しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 Ⅲヨハネ <私の子どもたち>

2017-09-22 | 第三ヨハネ

ひまわり「私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。」(4新改訳)

本書冒頭のガイオはおそらく、ヨハネが救いに導いた人であろう。つまり使徒にとっては「霊の息子」だったわけである。▼パウロもテモテを、「信仰による真実のわが子テモテ」(Ⅰテモテ1:2)、また「愛する子テモテ」と呼んだ(Ⅱテモテ1:2)し、ローマ獄中で救いに導いた逃亡奴隷のオネシモを「獄中で生んだわが子オネシモ」(ピレモン10)と呼んで、その魂に対する愛を表わした。もちろんこの愛は神から出ているもので、人間が生まれながらにして持つ、いわゆる「愛情」とは異なっている。▼ひとりの人が永遠の滅亡から救い出され、天国へ国籍が移されたということは小さなことでなく、「神の御使いたちに喜びがわき起こる」(ルカ15:10同)、すなわち第三の天が喜びの歓声にゆれ動くほど大きなことだ。だからこそ今、主は大祭司として御父の右にあり、「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です」(ヨハネ17:17同)と祈り、子どもたちが最後まで愛の内を歩み続けるように、とりなしておられるのである。◆ここに「かしらになりたがっているデオテレペス」(9)とあるが、使徒ヨハネには大きな喜びと同時に、憂いもあった。それは肉によって歩む信徒たちの存在である。12弟子たちが、主の十字架直前まで「この中で誰が一番か」と、争いをしていたように、いつの教会でも指導権に関する陰湿な争いがあったことは否めない。つまるところ、この原因は「キリスト・イエスの心を心とせよ」(ピリピ2:5文語)ができていないことにある。◆全き謙遜が人となって出現された、それがイエス・キリストであるのに、理解できないし受け取ろうともしない、そのようなキリスト者が「畑の毒麦」となる。その最後は審判の火であることを銘記し、主をおそれる道を喜びのうちに歩むことが、真の意味で再臨の備えとなる。貴方や私はどうであろうか。デオテレペスの精神からほんとうに解放され、仕える喜びに昼も夜もあふれつつ歩んでいるだろうか。