風竿の「人生の達人」烈伝

愛すべき友、仕事・趣味の磯釣り・ゴルフ・音楽、少しの読書などにまつわるあくまで「ヒト」に重点をおいたブログです

柱時計が10時半の青春

2011年02月27日 23時52分39秒 | 風竿の音楽夜話

学生時代福岡に居た。

浪人ばやりの時代、私も流行り病のように一浪を経験

学生運動に身を置いていた私には、辛く、甘酸っぱく、社会的責任もなく、そして音楽的な魅力に溢れた街が福岡であった。

 

70年安保闘争、4.28沖縄奪還デモの辛さは一入であった。

警固公園からアメリカ領事館前までフランスデモに参加した時に、丸々と太った血色のよい機動隊の縦列規制を経験した。

彼らは人目の多い、大通りを通る時は整然と横に並んでデモ隊を見守るんであるが、一度人通りの少ない路地に入ると、デモの隊列を分断するかの如くに、露骨に罵声を浴びせながら、ボッコボッコと、蹴りを入れてくるのであった。

  

それに対抗して私達は皆、痩せ細った貧乏学生だったのだが、腰を落とし、隣の仲間のベルトを握り、ジグザグに蛇行しながら

「安保粉砕・闘争勝利」のシュプレヒコールを繰り返しながら、辛い行進を続けるのだった。

警棒で殴られてヘルメットが割れた女子学生が居た位に、機動隊の規制は過激であった。

   

私にとって学生運動とは、・・・それは、当時の学生の熱病みたいに日本中に蔓延していたのであるが・・・、少なくとも「国家のありよう」について、若いなりに真剣に思い考え、憂い、失望し、泣き笑いした。

そして、それは、尖ったナイフのような青春の蹉跌なんである。

 

そんな中で、天神のフォーク喫茶「照和」は唯一の心の拠り所であった。

チューリップの財津和夫や海援隊の武田鉄矢が常時出演していて、私も駆け出しで、ステージに立ったことがあるのだ。

そんな頃に福岡でとても流行った曲がこれ・・・・。

「柱時計が10時半」

当時のアマチュア音楽シーンとしては凄い新鮮なオリジナル曲であった。

「白い雪そんな雪が私は好き」という曲も、12月の街の喧騒の中で、多くの人に口ずさまれたのであった。

昔噺をするのは年老いた証拠なのだろうが、私にとって、少なくとも音楽に関しては昔噺ではないんである。


 



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2 コメント

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Unknown ()
2011-02-28 09:16:10
どれもこれも魅力的な唄です。今聞いても・・・。
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本当に・・・ (尚さん)
2011-03-02 22:47:03
わが青春の歌の数々です。

柱時計が10時半
ママがパパを愛したように
ええとこの子のバラッド

いつか一緒にやりましょう。
それとブラザーズフォアも・・・。
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