招待券をたまたまもらったので、「ジャパン・バレエ21」と銘打った、バレエ団の発表会を覗いてみた。発表会みたいなものだと思ったので、あまり気が進まなかったが、森下洋子も出演するというので、恐らくはもう70歳近い森下洋子がどんなふうに踊るのか見てみたいと思い、新宿文化センターの夕方の部を見に行った。
森下洋子を生で観たのは、かれこれもう40年ぐらい昔の話で、清水哲太郎と組んで踊っている姿を見て憧れて、彼女の本まで買った記憶がある。こっちは歳をとって仕事も引退しているのに、まだプリマとして踊っているのは凄いと思い、怖いもの見たさで、見に行った。
公演は三幕構成で、一幕が1時間、二幕が25分、三幕が1時間ぐらい。全体としては12人の少女たちが旅立っていくのを天上の神たちが温かく見守る、みたいなコンセプトで構成されている。森下洋子は、一幕の中で少し踊るほか、三幕のフィナーレでも登場する。
まず驚かされたのは、大量の出演者。多すぎて数え切れなかったが、恐らくは150人を超えている。昔はブロードウェイのショーやオペレッタでも、登場人物が多く、コーラスやダンサーを入れると150人ぐらいというのもあったが、近年は人件費が高騰したので、出演者は20~30人と少ないことが多い。
だから日本の宝塚などは貴重で、大量の出演者でレビューをやる物量の豪華さで目を見張らされるのだが、大半がバレエ学校の生徒だとはいえ、150人も並べて踊らせることができるのは凄い。これだけの物量を並べることができるのは、ほかでは北朝鮮のマスゲームぐらいしかないのではないか。
ただ、新宿文化センターの舞台で150人も並んで踊るのは無理で、大勢登場すると、ぐるぐると回りながら手で踊る盆踊りのような振り付けになっていた。
全体の構成のコンセプトはあるのだろうが、ちっとも伝わってこないまま、延々と踊りが続く。大半は生徒さんだから、群舞が中心で、あまり高度なテクニックとか、ジャンプなどはほとんどなく、退屈する。こうした踊りでも、ショーの構成をよく考えて、シチュエーション、登場人物のキャラクター、プロット(物語性)を少しでも加えれば面白くなるのにと思いながら見る。
森下洋子は、同じように踊るダンサーたちを引き連れて、一応パ・ド・ドゥもどきを踊る。それなりに動くものの、往年の魅力はなく、首も伸びていない。また、脚も弱って来たのかジャンプは全くできず、足元が危なそうに見える。男性ダンサーのリフトも、壊れ物を大事に扱うように持ち上げていた。
二幕は9人の女神たちの踊り。このギリシャの9人娘たちは、松山バレエ団の練習所の名前にもなっているぐらいだから、象徴なのだろう。本来ならば全く不必要と思われるところで、この踊りが入る。最初に、ニジンスキーの「牧神の午後」のニンフのような娘が出てくるのは愛嬌だが、そのあとに円盤状で9人が踊るのは、クラシック・チュチュを付けたコンテみたいな珍妙な踊り。清水哲太郎の振り付けのセンスは疑問に思う。この場面を観ていたら、なぜか昔の国際劇場で観たSKDの「エイト・ピーチェス」が黄色い歓声を上げて踊っていたことを思い出した。あの8人娘たちは良かったなあ。
三幕になると生徒さんの発表会で、小学生クラス、中学生クラス、高校クラス、研修生クラスみたいな場面が続き、単調。最後はまた150人くらい総出演するフィナーレになる。このフィナーレの音楽はワーグナーだった。清水哲太郎は、哲学的なことをいろいろと掲げているようだが、ワーグナーも好きなのかと思った。
新宿文化センターは、ホール内壁もタイルで反響が大きく、ワンワンとこもったような音で聴きにくい。特にアナウンスが入ると、何を言っているのかわからない。公式の発表では残響時間は可変式で普通は2秒、幕を下ろして1.6秒とのことだが、聞くに堪えない音響だ。
飲まずには帰れるかという気分になり、行きつけのスペイン・バルで、イベリコ豚のパテや若鶏のローストなどを食した。
森下洋子を生で観たのは、かれこれもう40年ぐらい昔の話で、清水哲太郎と組んで踊っている姿を見て憧れて、彼女の本まで買った記憶がある。こっちは歳をとって仕事も引退しているのに、まだプリマとして踊っているのは凄いと思い、怖いもの見たさで、見に行った。
公演は三幕構成で、一幕が1時間、二幕が25分、三幕が1時間ぐらい。全体としては12人の少女たちが旅立っていくのを天上の神たちが温かく見守る、みたいなコンセプトで構成されている。森下洋子は、一幕の中で少し踊るほか、三幕のフィナーレでも登場する。
まず驚かされたのは、大量の出演者。多すぎて数え切れなかったが、恐らくは150人を超えている。昔はブロードウェイのショーやオペレッタでも、登場人物が多く、コーラスやダンサーを入れると150人ぐらいというのもあったが、近年は人件費が高騰したので、出演者は20~30人と少ないことが多い。
だから日本の宝塚などは貴重で、大量の出演者でレビューをやる物量の豪華さで目を見張らされるのだが、大半がバレエ学校の生徒だとはいえ、150人も並べて踊らせることができるのは凄い。これだけの物量を並べることができるのは、ほかでは北朝鮮のマスゲームぐらいしかないのではないか。
ただ、新宿文化センターの舞台で150人も並んで踊るのは無理で、大勢登場すると、ぐるぐると回りながら手で踊る盆踊りのような振り付けになっていた。
全体の構成のコンセプトはあるのだろうが、ちっとも伝わってこないまま、延々と踊りが続く。大半は生徒さんだから、群舞が中心で、あまり高度なテクニックとか、ジャンプなどはほとんどなく、退屈する。こうした踊りでも、ショーの構成をよく考えて、シチュエーション、登場人物のキャラクター、プロット(物語性)を少しでも加えれば面白くなるのにと思いながら見る。
森下洋子は、同じように踊るダンサーたちを引き連れて、一応パ・ド・ドゥもどきを踊る。それなりに動くものの、往年の魅力はなく、首も伸びていない。また、脚も弱って来たのかジャンプは全くできず、足元が危なそうに見える。男性ダンサーのリフトも、壊れ物を大事に扱うように持ち上げていた。
二幕は9人の女神たちの踊り。このギリシャの9人娘たちは、松山バレエ団の練習所の名前にもなっているぐらいだから、象徴なのだろう。本来ならば全く不必要と思われるところで、この踊りが入る。最初に、ニジンスキーの「牧神の午後」のニンフのような娘が出てくるのは愛嬌だが、そのあとに円盤状で9人が踊るのは、クラシック・チュチュを付けたコンテみたいな珍妙な踊り。清水哲太郎の振り付けのセンスは疑問に思う。この場面を観ていたら、なぜか昔の国際劇場で観たSKDの「エイト・ピーチェス」が黄色い歓声を上げて踊っていたことを思い出した。あの8人娘たちは良かったなあ。
三幕になると生徒さんの発表会で、小学生クラス、中学生クラス、高校クラス、研修生クラスみたいな場面が続き、単調。最後はまた150人くらい総出演するフィナーレになる。このフィナーレの音楽はワーグナーだった。清水哲太郎は、哲学的なことをいろいろと掲げているようだが、ワーグナーも好きなのかと思った。
新宿文化センターは、ホール内壁もタイルで反響が大きく、ワンワンとこもったような音で聴きにくい。特にアナウンスが入ると、何を言っているのかわからない。公式の発表では残響時間は可変式で普通は2秒、幕を下ろして1.6秒とのことだが、聞くに堪えない音響だ。
飲まずには帰れるかという気分になり、行きつけのスペイン・バルで、イベリコ豚のパテや若鶏のローストなどを食した。
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