しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 Ⅱ列王記20章 <大声で泣いた>

2020-09-08 | Ⅱ列王記

「わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加える。わたしはアッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出し、わたしのために、わたしのしもべダビデのためにこの都を守る。」(Ⅱ列王記20:6新改訳)

このときヒゼキヤは三十九歳、次王マナセはまだ生まれていなかった(Ⅱ列王記18:2)。30代の若さだというのに、「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない」と預言者に宣告されたら、だれでも絶望的な気持ちになるだろう。医者からあなたのガンは治らない、あと一週間のうちに死にますと言われてもショックなのに、神の絶対的宣告として預言者から死を言い渡されたのだ。平静でいられるはずがない。▼こうして、悪性の腫物が足にでき、死期の近づいたユダ王ヒゼキヤは恥も外聞もなく大声で泣き、宮廷で神に祈った。ところが、その祈りが神の耳に届いたのである。神はもう十五年の寿命を与えると約束されたが、このような祈りの答えをいただいた王はほかに見出せないし、神がその人の生涯の長さを変更されたとは驚くべきことである。ただし、主はヒゼキヤが高ぶり、油断しないためであろう、「あなたとエルサレムを今後もアッシリアから守るが、それはわたし自身の名としもべダビデのためである」と言われた。私たちがどのようにすばらしい祈りの答えを与えられたとしても、そのことはイエス・キリストの御名によるのであって、自己の努力や功績によるのではない。冒頭の聖句(特に後半)を良く心にきざみつける者でありたい。▼もうひとつ印象的なのは、ヒゼキヤ王の素直さである。イザヤから死期のせまったことを宣言されたとき、仕え人たちの見ている前で(壁のほうに顔を向け)、彼は恥も外聞もなく号泣しながら祈ったのだ。日本的感覚からすれば、大の男が人々の前で大泣きすることは恥ずかしいことであり、してはならなかった。しかし聖書はそのようなあり方を支持しない。「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔さのゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7同)▼神の御前で心から涙を流し祈ることができる人は「砕かれた心」を持つ人である。「神の求めたもうそなえものは砕けたるたましいなり」(詩51:17文)とダビデが詠ったように。それは御霊に導かれ、御霊と共に歩んでいることの証拠である。なぜなら、第三位の神は天にいます御父と御子の心をそのまま私たちの心に映し出すお方だからだ。「②御霊よ聖徒に救い主の、みかたち成るまで悩ましめよ、産みの苦しみもわれ厭(いと)わじ。③御霊よ主イエスのはなよめらの、装い成るまで忍ばしめよ、耐えがたく思う試みをも。<折返>御霊よ言いがたき汝が嘆きを、われにも分かちて祈らしめよ、かしこきみ思い我は慕う。」く〈インマヌエル賛美歌130〉