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山本藤光の文庫で読む500+α

著書「仕事と日常を磨く人間力マネジメント」の読書ナビ

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(全3巻、新潮文庫)

2018-03-21 | 書評「む」の国内著者
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(全3巻、新潮文庫)

僕とクミコの家から猫が消え、世界は闇にのみ込まれてゆく。―長い年代記の始まり。(「BOOK」データベースより)

◎井戸から異次元の世界へ

 1著者1冊の紹介を原則にしていますが、どうしても紹介したい2冊目はあります。世界的な人気作家の村上春樹の場合は、この作品を外すことができません。そんなわけで、「+α」として発信することにしました。

『ねじまき鳥クロニクル』(全3巻、新潮文庫)は、『1Q84』(全6冊、新潮文庫)とともに村上春樹の傑作だと思っています。本書は3つのジクソーパズルを合わせると、一つの風景が浮かび上がる仕組みになっています。
 初出の単行本のときは、第3部(鳥刺し男編)が1年4ヶ月遅れで配本されました。あの時の待ち遠しさは、今も強烈に覚えています。

村上春樹とは群像新人文学賞を受賞した、『風の歌を聴け』(講談社文庫、初出1979年)が最初の出会いでした。その後『1973年のピンボール』(講談社文庫、初出1980年)、『羊をめぐる冒険』(上下巻、講談社文庫、初出1982年)あたりまでは、アメリカ文学とジャズの香りがする新鋭作家という印象でした。 

村上春樹の作品に大きな変化が現れたのは、約1ヶ月半のアメリカ旅行を経験した1984年以降でしょう。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(上下巻、新潮文庫、初出1985年)からは実験的な要素が加わり、小説の構成にも厚みが生まれてきました。ただし「僕」という主人公のスタイルは、かたくなに変えていません。

『ねじまき鳥クロニクル』は、ひとことで語ることは難しい作品です。主人公「僕」こと岡田亨は、勤めていた法律事務所を辞めます。妻クミコが失踪し、猫もそれに呼応するようにいなくなります。クミコには、綿谷ノボルという政治家の兄がいます。「僕」は妻の失踪に、ノボルが関与していると考えます。

村上春樹の小説には、「井戸」がひんぱんに登場します。そのことは、すでに誰かが指摘しています。『ねじまき鳥クロニクル』にも「井戸」は、重要な位置づけで出てきます。

――気がついたとき、僕はやはり暗黒の底に座っていた。いつものように壁に背中をつけて。僕は井戸の底に戻ってきたのだ。(本文より)
 
 井戸について村上春樹は、河合隼雄との対談のなかで、次のように説明しています。

――僕が小説で書こうとしているのは、ほんとうの底まで行って壁を抜けて……。(河合隼雄『こころの声を聴く』新潮文庫P280)

これまでは比喩として使われていた「井戸」が、異次元の世界へとタイムスリップするための基地として扱われます。主人公は井戸底の闇からホテルへ潜入し、クミコを奪還しようと試みるわけです。

◎書評家たちの指摘

本書では多くの人物が、主人公の前に現れて過去を語ります。間宮中尉という老人は、ノモンハンでの戦友の悲惨な話や、自ら深い井戸に投げこまれたときの、孤独と絶望の話をします。不審な電話の女。加納マルタ・クレタ姉妹。赤坂ナツメグ・シナモン親子。何通もの手紙を書く、登校拒否の笠原メイ。綿谷ノボルの秘書である小男。

これらの登場人物以外に、この小説のタイトルでもあるネジを巻くような声で鳴く、「ねじまき鳥」も重要なアクセントとなっています。ただし、笠原メイの手紙同様、その鳴き声は小説の登場人物には届きません。

 本書は村上春樹が最も時間をかけて仕上げた作品です。失ったものを奪還する冒険譚。それゆえ展開はスピーディで、めまぐるしく場面転換がなされます。単行本では数年かかって完読しましたが、文庫での再読はあっという間でした。
 今回はプロの批評家の注釈をたっぷりと読んでからの再読でしたので、彼らの書評も存分に参考にすることができました。参考にさせていただいた、いくつかの貴重な指摘を紹介させていただきます。

――『ねじまき鳥クロニクル』にはそれまでの村上作品と大きく違う点がある。それまでほとんど触れられることのなかった〈家族〉が描かれていることであり、クールな対応が特徴だった村上作品の主人公がはじめて〈闘う姿勢〉を見せていることだ。(洋泉社MOOK『村上春樹全小説ガイドブック』P60)

――『ねじまき鳥クロニクル』には、新しい試みもある。それは〈悪意〉の存在だ。しかも人間の心や身体を損なう具体的なものとしての悪意。戦争や綿谷ノボルを通じて、村上春樹はこれまで苦手としてきた悪意の表現に果敢に挑戦しているのだ。(豊﨑由美『そんなに読んでどうするの?』アスベクトP57)

――村上春樹はこれまで一貫して現代人の精神の断絶を描いてきた。クールな洒落たセリフで接触しながら、人間同士は世界の果てのような孤独にめいめいが住んでいて、決して人間関係に安らぐことがない。(中略)村上はその孤独の宿命と、また通話の可能性を探ってきたといっていい。(清水良典『最後の文芸時評』四谷ラウンドP201)

 村上作品のなかにふんだんにちりばめられた小道具と比喩と逸話。私はそうした脇道に、誘われるのを好みます。
(山本藤光:1996.10.06初稿、2018.03.21改稿)

村田沙耶香『授乳』(講談社文庫)

2018-03-09 | 書評「む」の国内著者
村田沙耶香『授乳』(講談社文庫)

その場限りの目新しさなら、もういらない。「文学」をより深めて行く瑞瑞しい才能がここにある。「こっちに来なさいよ」そう私に命令され、先生はのろのろと私の足下にひざまずいた。私は上から制服の白いブラウスのボタンを一個ずつ外していった。私のブラジャーは少し色あせた水色で、レースがすこしとれかけている。私はそういうぞうきんみたいなひからびたブラジャーになぜか誇りを感じている。まだ中学生とはいえ、自分の中にある程度腐った女があることの証明のように思えたのだ。群像新人文学賞・優秀作。(「BOOK」データベースより)

◎秘密の王国の破綻

村田沙耶香(1979年生まれ)が、2016年下期芥川賞を受賞しました。ほぼ同年配の山崎ナオコーラ(1980年生まれ)も候補にあがっていましたが、今回は受賞に至りませんでした。2人は注目している、若手の女性作家です。

村田沙耶香は2003年、『授乳』(講談社文庫)で群像新人文学賞優秀賞を受賞し、文壇デビューを果たしました。山崎ナオコーラは2004年、『人のセックスを笑うな』(河出文庫)で文藝賞を受賞してのスタートです。2人の共通点は、人生のちょっとしたヒダを深掘りする点にあります。

村田沙耶香は『授乳』で、主人公の女生徒あるいは女学生を主人公として、もう1人の脇役との世界を描いています。ところがこの世界は甘い愛の王国ではなく、まるで氷室のなかの様相を呈します。

『授乳』には表題作以外に、2篇が収載されています。表題作「授乳」は、女子中学生と家庭教師の男子大学院生をめぐる物語です。家庭教師の先生には、自傷癖があります。女子中学生は、口数が少なく暗い先生を、支配したいと思います。そのための手段が、自分の乳房を含ませることでした。2人だけの秘密の儀式は、母親に目撃されてあっけなく破綻します。

収載作「コイビト」は、ぬいぐるみを恋人としている、2人の女性の話です。女子大生はホシオと名づけたハムスターのぬいぐるみを抱いて、毎日8時に床につきます。美佐子という名の小学生の女児は、ムータという名のオオカミのぬいぐるみを愛しています。

それぞれのぬいぐるみを抱いた2人は、女子トイレで出会います。女子大生は美佐子の要望にしたがい、ラブホテルに一室をとります。そこで女子学生は、美佐子とぬいぐるみの異常な愛の世界を垣間見ることになります。女子学生は少しずつ、美佐子に嫌悪感を抱き始めます。そして2人の出会いは、少女の飛び降り自殺未遂という、あっけない行為で破綻してしまいます。

本作は新井素子『くますけと一緒に』(中公文庫)の影響を受けていると本人が語っています。村田沙耶香は山田詠美の文体が好きだとも語っています。

「御伽の部屋」は、貧血で倒れたことがきっかけで知り合った女子大生と男子大学生の不思議な世界を描いた作品です。ただし主人公「あたし」の幼いころの経験が、現実世界の進行と交錯します。「あたし」は幼いころ、ともだちの兄・正男の女装パーフォーマンスにつきあわされていました。そして現在は貧血で倒れて介護してもらった男子大学生との、お世話ごっこの渦中にいます。

男子大学生はセックスを求めません。ひたすら「あたし」の世話をすることを好みます。本作も秘密の王国は、最後に破綻します。それは「あたし」が大学生が通う学校へ行って、見かけた普通の男の姿に絶望したからでした。

◎現在に至る萌芽を感じる

『授乳』に収載されている3作は、いずれも小さな世界のちょっとグロテスクな物語です。文章は稚拙ですが、私は村田沙耶香の可能性を感じました。その後の作品『殺人出産』(講談社、初出2014年)や『消滅世界』(河出書房新社、初出2015年)は、デビュー作をさらに発展させた世界を描いています。芥川賞受賞作『コンビニ人間』はまだ読んでいません。しかし今回の芥川賞受賞は、2つの前作が後押ししていることは間違いありません、これらの作品が文庫化された時点で、村田沙耶香の推薦作は変更するつもりです。

村田沙耶香は自分の作品について、次のように語っています。少し長くなりますが、引用させていただきます。

――普段ぼーっとしているなかでも、ささくれのようなものがあるのかもしれません。自分はちくっと感じただけですんでいるんですが、書き始めると、主人公にとってはささくれではすまなくて、傷口になってそこからドロドロしたものがあふれてくる感じです。自分のなかには欠片しかないものが、主人公にとってはものすごく大きなものになる。女性の性に関しても、私は初潮を楽しみにしていたくらいなので違和感はないんですが、それでもちくっと嫌な気持ちを感じることがある。それが、書く作業をしているうちに、主人公の身体中で寄生虫のようにぶわーっと膨らんでいく気がします。それをとことん書くのが好きなんだと思います。(WEB本の雑誌『作家の読書道』より)

スタンダードな世界を、裏返して見ることに長けた作家。それが村田沙耶香です。おそらくデビュー作は、あまり好感をもって受けとめられないと思います。しかし現在に至る萌芽を感じさせてくれる貴重な第一歩です。芥川賞作品を読んだ方は、ぜひ処女作をのぞいてみていただきたいと思います。
(山本藤光:2016.07.22初稿、2018.03.09改稿)


室生犀星『蜜のあわれ』(講談社文芸文庫)

2018-03-08 | 書評「む」の国内著者
室生犀星『蜜のあわれ』(講談社文芸文庫)

ある時は「コケティッシュ」な女、ある時は赤い三年子の金魚。犀星の理想の「女のひと」の結晶・変幻自在の金魚と老作家の会話で構築する艶やかな超現実主義的小説「蜜のあわれ」。(「BOOK」データベースより)

◎匹婦の腹にうまれ

富岡多恵子『室生犀星』(講談社文芸文庫)の冒頭には、室生犀星の次の句がひかれています。

――夏の日の匹婦の腹にうまれけり(犀星発句集)

匹婦(ひっぷ)は、「広辞苑」では「身分のいやしい女」と説明されています。しかし「新明解国語辞典」(「山本藤光の文庫で読む500+αでは、赤瀬川原平『新解さんの謎』文春文庫を紹介)では、「どこの家庭にもいる普通の女」と説明されています。室生犀星の「匹婦」は、前者の意味で用いています。

室生犀星は1889(明治22)年、妻を失った父と女中の間に生まれました。そしていきなり他家に預けられ、生涯実母を知らぬまま過ごしました。生活は貧しく、高等小学3年のときに退学して、金沢の裁判所で給仕として働きました。
やがて俳句を学び、そののち詩を書くようになります。室生犀星を読んだことのない人でも、次の詩句はご存知だと思います。

――ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや(抒情小曲集)

 私生児であること。実母を知らないことは、犀星の著作に深い影を落とします。そのあたりの影響について、確認しておきたいと思います。
――きわめて感覚的な面を伴いながら、女、婦人にたいするこの作家の特殊な卑下、愛、尊敬がそこから生まれる。(『新潮日本文学小辞典』)

◎今夜はあたいの初夜だから

『蜜のあわれ』(講談社文芸文庫)は、室生犀星70歳のときの作品です。物語に登場する主な登場人物は、20歳くらいの女性に化身する3年子の金魚、著者本人と思われる70歳の老作家、彼と関係のあった2人の女の幽霊、金魚屋のオヤジです。本書は、すべて会話体で書かれています。
金魚は自分のことを「あたい」、老作家のことを「おじさま」、幽霊の一人を「田村のおばさま」と呼びます。

老作家と金魚の会話の一部を、3箇所ほど引いておきます。

(引用はじめP52)
「一たい金魚のお臀(しり)って何処にあるのかね。」
「あるわよ、附根からちょっと上の方なのよ。」
(中略)
「人間では一等お臀というものが美しいんだよ。お臀に夕栄えがあたってそれがだんだん消えてゆく景色なんて、とても世界じゅうをさがして見ても、そんな温和しい不滅の景色はないな。」
(引用おわり)

(引用はじめP59)
「今夜はあたいの初夜だから大事にして頂戴。」
「大事にしてあげるよ、おじさんも人間の女たちがもう相手にしてくれないので、とうとう金魚と寝ることになったが…。」
(引用おわり)

(引用はじめP68)
「おじさまのような、お年になっても、まだ、そんなに女が好きだなんていうのは、少し異常じゃないかしら。」
「人間は七十になっても、生きているあいだ、性慾も、感覚も豊富にあるもんなんだよ。」
(引用おわり)

 本書では終始引用例のような、会話がつづきます。色っぽく滑稽なやりとりは、ピンポン球のように飛び交います。金魚は丸ビルの歯医者に行ったり、買い物に行ったりします。化身した金魚は、老作家と幽霊と金魚屋以外には、金魚だとはわかりません。

◎おしゃまで強欲で可憐な金魚

『蜜のあわれ』は、大人向けのファンタジーともいえます。あるいは犀星最後の冒険的な小説ともいえます。さらに細かくいえば散文の中に詩を入れこんだ作品とも読めます。ストーリーははちゃめちゃですので、紹介は控えます。
金魚には赤井赤子という名前がありますが、会話のなかでは用いられていません。また老作家には足の悪い奥さんがいるのですが、そう暗示されているだけで登場することはありません。これだけでも不可思議なことですが、室生犀星は作品中にこんなことまで書いてしまいます。

(引用はじめP124)
「きみを何とか小説にかいて見たいんだ、挙句の果てにはオトギバナシになって了いそうだ、これはきみという材料がいけなかったのだね、(後略)」
(引用おわり)

最後に、本書の書評をいくつか紹介させていただきます。

――夕陽と女の人のお尻が大好きだ、と言うこのおじさまと、金魚のあたいの会話で幻想世界を描くこの小説は、なんとなく最近の「萌え」のムードで表現していて、恐るべき珍作なのである。(清水義範『独断流読書必勝法』講談社文庫P335)

――たわいもない対話の中で、ごく自然に軽みを持って語られているがゆえに、微笑ましいと同時に説得力を持って響くのだ。「蜜のあはれ」の実験的試みは、実に多くの可能性を秘めているので
ある。(長尾健・文、安藤宏・編『日本の小説101』新書館P153)

――自在でパワフルな想像力と実験的精神には、いつ読んでも仰天させられる。欧米語に翻訳されれば、おそらく世界中の読者も感動かつ仰天するに違いなし。(安原顕『乱読すれども乱心せず』春風社P199-200)

 たまには楽しい小説を読みたいと思っている方に、おしゃまで強欲で可憐な一匹の金魚をお届けします。金魚は夏の風物詩ですから、暑い最中に一読を。
山本藤光2017.08.13初稿、2018.03.08改稿


向田邦子『思い出トランプ』(新潮文庫)

2018-03-04 | 書評「む」の国内著者
向田邦子『思い出トランプ』(新潮文庫)

浮気の相手であった部下の結婚式に、妻と出席する男。おきゃんで、かわうそのような残忍さを持つ人妻。毒牙を心に抱くエリートサラリーマン。やむを得ない事故で、子どもの指を切ってしまった母親など―日常生活の中で、誰もがひとつやふたつは持っている弱さや、狡さ、後ろめたさを、人間の愛しさとして捉えた13編。直木賞受賞作「花の名前」「犬小屋」「かわうそ」を収録。(「BOOK」データベースより)

◎日常を鮮やかに切り取る

向田邦子『思い出トランプ』(新潮文庫)には、13の短編が所収されています。そのなかの「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」の3作品が対象となり、直木賞を受賞しました。これらの短編は文芸誌「小説新潮」に連載途中の一部であり、選考委員のなかには連作が完結してから評価すべきとの意見もありました。

直木賞の選考過程のことを、山口瞳はつぎのように書いています。(『向田邦子ふたたび』文春文庫ビジュアル版より)
――向田邦子は、あきらかに、私より上手だった。その向田が落ちそうになっている。私に衝撃をあたえた数少ない作品のひとつである「かわうそ」が落選しそうになっている。(中略)水上勉は、向田邦子の3作のなかでは「犬小屋」を評価していた。

劣勢をはねかえして向田邦子は、志茂田景樹『黄色い牙』(講談社文庫)との同時受賞という形で、直木賞を獲得しました。通常、直木賞は30歳から40歳くらいの作家に贈られます。受賞当時の向田は51歳でした。連作途中の作品。しかも高年齢。向田邦子の直木賞は、異例づくめだったのです。

向田邦子は太平洋戦争の渦中に、青春時代をおくっています。戦後向田は実践女子専門学校に入学して、国文学を勉強しています。通常の選択なら、向田は国語の先生になっているはずでした。しかし彼女は、当時の花形産業である映画界への道を選びました。
 
向田邦子作品の原点は、この時点のチャレンジ精神と無縁ではありません。映画雑誌の記者として、新しい時代の最先端を駆けぬけていたのです。映画に熱狂する市民を通じて、向田は人々が楽しめるストーリーを学びつづけたのでしょう。やがて向田邦子は、シナリオライターとなり、さらに小説家としての基盤を固めました。
 
向田邦子作品の魅力は、映画のひとこまを見ているように写実的である点です。日常のなかのささいな事件を、これほど鮮やかに切りとって見せる作家はまれだと思います。
 
今回『思い出トランプ』(新潮文庫)『あ・うん』(文春文庫)『隣りの女』(文春文庫)のうち、どれを「山本藤光の文庫で読む500+α」で取りあげるべきか、ずいぶん悩んでしまいました。いずれも短編集です。そのなかには、捨てがたい作品もありました。

でも個人的な好みで、「かわうそ」「犬小屋」「はめ殺し窓」が収載されている『思い出トランプ』を選ぶことにしました。直木賞受賞から1年もたたないとき、向田邦子は不運な事故に巻きこまれて他界しました。数々の名作を残して。
 
◎ミステリアス・エッセイ 

『思い出トランプ』には、表題と同じタイトルの短編はありません。通常の短編集は、収載作のどれかを冠にするのですが。ここには向田邦子の崇高な仕かけが施されています。文庫の巻末にはつぎのようなメッセージがあります。

――小説新潮五十五年二月号から五十六年二月号にかけて掲載した十三篇を収めました。上梓にあたり順番は題名に因んで十三枚のカードをシャッフルしてあります。(著者)

『思い出トランプ』に収められた13枚のカードには、関連性がありません。異なる日常の断層を、活写したカードばかりです。私は友人たちに、向田作品を「ミステリアス・エッセイなんだよな」などと語っています。いままでには存在していなかった、新たなジャンルだと思います。

1枚のカードには、平凡な男女が描かれています。舞台もいたって平凡です。凡人が書いたなら、単なる日記になりそうな設定です。それを巧みな比喩を駆使し、ひとつの恐怖の世界を構築してみせるのが、向田流なのです。

「かわうそ」の冒頭と結末の文章を、ならべてみたいと思います。その間に、研ぎ澄まされた心理の動きが隠されています。それらを洗練された感性が、つむぎだすのです。

――指先から煙草が落ちたのは、月曜日の夕方だった。/宅次は縁側に腰掛けて庭を眺めながら煙草を喫い、妻の厚子は座敷で洗濯物をたたみながら、いつものはなしを蒸し返していたときである。(「かわうそ」の冒頭より)

夫婦がいます。一軒家に住んでいます。月曜日の夕方。その日は好天だったのでしょう。妻は洗濯物をたたんでいます。夫の「指先から煙草が落ち」ます。思わずナンダナンダと思ってしまいます。
 
向田邦子の魅力は、この文章に凝縮されています。モロモロの疑問は、しだいに明らかにされます。煙草を落とす、というささいなできごとが、ふくらみ熱を帯びてくるのです。くわしくは書きません。ぜひ読んで、確かめてもらいたいと思います。
 
そして結末部分は、こんな文章となります。

――宅次は、包丁を流しに落とすように置くと、ぎくしゃくした足どりで、縁側のほうへ歩いていった。首のうしろで地虫がさわいでいる。/「メロンねえ、銀行からのと、マキノからのと、どっちにします」/返事は出来なかった。/写真機のシャッターがおりるように、庭が急に暗くなった。

夫の宅次が包丁をもつ。それを煙草のときのように、落とす。地虫がさわぐ。庭が暗くなる……。うまいなと心底思います。

13枚のカードを、しっかりシャッフルしていただきたいものです。あなたならどのカードを選びますか?
(山本藤光:2010.09.06初稿、2018.03.04改稿)

村山由佳『BAD KIDS・海を抱く』(集英社文庫)

2018-02-17 | 書評「む」の国内著者
村山由佳『BAD KIDS・海を抱く』(集英社文庫)

超高校級サーファーであり誰とでも寝る軽いやつと風評のある光秀。一方、まじめで成績優秀、校内随一の優等生の恵理。接点のほとんどない二人がある出来事をきっかけに性的な関係をもつようになる。それは互いの欲望を満たすだけの関わり、のはずだった。それぞれが内に抱える厳しい現実と悩み、それは体を重ねることで癒されていくのか。真摯に生きようとする18歳の心と体を描く青春長編小説。(「BOOK」データベースより)

◎『天使の卵』は凡庸さに徹した作品

変態、アル中、覚醒剤、レズビアンなどが、青春恋愛小説の中枢だった時代がありました。そうした作品が、次々に「文学新人賞」を受賞していました。そんな文壇に嫌気がさしていたとき、村山由佳『天使の卵』(集英社文庫)と出逢いました。読んでいて恥ずかしくなるような、ひさしぶりの恋愛小説の登場。私は村山由佳に拍手を贈りました。
 
『天使の卵』初版本のカバー裏には、きれいな女性の写真が挿入されていました。文庫版『天使の卵』よりも、はるかに若い上半身の写真です。肩まで伸びた髪が、風になびいている写真に惚れてしまいました。しかし彼女には旦那がいました。千葉県に住んでいることも知りました。駅前のキディーランドで似た人を見かけましたが、写真とのギャップがありすぎたので声をかけませんでした。

「小説すばる新人賞」の選考委員である五木寛之は、『天使の卵』についてつぎのようにコメントをしています。

――よくこれだけ凡庸さに徹することができると感嘆させられるほどだが、ひょっとすると、そこがこの作家の或る才能かもしれないのだ。

まったく同感です。このコメントが、すべてを物語っています。村山由佳の作品を読む場合は、まず『天使の卵』から出発してもらいたいと思います。わが子の成長を見守る親のような心境で、読書ができることを保証します。 

◎デビュー作を超えた『BAD KIDS・海を抱く 』(集英社文庫)

この作品は5年前に刊行された『BAD KIDS』(初出1994年集英社、集英社文庫)の姉妹編にあたります。ところが、主役をガラリと入れ換えています。

『BAD KIDS』は、高校2年の写真部員・工藤都とラクビー部員・鷺沢隆之を中心とした物語でした。『BAD KIDS・ 海を抱く』の方は、超高校級サーファー・山本光秀と都の親友・藤沢恵理に主役に変わり、時代も彼らが高校3年生に進級しています。

2人は前作では、ほんのわずかしか姿を見せていません。恵理の方は、冒頭部分で少しだけ顔をのぞかせますが、光秀の方はラスト部分で名前だけが出てくるのみでした。
 
――「すごいね、隆之くん。さすがにあんたが見込んだだけあるじゃない」/恵理はあたしの顔をのぞき込んだ。/「どうしたの、都。うれしくないの?」(『BAD KIDS』本文より)

――学校のすぐ裏に下宿している山本に、無理を言ってバイクを借りた。(『BAD KIDS』本文より)

これだけしか出番のなかった2人が、続編では主役に抜擢されています。名前だけだった恵理には藤沢という名字が授けられ、名字だけだった山本には光秀という立派な名前があたえられました。
 
そして前作の主役の2人も、脇役として続編には登場します。村山由佳は、まったく新しい作品として『BAD KIDS・ 海を抱く』を書き上げました。『BAD KIDS ・海を抱く』の構成は、前作同様に1人称「私」(前作では「あたし」)と「僕」を交互に使って書かれていました。この書き方は、お互いの本音と建前が明確になってわかりやすいものです。

山本光秀は父の指導で、サーフィンのとりこになっています。そして横浜から、唯一サーフィン部のある千葉の高校へ入学しました。彼にサーフィンを指導した父親は闘病中であり、母親は家出をしています。

一方、藤沢恵理は生徒会副会長をを務め、だれからも「いい子」と思われています。家は花栽培の農家で、長兄のアキ兄は家出をしています。『BAD KIDS ・海を抱く』は、2人の主役とその家族に多くのページをさいています。それは著者が取材した「克ちゃん」に影響されたものです。

「克ちゃん」とは北野武監督の映画『あの夏、いちばん静かな海』にも実名で出演した、プロのサーファー・松本克也のことです。克ちゃんはインタビューのなかで、「親父みたいになりたいんスよ」と答えています。そして村山由佳自身がそのことをつぎのように書いています。

――克ちゃんは決して、〈山本光秀〉のモデルではない。けれど、彼のその言葉が、今回の小説に強く影響を及ぼしたことは間違いない。彼に会った帰り道、私の頭の中にはすでに、ラストシーンがくっきり浮かんだ。(「青春と読書」1999年7月号より)

サーフィンにのめりこむ山本光秀。性にあこがれる「いい子」の藤沢恵理。2人は憎しみあいながらセックスをつづけます。前作とちがうのは主役に影を落とす家族の存在と、身体を重ねるたびに揺れ動く2人の心の変化を書きこんだ点です。

この作品には、サーファーが心待ちする最高の波に似た、青春という大きなうねりがあります。村山由佳は、処女作『天使の卵』(1994年集英社)を超えました。しかしやはりまず『天使の卵』から読んでください、とお伝えしたいと思います。
(山本藤光:2009.10.28初稿、2018.02.17改稿)

村上龍『半島を出よ』(上下巻、幻冬舎文庫)

2018-02-12 | 書評「む」の国内著者
村上龍『半島を出よ』(上下巻、幻冬舎文庫)

北朝鮮のコマンド9人が開幕戦の福岡ドームを武力占拠し、2時間後、複葉輸送機で484人の特殊部隊が来襲、市中心部を制圧した。彼らは北朝鮮の「反乱軍」を名乗った。財政破綻し、国際的孤立を深める近未来の日本に起こった奇跡。(初版本の帯コピー)

◎ジャン・ジュネと中上健次

 村上龍の処女作『限りなく透明に近いブルー』(講談社文庫)は、まったく評価できませんでした。私にはあまりにも退屈な作品だったのです。芥川賞選考委員の安岡章太郎は、選考以前のマスコミの「はしゃぎ過ぎ」に苦言を呈していました。他の候補作は古くて完成されたものだっただけに、村上龍の新しさが選ばれたようです。

 村上龍作品で私が評価しているのは、『コインロッカー・ベイビーズ』(講談社文庫)と『希望の国エクソダス』(文春文庫)の2作品です。村上龍はこれらの作品をへて、3つめの山『半島を出よ』(上下巻、幻冬舎文庫)に到達しています。

 高校時代の村上龍は、ジャン・ジュネ『泥棒日記』(新潮文庫)の愛読者でした。村上龍は「ダ・ヴィンチ」の取材(1995年)につぎのように語っています。

聞き手:ジュネの場合「泥棒が作家になった」な
んてスキャンダラスな面のみが強調されがちに
思いますが。
村上龍:もちろん、スキャンダラスな面もすごい
です。けれどこんなおぞましい世界を、あんな
美しい小説にしてしまう、その圧倒的な技術とエ
ネルギーですよ。ジュネはこれにつきる。(
記事引用)

聞き手:『五分後の世界』(幻冬舎文庫)で村上さ
んは、ある、どこにもない世界をつくり上げる、
という作業を徹底的に推し進められたわけです
が、その目指すものはジュネの初期作品と非常に
似ていると思ったのですが。
村上龍:ジュネの場合は、時代って混沌があって
ね、ある意味で未開の部分があって、そのなかで
自分にしかない情報・言葉を組み合わせて世界を
つくっていくわけです。けれど、ぼくはもっと
もっとツルツルした寒々しい時代に生きていて、
『五分後の世界』はひとつのありようもないパラ
レルワールドをミニアチュールとしてつくって
いくわけで、これは客観的に判断しても寒々しい
作業なんですよ。亡くなった中上健次さん(推薦
作『枯木灘』河出文庫)の『水の女』(講談社文芸
文庫)や『千年の愉楽』(河出文庫、中上健次選集
6・小学館文庫)を読むと、ぼくなんかよりジュネ
に近いものを感じますね。(インタビュー記事引)
用)

 引用が長くなりましたが、村上龍の原点がこの記事に凝縮されています。武蔵野美術大学のときに、村上龍は『限りなく透明に近いブルー』で鮮烈なデビューを果たしました。この作品の評価は賛否両論に分かれました。「あんなもの小説ではない。高級品のガイドブックじゃないか」、と吐き捨てたともだちもいたほどです。

 村上龍作品にジュネの影響がでてくるのは、その後の作品からです。私は『コインロッカー・ベイビーズ』を読んで、村上龍は新しい世界を構築しつつあると確信しました。この作品で村上龍は、とことん新しい世界を追及しています。

 コインロッカーに棄てられた2人の赤ん坊。『コインロッカー・ベイビーズ』は、彼らが崩壊へと突き進む物語です。『限りなく透明に近いブルー』に見られた、表層的で淡白な描写は姿を消していました。開放から崩壊への道のりを、荒々しく描いたこの作品には合格点をつけました。
 
『希望の国エクソダス』は、村上龍にしか書けない、近未来小説です。近未来小説と書くと、SFと思われるかもしれません。この作品はちがいます。正確な現状認識をベースに、その延長線上の未来を描いているのです。

 村上龍は進化しています。視覚世界だけだった(『限りなく透明に近いブルー』)ものに、意識の世界を組みこんでみせるようになりました。ジャン・ジュネや中上健次を肥やしにして、たくましい観念の世界を築きあげました(『コインロッカー・ベイビーズ』)。そして、インターネットや金融・経済まで融合させて、『希望の国エクソダス』を完成させたのです。

◎だれひとり書けなかった作品

『半島を出よ』(上下巻、幻冬舎文庫)の呪縛が解けました。だから、書評を書くことにしました。2005年5月、単行本を読んでしばらくしてから、私は書評にそう書きました。とてつもなく分厚い本なのですが、終始圧倒されつづけました。

 村上龍は、類まれなるプロデューサーでした。本書は私の生涯読書の最高傑作に数えらます。400字詰原稿用紙で1650枚。参考資料は、細かい活字で14ページもありました。この作品は一人では書けません。本人が「文庫あとがき」に書いているとおり、『13才のハローワーク』(幻冬舎)スタッフがサポートに回ったから、完成された作品です。

 第1幕。舞台は開幕戦の福岡ドーム。たった9人の北朝鮮のコマンドに、球場ごと武力占拠されてしまいます。満員の観客を人質に、彼らは時を稼ぎます。
 
 第2幕は、それから2時間後にはじまります。なんと484名の特殊部隊が、複葉輸送機で日本に侵略してくるのです。福岡市の中心部が、あっという間に制圧されます。
 
 第3幕はさらに北朝鮮反乱軍が、12万人博多へとやってくるという情報がはいります。北朝鮮は、反乱軍が勝手にやっていることだといいはなちます。日本政府は、福岡県の封鎖にふみきります。事態はそれ以上動きません。
 
 福岡が北朝鮮によって、制圧されます。日本国政府は手出しができません。福岡の成金たちが逮捕され、金を巻き上げられます。北朝鮮反乱軍の独立国が、形作られます。それにたいして、無力な日本国政府が露呈されます。さらに12万人の襲来が、迫っています。
 
 とてつもなく、壮大なドラマでした。書棚には芥川賞受賞作の『限りなく透明に近いブルー』(1976年、講談社)初版本があります。あれから30年の歳月が流れました。やったな、と素直に思います。とてつもない作品を、村上龍はつむぎ出しました。

◎あとづけ2015.10.13

中沢けいに『書評時評・本の話』(河出書房新社)という720ページの分厚い著作があります。そのなかに気になった一文がありました。追記させていただきます。

――それにしても、村上龍は、くり返し、近未来小説を書くのであろうか。『コインロッカー・ベイビーズ』からそうであった。近未来という手法は、作家にとって「リアリティがない」という非難から逃げられるものだ。形骸化して過去のものとなったステレオタイプの文章をふりかざす批評をかわすための手段を村上龍が使い続けるとしたら、それはかって、時代の寵児として登場した時に作家が背負ったトラウマのなせる業だろう。(P388)

◎また追記2017.10.08

北朝鮮の愚かな挑発が続いています。この小説のような事態にならないことを祈っています。
(山本藤光:2009.07.23初稿、2018.02.12)


村上春樹『1Q84』(全6冊、新潮文庫)

2018-02-03 | 書評「む」の国内著者
村上春樹『1Q84』(全6冊、新潮文庫)

1949年にジョージ・オーウェルは、近未来小説としての『1984』を刊行した。そして2009年、『1Q84』は逆の方向から1984年を描いた近過去小説である。そこに描かれているのは「こうであったかもしれない」世界なのだ。私たちが生きている現在が、「そうではなかったかもしれない」世界であるのと、ちょうど同じように。(アマゾン内容紹介より)

◎村上春樹ができるまで
 
村上春樹は早稲田大学在学中の、22歳のときに学生結婚しています。大学を卒業したのは、7年めの26歳のときです。その間、昼はレコード店、夜は喫茶店でアルバイトをし、やがて自らジャズ喫茶を開業することになります。29歳の春、神宮球場で野球を観ながら、村上春樹は突然「小説を書こう」という思いに駆られました。

唐突に「小説を書こう」と思った村上春樹には、目指すべきゴールが存在していました。ジャズが似合う軽やかなアメリカ文学。それまで読みあさっていたのは、つぎの作家たちです。「推薦作」は私が選んだもので、村上春樹が推薦しているわけではありません。

カート・ヴォネカット(推薦作『タイタンの妖女』ハヤカワ文庫SF)
ブローティガン(推薦作『愛のゆくえ』ハヤカワepi文庫)
フィッツジェラルド(推薦作『グレート・ギャッツビー』新潮文庫)
サリンジャー(推薦作『ライ麦畑でつかまえて』白水Uブックス)
チャンドラー(推薦作『ロング・グッドバイ』ハヤカワ文庫)
カポーティ(推薦作『遠い声遠い部屋』新潮文庫)

村上春樹は毎日台所のテーブルで、こつこつと書きためた作品を、群像新人文学賞に応募しました。『風の歌を聴け』(講談社文庫)は、みごとに新人賞を獲得することになります。1979年、村上春樹30歳のときのことです。(ここまでは『ダ・ヴィンチ解体全書』を参考にしました)

村上春樹との伴走は、その時点からはじまりました。当時私は村上春樹(1949年生まれ)と同年代の三田誠広(1948年生まれ)村上龍(1952年生まれ)、田中康夫(1956年生まれ)、立松和平(1947年生まれ)、金井美恵子(1947年生まれ)、高橋三千綱(1948年生まれ)らの作品を好んで読んでいました。

ところが村上春樹の登場で、新たな長距離走コースに引きずりこまれてしまったのです。三田誠広『僕って何』(角川文庫、初出1977年)や田中康夫『なんととなくクリスタル』(新潮文庫、初出1980年)などの作品に感じていた物足りなさを、『風の歌を聴け』(群像新人文学賞、講談社文庫、初出1979)につづいて発表される『1973年のピンボール』(講談社文庫、初出1980)『羊をめぐる冒険』(野間文芸新人賞、講談社文庫・上下巻、初出1982)などがみごとに払拭してくれました。

村上春樹は当初国内作家では、村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』(講談社文庫)や中上健次『枯木灘』(河出文庫、500+αの推薦作)のような作品を目指していました。しかし『ノルウェイの森』(上下巻、講談社文庫)では、もう一人の国内作家・三浦哲郎『忍ぶ川』(新潮文庫、山本藤光の推薦作)のような世界を意識していました。この3作品は私も大好きです。

その後村上春樹は、『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』(ともに新潮文庫)と長編小説をつぎつぎに上梓することになります。さらに村上春樹は、最終到達点としているドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(全5巻、光文社古典新訳文庫)を目指して、『1Q84』(全6冊、新潮文庫)に挑んだのです。

◎総合小説が書きたかった

村上春樹はフィッツジェラルドの著作『グレート・ギャツビー』(村上春樹翻訳ライブラリー)の翻訳を完了してから、『1Q84』の執筆にとりかかっています。おそらく翻訳をする自らの姿に、『1Q84』の主人公・天吾を重ねていたのでしょう。

天吾は文学新人賞に応募されてきた「ふかえり『空気さなぎ』」という作品のリライトを求められます。この作品は文学新人賞を受賞し、大ベストセラーになってしまいます。「喪失」と「再生」。これは村上春樹の初期作品から認められる、テーマでもあります。『空気さなぎ』は、まさにその象徴でした。

『1Q84』には、もう一人の主人公が存在します。青豆(女性)。天吾とは10歳のとき、小学校の同級生でした。だれもいない教室で、青豆は無言のまま天吾の手を強く握りしめます。それっきり2人は、離れ離れになってしまいます。そして20年が経過します。天吾は予備校の数学講師。青豆はスポーツジムのインストラクターとして働いています。2人はそれぞれが10歳のときの場面を、忘れてはいません。

『1Q84』は文庫化されて、6分冊(「BOOK1-3」各上下巻)となりました。「BOOK2」までは、天吾と青豆が交互に登場します。そして「BOOK3」では新たに、「牛河」という追跡者の視点が挿入されます。天吾と青豆は『空気さなぎ』に描かれている非現実の世界(1Q84)にはいりこみます。そこは2つの月が浮かんでいる世界です。『1Q84』というタイトルは、ジョージ・オーウェル『1984年』(ハヤカワepi文庫)からヒントを得ています。村上春樹は既存の月(1984年)の傍らに、もうひとつの月(1Q84)を添えてみせました。

 村上春樹は「総合小説を書いた」といっています。「小説でも書いてみよう」という出発点から30年。これまでの集大成のつもりで書き連ねた器の中には、SF、ミステリー、カルト集団、これまで書いてきた1人称作品などが濾過されて収められています。村上春樹は3人称小説という新しい枠組みで、虚空に緑色の月を掲げてみせました。

 長い作品なので、私は1日1章ときめて、読みつなぎました。高速道路でタクシーを降りる青豆に連れられて、あっという間に作品の中にはいりこんでしまいました。書評家の評価は2分されています。しかし世界中のたくさんの読者は、喝采の声をあげています。

空前の大ベストセラー。青豆の乗っているタクシーに、便乗してみませんか。私は十分に堪能させてもらいました。
(山本藤光:2012.10.04初稿、2018.02.03改稿)