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佐木隆三『復讐するは我にあり』(文春文庫・改訂新版)

2018-02-23 | 書評「さ」の国内著者
佐木隆三『復讐するは我にあり』(文春文庫・改訂新版)

列島を縦断しながら殺人や詐欺を重ね、高度成長に沸く日本を震撼させた稀代の知能犯・榎津巌。捜査陣を翻弄した78日間の逃避行は10歳の少女が正体を見破り終結、逮捕された榎津は死刑に―。綿密な取材と斬新な切り口で直木賞を受賞したノンフィクション・ノベルの金字塔を三十数年ぶりに全面改訂した決定版。(「BOOK」データベースより)

◎『復讐するは我にあり』で直木賞

驚きました。佐木隆三『復讐するは我にあり』が、改訂新版として再文庫化・復刊されたのです。本書は1975年に講談社(上下巻)から上梓されています。その後、講談社文庫(上下巻1978年)として発刊されました。
 
それが文春文庫として、2009年復刊されたのです。以前は上下巻だったものが、スリムな文庫1冊として改訂されました。どのくらい中味をそぎ落としたのか、興味深く読み返しました。やっぱり、ずしりと重い作品でした。しかもどこを手直ししたのか、わからないほど、完成されたできばえでした。本書は私が読んだノンフィクション・ノベルのなかでは、最高位においています。
 
 佐木隆三は父親を戦争で亡くし、自ら原爆のきのこ雲を見ています。幼いころの生活は貧しいものでした。1960年日本共産党に入り、やがて脱会します。日本共産党批判を書いて話題になったのが、『ジャンケンポン協定』(晶文社/『河出新鋭作家叢書・佐木隆三』所収)です。ジャンケンで負けたらリストラされ、勝ったら残ることができるという、とんでもない世界を描いた作品です。

1964年連続殺人犯・西口彰の裁判を傍聴します。この体験がのちの『復讐するは我にあり』として結実されたのです。1971年沖縄返還運動では、12日間拘束された経験もあります。
 
私はこの作品を、30年以上も前に読んでいます。ノンフィクションというジャンルのすばらしさを教えてくれたのは、『復讐するは我にあり』でした。その後佐木隆三の初期作品を、読みあさることになります。
 
佐木隆三は『復讐するは我にあり』で、直木賞を受賞しました。直木賞受賞後に発売された短編集『日本漂民物語』の「男と女と金の人生ドラマ」に、佐木隆三の原点がありました。実際にあったできごとの細部を積み上げて、物語として展開させる力量は半端ではありません。

◎冒頭場面から大きな手入れ

『復讐するは我にあり』が描いているのは、1963年に起こった現実の事件です。警察の追跡をあざ笑うかのように容疑者は、2ヵ月半全国をまたにかけて殺人や詐欺をくりかえしました。福岡と静岡でそれぞれ2人、東京で1人が殺されました。さらに北海道や広島、千葉などで詐欺が重ねられました。

その容疑者が、逮捕されました。当時の佐木隆三は、まだ八幡製鉄に勤めていました。容疑者の西口彰(小説の主人公名は榎津巌)が、勤め先の近所の八幡署に留置されました。佐木隆三は事件に関心をもち、福岡地裁小倉支部での裁判も1度だけ傍聴しています。

佐木隆三は犯人以上に、被害者たちに関心をしめしました。被害者の多くは、犯人と同じ階層の人たちだったのです。佐木隆三は殺人・詐欺事件を外側からとらえようと試みました。そのことは、本書の書き出しで明らかです。
 
――第一の死体発見者は、福岡県行橋市に隣接する京郡苅田町の六十二歳の主婦だった。日豊本線の行橋駅から二つ小倉寄りの苅田駅裏に、彼女の畑がある。十年ほど前に一町八村が合併し、人口五万の行橋市が発足しており、山間部から周防灘に面した海岸まで細長く伸びた地形で、石灰石を資源とするセメント工業が中心の苅田町は、臨海工業用地を造成中であり、死体が遺棄されていたのは、苅田駅裏台地のダイコン畑だった。
 一九六三(昭和三十八)年十月十九日午前七時ころ、彼女は朝食のおかずにするダイコンを抜くために、自分の畑へ行った。(後略、「改訂新版文春文庫」の冒頭を引用)
 
「改訂新版文春文庫」は、単行本に大きく手入れがなされています。これが改訂新版にかけた佐木隆三の意気込みのあらわれなのでしょう。手元にある単行本『復讐するは我にあり』(1975年発行初版、講談社、上下巻)の冒頭と比べてみたいと思います。
 
――第一の死体発見者は、筑橋市のはずれの穴生町の六十二歳の農婦だった。日豊本線筑橋駅から一つ小倉寄りの、穴生駅裏の家からすこし離れたところに、彼女の畑がある。ちょうど十年前に二町二村が合併して、人口五万の筑橋市が発足したのだが、山間部から周防灘に面した海岸まで細長く伸びた地形で、死体が遺棄されていたのは、英彦山を源流とする中路川の河口に近い堤防下だった。苅田駅裏台地のダイコン畑だった。
 昭和三十八年十月十九日午前七時ごろ、彼女は朝食のおかずにするダイコンを抜くために、自分の畑に行った。(後略、単行本の冒頭を引用)
 
 単行本では架空の名前だった筑橋市は、いまの地名・行橋市に改められています。改訂新版の文庫化にあたり佐木隆三は、作品に新たな血を注いだことが十分にうかがえます。細部の描写もかなりちがっていますが、大筋は記憶のとおりでした。
 
通常作家は、書き出しと結びの文章をことさら大切にします。それを佐木隆三は、いとも簡単に書き改めてしまいました。おそらく、書き下ろしてから30年後の舞台に、再び立ったのでしょう。セメント工場も造成中だった臨海工業用地も、現存していなかったのだろうと推察されます。
 
◎まったく新しいタイプの小説

『復讐するは我にあり』は、40節で構成されたノンフィクション・ノベルです。各節には、すべて漢字一字で見出しがつけられています。これがみごとにはまっています。最近では漢字一字で、世相を表現するイベントが定着したようです。『復讐するは我にあり』は、そのイベントの元祖でもあります。

佐木隆三は、小説の素材として興味を抱くのは「社会からはずれたアウトロー」(「日本読書新聞」1976年2月2日号)と語っています。そしてそのとおりに、書き連ねています。佐木隆三の特徴は、警察調書、新聞記事、裁判記録などを、総動員することにあります。そのうえでの綿密な現地取材が重なります。そのことを秋山駿との対談で、佐木隆三は次のように語っています。(単行本『復讐するは我にあり』の添付しおりより引用)

――彼(殺人・詐欺事件の犯人・西口彰のこと)が幼年期をすごした五島列島は、ぜひ見たかったです。それと関係者といいますか、そういう人に可能な限り会おうと、歩きました。それから検察庁に保存されている一件記録を見せてもらったり、裁判所に残っている判決文を見せてもらったり、そういうことをかなりしつこくやりました。自分なりの想像力でカバーしたいという、なまけ心みたいなものを極力押えて、歩くだけ歩いてみることは一応果たしたつもりなんです。
 
佐木隆三は、人物を内面から描くことを嫌います。「犯人の内面に踏みこんで、そこから心理的・実存的ドラマを作り上げるといった通常の小説家の特権を、佐木隆三は『想像力の怠惰』としてしりぞけ、事実への謙虚さに徹しようとする」(「朝日新聞」1976年1月26日夕刊)との信念があるからです。
 
佐木隆三は、刺激を受けたトルーマン・カポーティ『冷血』(新潮文庫)を超えたと思います。『復讐するは我にあり』を上梓する以前、佐木隆三は文芸誌にたくさんの小説を発表しています。それらの作品は、平野謙から「軽い」と一蹴されました。しかし『復讐するは我にあり』では、秋山駿から「日本の文学にはなかった形のもの」と絶賛されました。
 
佐木隆三はそれまで書いていた私小説と決別するためにも、新しい小説の形を模索していました。私小説を書き続けることについて、佐木隆三は次のように語っています。

「別れた人にも、女房にもたまらないものだろう。しかも自分もきずつくということで、そういうものとは違ったものを書こうとした」(「読書人」1976年2月9日号) 

史上初の重要指名被疑者の公開手配にもかかわらず、最初の殺人から78日間も事件は解決されませんでした。その間、被疑者は次々と新たな犯罪を犯しつづけました。逃亡する被疑者を見破ったのは、10歳の少女でした。
 
私は意図的に、ストーリーを紹介しませんでした。ぜひ読んでもらいたいと思います。そして「こんな小説があったのだ」と実感してほしいと思います。佐木隆三『復讐するは我にあり』を、「山本藤光の文庫で読む500+α」の「知・古典・教養」ジャンルの作品として選ばせてもらいました。

文庫化された佐木隆三の作品のほとんどは、絶品状態です。初期作品を読んでみたい方は、「新鋭作家叢書『佐木隆三集』」(1972年河出書房新社)を探してもらいたいと思います。本書には、「ジャンケンポン協定」「大将とわたし」「奇蹟の市」「すみれ荘の二人」などが所収されています。「新鋭作家叢書」には、古井由吉、黒井千次、阿部昭、丸山健二、丸谷才一など18人の作家が網羅されています。
(山本藤光:2009.11.11初稿、2018.02.23改稿)



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