人はみんな犬を飼っている。
今まさに飼っている人も、そうでない人も。
そして、少なくとも私が知っているだけでも、犬の死に直面した人はゴマンといるのだ。
ある老舗の旅館には、保健所で薬殺される寸前の、まだ若い犬を貰い受けてきて、飼っておられるのだけれど、
たしかに、その犬・・・・(仮に名前をディーコとしよう)は、
保健所に引き取られるような自分の過酷な運命を恨んでいて、世を憂い、拗ねていて、まったく人間を信用していなかったらしい。
それが、家族同然のように、優しく扱われていくうちに、犬の心を次第に開いてていき、
老犬になった今では、深い信頼関係が出来上がっているというのである。
しかし、幸せは長くは続かない例えの通りに、その老犬も癌に侵され、死の病床に伏していると聞いた。
それでも変わりなく。犬も人間も、夫々が気遣っている。
我が家の老犬もまた、最近元気があったり、なかったりの日々が続いている。
一日に例えるならば、確実に夕闇が迫っている状態なんである。
心臓弁膜症の薬の副作用で、腎臓系統の機能が衰えているのだ。
だから、気持ちのよいオシッコが出ていないようなのである。
元気な頃は悪戯の限りを尽くしたこの愛犬LEON君・・・・
家中のそこかしこでオシッコを垂れ流しして、随分と飼い主を困らせたものだが、
それがこんな状態に陥ると、家の中でもいいから、オシッコをたくさんしてくれないかと祈るような気持ちになるから不思議だ。
実は犬とはいえ、人間と殆ど変らない。
人間が試される病気の殆どはまったく同じなのだ。
そこで長年の友達ともなれば、折に触れて自分と犬とを重ね合わせてみることになるのだ。
犬が病気で苦しんでいるのは、言葉を発しないだけにとても辛いものだ。
気の弱い私などは、まさに代わってあげたいと思うくらい。
いま犬を飼ってない人も、かっては犬と一緒に暮らしていたことがあるというお方も多いものだ。
看取ることの辛さと死に直面した時の慟哭に耐えかねて、もう犬は飼わないと決意されたんであろう。
死を迎える頃になると、とうとう歩けなくなった愛犬を抱きかかえて、かって散歩してまわった道を連れて回るという人は多い。
ぐったりとでもしていた日には、慌てふたむき、日曜であろうと、動物病院に電話するんである。
犬は自分を投影する鏡なのだと思う。
それは自己憐憫などではなく、同じいきもの族としての共感のような
諸行無常の絶対的な死を避けることのできない定めを、共に噛み締めあうパートナーとしての「一種の仁義のようなもの」が、老犬と暮らす境地には付きまとうものだ。
現世に生きとし生けるものすべて、やがてこの世からいなくなってしまうという寂寥感の縮図が、人間よりやや寿命が短い犬に映し出される。
私自身がそうだ。かって孤独の独り暮らしを救ってくれた老犬との信頼関係こそが、まさにそうなのである。
いのちはけして贖えないという真理の前に、私達はいかに無力なのであろうか。
人は誰もが犬を飼っている。
そうでない人も含めて、すべからく心の中に犬を飼っているのだ。