視庁犯罪捜査部のカミーユ・ヴェルーヴェン警部を主人公としたシリーズの第2作にあたるようだが(第1作は未紹介)、警察小説としてもその出来映えは出色である。捜査陣の要である警部のカミーユは、癇癪を破裂させたかと思うと、自分に自信が持てずに落ち込むという周囲には扱い辛い人物だが、捜査官としては優秀で、閃きと持ち前の粘り強さで自らの捜査班を率いる。並外れて小柄な身体的コンプレックスもご愛嬌だ。(三橋暁、『本の話WEB』より)

ルメートルの第1作は、2009年に『死のドレスを花婿に』(柏書房)というタイトルで邦訳されています。書店を探しましたが、見つかりません。

◎読者を翻弄しつづける展開

 本書のストーリーについては、ネタバレになるので多くについてふれることができません。簡単に紹介させていただきます。

アレックスは30歳で男を引きつけるような美人です。「ヘアウィッグとヘアピースがいくらでもある店」で試着を楽しんでいます。通りから自分を見ている、男の存在に気づきます。アレックスは店を出ます。

そして突然路上で拉致され、車で運ばれて、廃屋の倉庫のようなところへ軟禁されます。アレックスは全裸にされて、狭い檻に監禁されます。身を屈めたままの状態で、檻は空中に吊り上げられます。

 本書は拉致された女性アレックスの視点と、誘拐事件を追うパリ警視庁の視点が交互にくりかえされます。アレックスは、誘拐犯がだれなのかがわかりません。なぜ誘拐されたのかもわかりません。いっぽう警察は、だれが誘拐されたのかを知りません。若い女が強引に車に押し込まれた、という目撃情報があるだけなのです。

 誘拐犯はアレックスに、「お前が死ぬところを見たい」といったきりです。誘拐の動機を話そうとしません。パリ警視庁犯罪捜査部に、事件解決のための緊急チームが編成されます。

大男の上司ル・グエンは、身長145センチの小柄なカミーユ・ヴェルーヴェン刑事を現場責任者に指名します。彼には妻が誘拐され殺害された、という忌まわしい過去があります。とても新たな誘拐事件を、任せられる精神状態ではありません。相棒として指名されたのは、ハンサムで金持ちのルイと、しみったれでドケチなアルマンでした。この4人がなんともいえない、味のあるやりとりをくりかえします。

 檻に閉じ込められたまま、何日も経過します。アレックスの衰弱は、危機的なものになっていきます。ドブネズミが、アレックスの死を待ちかえています。地道な捜査にもかかわらず、誘拐された女の身元はわかりません。もちろん軟禁場所も、特定できません。アレックスは、会社を辞めたばかりでした。捜索願を出すような、家族や恋人もいません。

 交互にあらわれるアレックスの章と警察の章は、さしたる進展のないままページを重ねます。死を意識するようになったアレックス。誘拐され虐殺された妻の像を振り払うちびのカミーユ。捜査の停滞をなじる上層部。アレックスは必死になって、脱出の方法を思い描きます。強靭な精神力です。そして突然、転機がおとずれます。

 私をふくめて多くの読者は、先を予想しながらストーリーを追いかけています。ところが『その女アレックス』は、何度も予想とは異なる世界へと読者をいざないます。そして衝撃のラスト。とてつもないミステリーの世界に、私はほんろうされつづけました。「超一級品です」という帯を巻いて、「山本藤光の文庫で読む500+α」の棚に、本書を入れることにしました。そのために1冊を専用棚から外さざるをえませんが。

 お薦め。ただし残虐シーンに弱い方は、第3部から先を読んではいけません。
山本藤光:2015.01.07初稿、2018.02.22改稿


ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』(全4巻、岩波文庫、豊島与志雄訳)

2018-02-20 | 書評「ラ・ワ行」の海外著者
ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』(全4巻、岩波文庫、豊島与志雄訳)

ライン河畔の貧しい音楽一家に生れた主人公ジャン・クリストフは、人間として、芸術家として、不屈の気魄をもって、生涯、真実を追求しつづける。この、傷つきつつも闘うことを決してやめない人間像は、時代と国境をこえて、人びとに勇気と指針を与えてきた。偉大なヒューマニスト作家ロマン・ローランの不朽の名作。(アマゾン内容紹介より)

◎ベートーヴェンがモデル

ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』(岩波文庫)を先に読んでいるせいでしょうか。一般的にいわれているように、主人公のジャン・クリストフの個性が、ずっとベートーヴェンと重なりつづけました。『ジャン・クリストフ』(全4巻、岩波文庫、豊島与志雄訳)の第1部は、ベートーヴェンの生い立ちとほとんど同じ展開になります。2つを重ねてみたいと思います。

【『ジャン・クリストフ』第1部】
クリストフは、音楽家の家庭に生まれます。父は宮廷オーケストラの一員で、飲んだくれです。クリストフに、英才教育をほどこします。家計を支えてきた祖父が死に、父が失職し、家計は苦しくなります。クリストフは11歳のときにオーケストラの一員として働きます。やがて父が死にます。

【ベートーヴェン】
宮廷歌手の家庭に生まれます。父は宮廷歌手で、飲んだくれです。ベートーヴェンに、天才教育をほどこします。家計を支えてきた祖父が死に、生活は困窮します。ベートーヴェンは7歳のときに演奏会に参加します。やがて母が死に、父も死にます。

第1部は「あけぼの」「朝」「青年」という、3つの章で構成されています。クリストフの家族は、おおよそ前記のとおりです。祖父は宮廷指揮者でした。クリストフに古いピアノをあたえ、やさしい眼差しで彼を見守りつづけます。母は心の清らかな人ですが、病弱で人前にでることを嫌います。父がクリストフに英才教育をほどこすのは、お金のためです。したがって指導は、曲を会得することに専念されます。

クリストフは、新しい曲を創りだしたいと思っています。しかし父には反抗できず、いやいやピアノのまえに座らざるをえません。父の英才教育を受けたクリストフは、たちまち才能を開花させます。貧困生活のなかで、彼は偉大な音楽家になる夢をふくらませます。一家は彼の稼ぎで安定してきます。

父の死。祖父の死。友情と裏切り。初恋の人の死。初体験。世の中への絶望。第1部の終わりでは、彼は堕落への道をたどりかけます。そんなときに、伯父ゴットフリートがあらわれて、彼の心をひらきます。クリストフはさまざまな体験をしながら、青年へと成長します。

◎永い眠りにつくまで

第2部は「反抗」「広場の市」という、2つの章で構成されています。クルストフはこれまで愛してきた、ドイツの作曲家たちに欺瞞を感じます。そしてドイツ社会にたいしても同様の嫌悪感をおぼえるようになります。そうした彼に、公衆はそっぽを向きはじめます。クリストフは幼いころから、自尊心が強く繊細な心のもちぬしでした。感情が表にではじめ、彼は宮廷を追われます。

クリストフは理想をもとめて、パリへと向かいます。しかしそこも理想とはかけはなれた、混濁した社会でした。職もなく、孤独な彼はどん底生活を余儀なくされます。そんなときに、詩人オリヴィエ・ジャンナンと出会います。

第3部は「家の中」「アントワネット」「女友だち」という、構成になっています。クリストフはオリヴィエと自分とに、接点があったことを知ります。2人の友情のきずなは、よりかたいものとなります。クリストフはオリヴィエを通じて、すこしずつフランス社会に溶けこんでゆきます。

やがてオリヴィエは恋をし、結婚します。しかし長男を産んだあと、結婚生活は破綻します。クリストフも大使館員の妻グラチャを愛するようになります。

第4部は「燃えるいばら」「新しい日」という、構成になっています。クリストフとオリヴィエの友情はつづいています。しかしメーデーの混乱のなかで、オリヴィエは警官に刺殺されてしまいます。クリストフも警官に襲われますが、逆に剣を奪って警官を殺します。

クリストフは、スイスに亡命して、友人の医師にかくまわれます。やがて彼は、友人の妻アンナと深い仲になります。クリストフは苦悩のすえ、アンナと別れる決意をします。失意のクリストフは神の存在を見出します。その後、クリストフは大作曲家となります。

物語はさらに、佳境へと進みます。親友オリヴィエには、男の遺児がいます。そして偶然再会したグラチアにも、女の遺児がいます。クリストフは2人を添いとげさせ、永い眠りにつきます。

ジャン・クリストフは幼いころの気質を、生涯ひきずりました。第1部での彼は生まじめすぎて、真の友人ができませんでした。自己顕示欲が強く、それでいて人から愛されることを熱望していました。そんなクリストフが成長の過程で、自らの気質に挑戦しつづけます。死。孤独。愛。別離。孤独。この循環はクリストフの内面に、「強さ」というかすかな生きざまを生成してゆくのです。壮大なドラマでした。ありきたりですが、ベートーヴェンの「運命」が聴こえてきました。
山本藤光:2014.11.06初稿、2018.02.20改稿

D.H.ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』(新潮文庫、伊藤整訳・伊藤礼補訳)

2018-02-17 | 書評「ラ・ワ行」の海外著者
D.H.ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』(新潮文庫、伊藤整訳・伊藤礼補訳)

コンスタンスは炭坑を所有する貴族クリフォード卿と結婚した。しかし夫が戦争で下半身不随となり、夫婦間に性の関係がなくなったため、次第に恐ろしい空虚感にさいなまれるようになる。そしてついに、散歩の途中で出会った森番メラーズと偶然に結ばれてしまう。それは肉体から始まった関係だったが、それゆえ真実の愛となった―。現代の愛への強い不信と魂の真の解放を描いた問題作。発禁から46年、最高裁判決から39年。いま甦る20世紀最高の性愛文学。約80ページ分の削除箇所を完全復活。(「BOOK」データベースより)

◎強すぎる母親の愛情
 
D.H.ロレンスは、イギリスのノッティンガム州で生まれました。そこは起伏のある、牧歌的な風景の町でした。19世紀中ごろから炭鉱事業がはじまり、田園風景は崩壊しています。ロレンスの父は鉱夫で、酒飲みでした。母親は元教師ですが、夫を見かぎってこどもに愛情を注いでいました。

母親の偏愛がロレンスの初恋に、マイナスの結果をもたらしました。ロレンスにたいする母親の愛情が強すぎて、恋人・ジェシーとはつきあいを深めることができなかったのです。このあたりのことは、初期作品『息子と恋人たち』(全3巻、岩波文庫)から読みとることができます。
 
私はD.H.ロレンスを読むなら、『息子と恋人たち』から入ることを推奨しています。この作品は主人公・ポールの恋が、母親の強い愛情で壊れてしまうところからはじまります。その後ポールは、年上の女性とつきあい性の喜びを知ります。しかし彼女の強い個性に圧倒されて、別れてしまいます。さらにポールは最初の恋人と再会するのですが、老けこんでいることに幻滅してしまいます。
 
事実ロレンスは、自分の先生(フランス語教授)の妻・フリーダと恋におちいっています。彼女は3児の母でした。ロレンスは1914年にフリーダと正式に結婚します。その後に執筆されたのが、1916年以降にに書かれた、『恋する女たち』(角川文庫絶版)などの作品です。このあたりの作品から母親の影響は消え、ロレンス独自の哲学が深くにじみでてきます。男と女はそれぞれの性を基本とする、エゴイズムをもっています。そう達観して書いたのが、『虹』(上下巻、新潮文庫絶版)の続編といわれる『恋する女たち』だったわけです。
 
晩年のロレンスには、3つの壁がありました。「第1次大戦がもたらした精神の荒廃」「キリスト教に対する不信」「文明そのものにたいする不信」。これらからいかに立ち直るかを、ロレンスは模索しつづけたのです。(「新潮世界文学小辞典」を参考にしました)

3つの壁を打破するために、ロレンスは2つの理念を抱きました。一つは男性の同志的結合によって、新社会を建設すること。もうひとつは、男女の恋愛は本来成立しないのだから、親愛なる男女は性において積極的に交わること。
 
なんだかめちゃくちゃな理念に思えるのですが、やがて『チャタレイ夫人の恋人』(新潮文庫)においてその理念は、結実されることになるのです。
 
◎チャタレイ夫人の恋

『チャタレイ夫人の恋人』は、親の目を逃れて高校時代に読んでいます。わいせつさをめぐって裁判になっているほどですから、昂奮して手にとったのを覚えています。でも読んだのは「完訳」ではなく、いまよりも80ページほど削除されたものだったようです。なんだこんなものか、とひどく落胆したのも鮮明に記憶しています。

今回改めて『完訳・チャタレイ夫人の恋人』を読んでみて、これが猥褻文書かと驚いてしまいました。問題になった露骨なセックス場面は、慎ましく瑞々しくさえ感じられました。
 
コンスタンス(コニー)は、イギリスの大炭鉱主・クリフォード・チャタレイと結婚します。わずか1ヶ月の蜜月で、クリフォードは戦争に招集され、下半身不随となります。チャタレイ家のあととりへの望みは、絶たれてしまいました。2人はロンドンからクリフォードの故郷である、ラクビー邸へ居を移します。
 
クリフォードは、33歳のたくましく知的な男です。小説家として名を知られています。自尊心の強い文化人が、ラクビー邸に集まりました。コニーは夫(クリフォード)につくし、車椅子を押して広い庭へ出たりします。ラクビー邸は小高い丘の上にあり、チャタレイ家が経営する炭鉱の煙が見えます。

――弱い太陽の光がクリフォードの、なめらかな、ほとんど金髪の髪を照らし、赤い大柄な顔は無表情だった。/「ほかの時はそれほどとも思わないが、ここに来ると僕は、子供のないことがさびしくてならない」と彼が言った。/「でもこの森は、あなたの家よりもふるくからあったのでしょう?」とコニーが静かに言った。「それはそうだ!」とクリフォードが言った。「だがそれを保護してきたのは僕の家なんだ。僕の家がそうしなければ、もう無くなっていたはずだ……森のほかの部分のようにとっくに消えうせてしまったはずだ。古いイングランドを保存しておかねばならないからね!」(本文より)

このあとクリフォードは、コニーにだれかのこどもを産んでほしいといいます。チャタレイ家の存続のために、コニーはこどもを産むための道具だといわれたのです。クリフォードとコニーの内面について、しっかりと見きわめた評論があります。引用しておきます。

――彼女の生の実感、生きる歓びが失われたのは、クリフォードの肉体が不自由になったからではない。肉体の不自由のせいで彼が知性や理念を極端に偏重し、何事にも利益を追求する非人間的なインテリ経営者に成り果てたからである。戦争と産業社会に心身ともにゆがめられたクリフォードこそは、もっとも不幸な犠牲者だった。(齋藤貴子『もう一度、人生がはじまる・愛と官能のイギリス文学』PHP新書より)
 
そんなとき、コニーはチャタレイ家の森番・メラーズと出会います。出会いの場面は、全編のなかでも特に美しいものです。この筆運びが、ロレンスの真骨頂だと思います。コニーはクリフォードから頼まれごとをして、はじめて森番の小屋を訪ねます。
 
――森番は少しも気づかずにからだを洗っていた。彼は尻まで裸になり、ビロードのズボンは華奢な腰からずりおちかけていた。彼は背をかがめて、泡だった水の中に顔を浸し、それを妙にすばやく小きざみに動かしていた。(中略)コニーは家の角から退いて、森のほうへ逃げた。われにもなくショックを受けたのだった。といっても、たかが男がからだを洗っていただけのことだ。平凡きわまることではないか。全くそうなのだ。(中略)コニーは眼からはいったショックを子宮の中で受けとめた。自分でもそれがわかった。(本文より)

「子宮の中」という表現は、コニーの孤独、欲望、諦念などのすべてを凝縮しています。ロレンスは性を真正面からとらえ、それを研ぎ澄まされた言葉で表現しています。後半については、あえてふれません。主な登場人物は、たった5人です。登場人物だけを整理しておきたいと思います。

クリフォード:チャタレイ家の跡継ぎ。下半身不随。
コニー:クリフォードの妻。
ボルトン夫人:ラクビー邸に雇われた看護婦。
メラーズ:ラクビー邸の森番。妻とは別居中。
ヒルダー:コニーの姉。
 
楽しんでいただきたいと思います。当時タブーであった上流階級の妻と、下層階級の森番の激しい恋のてんまつを。

◎チャタレー裁判 

1950(昭和25)年『チャタレイ夫人の恋人』は、伊藤整によって訳出されました。発売から1ヵ月後、本書は猥褻(わいせつ)図書として、全国的に押収されました。これにたいして日本文芸家協会(広津和郎会長)は、抗議と不起訴処分の申しいれをおこないました。申しいれは拒絶され、いわゆる「チャタレイ裁判」となります。
 
結局最高裁でも猥褻文書であるとの判定は崩れず、伊藤整と出版社(小山書店)は有罪判決を受けてしまいます。『チャタレイ夫人の恋人』が翻訳された戦後は、まだそんな時代だったのです。

津島佑子の著作のなかに、とんでもないイギリスでのエピソードが紹介されています。ある新米書店主がもうけをたくらんで、『チャタレイ夫人の恋人』を大量に仕入れました。ところがその直後に発売禁止になります。店主は闇で、本を売りさばきつづけました。ある日おばさんが本を求めて、やってきます。

――なんだか様子が変だなと思った彼(註:店主)は、電話で友人のカメラマンを呼び出す。彼の直観は当たり、そのおばさんはカウンターに出された本を石炭用の金(かな)鋏(はさみ)でつまみ、路上に持ちだし、小さなビンにいれてきたガソリンをかけて、燃やしてしまった。その光景をすかさず、カメラマンは撮影し、さまざまな新聞に掲載した。とんでもない「焚書(ふんしょ)」は大きな話題になり、彼の小さな本屋も一躍有名になり、ここは一種の文化サロンになった。(津島佑子『快楽の本棚』中公新書より)
 
D.H.ロレンスは、日本の文学に大きな影響を与えています。評論家・福田恆存はロレンスの影響が色濃い、近代日本文学のゆがみを問う『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫)を書いています。そして筒井康隆は、ロレンスの先見性に着目しています。

――今この作品を読み返した時われわれは彼の先駆性を、ただフェミニズムの側面にとどまらずたくさん発見するだろう。環境問題に先駆けているし、バブル経済を予見している。検察や裁判官を文学史の笑いものにすることができたのもこの予見性ゆえである。(筒井康隆『本の森の狩人』岩波新書より)

友人が教えてくれました。本書は再読率ナンバーワンだとのことです。中学か高校時代にこっそりと1回。結婚生活に疲れたときに1回。教室でこっそり本書を読んでいたら、背後から先生が近づいてきて金鋏でつまんで没収されました、という投稿にはまだお目にかかっていません。念のため。
山本藤光:2009.10.10初稿、2018.02.17改稿