このブログを・・・、お盆で一時帰宅中の、今は亡き父と母に捧げます。
「8月の約束」
母が亡くなってから、父は相変わらず「プスッ」とした苦虫を噛み殺した表情で、
毎日のように酒ばっかし呑んでいた。
母が居なくなってそもそも、灯が消えたような我が家であったのだが、
元々無口な父がこのありさまだったので、
当時小学2年生だった私と、まだ3歳くらいの弟にとっての家庭教育環境は、頗る付きで良くはなかったのだと思う。
今にして思えば・・・・ではあるが。
無理もないことではある。
人の命というものは、贖えるものではないからだ。
無論、大人となった今、父を責めるつもりはないのだが、
当時は訳も判らずに、とにかくやりきれなかったものである。
実は、母が亡くなる前の夏、庭先で線香花火を愉しんだのであった。
儚い閃光の光の中で端正な母親の横顔を眺めながら、綺麗な人だと思ったものだ。
母は正看護婦の資格を持っていて、大きな、今でいう労災病院みたいなところに勤務していたこともあったという。。
そんなことで、私の体調管理には殊のほか厳しかった。
事実、ちょっと具合が悪くなると、すぐに熱を測り、脈を採り、トイレに行って便を調べられたものだ。
そんな母親だったから、自分の体の異変にはいち早く気づいていたらしく、
あとで母の日記を読んだら、まさしく「幼い子供たちを残して死ねない・・・。」
と悲壮な文字で、32歳の心中が綴られていた。
死を覚悟した前の年の夏、庭の線香花火に母は命の儚さを感じていたのだと思う。
母は、8月の終わりの頃の、たった5円の我が家のささやかな花火大会が終わった後で
「たー坊、また来年の夏も線香花火をしようね・・・・。」と言って
指きりげんまん・・・・の約束をしたのだ。
その約束は天のはからいで無残にも破られることになったのだった。
・・・・そして、冒頭のくだりである。
次の年の夏、私は子供のことに気が回らない父に、敢然と抗議をしたのである。
「どこの家も、夏休みにはどこか連れて行ってくれてるのに、どうしてうちは行かんとね・・・。」と
三度ほどもせがむと、さすがに父も観念したようで、
佐賀の玉屋デパートに行くことになった。
私の必死の抗議が受け入れられたのである。
佐賀に向かうバスの一番後部座席で、弟と三人、それは男ばかりの家族の夏休み旅行であった。
佐賀に着くと、暑さ凌ぎに食堂でかき氷を食べた。
父は黙って、例の苦虫を噛み潰したような表情で食べていたが、
三人は突然、「あいたたたたっ・・・」と頭やコメカミを押さえたりして
結局はなんとか、いちご味のかき氷を食べ終えたのだった。
そのあと、当時は呉服町にあった玉屋デパートに行くのだが、
私はエレベーターに乗れるのが何より嬉しくてたまらなかった。
当時はエレベーターなどという文明の利器は、田舎では極めて珍しく
乗って、格子戸のドアが閉まり、「チン」とベルが鳴ると、中は都会の匂いがしたものである。
そこで一番に行ったのが、勿論というか、当然に玩具売り場である。
学校の先生も当時は薄給の代名詞みたいなものだったから、
父は万年筆などを遠くから見ていたが、結局何も買わずに弟には画用紙とクレヨン・・・・。
いかにも理科の先生らしく、私には「地球ゴマ」を買ってくれた。
これでまあ、父を通じて、間接的に8月の短い夏の約束は果たされたのである。
帰りのバスの後部座席で
無口な父が、まだ幼い二人の子供に対して
「今日は楽しかったか・・・。」
「今日はどうやったか・・・。」
と何度も何度も問いかけたのを今でも不思議に覚えている。
実は本当の約束があることについては、地球ゴマが嬉しくて言えなかったのだが、
しかし、その日はちゃんと近所の「中島おもちゃ屋」さんから花火セットが買ってあって、
庭先で父と私と弟、ラムネを呑みながら、隣の従兄達も一緒に、花火をした。
この歳になっても8月の約束のことを覚えているのだから、
何とも約束とは実に大切なものである。