しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <奥義キリスト・イエス>

2024-05-19 | みことば静想
「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを心に知るようになるためです。」(コロサイ2:2新改訳)

薄暗く、日も射さない牢獄、鉄鎖を引きずる音、粗末な食物と冬の寒さ、その中にいる一人の老囚人・パウロ。何度も聖書を読むうち、私はそのような光景が自然と浮かぶようになった。▼ふつうであれば、よろこびの「よ」の字もない場所なのに、使徒の心は光かがやいているのが文面から伝わって来る。極小の空間に閉じ込められたパウロの霊性は、反対に広大無辺の天が開かれ、神の宝座とケルビムが飛翔する第三の天界を自由に飛び交っている。その抑えきれない喜びと、神の王座の右に座す主イエスの、言葉に表現できない栄光のかがやきに圧倒されながら、使徒はなんとかそれを各地の兄姉たちに伝えようと書簡をしたためている。▼復活されたキリストの威容とまばゆいお姿、そこから天地宇宙に放射される神の愛といつくしみの豊かさ、使徒はおそらくもどかしくてたまらない。そして牢獄の石畳みにひざまづいて「主よ、どうぞ各地の教会の兄姉たちに、私が見ている光景、すなわち測りがたいあなたのご愛の広さ、長さ、高さ、深さを、そのままお示しください」と懇願するのであった。▼地上の教会は盲目であればあるほど、そこに生じるのは争い、欲望、高ぶりとさまざまな罪であり、悲しみが増す。それを知り尽くしていたパウロは祈りと産みの苦しみに身を渡しつつ、殉教して天のところに引き上げられる日を待っていたのである。二千年におよぶキリスト教会は、パウロの開かれた天のすばらしさと、そこから吹いてくる風をかすかに感じながら、自分もそこに連れて行っていただきたいと願って今日まで歩んできた。▼主のおゆるしがあれば、御霊は私たちの教会にも、聖風となってお出でくださるであろう、そしてそこの礼拝と天上の礼拝を一つに結んでくださるにちがいない。願わくば、本日の礼拝が「ただ恩寵とあわれみのゆえに」天に引き上げられますように。