しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <聖霊の証印>

2022-01-21 | エペソ

「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。」(エペソ1:13新改訳)

一般社会でも「証印」の持つ力は絶大である。50年も前になるが、ある教会で会堂建築に携わったとき、主任牧師として数千万円の支払い契約書に教会印を押した。今まで見たこともない証書の金額を見て手がふるえたのを思い出す。そこに現金があったわけではない。それは今から教会員全体で年月をかけ、支払うのだったが・・。その証書を受け取った建設会社は、ただちに工事を開始したのであった。▼神は私たちひとりひとりに、「あなたからの支払いを確認したので、永遠の御国を与えます」と書いた押印済みの証書を下さった。聖霊をいただいたとは、そういうことである。なんとすばらしいことであろう。私たちが神の口座に振り込んだのは「十字架で流された御子の血潮といういのち」なのだ。すなわち、支払いをされたのも神、その答えとして永遠の相続地を下さるのも神、私たち自身は何一つ犠牲を払っていない。神が私たちに求めておられるのはただ一つ、ご自身の恵みの栄光をほめたたえることだけである。

それにしても素晴らしいことである。「すなわち神は、世界の基が据えられる前からこの方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです」(4)との表現に、私たちは言葉を失う。この天地宇宙と万物が創造され、姿を現す前、つまり父・御子・御霊の神だけが存在しておられたとき、その御心に、すでに私たちがキリストのあがないにより選ばれ、新しく造られる世界の相続者として定められたとは。▼もはやこのことは、我らの頭脳や理解、思いと知恵のすべてを尽くしても想像さえできない「神の御計画の世界」である。いずれにせよ、私たちは偶然や神の思いつき、確率などによって救われたのではない。じつに永遠の昔から、神の御愛の中に創造され、選ばれていたのである。神はそれほどまでに、私たちひとりひとりを特別の存在として扱い給う。だから、キリスト者は天に行ったとき、神の恵みの栄光をほめたたえるというより、それは既に始まっている。私たちの地上生涯で救いに入れられたときから、賛美と礼拝はスタートしている。詩篇にあるとおりに。▼「ハレルヤ。神の聖所で神をほめたたえよ。御力の大空で神をほめたたえよ。その大能のみわざのゆえに神をほめたたえよ。その比類なき偉大さにふさわしく神をほめたたえよ。角笛を吹き鳴らして神をほめたたえよ。琴と竪琴に合わせて神をほめたたえよ。タンバリンと踊りをもって神をほめたたえよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神をほめたたえよ。音の高いシンバルで神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで神をほめたたえよ。息のあるものはみな主をほめたたえよ。ハレルヤ。」(詩篇150)

 

 

 


朝の露 エペソ6章 <悪魔の策略>

2019-08-10 | エペソ

綿の花「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい」(エペソ6:11新改訳)

旧新約聖書を読み込んでいくと、悪魔が人類の歴史の中へ、どんなに深い策略をもって入り込んでいるかが見えて来る。神による救いの御計画を憎み、ことごとく反抗し、一人でも多くの人間を誘惑して罪を犯させ、滅びに落とそうと日夜働いていることがわかる。しかも彼はかつて、最高の知恵と美をもつ天使長であった。それこそ人類が束になっても太刀打ちできない知恵(もちろん悪の知恵である)の所有者、天と地の間を自由に行き来している悪の霊である。▼しかし愛する主は、弱い羊にすぎない私たちに、ご自身の武具を与えて下さった。それがここにある、真理の帯、正義の胸当て、福音の靴、信仰の盾、救いのかぶと、御霊の剣である。すなわち一言でいえば、「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ13:14同)とあるように、主イエス御自身をわが身に着ることにほかならない。主がお出でくださる時まで、油断せず敵と戦い、携挙にあずからせていただこうではないか。◆ここに列挙されている武具のなかで、ただひとつの攻撃的な武具は「御霊の剣」で、あとはすべて防御的なものである。つまり、御霊が用いたもうとき、聖書のみことばがいかにサタンに対し、強力な攻撃兵器となるかを示すものである。主は聖言そのものの御方であるが、荒野の誘惑において敵の攻撃と誘惑を三度とも、申命記のみことばで撃退された。特に三度目は、「下がれ、サタン」(マタイ4:10同)と、きびしく一喝された。これこそが「御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい」(エペソ6:17同)の典型であろう。◆聖書のおことばは、頭脳で単にこね回し、遊ぶようなものではない。立つか倒れるかという戦いのとき、自分の全存在をかけて相手に向かうときの武器である。それには、日々御霊に導かれ、自分の完全な弱さ・無能力に徹し、キリストのみことばがすべてという信仰に生きなければとても戦えないことはあきらかである。みことば信仰の本当のあり方を追求しようではないか。

 

 


朝の露 エペソ5章 <キリストのからだ>

2019-08-09 | エペソ

姫路城「いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。」(エペソ5:29新改訳)

私たちが救われ、御霊をいただいたということは、「教会=イエス・キリストのからだ」の一部にされたということである。▼この世の女性たちが少しでも自分のからだを若く、美しく保とうとして努力する姿は涙ぐましいほどだ。どんなに高価な化粧品や衣服でもお金を工面して購入するし、電車の中でも周囲を気にせず、鏡を取り出しては身だしなみを整えるのに余念がない(私個人は、あまり好きでない光景だが)。▼露のように過ぎ行く地上のからだでさえ、これほど情熱を注いでケアするのを見れば、主イエスがご自分のからだである教会をどんなに大切になさるか、その愛とご配慮の深さは想像もできない、というのが本当であろう。「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。」(マタイ6:30同)▼主の御愛の深さと守りを心から信じ、安心してぐっすり眠りたい。あの激浪にもまれる舟の中で、御父のふところに憩い、熟睡しておられた主イエスのように。


朝の露 エペソ4章 <真理はイエスに>

2019-08-03 | エペソ

こでまり「ただし、本当にあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすれば、です。真理はイエスにあるのですから。」(エペソ4:21新改訳)

「真理はイエスにあるのですから」を詳訳聖書は、「すべての真理は、イエスのうちに形を成し、人格化している」と訳出している。▼学生時代、理科系に進んだ私は複雑な数式や理論を学び、これが自然界の真理だと教わった。だが頭脳はいっぱいになっても心は渇き、真理とは何ぞや?と懊悩(おうのう)した。その中で教会に導かれ、真理とはひとりのお方イエス・キリストご自身である、と知らされたときの喜びと驚きはたとえようもなかった。もし真理が人格を持つ活けるお方なら、私たちを活かし、救うことができる。機械なら数式や理論で動かせるであろう、だが人格は愛といのちがなければ生きることはできず、死んでしまう。こうして私は、「神から愛されている」ことを知ったのである。▼ふしぎなもので、神の愛(人の愛情ではない)がわかると、心の内からふつふつと生きる力と意欲が湧いて来たのであった。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6同)と主が語られたことはほんとうである。この世の一般大学は、理論は教えても、愛を伝えることはしないし、できない。非難するようで申し訳ないが、とくにわが国における学問の府は、たましいの救いを求める者にとっては無味乾燥で氷にひとしい世界である。◆反対に、日本の多くの教会は小さく、壮大な会堂もない。しかしそこでイエス・キリストが礼拝され、信じられ、語られているかぎり、いのちの水が湧き出ている。神の摂理のうちに、その泉に来て飲むことができる人は、もっとも幸福だといってよい。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ7:13,14同)◆もしあなたが、「私はいのちに至る門をすでに入りました」と心から言えるなら世界一の幸せ者である。ハレルヤ

 


朝の露 エペソ3章 <測り知れない富>

2019-08-02 | エペソ

パイナップルリリー「すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、」(エペソ3:8新改訳)

柳生直行訳では「キリストの測り知れない富」を、「キリストは恵みの宝庫であって、その豊かさを究めつくすことは、とうてい不可能である」と訳している。この一節を見ただけでも、パウロの黙示されていたキリストの栄光が、言語に絶するすばらしいものであることをうかがい知ることができる。しかもこの御方がひとりの人として私たちの前に現れたとは、まさに驚天動地の出来事である。▼もし今日の私たちが、パウロが味わったおどろきと感動をそのまま共有できていたなら、教会から争いやさばきはなくなり、礼拝は天の喜びに満ち、毎日毎晩、集会が続くであろう。集まるな、といっても人々は集まって来て、涙と感謝で持ち物を分け、ゆるし合い、祈り合う光景が見られるのではないだろうか。▼それがないのに、私やあなたが平然と「自分は恵まれている、祝福にあずかっているから、これ以上必要なものはない」と考えているとすれば、どこかがおかしいのではないだろうか。それはかえって、ラオデキヤの真っただ中にいる証拠かもしれない。主よ、霊的盲目なのに「見える」と言い張る私たち、その傲慢の罪をおゆるしください。「イエスは言われた。『盲目であったならば、罪はなかったであろう。しかし、今あなたたちは見えると主張しているから、あなたたちの罪は残っている。<盲目であったならば、罪を責められないであろう。しかしあなたたちは「われわれは〔はっきり〕見える」と言い張るから、罪責を免れることはできない>』」(ヨハネ9:41詳訳)