7月6日(土)の昼と夜に、演劇「デカローグ」の7~10を見る。これまでに1~6は見て来たので、後半の四本。モーゼの「十誡」に基づいて1989年当時のポーランドを描くテレビ映画の舞台化で、1作品は55分~60分程度になっている。昼に7と8を、夜に9と10を見た。昼の部は9割を超える入りだったが、夜の部は7割程度。客層は20代から60代まで多様で、男女の数もほぼ同じくらい。オペラやバレエと異なり、圧倒的に一人客が多い。お友達は、演劇には付き合ってくれないのかなあと思う。
モーゼの十誡は、前半の半分は信仰に関することで、後半の半分は道徳的な内容なので、今回の7~10は道徳的な内容がテーマだった。前半は十誡の順番とは異なったが、後半はほぼ十誡の順序と同じ順番だった。「デカローグ」とは「十誡」のことであり、各物語はそれぞれのテーマに沿っているので、それを知るととても面白いと思うのに、プログラムにもどこにも、十誡との関係を論じていないので損をしている。聖書学者が十誡の解説はしているが、この作品との関係はほとんど論じられていない。これでは見る人にとって不親切だろう。
7話の「ある告白に関する物語」は、娘二人と一緒に暮らす中年夫婦の物語。娘は22歳と6歳だが、下の娘は上の娘が16歳の時に生んだ子供を、祖母が「娘」として育てていた。しかし、祖母がその娘を溺愛し、娘もなついていたので、本当は母にあたる上の娘は、自分の子供を奪われたような気になって、両親から逃れようとする。16歳当時関係した元国語教師の助けを求めるが、結局はうまく行かない。これは「姦淫するなかれ」に基づく。
8話の「ある過去に関する話」は、大学で倫理学を教える中年女性を尋ねて、彼女の著書を米国で翻訳している若い女性大学教授がやって来る。そして1943年当時のワルシャワで、当時6歳だったユダヤ系の少女を匿うため、カトリックの洗礼を受けるために代父母を務める予定だった夫婦が、その当日に代父母を断ったのは、倫理的に問題ではなかったのかを問う。米国の翻訳者はその6歳の少女であり、倫理学の教授は断った夫婦の妻だったのだ。米国から来た翻訳者の女性は、その後ずっと「なぜその時に裏切られたのか」を疑問に感じて生きてきたのだ。もしかしたら、「偽証をしてはいけない」という教えを守ろうとしたのか、と思い悩んできたのだ。倫理学の教授は、当時のレジスタンスの活動家で、その少女を匿うとした家族が、当局のスパイであり、レジスタンスの組織が危険にさらされることを恐れて断ったと話し、二人は理解し合うことができる。
9話の「ある孤独に関する物語」は、性的に不能で治らないと知らされた男が、友人から離婚を進められる。妻はそんな彼に優しく接していたが、実は大学生と浮気していた。それに気づいた男は自暴自棄となり、妻は男子大学生との関係を清算するが、男は自殺を図る。「これは隣人の妻を欲してはいけない」に相当する。
10話の「ある希望に関する物語」は、会社員の兄とロックバンドをやっている弟の父親が亡くなり、その父親のアパートを尋ねると、膨大な切手コレクションを発見する。二人には価値が分からなかったが、専門家の話を聞くと、ポーランドでは並ぶものがないほどの貴重なコレクションだとわかり、兄弟はそのコレクションを守ろうとする。中でも貴重な3枚組の切手のうち、2枚を集めて1枚が手に入らないまま亡くなった父親の遺志を継ぎ、二人は何とか残りの1枚を手に入れようとする。それを持つ蒐集家は、金では売らず、他の貴重な切手との交換を求めていることを知る。そして、その交換用の切手を手に入れるため、兄は腎臓の一つを提供して残りの1枚を手に入れた。しかし、父親のアパートは、何者かに荒らされ、コレクションはすべて盗まれているのだった。これは「隣人の財産を欲してはならない」に基づく。
どれも、映画的な作品なので、舞台化には苦労が伴っただろうが、うまく舞台化されていた。特に10話などは、O・ヘンリーの短編を読むような面白さ感じた。出演者は概ねキチンと演じていたが、9話では、舞台的な訓練がうまくできておらず、台詞が聞き取りにくい出演者もいた。
午後1時から見始めて、終了したのは、午後7時50分頃。帰宅の途中で、天丼を食べて帰る。
モーゼの十誡は、前半の半分は信仰に関することで、後半の半分は道徳的な内容なので、今回の7~10は道徳的な内容がテーマだった。前半は十誡の順番とは異なったが、後半はほぼ十誡の順序と同じ順番だった。「デカローグ」とは「十誡」のことであり、各物語はそれぞれのテーマに沿っているので、それを知るととても面白いと思うのに、プログラムにもどこにも、十誡との関係を論じていないので損をしている。聖書学者が十誡の解説はしているが、この作品との関係はほとんど論じられていない。これでは見る人にとって不親切だろう。
7話の「ある告白に関する物語」は、娘二人と一緒に暮らす中年夫婦の物語。娘は22歳と6歳だが、下の娘は上の娘が16歳の時に生んだ子供を、祖母が「娘」として育てていた。しかし、祖母がその娘を溺愛し、娘もなついていたので、本当は母にあたる上の娘は、自分の子供を奪われたような気になって、両親から逃れようとする。16歳当時関係した元国語教師の助けを求めるが、結局はうまく行かない。これは「姦淫するなかれ」に基づく。
8話の「ある過去に関する話」は、大学で倫理学を教える中年女性を尋ねて、彼女の著書を米国で翻訳している若い女性大学教授がやって来る。そして1943年当時のワルシャワで、当時6歳だったユダヤ系の少女を匿うため、カトリックの洗礼を受けるために代父母を務める予定だった夫婦が、その当日に代父母を断ったのは、倫理的に問題ではなかったのかを問う。米国の翻訳者はその6歳の少女であり、倫理学の教授は断った夫婦の妻だったのだ。米国から来た翻訳者の女性は、その後ずっと「なぜその時に裏切られたのか」を疑問に感じて生きてきたのだ。もしかしたら、「偽証をしてはいけない」という教えを守ろうとしたのか、と思い悩んできたのだ。倫理学の教授は、当時のレジスタンスの活動家で、その少女を匿うとした家族が、当局のスパイであり、レジスタンスの組織が危険にさらされることを恐れて断ったと話し、二人は理解し合うことができる。
9話の「ある孤独に関する物語」は、性的に不能で治らないと知らされた男が、友人から離婚を進められる。妻はそんな彼に優しく接していたが、実は大学生と浮気していた。それに気づいた男は自暴自棄となり、妻は男子大学生との関係を清算するが、男は自殺を図る。「これは隣人の妻を欲してはいけない」に相当する。
10話の「ある希望に関する物語」は、会社員の兄とロックバンドをやっている弟の父親が亡くなり、その父親のアパートを尋ねると、膨大な切手コレクションを発見する。二人には価値が分からなかったが、専門家の話を聞くと、ポーランドでは並ぶものがないほどの貴重なコレクションだとわかり、兄弟はそのコレクションを守ろうとする。中でも貴重な3枚組の切手のうち、2枚を集めて1枚が手に入らないまま亡くなった父親の遺志を継ぎ、二人は何とか残りの1枚を手に入れようとする。それを持つ蒐集家は、金では売らず、他の貴重な切手との交換を求めていることを知る。そして、その交換用の切手を手に入れるため、兄は腎臓の一つを提供して残りの1枚を手に入れた。しかし、父親のアパートは、何者かに荒らされ、コレクションはすべて盗まれているのだった。これは「隣人の財産を欲してはならない」に基づく。
どれも、映画的な作品なので、舞台化には苦労が伴っただろうが、うまく舞台化されていた。特に10話などは、O・ヘンリーの短編を読むような面白さ感じた。出演者は概ねキチンと演じていたが、9話では、舞台的な訓練がうまくできておらず、台詞が聞き取りにくい出演者もいた。
午後1時から見始めて、終了したのは、午後7時50分頃。帰宅の途中で、天丼を食べて帰る。
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