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80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

家具と私(45)

2011-03-01 06:32:11 | 家具
 ある日、私が家事机を作ってもらっていた会社の新人社員さんが電話を

してきて、私が、もし結婚式場を知っていたら、ぜひ紹介してほしいと

言うことであった。話しているうちに其の方の言葉になまりがないことに

気がついたので、

”どちらのご出身ですか?”と聞いて見た。

"千葉です。”と、彼は言った。

私は、其の会社の人々がほとんど同郷の人だと言うことを知っていたので、

其の地方の人でない彼がどんな立場に立たされているかがよくわかった

ような気がしたので、もし彼に紹介すれば、其の結婚式場から今度は私に

お客が紹介されなくなるのはわかっていたのだが、それでも、私と立場が

同じであるような気がして、快く承諾してしまったのだが、彼は多分駄目

だろうと思っていたと言い、電話の向こうで、何度も、丁寧に頭を下げて

いる感じであった。
 
 
 
 その後暫くして、彼から電話が来た。

 "なんで、毎月のお支払いが、当社の請求額より少ないのですか?”

 私は、それまで、私が、全国のデパートに自分で交渉して、家事机を入

れてもらい、主婦の友や朝日新聞に載せてもらって、全部売ってしまい、

売るものがなくなってしまったのにも係わらず、きちんと契約書もあるのに、

”契約書はあってなきがごときものだ。”とか仰ってほんの数万円しか払って

くれていないので、それを取り返そうと思って、私は毎月お宅の家具を売った

売り上げから5万円づつひかせてもらっているのよ。” と言ったら、

 "ひどい話だ。”

と言って、上司に掛け合って、チャラにしてくれると言われたのである。



 その後、私がお礼を言いたくて電話したが、もうその時、彼は喧嘩して

やめられたのだろうか、つかまらなくなってしまった。

 

 その後、エルナプレスというアイロンのようなものですばらしい機械が

スイスから輸入されていることを知り、輸入会社に交渉して、家事机と

一緒に販売することにしたのだが、其の時にお目にかかった社長さんが、

 "奥さんの会社はブラックリストに載っていましたよ。 どうしたのです

 か?”と聞かれたのである。

 私はブラックリストに載るなんてどういうことかも判らなかったが、

 思い当たるのは、前述の事件だけであったので、多分それだろうと思って

 お話したのだが、

ひどい話ですね。”と言っておられた。



 
 その後ひどいことをした会社は倒産した。

家具と私(44)

2011-02-28 16:07:51 | 家具
家事机が全部売り切れて在庫がなくなってしまったが、主婦の友社の方に

主婦の友誌に載ったらば、売れますから、三年はデパートにおいてくださ

いねと言われていたので、メーカーに又家事机を作るように依頼したのだ

が、もう作りませんと言われてしまったので、何とかしなければならない

と思ってあちこちのメーカーに話をすることにしたのだが、そう簡単には

いかなかった。

 仕方がなくて新潟の家具の産業展にはるばる出かけていった。

くまなく会場のメーカーに当たってみたが、なかなかやってくれそうな

ところがなかったが、夕方になってやっと一軒の家具屋さんの社長さん

と話ができ、いろいろと、話が弾んで、これから先のことにまですっかり

意気投合して話し合えて、家事机の量産のことが決まり、御代は先払いで

いいですからとお願いして、ほっとして岐路に着いたのだが、翌朝其の

社長さんから電話でお断りが来た。

 "あんたは酷い人だ。家事机はお断りだ”と言って電話を切られたのだが、

私は合点がいかなかった。

私が品物の御代を先払いすると言っているのに、何も危険はないはずでは

ないのかと思っていたのだが、調べて見たら、どうも家事机で後発になっ

てしまったデパートとへも商品を入れていると言うことだったので、もし

かしたら、何かあることないこと言われたのかもしれないと思ったのだが、

あきらめるしかなかったが、なんとしても次の製品を早く作らなければ

いけないと思って、今度は静岡の展示会へ行ってみた。そこでお目にかか

った藤枝の家具メーカーの社長さんが

 ”ではとりあえず、試作品を作らせてください。”と、言ってくだ

さったので、お願いすることにした。

暫くして、製品が出来上がってきたが、"うちではとても量産はできない。”

とお断りを食ってしまったのである。

 その後、全国のこれはと思うメーカーに手紙を書いてみたが、なかなか

返事が来なかった。

ある夏の朝早く、急に四国のメーカーの方が出張で夕べはこの近くに泊

まったからと行ってたずねてこられたのだが、夏休みのことで、まだ子供

たちは寝ていたので、狭い団地の家ではまだお布団が敷いてあって、恥ず

かしい思いをしてしまったが、ただの冷やかしに来たようで、ろくに家具を

見もせずに、四国の方ではみんな早起きですからと、言われてしまった。

 その後、又、静岡お家具展示会へ行ったが、社長さんが、是非うちでやら

せてくれと言われて、お店に連れて行かれた。

 そこで家事机以外の家具もご用を承りますと言って下さったので、こちら

で、他の特注品をお願いすることになったので、ほっとしたのだが、その後

一度も家事机のことでデパートから電話がなかったことは不思議でしかたが

なかった。

最初に売り出したときでさえ、締め切ってからさらに注文が会期中より多く

いただけたくらいだったからである。私に内緒で作っていたのかもしれない

と思っていたが、何分にも一人なので、時間がなくてデパート周りができ

なかったのである。

家具と私43

2011-02-26 18:48:52 | 家具
 それから毎日、仕事の外に,自分の家の家具をどうするかと考えて

いった。 

 それと同時に今まで茅ヶ崎で作ってもらっていた特注家具を横浜で

作ってくれるところを探さなければならないと思った。

それまでいろいろなお宅の家具を作らせていただいていたのだが、

其のお宅の家の大工さんのよしあしが家具を取り付けに伺うとすぐ

わかってしまうので、家具も同じことで、私がいくら一生懸命に使い

勝手や、見栄えを考えたとしても家具職人さんの腕がよくなければ

駄目だと考えていたので、今度はどうしても横浜方面のお客さんが

多くなるだろうから、時間や運賃のことを考えたら、どうしても

コストが余計にかかってしまうので、できるだけお客さまのお宅に

近いところで作ってもらう方がいいと考えたし、それと同時に

横浜で腕のいい職人さんを抱えている木工所を探したいと思って、

どうしたらいいのかと考えたのだが、多くの家具を塗装して

いる塗装やさんに聞けば、きっと、上手に仕上がっているところを

知っているに違いないと思ったので、以前家具の塗装をお願いした

ことのある塗装やさんに聞いて見たらどうだろうかと思ったが、

職人さんはとても頑固一徹な感じの方も多いので、下手に聞いたら

だんまりをされるかもしれないと思った。

それで、塗装やさんのお好きそうなものを持って行って、話を聞か

せてもらうことに決めた。

 それである日、其の塗装やさんのすぐ近くの商店街で塗装やさん

が何がお好きか聞いて見ることにしたのである。

まづ酒屋さんに行って買い物をしながら聞いてみたが、お酒は飲ま

れないと言うことだったので、今度はお菓子やさんにいったが、

甘いものよりは果物がとってもお好きのようですよと言われたので、

果物専門店に行ってお好きそうな果物を籠に入れてもらってお昼の

お食事が終わりそうな頃を見計らって持って行った。

 ちょうど、お食事が終わってお茶にしようと思っておられたところ

へ行ったので、気持ちよく逢ってくれて、話を聞いてもらうことができ、

二箇所の木工所を教えてもらった。

 一応両方とも行ってみたのだが、片方は断られたが、うまい具合に

私の家が建つところから車で7、8分の木工所が引き受けてくれること

になった。


家具と私(42)

2011-02-21 13:19:11 | 家具
 その頃、長男が仕事の都合と、嫁さんの都合でどうしても東京でないと

暮らせないと言うことで、東京に住んでいたのだが、次男と暮らすことに

なるので、一応長男との話し合いを持ち、了解を得て次男との二世帯住宅を

建てることになった。

次男が、建築会社の建物を方々見て歩いて旭化成ホームズに決めたいと言う

ので、頭金は夫が出し、後はローンを組むことになって、いよいよ本格的に

家の建設がはじまった。

初めて旭化成の人とお目にかかることになったのはその翌年の2月15日で

私たちは、茅ヶ崎から車で日吉の次男のアパートに行ったが、出かける時

には、曇りだったのだが、三者の話し合いをしているうちに急に雪が激し

く降りだして、話が終わって外へ出た時には、もうすでに15センチぐらい

雪が積もっていて、さらに激しく降ってきているようだったので、とても

茅ヶ崎までは帰れないだろうと判断して、屏風ヶ浦の私の実家に泊めて

もらうことになった。

翌日家に帰ったら、茅ヶ崎では停電が続いていて、家の中はとっても寒くて

灯油の火鉢を出して暖をとったのだが、少しも温かくならずに、閉口した。

あんな大雪は本当に珍しいことで、積雪は35センチあった。




 それから私は仕事を毎日こなしながら、家の間取りを考え始めた。

二階は旭化成の設計士に頼むと言うので、一階の私たちの方は、私が、いろ

いろ考えて、間取りから考えることにしたのである。


設計の方と話し合って、とりあえず、玄関と階段の位置を決めてから取り掛

かった。


私のところの土地は、北側が広い道路に面していて、まだ、周りには家が

あまり建っていなかった。南は空き地で、東側は一段上に宅地があったが、、

まだ空き地のままであった。西側は一段下がったところに農家の畑が

広がっているので、風も日様もさえぎるものが全くなかった。

つまり西日がもろに当たるというので、できれば、キッチンにはしたく

なかったのだが、息子の要望で、そこへキッチンを作ることになった。

 1)長男がきたときにも家の前に車をとめられるように。

 2)二間続きの部屋を作って人寄せができるように。

 3)家具は全部自分で作って収納力のあるものを入れる。

 最初から家をショールームとして使う計画だったし、私たちもお年なので、

 お葬式を家から出すときのことも考えて決めたのである。

家具と私(41)

2011-02-20 07:26:41 | 家具
 1980年代には、家が欲しいと思い出して、私たちはあちこちの土地を

申し込んでいたが、いつも外れていた。

その後、次男が、結婚して、日吉に住んでいたのだが、ある土曜日の朝、

その息子から電話がきて、

"いつも会社の方とお昼のお弁当を一緒に食べているのだけれど、其の

 方が、明日、港北ニュータウンの土地の募集があるから行って見よう

 と思っているのですが、行かれたらどうですか? 結構よさそうです

 よ。”
  
 と、言われたので、 今から申し込みに行こうと思っているのだけれ

 ど、お父さんの名前を借りてもいいかと言う話であった。

 夫がいいというので、すぐ返事をし、ちょうど出かけようとしていた

 ところだったので、すぐ、車で出発してしまったのだが、ふと、夫の

 名前で申し込むのなら、もしかして、夫の会社の住所を書く必要が

 あるかもしれないと思って、途中の郵便局から電話をかけたら、息子

 が、今それを聞いておこうかと思っていたところだと言った。



  そんなことがあって、数日後に夫の場所が当籤したと電話で言われ

 たので、夫や息子たちに連絡をして、大喜びだったのだが、それから

 二、三日後の夕方、港北ニュータウンの事務所から電話があって、

 当選は無効になったと言われたのである。 びっくりして何故ですかと

 聞いたら、夫の名前と次男と長男と重複して申し込んであると言うこ

 とだった。 

 急いで、次男に其の旨、電話連絡したら、次男が、

 ”それはおかしいよ。僕たちはそこにおられた担当の方に、父は県内の

 ところに、兄は県外、僕は市内で、嫁さんのお父さんの名前で県外で

 この様に申し込みたいけれど、どうでしょうかと、ちゃんとお伺いを

 立ててから申し込んだんだと言うので、みんなで翌朝一番で契約する

 会場へ出かけていくことにした。

 

  四人揃って中へ入り、当日次男と嫁さんが話した人を探すことに

 なったが、奥の方に立っておられた40代ぐらいの背の高い格好のいい

 スーツ姿の人を見つけて、

 "ああ、あの人だ。”と言うので、みんなで近寄って行き、息子たちが、

 "先日、申し込みのときに、僕がこのように申し込みたいが如何ですかと

 お伺いしましたよね。?”と言ったら、覚えていてくださった。

 ”其の申し込み方が重複しているので、無効だと、お電話をいただいた

  ので、びっくりして伺いました。”と、私が言ったら、

 ”ちょっとお待ちください”と行って奥へ引っ込まれたが、すぐ、やって

 こられて、

 "それでは、こちらへどうぞ。”と言うことになって別室で契約ができた

 のであった。
 

家具と私(40)

2010-12-26 10:32:48 | 家具
話しはさかのぼるが、1979年の3月16日に新宿のkデパートで家事机が

はじめて売り出された時にも約束の工場出し価格の3%というマージンは直ぐ

には払われなかったことがあったが、今回もであった。日本の家具会社の人々

の意識の低さにはあきれてしまったが、こんな前近代的な考えの会社がこれから

の世の中、ちゃんと世界に伍していけるのだろうかとさえ思った。

そんな訳で最初の会社は駄目だと思って次の会社を探そうとする時に K デパ

ートにたまたま家具を売り込みに来た山形の工場の人達に課長さんが話しを

したらと言ってくれた。家具では比較的大きい工場の営業部長と、営業課長、

それに東京の営業所の所長という話であった。

 その後、東京営業所へご挨拶に行き、山形の工場へも行くことになって、飛行機

を夫が予約してくれたが、その日の朝は天候が大荒れであった。ともかく羽田へ

行って見ようと、悪天候の中で出掛けていったが、羽田へついたときには、多少雲が

切れ始めて、飛行機がどうやら出せるらしいという事になっていた。

山形の空港へ着いたときには、会社のデザイナーのkさんが車で迎えに来てくれて

いた。朝の天候はどこへ行ったのかと思うほど気持ちよく晴れ上がっていて、新緑の

道は美しかったが、仕事を控えているので、新庄迄の間、結構長いように思えたが、

途中で、最上川を御覧になりたいでしょうと言って、最上川の橋を渡ったところで、

少し休んで、景色を見せてくれたが、あちらも大雨だったらしく、川には濁流が流れ、

 ”五月雨を集めて早し最上川”とうたった俳人芭蕉の句が浮かんできた。

途中通った尾花沢では、冬はこのあたりは雪が1メートル以上も積もりますが、

会社のある新庄では殆ど雪は積もりませんと言う話であった。

デザイナーの方は北海道出身の28歳、独身と言う中背で、少し痩せぎすという

くらいの方で、中々まじめそうな人であった。

会社に着くと、大柄な貫禄のある営業部長さんが、出てこられて、”今日は荒武

さんはお見えにならないだろうとお噂してました。”と仰ったので、私は、

”来られないかと思っていました。”と言って笑った。

仕事の話が済んだ後、工場を見学させてくださったが、思ったよりずっと大きな

工場で、まず、たくさんの木材を買い込んで、それを特別な設備で材木の湿気を

一度、全部取り除き、それから常湿に戻してから家具としての材料に使う、それ

でないと、できた家具に狂いが生じるのだと言うお話だった。

それからいろいろとデザイナーの方と何回電話でも打ちあわせして、ヤット、

試作品が出来上がり、宣伝のお嬢さんも決まって写真撮りが行われ立派なA3の

パンフレットが出来上がって家事机の試作品と共に大量に送られてきた。

何とか売り上げなければと言う責任を大きく感じた物である。

(つづく)

家具と私(39)

2010-12-24 17:15:10 | 家具
ある会社の副社長さんとお目にかかれることになって、東京のデパートの家具

売り場で、お待ちしていたら、中肉中背の風格のある方がやってこられた。

頭の、切れが良くて、話しはぽんぽんと進んで、その会社で、これからいろいろ

と積極的に家事机の方をやっていただけることになって、ほっとしていたが、

それから、どうも、なんとなく様子がおかしいと思えることがあって、それとなく

探りを入れてみると、なんと驚いたことに、その会社のお家騒動というべきことが

あって、その副社長さんは更迭されてしまったそうであった。

社長さんには娘さんしかおられなくて、娘婿の副社長さんが、後を継ぐ事になって

いたそうだが、親戚中からの反対にあっておろされてしまったという事であった。

何がなんだかわからないまま、とにかくがっかりしていたのだが、そのうちいろ

いろとその会社の機構がかわって、それまでの東京営業所は所長がトップに居ら

れたのだが、その上にお偉いさんが来られて、所長さんは、そのお偉いさんの前では

それまで私に言われていた事と1分もたたない間に、全く反対の事を平気で言われる

ようになられてびっくりもし、あきれもしたが、すべてがおかしくなっていった。

そんな時に主婦の友社の編集者がデパートに逢いに来てくださって、今どことどこの

デパートに家事机を出していますかと言われたのである。

よくお話を伺ってみると、私が家事机を入れているデパートの名前を家事机の記事と

一緒に出してあげると言う事だった。ただし主婦の友に書くと売れるから三年は必ず

そのデパートに出し続けてくれるようにと言われたのである。

そのご本が出版されるまで、約2ヶ月あると言う事で、私は、今ここで頑張らなけれ

ばならないと思って、いろいろ計画を練った。

主婦の友だけでは売れてから1ケ月間ぐらいで読まれる方もあるかもしれないし、

直ぐ読まれるとは限らないから、新聞の記事が欲しいと思った。それまでは、読売、

日経、毎日、神奈川、The key、ファミリー 、サンケイ、全国婦人新聞など、また、

雑誌もいろいろと取り上げていただいていたが、朝日新聞だけが如何しても取り上げて

くれていなかったので、如何しても主婦の友と同時に朝日新聞の記事が欲しいと考えて、

大阪へ行くことを決意した。

夫が車で連れて行ってくれたので、大阪の朝日新聞社へ行ったら、先ず、学芸部部長

さんに

 ”東京の朝日は行ったか?”と聞かれた。

 ”はい、行きましたが、取り上げてくれませんでした。”と、私は正直に答えた。

 ”それでは、大阪と京都のデパートには出ているか”?と聞かれたので、

 ”はい、大阪の阪神、阪急、京都の大丸、高島屋に出ています。”と申し上げたら、

 それでは、関西版に出してあげようと言ってくださった。

 帰りに、その足で、阪神、阪急、京都大丸、高島屋の家具売り場へご挨拶に行き、

 名古屋松坂屋、浜松松菱、静岡のデパートを回り、翌日には千葉のそごうへ挨拶に

 行った。東京横濱方面はすでに有名デパートにはすべて出ていたので、回る必要

 はなかったが、その話しをしておいたのである。

家事机の記事が関西の朝日新聞に掲載された日、記事を書いてくださった方はご出張

中だったそうで、その方のお机の上は、問い合わせの手紙でいっぱいになったとかで、

それから全国版に出していただける事になった。

それから、電話帳で、デパートを調べ、北は北海道から鹿児島までデパート関係には

全部電話をして話しをつけて、それから、メーカーに、挨拶に行ってくれるように

頼んでおいたのである。

東京の朝日新聞が、”ちょっと値がはりますが”と言うタイトルをつけて記事に

してくれた日には電話が鳴りっぱなしだった。

前に新聞に載ると話しておいたデパートに行ってみたが、忘れていて、家事机は

裏の方に後ろ向きに置かれたままであったので、課長代理の方に言ったら、それは

大変だと人通りのある處に移していただけた。

翌日、あるメーカーに行ったら、電話が物凄かったですね。全部売り切れましたよ

と言う事であった。

ところがである。私が直接自分で売り上げた物の考案料すら振り込まれなかったの

だ。

担当者にそのことで文句を言ったら、なんと”契約書はあって無きがごとき物である。”

と言うお返事が返ってきた。


(つづく)

家具と私(38)

2010-12-22 10:30:41 | 家具
 とにかく家具を売るということは本当に大変な事であった。

他のものなら、いいと思ったら、大抵直ぐ手が出るものであると思うが、

家具は大きい物であり、置き場の問題もあるし、お値段から言っても、なか

なかそうはできない物であったのだ。

実際、御覧になって本当にすばらしいと言っていただけても、それでは、今度

家を建てるときに考慮に入れておきますとか、お引越しとか、転勤するとか

の時だとか、何かの時にという話しになってしまう事も多かったのである。

中には、私のパンフレットを何枚も貯めていてくださるというお話しをされる

方も何人もおられたが、それでは、売り上げの実績にはつながらないのであった。

婦人雑誌や新聞なども、何回も取り上げて下さっていたが、いつもそのときの記事

の中で一番お問い合わせが多かったと言っていただけたが、ほんの一部しか売り上

げにはつながらなかったので、私の懐がうるおうことはなかったのである。

それでも、方々の一流のデパートへだんだん進出できるようにはなっていった。

赤字ばかりではと思いいろいろな会社の社内販売にも一人で奔走して、入れて

いただいたが、確りした会社ほど忙しい。従業員の方々は休憩時間もあまりない

ようで、ゆっくり歩いている人がいなかった。皆さん駆け足で通りすがりに

”ア、ちょっとパンフレットを頂戴”といわれる方があるくらいで、実際売れる

ことがなかった。

 そこで、新宿のあるドレスメーカーの学校にアタックして、ヤットの事で入れて

いただいた。

4月の新入生の時期だったが、ここでも学生たちも先生方も大忙しで、駆けて歩い

ておられたのである。

或る日、札束を握った男子学生が、ひょこっと私の家具の前に立ち、

 ”ア、これ。これください。”とあまりにもあっけなく買ってくださった時

にはちょっとびっくりしたが、地方の大きな洋服を扱っておられるところの御曹司

だったようであった。

その後、先生に買っていただいたが、生徒さんは他にもいろいろそろえなければ

ならないので、仕事に就いたらキット買うと言ってくださったり、大事にパンフ

レットを取って置いて、いつかお金が出来たらと名残惜しそうに帰られた方々も

多かったのである。

家具と私(37)

2010-12-21 16:06:25 | 家具
その頃のデパートの家具売り場はそのデパートによって違う方式をとっていた。

あるデパートでは、そのデパートの店員さんたちだけが売場を担当していたが、別

のデパートでは店員さんもいたが、多くは外からの今で言えば派遣店員だったとこ

ろもあった。

また、處によっては、工場から土日に売場に出かけてくるその家具工場の専門の

セールスさんがいたところもあったのである。

並んでいる品物はどうしても専門のセールスのいるところの品物がお客さんが多く

通るところに置かれるし、何かのマスコミに取り上げられるという事であれば、

また、それなりに、課長さんの判断でいい場所に置き換えられるのであった。

会社によっては時々デパートに見回りに来て、いいところにおいてもらえるよう

にとか、ご自分の会社の家具がどのように扱われているのかと見回りに来られて

いるたが、ある時ある素敵な家具を買いに来られたお客さんがおられたのだが、

私が見るともなく見ていると、現金をためて、本当に嬉しそうに憧れの家具を

買いに来られたお客さんであった。

だが、売り場の派遣店員の男たちがよってたかって、そのお客さんを追い返して

しまったのである。

私は不審に思って、その中の一人にそっとその訳を聞いてみたのだが、

“今日は課長も誰もいないし、あのメーカーは大体自分のところはいいものを

売っているとうぬぼれていて、俺たち販売員に一円も払わないんだよ。だから

いくら売っても俺たちはただ働きで、日ごろから恨んでいたら、今日、長い間

あそこの家具を買いたくてお金を貯めて現金で買いに来たお客がいたので、みんな

で、引き出しをひっくり返してみせたり、あそこの家具の悪口を言って、追い返し

ちゃったのさ”

という話しであった。

本当にびっくりしたが、いろいろ考えさせられる話しであった。

私は、常々いい問屋さんを通さなければと思っていたのだが、

家具が売れるということは、家具の良さ意外にもいろいろとなことがあるのだという

ことを思い知らされた事件であった。

家具と私(36)

2010-12-20 15:30:45 | 家具
これは扶桑社の婦人雑誌エッセの1987年1月号に取り上げていただいた

物である。

従来の洋服ダンスはとても無駄に空間を使っていると思って、何とか改良

したいと思って考えたのだが、ハンガーの肩の上に出来る空間がもったいない

ので、それを何とかしたいと思ったり、和服もあまり持っていないので、

こういうものを作ったのである。

まづ夫の物は外出着から下着、出勤時に必要な小物まで忘れ物がないように

一目で確認できるようにと考えてみた。

まづ運送するには、上下二段に分けることにし、季節の物、季節外のものと分けて

収納すること、洋服ダンスの前に立って下着を着、ワイシャツを着て、ネクタイ

を締め、ズボンをはいて、上着を着、その日必要な小物をポケットに入れたか

どうか確認する。コートを取り出す。と、まあ、

一連のサラリーマンの朝の仕事を全部この場所で出来るようにと考えたので

ある。

上下二段の分けて一番考えたのはコートの長さをどうするかであったが、


上下を貫通させる空間があればよいと思い、また、人によってコーとの丈が

違うので、コート掛けを棚板の下に取り付けて、その方のちょうどいい位置に

コートが掛けられるように工夫した。その上の棚にはワイシャツやセーター

などがたたんだままで入る幅にしたのである。

その右側にはパイプを二段つけてスーツ掛けにし、季節のスーツは下段に掛け、

季節外のものは上段に掛けることとした。(ただし背のとてもお高い方は上段に

季節の物を掛ける方がとりやすいかもしれないと思っていたが・・・。)

奥行きまでいっぱいのトレーをその下において、手前にちょっと引き出して

使うようにし、中には取り外し可能な仕切りをつけた。

その中の手前側には、会社から帰った時にポケットの物を全部取り出しておく

ところを設けて、翌日洋服を取り替えた時に忘れ物がないように、そこだけを

キチンと見ればよいようにと考えた。この手前には上のスーツを取り外すため

の道具をいつも入れておくことにした。

右の扉裏にはネクタイ用の鏡を取り付け、その下段の右側扉裏にはネクタイが

たくさん掛けられ、ネクタイ用のハンガーは、ネクタイをとるときに、どの

ネクタイがどこにあるかが直ぐわかり、下側のものをとっても上のがずり落ち

ないという物を取り付けた。タイピンはネクタイ掛けの上に載せられた。

下段のスーツの下にも上弾のと同じトレーをつけたが、ここには夫の

下着が全部入ってしまった。スーツの掛けてあるところの後ろに幅の狭い棚板

をつけたが、ここにも結構たくさん物が入った。

上段の左扉裏には季節外のスラックスが三枚は入るハンガーがつけられた。

下段の扉裏にはマフラー掛けやけ小物入れをつけた。

扉の正面は取っ手がつくと狭い団地では引っかかりやすいので、とってが飛び

出さないようにしたのである。


これは、後に、あるお客様がこれ一本で今迄三本分の洋服ダンスに入っていた物

が全部入ったと喜んでくださったので、”三倍入る洋服ダンス”と命名した。




 婦人用として作ったのは、和服を入れるお盆を取り付けた上置きと、

下に高さ180センチの本体を考えた。

左の扉裏には上に鏡を取り付け、その下には三段の高さに別れている小物入れ

と、スカーフ掛けを取り付け、反対側の右扉裏には4段にタオル掛け用

のハンガーのたくさん掛けられるようになっているものを取り付けたので、

一段にスカートや、スラックス三枚は掛けられるようになった。

こちらも衣類のハンガー用のパイプの奥に浅い棚を設けて、そこには

ネックレスや指輪などの箱物を入れるようにした。

コートやワンピースなどを掛ける下にもトレーをつけて、小物などを

入れ、下の厚い引き出しにはセーターや、ショールなどをいれた。

これらは家事机と同じに奥行き60センチにして並べたが、隣にあるのは夫

の机として家事机を使ったが、机の一番下には夫のかばんも入れられて

便利になった。